No.1290 哲学・思想・科学 | 死生観 『死者とともに生きる』 林道郎著(現代書館)

2016.08.03

  『死者とともに生きる』林道郎著(現代書館)を読みました。 現代書館の「いま読む!名著」シリーズの1冊で、「ボードリヤール『象徴交換と死』を読み直す」というサブタイトルがついています。そうです、本書は、この読書館でも紹介した名著『象徴交換と死』について書かれた本なのです。著者は1959年生まれで、現在は上智大学国際教養学部教授。専門は美術史および美術批評です。

 帯には「捩じれた世界の」「さらに向こうへ」と大書されています。 それに続いて、帯には以下のように書かれています。

「『3・11以降』の閉塞感、間断なきテロリズム、不安定な時代の中で私たちの生と死は還る場所を見失ってしまった。アメリカと日本の複雑にからまりあった共存関係、すべて『善』に収束される世界システム、こんなブラックボックスを大胆に解体した先に見えてくる『共同体』とは。」

    本書の帯

 また、カバー前そでには、以下のような内容紹介があります。

「ポストモダンの先駆的思想家ジャン・ボードリヤールは、日本では1980年代に隆盛した消費社会論の中で若い論者に積極的に取り上げられブームとなった。1990年代以降取り上げられることは少なくなったが2001年の同時多発テロ以降、グローバル化とテロリズムの関係に関しては2007年の晩年まで先鋭的な発言を続けた。本書は、そのボードリヤールが『象徴交換と死』で取り上げつつ、いつのまにか消えてしまった『死』の問題を引き継ぐという意識で書かれた、いわば『未完のボードリヤール』を完結させる思索の旅とでも言うべきものだ。美術史家でもある著者の視点は『3・11以降』の閉塞感に覆われた日本、間断なきテロリズムが止まない世界、そんな不安定な時代の中で私たちがどのようにすれば生の実感を回復できるのかというところからスタートするが、それは必然的に死者の問題へとフォーカスしていく」

    本書の帯の裏

 本書の「目次」は、以下のようになっています。

序章  今、なぜボードリヤール?
第1章 『象徴交換と死』を読む     
1 「記号の暴走」が世界を覆う     
2 世界と死の構造的捩れ
第2章 アナグラムとしての日本、そしてアメリカ     
1 『象徴交換と死』を今、読むことの意味 ―未使用のままに残された思考の道具      
2 アナグラムとしての日本     
3 アナグラムとしてのアメリカ
第3章 なぜ「悪の知性」は誕生したのか     
1 インテグラルな現実から脱出するための「悪の知性」     
2 イメージと写真の二重性     
3 「他者」の二重性
第4章 未完のボードリヤール ―「死」の回帰性、断片性について     
1 世界システムの中での「日本」     
2 二つの象徴交換、二つの死     
3 回帰の径路―記念碑的と写真的     
4 生者と死者の交差する所
終章  エピローグとしての対話 ―歴史的創造力の「詩的展開」
「あとがき」
「参考文献」
読書案内「80年代、戦後日本からソシュール、贈与論、写真論まで、本書の幅広い射程を補完するための22冊」

 序章 「今、なぜボードリヤール?」では、「ボードリヤールの読まれなさ」として、著者は以下のようにインタビューに答えています。

「ボードリヤールという思想家にはつねに傍流のイメージがつきまとっていたというのが僕の感想です。ことに日本では。たとえば、ミシェル・フーコーやジャック・デリダやジル・ドゥルーズであれば、いまだに彼らの思考をめぐって論集が編まれるというような形で、アカデミックな世界で研究や批判の対象になっています。もちろんそれは、彼らの思考と活動に繰り返し掘り下げるだけの実質があるからなのですが、別の視点から見ると、彼らの文体や思考はフランスの近現代哲学史の主流―とりわけ文学研究と哲学の境界領域で思考を展開していく流れ―に属する『正統』的なものだったとも言えます。その意味で、本人たちの意識とはうらはらに、今や、あらかじめ権威が保証された、後から来る人たちにとっては、いわば安全な『研究』対象になっている」

