No.1321 人生・仕事 | 読書論・読書術 『絶望読書』 頭木弘樹著(飛鳥新社)

2016.09.26

  『絶望読書』頭木弘樹著(飛鳥新社)を読みました。 「苦悩の時期、私を救った本」というサブタイトルがついています。 著者が自分自身の13年間の絶望体験をもとに、絶望の期間をどう過ごせばいいのかについて書いた本です。

    本書の帯

 本書は二部構成になっており、第一部では、絶望の期間をいったいどう過ごせばいいのかについて考えます。第二部では、絶望したときに、寄り添ってくれる本や映画やドラマなどを紹介しています。本書の帯には「悲しいときには、悲しい曲を。絶望したときには、絶望読書を」と書かれています。

    本書の帯の裏

 本書の「目次」は、以下のようになっています。

はじめに「 絶望したとき、いちばん大切なこと」

第一部 絶望の「時」をどう過ごすか?
第一章 なぜ絶望の本が必要なのか?
     ―生きることは、たえずわき道にそれていくことだから
第二章 絶望したときには、まず絶望の本がいい
     ―悲しいときには悲しい曲を
第三章 すぐに立ち直ろうとするのはよくない
     ―絶望の高原を歩く
第四章 絶望は人を孤独にする
     ―それを救ってくれるのは?
第五章 絶望したときに本なんか読んでいられるのか?
     ―極限状態での本の価値
第六章 ネガティブも必要で、それは文学の中にある
     ―非日常への備えとしての物語

第二部 さまざまな絶望に、それぞれの物語を!
第二部のはじめに「絶望にも種類がある」
太宰治といっしょに「待つ」
  ―人生に何かが起きるのを待っているという絶望に(超短編小説)
カフカといっしょに「倒れたままでいる」
  ―すぐには立ち上がれない「絶望の期間」に(日記や手紙)
ドストエフスキーといっしょに「地下室にこもる」
  ―苦悩が頭の中をぐるぐる回って、どうにもならない絶望に(長編小説)
金子みすずといっしょに「さびしいとき」を過ごす
  ―自分は悲しいのに他人は笑っている孤独な絶望に(詩)
桂米朝といっしょに「地獄」をめぐる
  ―自分のダメさに絶望したときに(落語)
ばしゃ馬さんとビッグマウスといっしょに「夢をあきらめる」
  ―夢をあきらめなければならないという絶望に(映画)
マッカラーズといっしょに「愛すれど心さびしく」
  ―自分の話を人に聞いてもらえない絶望に(映画)
向田邦子といっしょに「家族熱」  
  ―家族のいる絶望、家族のいない絶望に(テレビドラマ)
山田太一といっしょに「生きるかなしみ」と向き合う  
  ―正体のわからない絶望にとらわれたときに(テレビドラマ)
番外・絶望しているときに読んではいけない本(短編小説)
あとがき「立ち直りをどうかあせらないでください!」

 はじめに「 絶望したとき、いちばん大切なこと」では、「絶望は『瞬間』ではなく『期間』」として、著者は以下のように述べています。

「人は、楽しい時間はなるべく長く続いてほしいと願い、苦しい時間はなるべく短く終わってほしいと願います。ですから、絶望したときも、なるべく早く立ち直ろうとします。とはいえ、日常的な軽い絶望でも、一晩は寝込んだりするでしょう。周囲の人たちも、『今日はそっとしておいてやろう』と、励ましの言葉をかけるのさえひかえるでしょう。一晩ですまず、何日か、かかることもあります。さらに何週間もかかることもありますし、何カ月もかかることもあります。ときには、何年ということも。絶望した瞬間から立ち直りが始まるわけではなく、絶望したままの期間というのがあります」

 また著者は、「倒れたままでどう過ごすかが大切」として、述べます。

「絶望において、いちばん大切なのは、じつはこの時期の過ごし方だと私は思います。立ち直り方というのは、つまりは、倒れた状態から、いかに起き上がって、また歩き出すか、ということです。 でも、人はいったん倒れてしまうと、そうすぐには起き上がれないときもあります。その起き上がれないときを、倒れたままでいるときを、いかに過ごすか。それがけっきょくは、立ち直りにもいちばん大きく影響します。深い絶望から、無理に早く浮かび上がろうとすると、海に潜っていて、時間をかけずに海面に急浮上したときのように、かえって悪影響があります」

