No.1299 コミック 『戦争めし』 魚乃目三太著(秋田書店)

2016.08.15

 今日は71回目の「終戦の日」です。わたしのブログ記事「靖国参拝」ブログ記事「皇居へ!」で紹介したように、終戦70年という大きな節目を迎えた昨年の8月15日は東京にいました。今年は、小倉の自宅で黙祷いたします。
 今日は「終戦の日」にふさわしい本ということで、『戦争めし』『戦争めし2』魚乃目三太著(秋田書店)をご紹介します。

 著者は隆盛をきわめる「食」コミック界の中でも、ハートフルな作風で強い存在感のある漫画家です。「思い出食堂」に「宮沢賢治の食卓」、「女性セブン」に「しあわせの ひなた食堂」を連載(小学館より単行本化)し、さらにはセリフが一切ないというサイレント漫画『しあわせゴハン』1~3巻(集英社)を刊行、いずれも「泣ける食マンガ」として好評を得ています。
 この『戦争めし』は、ヤングチャンピオン系3誌(ヤングチャンピオン 烈 別冊)で同時シリーズ連載を行い、大反響を博した話題作です。 

   第1巻のカバー裏

 第1巻のカバー裏には、以下のような内容紹介があります。

「兵隊さんと戦地ゴハン。戦時下のお寿司屋さん。餃子と引き揚げ兵。激動の時代の中で生まれた感動の”食エピソードたち”。 “昭和初期のグルメ”を “食漫画マスター”の魚乃目三太が ほんわか温か~く描く珠玉のオール短編物語」

   第1巻の帯

 第1巻の帯には「戦後70年メモリアル食コミック」「昭和初期グルメ!!」「”あの時代”と”あの食べ物”の知られざる物語」と書かれ、帯の裏には以下のような読者の声が紹介されています。

「年老いた母が餃子の話を読んで、昔話を何度もしてくれました。(会社員 50歳)」「苦しい中でも”グルメ”を求める。人間の強さに感動しました。(学生 13歳)」「空襲の真っただ中。『寿司と酒』での酒宴を楽しむ男達の強かさに超感動。(無職 27歳)」「他の食マンガとは違う切り口。斬新で面白い。(主婦 35歳)」

   第2巻のカバー裏

 第2巻のカバー裏には、以下のような内容紹介があります。

「海軍兵士と洋食ディナー。インパール作戦とおでん悲話。疎開した鰻のタレ。特攻の島で生まれた黒糖焼酎など。平成の今に繋がる”明治~昭和初期のグルメ”を”食漫画マスター”の魚乃目三太が心を込めて描きます。大反響を博した『戦争めし』の第2弾。今回もオール短編。”ホロリ味”の7物語」

   第2巻の帯

 そして、第2巻の帯には以下のように書かれています。

「大反響第2弾!!」「激動時代のほろり味!」「東京大空襲と鰻」「肉じゃが誕生秘話」「感動のオール短編昭和グルメ」

   スパムチャーハンが日米両国の人々の心を結んだ

 旧日本陸軍の食事について書かれた本は、寡聞にして知りませんでした。
 戦時中、軍人や民間人はこういう物を食べていたのかと勉強になりました。
 また、史実に基づいたエピソードの数々が、とても興味深かったです。
 たとえば、第1巻の「収容所の焼きめし」という短編では、降伏した日本兵たちが沖縄最大規模の収容所である屋嘉捕虜収容所に連れていかれた様子が描かれています。アメリカ軍が日本軍から押収した品の中には大量の米がありました。当時のアメリカ人には米を食べる習慣がなかったため、捕虜収容所に配られました。日本捕虜がアメリカ人の愛用食であるスパムの缶詰を使って「スパムチャーハン」を作ったところ、日本人もアメリカ人もその美味しさに感動したそうです。スパムチャーハンは、日米両国の人々の心を強く結びつけた「平和」のシンボルになったのです。

   寿司屋に魚を持参して握ってもらう

 また「戦火のにぎり寿司」では、戦時中の寿司屋に自前の米や魚を持参して握ってもらっていたという史実を初めて知りました。「戦火のにぎり寿司」の最後には以下の説明があります。

「終戦直後の1947年(昭和22年)、深刻な食糧難から飲食営業緊急措置令が施行され、飲食店は表立って営業ができなくなった。東京では寿司店の組合が政府と交渉し、お客がお店に1合の米を持参すると、寿司店が”にぎり10貫”(巻き寿司なら4本)に交換してくれるという”委託加工”のやり方で飲食店の中でもいち早く営業の許可がおりた。そういった事情から戦後”江戸前寿司”が急激に全国に広まったと言われている。なお本来の”江戸前寿司”の1貫あたりの大きさは”にぎり飯くらいのサイズ”だったのだが、”米1合とにぎり10貫”との関係から、現在の寿司サイズになったと言われている」

   戦艦大和ではラムネが飲まれていた

 「戦艦大和のラムネ」では、船の上では生水がすぐに腐ってしまい、乗組員の飲料水が確保できず、戦艦内の「炭酸ガス消化装置」の炭酸ガスを利用して「戦艦大和のラムネ」が作られたことが紹介されます。その作品の最後、著者は以下のように書いています。