 また、ボードリヤールについて、著者は以下のように述べます。

「ボードリヤールという人は、彼らに比して、社会学やメディア論的、あるいは時事的かつ挑発的な視点を強く打ち出してきた思想家で、あの悪名高き『湾岸戦争は起こらなかった』という物言いなどとともに、そのイメージには、どこか『いかがわしい』感じがつきまとっていたように思います。80年代に彼の著作がもっとも広く読まれていた時にすら、フランスの正統的な哲学の系譜からは異質な、こう言ってよければちょっとトリックスター的な感覚で受けとめられることが多かった」

 さらに、著者はボードリヤールの印象について述べます。

「全体として、キャッチーだが薄い思想家というイメージがあったように思います。さらに、彼が、フランス(あるいはヨーロッパ)文学の正統的な伝統よりは、むしろ、『アメリカ』という記号=場所、その都市空間、さらにはグラフィティやSFなどに強い関心を示し続けたことも、彼を周縁的なポジションに追いやっている気がしますね。ただ、そのために、アメリカおよび英語圏での受容は、当時から現在まで連なる独特の強度を持った系譜ができていて、日本ともヨーロッパとも異質な思想的磁場を形成している気がします」

 著者は、ボードリヤールがかつてのマーシャル・マクルーハンに似ているところがあったかもしれないとして、以下のように述べます。

「両者に共通するのは、アカデミーの世界を超えて実業の世界にも多く読者を持っていたことです。日本では、竹村健一や後藤和彦等の紹介を通じて、1960年代の半ば辺りからマーケティング理論などに関心を持っている人に、未来のビジネスモデルを先取りする人としてよく読まれました。ボードリヤールにも似たところがあります。実を言うと、僕自身、『象徴交換と死』を読んだ当時は西武百貨店の商品開発部というところで働いていたんですが、当時『高度消費社会』化の先頭を走っていた西武の社内では、彼の名が飛び交っていました」

 かつて西武流通グループ、すなわちセゾングループで働いていたという著者は、80年代の記号消費の拡張と退廃の波に立ち会っていたと述懐し、以下のように述べています。

「その頃は、有楽町マリオンに西武百貨店ができ(先日、閉店して時代のサイクルの終焉を感じてちょっと感懐にふけってしまいましたが)、その中では物としての商品だけではなく金融商品を扱うカウンターができたり、エスカレーターの上にはアンビエント映像がブライアン・イーノの音楽とともに流されているとか、渋谷にはロフト、シード館(現在のモヴィーダ館)、そして六本木にはWAVEができ、初めてワールド・ミュージックなるコーナーができたりなど、次から次へと繰り出される新しい消費のモードに東京は日常的な祝祭状態にありました。そんな中で、70年代から西武百貨店池袋店の12階にあった西武美術館やアール・ヴィヴァンという書店は、その西武文化の先端性を象徴し、権威づけの機能も果たしていたと思います。『無印良品』の1号店がオープンしたのもその頃で、一見、あれはハイエンドの記号消費(ブランド消費)に対抗するかのような、日常的なイメージだったんですが、とどのつまりは『無印』という『印』に他ならないわけで、西武流通グループの提案する記号の系列によって、日常生活から非日常の祝祭に至るまでもが囲繞される、そんな時代でした」

 そして、『象徴交換と死』について、著者は以下のように述べます。

「初期のボードリヤールは、高度消費社会のもっとも鋭い観察者であり理論家ですが、『象徴交換と死』で、死の問題、そしてそれと密接に関わる形で誌的実践の問題を正面から扱い、シミュラークルの牢獄の瓦解の可能性を、不可能とは知りつつ考察し、それが後期の彼の思想に受け継がれていくという印象を持っています。だからこそ、この本を基点にして、前後に視線を伸ばすようにして読むとボードリヤールという思想家の軌跡が独特の仕方で開けてくると思うんです」