  著者は、絶望する前に、本書を読んでほしいそうです。地震の本は、地震が起きる前に読んでおいたほうがいいように・・・・・・。

 第一部「絶望の『時』をどう過ごすか?」の第一章「なぜ絶望の本が必要なのか?」では、「物語は現実を知るためのもの」として、著者は述べます。

「物語は、小さな世界ですし、現実そのものとはちがいます。でも、これもまた、現実を知るためのミニチュア、地図のようなものではないでしょうか。葉っぱの上の小さな水滴が、周囲の大きな世界を映しているように、どんな小さな物語も、大きな現実世界映し出しています。そして、現実そのものの把握は難しくても、小さな物語なら、まだしも理解できます」

 また著者は、「芸術の不思議な力」として、以下のように述べます。

「『4つか5つの動作や手順からなる単純な仕事さえうまくこなせない知的障害の人々が、音楽がはいると、それらを完ぺきにおこなうことができる』『彼らのぎこちない動きは、音楽や踊りになるととつぜん消えてしまう』『重度の前頭葉損傷患者と失行症患者についても、同様のことがみとめられる。まったく劇的に、といっていいほどだ』 うまく動くことができない人たちでも、音楽があれば、うまく動くことができるのです。本の場合も同じです。現実をうまく生きられない人が、物語の世界を通して現実を見ることで、ある程度、うまく生きられるようになるのです」

 「誰もが物語に助けられて生きている」として、著者は精神科医のオリヴァー・サックスの『妻を帽子とまちがえた男』という本を取り上げて、以下のように述べます。

「子供は物語を聞きたがります。それはなぜでしょうか? それは、まだこの世の中のことがよくわからないからではないでしょうか。サックスはこう書いています。『ごく幼い子供たちは、物語が好きでそれを聞きたがる。一般的な概念や範例を理解する力はまだないうちから、物語として示される複雑なことがらは理解することができる。世界とはどういうものなのかを子供に教えるのは、「物語的な」あるいは「象徴的な」力なのである』」

 さらに著者は、以下のような興味深い事実を紹介します。

「人類学者のポリー・ウィスナーが、アフリカの狩猟民族のジュホアン族について、その会話の内容を調べています。昼間の会話は、お金のこと、売り買いのこと、狩猟のこと、土地の権利のこと、生活の不満、他人の噂話などが主でした。ところが、夜間にたき火のそばで行われる会話は、なんとその81%までもが、物語であったそうです。物語が、生きるために欠かせないものであることがわかります。人間にとって、『物語は必要な栄養であり、現実を知らせてくれるもの』なのです」

 しかし著者は、「大人になったら物語を必要としなくなる人とは?」で、以下のようにも述べています。

「自分が生きていくのに必要な物語を手に入れて、そこに根をはやし、もはや他の物語を必要としないのです。つまり、ひとつの物語に深く入り込んで、それを生きるようになっているのです。『物語の固定化』です。その物語とは、たとえば『お金を儲け、出世して、成功者となる』というような、桃太郎的な物語であったりします」

 続けて、著者は以下のように述べています。

「もちろん、自分では物語を生きているとは意識しません。現実を知ったので、その現実を生きているというふうに思っています。『人類の平和』とかを追い求めていると『夢物語』という感じがしますが、お金とか社会的成功とかを追い求めている場合には、とても現実的な感じがします。でも、そういう感じがするだけであって、それもまたひとつの物語なのです」

 著者は「人生脚本」として、以下のように述べています。

「それが正しいのかどうかはともかくとして、人はただ目の前の現実に反射的に対応して生きていくわけではなく、『自分の人生はこういうものであるだろう』という漠然とした見通しを持って生きていることはたしかでしょう。たとえば、愛する人と出会うと、その人と一生いっしょに生きていくという脚本が、心の中でできあがります。人間というのは、そのようにして、先のことまで思い描いて、それに沿って生きていこうとするものです。未来をまったく思い描かないなどということは、むしろ不可能です」

 続けて、著者は以下のように述べています。

「そして、もし、思いがけずその人と別れることになってしまったら、『その人』を失うだけでなく、『その人といっしょに生きるはずだった人生』まで、同時に失うことになってしまいます。だから、とてもこたえてしまうのです。『本当の人生』を失って、空っぽになったような、むなしさを覚えてしまうのです」