「一方、敵国の米国では空母のアイスクリームの製造機を載せており、食事の際、兵士は自由に食べられたという。クーラーが貴重だった時代にである・・・・・・その点でも日本と米国の差を感じざるをえない」

   肉じゃがを最初に食したのは東郷平八郎だった

 第2巻の「肉じゃが誕生秘話」では、1896年(明治29年)に京都府舞鶴にあった大日本帝国海軍舞鶴鎮守府において、日本の家庭料理のシンボルともいうべき「肉じゃが」が誕生したことが紹介されています。その25年ほど前、東郷平八郎が英国に留学した際に食べたビーフシチューの味に感動し、「これなら大鍋で煮て、大勢で食える!! 肉をあまり食わない日本人にも合う! 海軍でも使える!!」として、レシピを持ち帰ったのです。そのレシピどおりに作ったはずが、まったく違う料理が出てきました。それでも、この「牛肉と馬鈴薯の煮物」は大変好評でした。海軍兵たちは休みの日に帰宅したとき、軍で食べたこの料理を母や妻に作って食べさせました。それを母や妻が作っていき、いつしか「肉じゃが」という”家庭の定番料理”となったのです。このような数々の史実エピソード、たまりません!

   もう、この絵を見ただけで泣けてくる!

 『戦争めし』に収められた漫画は、それぞれが短編映画のようにドラマ性に富んでいます。戦時中の話は辛いエピソードが多いですが、限られた食材をなんとか工夫して美味しく食べようとする姿勢に深い感銘を受けます。そして、そこから「食べる」ことは「生きる」ことであり、「亡くなった人の分まで生きよう!」という著者のメッセージを感じることができます。

   「真夏のおでん」には泣けました

 感動エピソードの宝庫のような『戦争めし』ですが、一番泣けたのが第2巻の「真夏のおでん」でした。そこには、インパール作戦の地獄のような環境下、猛暑の中を「おでんが食べたい」と言って死んでいった戦友に70年後におでんを食べさせるという物語が描かれています。実話に基づくエピソードだそうですが、これには涙が止まりませんでした。

   世界平和パゴダを守り続けてこられた三木恭一さんと

 インパール作戦といえば、ビルマ戦線を代表する作戦です。
 ビルマ戦線は、太平洋戦争(大東亜戦争)の局面の1つです。
 イギリス領ビルマとその周辺地域をめぐって、日本軍・ビルマ国民軍・インド国民軍と、イギリス軍・アメリカ軍・中華民国国民党軍とが戦いました。戦いは1941年の開戦直後から始まり、1945年の終戦直前まで続きました。太平洋戦争の中でも最も過酷な戦いとされ、日本人の戦没者は18万名に達しました。わたしのブログ記事「パゴダの防人、逝く!」に書いたように、昨年7月19日に97歳でお亡くなりになられた三木恭一さんのことを想いました。三木さんはビルマ戦線に従軍され、戦後は日本における唯一のビルマ式寺院である世界平和パゴダを長年支えてこられた方です。

   小倉ロータリークラブで三木さんの半生を紹介

 わたしのブログ記事「97歳 私の戦争体験」で紹介したように、昨年4月17日に開かれた小倉ロータリークラブ例会において三木さんは卓話をされました。卓話の前に、わたしが檀上に立って、三木さんの半生を紹介させていただきました。三木さんは、大正7年4月16日、旧門司市にお生まれになられました。ちょうど卓話の前日がお誕生日で、97歳になられました。わたしが「お誕生日おめでとうございます!」と言うと、会場から盛大な拍手が起こりました。

   堂々と卓話を行う三木さん

 昭和13年12月、20歳の時、陸軍小倉歩兵第14部隊に入隊されました。その後、昭和16年より、ビルマ戦線へ赴かれました。
 ビルマ戦線は、弾薬はおろか食料まで尽き果て、派兵された日本兵約30万人の内、約18万人が戦死されるという激戦地でした。三木さんは、昭和20年8月の終戦を迎えるまで、ビルマの地で果敢に戦い抜かれ、昭和21年7月、ようやく日本へ帰国を果たされました。

   97歳の戦争体験をみんなで清聴しました

 帰国後、国鉄にご入社され、定年までお勤めになられました。
 一方で、復員兵や戦没者遺族でつくられたビルマ戦友会の一員として、世界平和パゴダを長年にわたって支えてこられました。三木さんのお話は、非常に感動的な内容でした。背筋をぴんと伸ばしたきれいな姿勢で大きな声で話す三木さんに、多くのロータリアンは圧倒されていました。また、高齢にもかかわらず、70年以上前の細かいエピソードをすべて憶えている記憶力の良さに仰天していました。

   わたしも真剣に聴きました

 最後に、わたしは生前の三木さんの次の言葉が忘れられません。

「同じ兵隊でも、戦艦大和や零戦の連中は良かった。英雄として扱われたこともあるが、なにより彼らはうまいものを腹いっぱい食べていた。ビルマで戦ったわたしたちは、本当に食べるものが何もなかった」

 三木さんとは何度か松柏園ホテルで食事をさせていただきましたが、いつも「おいしい、おいしい」と目を細めて、ご高齢であるにもかかわらず、残さず召し上がっていました。その幸せそうな表情が今でも目に浮かびます。すべての英霊とともに、三木恭一さんの御冥福を心よりお祈りいたします。

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