 著者は、「《転機》が人生の分かれ目」として、以下のように述べています。

「まずは、同じような境遇の人の自伝などのノンフィクションに興味がわくでしょう。『自分と同じような転機が訪れたときに、この人はいったいどうして、その結果どうなったのか?』それを知ることはとても参考になります。 でも、それだけでは不充分です。個別の事例というのは、どうしても自分とはちがうところもあります。その人はそれでうまくいっても、自分の場合はそうはいかなかったりします。個別的なことではなく、もっと大きな、世の中の法則のようなものが知りたくなります。科学で言えば公式のような。それを求めて読むのが、物語ではないでしょうか」

 さらに著者は、「絶望したときこそ、絶望の書が必要に」として、ツイッターで「古典とされる名作は、なんでバッドエンドのものが多いんだよ!」という苦情がつぶやかれていたことを紹介し、以下のように述べます。

「これは決して偶然ではありません。古典というのは、時代が変わっても、ずっと読まれ続けてきたものです。つまり、人々にとって、それだけ切実に必要だったものです。人が本を最も切実に必要とするのが絶望のときであるなら、古典として残るものに、絶望的なものが多いのは、当然のことでしょう。絶望の中にあって、どうしていいかわからない人間が、絶望の物語の中に救いと答えを求めるのです」

 そして、まとめ「誰もが物語を生きていて、新しい物語が必要になるときがある」として、著者は以下のように述べるのでした。

「誰でも物語の中を生きています。自分では意識はしませんが、人間とはそうやって生きていくものです。 だから、幼いときには物語を聞きたがり、厳しい狩猟生活の中でも物語を聞きたがります。そして、たくさんの本や映画やドラマやマンガがあるのです。物語があれば、うまく生きていくことができます。 しかし、その人生の物語の脚本を書き直さなければならないときがあります。とくに、絶望的な出来事によって書き直さなければならないときは、それはとても困難です。人生が混乱し、本来の人生を失った気がして、新しい人生は受け入れがたく思えます。 そういうときに、なんとか脚本を書き直して、その後の人生を生きていくためには、書き直しの参考となる、物語が必要です」

 第二章「絶望したときには、まず絶望の本がいい」では、「前向きな本でかえって後ろ向きな気持ちに」として、著者は以下のように書いています。

「『ポジティブな気持ちでいれば、幸せなことしか起こらない』『強く信じれば、すべての願いはかなう』『将来なりたい自分を思い描けば、今をどう生きればいいかがわかる』 読めば読むほど、かえって気持ちが沈んでいきました。こういう励ましの言葉の光さえ届かない、どん底の闇まで落ちてしまったような気持ちになりました」

 また、「病人だけでも精一杯で、立派な病人は無理」として、著者は以下のように述べています。

「闘病記もよくもらいました。これも、贈る側の気持ちはよくわかりますし、こちらも興味をひかれるのですが、読むのはつらいものがありました。病気というのは、たとえ同じ病気でさえ、病状がけっこうちがいます。自分より軽ければ、参考にならないと感じますし、自分より重ければ、それはそれで気分が暗くなってしまいます」

 そして、「気持ちをわかってくれる本があるというだけで」として、著者は以下のように述べるのでした。

「では、どういう本がいいかというと、やはり絶望した気持ちに寄り添ってくれるような本なのです。つまり、絶望的な内容の本です。そういう本を入院患者のお見舞いとして渡す勇気のある人は、まずいないでしょう。激怒される可能性もありますし。そういう本をくれたのは、やはり当人も長期入院の経験のある人だけでした」

 「『同質効果』と『異質への転導』」として、著者はギリシャの哲学者を持ち出して、以下のように述べています。

「ギリシャの哲学者アリストテレスは、『そのときの気分と同じ音楽を聴くことが心を癒す』という説をとなえています。つまり、悲しいときには、悲しい音楽を聴くほうがいいというのです。これは『アリストテレスの同質効果』と呼ばれています。現代の音楽療法でも『同質の原理』と呼ばれて、最も重要な考え方のひとつです。 一方、ギリシャの哲学者で数学者のピュタゴラス(ピュタゴラスの定理が有名)は、心がつらいときには、『悲しみを打ち消すような明るい曲を聴くほうがいい』という説をとなえています。これを『ピュタゴラスの逆療法』と言います。現代の音楽療法でも『異質への転導』と呼ばれて、最も重要な考え方のひとつです」

 じつは、両方とも正しいことが現在ではわかっています。 どういうことかというと、心がつらいときには、
(1)まず最初は、悲しい音楽にひたる=アリストテレスの「同質の原理」
(2)その後で、楽しい音楽を聴く=ピュタゴラスの「異質への転導」
というふうにするのがベストなのです。そうすると、スムーズに立ち直ることができるといいます。

 第三章「すぐに立ち直ろうとするのはよくない」では、著者は「遅延化された悲嘆」として、以下のように述べます。

「こういう心の動きを、『遅延化された悲嘆』と言います。悲しいことがあったときに、それをこらえて、明るく振る舞うと、そのときは大丈夫でも、1年後や2年後に、とても強い悲しみが急にあらわれることがあるのです。思いがけないときによみがえってくる悲しみだけに、当人も戸惑いますし、心にダメージを受けてしまいがちです。ひどい場合には、家にひきこもったり、心の病になってしまったり、自殺したくなってしまうこともあります」

 第四章「絶望は人を孤独にする」では、「暗い道をいっしょに歩いてくれる本」として、著者は以下のように述べます。

「UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)が行った研究によると、ストレスが高い状況にさらされたとき、『それを表現する言葉がある』と、ストレスホルモンの放出が抑制され、ストレスが静まるそうです。絶望し、孤独に陥ったとき、そういう気持ちを言葉で表してくれる本を読むことは、それだけで、絶望や孤独をいくらか癒してくれるのです。それは実感としてもたしかですし、こういう科学的な裏づけもあるのです」

 そして、著者は以下のように述べるのでした。

「本というのは、誰かひとりのために書かれているものではありませんが、不思議なほど、『これは自分のことが書かれている本だ』と思えるものです。そして、本は離れていきません。立ち直りの段階に入れるまで、ずっと寄り添ってくれます。自分には誰もいないと思ったとき、それでも本はいてくれるのです」

 第五章「絶望したときに本なんか読んでいられるのか?」では、著者は以下のように述べています。

「絶望した直後は、絶望していることしかできないと思います。そして、立ち直りの段階に入ったら、それもまた別の話です。本よりも、もっと別のもののほうが役に立つかもしれません。 しかし、『絶望の期間』が長く続くとき、これに耐えるのには、本が必要です。たとえば痛みに耐えるとき、激痛の瞬間は本なんか読んでいられなくなります。でも、痛みが持続して、長く耐え続けなければいけないときには、何もなしではかえってつらくなります。それと同じようなことです」

 また著者は、「人生に押しつぶされそうになったとき、いったい何が支えてくれるのか?」として、以下のように述べています。

「本を読むと、頭がよくなるとか、話題が豊富になるとか、そんな言われ方もされます。でも、読書とは、余裕のある人が美食をするようなものではなく、もっと切実な栄養補給だと思います。本を読みたくなるのも、退屈なときとか、時間的な余裕ができた引退後とかだけではないはずです。生存をおびやかされ、どうしていいかわからない、精神的に追い詰められたときこそ、本を読みたくなるのだと思います。まだ名前のついていない現実をかいまみて、おびえて開くのが、本というものでしょう。文学はそういうときのためにあります」

 第六章「ネガティブも必要で、それは文学の中にある」では、「物語こそが真実を伝えるということ」として、著者は以下のように述べています。

「江戸時代に、池大雅という絵師がいました。この人があるとき、龍の絵を描いたところ、その龍が絵を抜け出して、家の天井を突き破って、天に昇ったという伝説があります。もちろん、事実ではありません。事実は、龍の絵を描いたところ、大きすぎて、家から出すことができず、天井の一部を破って、そこから出したのだそうです。 しかし、この事実は、ただそれだけのことで、それ以上のことは伝えていませんね。ところが、一方の伝説のほうは、『池大雅は描いた龍が絵を抜け出したと噂されるほどの絵の名人であった』ということを伝えてくれています。絵の名人だったというのは本当のことであり、ウソの伝説のほうが、より豊かに本当を伝えているのです。 中国の歴史書『史記』を書いた司馬遷は、史実だけでなく、民間に伝わっていた伝説なども取り入れています。それは、事実とは異なる伝説であっても、より真実を伝えている面があると考えたからではないでしょうか」

 また、著者は「絶望をすすめるわけではない」として、述べます。

「昼間なら平気な道が、暗くなるだけで怖ろしくなるのは、なぜでしょうか? それは、見えなくなるからです。見えないことが、不安をかきたてるのです。もし、懐中電灯を持っていれば、ぜんぜんちがってきます。 絶望も同じです。正体がつかみきれないから、よけいに絶望が深くなってしまうのです。作家のトーマス・マンが「ライオンにまだ名前が与えられていなかったとき、それはもっと怖ろしい怪物だった」という意味のことを言っているそうです。正体がわからないと、それだけで恐怖は何倍にもなってしまいます。本は、暗い道を歩く連れになってくれるだけでなく、現実を照らし出してくれる懐中電灯でもあります。暗闇に光を求めるからこそ、私は絶望の物語が必要だと思うのです」

 第二部では、絶望したときに必要とされるさまざまな芸術ジャンルが紹介されていますが、中でも興味深かったのは桂米朝の落語でした。 著者は、以下のように述べています。

「絶望したときには、絶望の書を読むのがいいと言っておいて、落語をおすすめするのは、矛盾していると思われるかもしれません。落語は笑える楽しいものではないかと。でも、落語は決してただ明るいだけのものではなく、じつはとても絶望的なものでもあるのです」

 続けて、著者は落語について以下のように述べます。

「そもそも、ただのお笑いだとしたら、江戸時代に作られた古典落語で、今でも人が笑うでしょうか?去年には爆笑をとったギャグでさえ、今年には古いと言われてしまうのが普通なのに。何百年も前に作られた落語で、今でも人が笑うのは、それがいつの時代も変わらない、人間の『ダメさ』を描いているからです」

 また、「大人にも物語の語り聞かせは必要」として、著者は述べます。

「実際的な面でも、落語はとても役に立ちました。入院中は、消灯時間後に、灯りをつけて本を読んだりしたら、他の患者さんの迷惑になります。でも、落語をイヤホンで聴く分には問題ありません。音楽のように音漏れがシャカシャカうるさいということもありません。点滴などで手が使いにくいときにも落語は聴けますし、体調が悪かったり、本を持っていられないほど体力が衰えてしまったときでも、落語なら聴けます。落語があってありがたいと、しみじみ思いました」

 さらに著者は、以下のように述べています。

「これは後から知ったのですが、『人間の脳は、音声に集中すると、その他の考えが浮かびにくい特性がある』のだそうです。だとすると、いろいろ悩み事があるときには、そういう意味でも、落語を聴くのは、救いとなるかもしれません」

 さらに本書には、向田邦子の「岸辺のアルバム」、山田太一の「ながらえば」といったテレビドラマも紹介されています。わたしは、これらの作品がグリーフケアにおいても参考になると考え、『米朝十八番』のCD、『岸辺のアルバム』のDVD-BOX、さらには『ながらえば/冬構え/今朝の秋』(作=山田太一、主演=笠智衆)のDVD―BOXをアマゾンに注文して購入しました。時間を見つけて、少しづつ楽しんでいきたいと思います。

 あとがき「立ち直りをどうかあせらないでください!」では、「本書を書こうと思った2つのきっかけ―絶望したときに読む本」として、著者は述べます。

「なぜ世の中に本というものがあって、こうも長く読み続けられているのか? その理由のひとつは、人が絶望するからだと言ってもいいくらいだと、私は思っています。見知らぬ現実を突きつけられて、なんとしてもそれを理解するしかないとき、芸術は切実に必要になるのだと思います。だから、今は必要ないと言っている人も、切実に求めるときがあると思うんです」

 わたしは、グリーフケア・サポートにずっと取り組んでいます。 グリーフケアを必要とする人は「愛する人を亡くした人」であり、まさに絶望の淵にある人であると言えるでしょう。また、世の中には不治の病に冒されて絶望している人もいることでしょう。そんな方々のために、かつて、わたしは『死が怖くなくなる読書』を書きました。その続編が『死を乗り越える映画ガイド』  (現代書林)です。第三弾は『死を乗り越える音楽ガイド』を書きたいと思っています。本書は大変参考になる好著でした。

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