 著者は「死は、ある意味、シミュレーションの臨界点とも言える」として、以下のように述べています。

「死そのものは想定することができない何か絶対的な暗点とも言うべきものですよね。だからこそ逆に、生きている人間の社会に吸収可能な出来事になるように、その周辺事象は大いに『想定』され、半ば自動的に、残された人たちにその『対価』―金銭的な意味だけではなくて―が行き渡るようになっているわけです。葬儀とその前後をめぐるすべての事柄は、非常にうまくシミュレートされているし(その自動化された儀式に嫌悪を感じる人も少なくないですが)、また、生命保険を考えてみてもいい。それは、あらかじめ不測の事態を想定し、交換に供せられた死に他ならない。しかし、その一方で、あらゆる死者の個別的な『死』は、そういった見かけの交換に対してつねに過剰であり、いつまでも割り切れない。そういう意味で、死はつねに、ボードリヤール言うところの象徴交換を要求する出来事であり、等価交換的なメカニズムがその限界を露呈するブラックホールでもあったわけです」

 さらに、著者は死をめぐる問題について言及します。 ボードリヤールが『象徴交換と死』の中で論じた、未開社会の人々の死者たちとの付き合い方の問題を取り上げて、以下のように述べています。

「資本主義システム全体が発展していくに従って、死と紙一重の隣接状況が緊迫を増し、時にその境界が決壊し、世界全体が突発的な暴力に晒される危険がある。それは、世界システム論的なスケールの話なのですが、その裏側には、現代の社会が、徹底して『死』そして『死者』を排除してきたという事情があります。死ぬことがいけないことだという前提が広く共有され、すべてのことが、できるだけ長く生きるという絶対的な『善』を基盤にして組織されるという社会に私たちは生きているわけです。つまり、死者は、この社会の中に居場所がなく、死はまさに無意味なものとして不可視化されている。こういう現状に対して、ボードリヤールは、未開社会における死者と生者の濃密な交流を、ある種の憧憬を持って語っています。アナグラムに代表される詩的実践も、そういう交流の、現代における断片化された形式として見ているところがある」

 第1章「『象徴交換と死』を読む」の1「『記号の暴走』が世界を覆う」では、ボードリヤールの思想を考えるにあたって、一般的によく引き合いに出される初期の著作ではなく、著者が『象徴交換と死』を選んだ理由が以下のように述べられます。

「理由の第1は、この書物が、すでに触れたように、現在も流通しているきわめて単純化されたボードリヤール理解では片づかない問題群―とりわけ『死』をめぐる思考―を私たちに提起しているということ。第2は、その『死』の問題と並んで、詩的実践(とりわけアナグラムという実践)に着目しそこにある種の希望を見出している点が、以降の彼の思想の重要なモチーフを提供しているように見えるということ。第3は、体系的かつ論文的な語り口という意味でこの著作が最後の『大作』であること。言い換えれば、この書物以降、ボードリヤールの言説は次第に断章化し、示唆的ではあるが飛躍的で、理論的な思索の経路が読みにくくなるということである」

 「差異のゲームによる価値」として、著者は、構造主義の流れの中で自らの思考を育んだボードリヤールにとって、理論的な意味において最も深い影響を与えた人物はロラン・バルトであると指摘し、以下のように述べます。

「彼の最初の著作『物の体系』がバルトの『モードの体系』(1967年)を意識したものであることはタイトルを見れば一目瞭然だが、後者の、記号論を駆使して現代のファッションにおけるモード現象を読み解いた手法、あるいはより広く、『神話作用』(1957年)で広告やメディア上のイメージなどをも対象にして、現代の消費現象を分析したその手法は、ボードリヤールの直接の方法論的源泉になっている。とりわけ、ソシュールの言語学をより広く『記号学』として一般化し、現代社会におけるモードやイメージの消費を、一定のコードに従う体系内の差異の問題として考察したその姿勢は、ボードリヤールにそのまま継承されている。バルトは、現代における消費が、もはや物の実体的な使用価値ではなく、それがまとう差異のオーラによって決定されるようになったというメカニズムをいち早く記号学を使って分析して見せたのだった」

 さらに著者は、ボードリヤールとバルトの関係について、以下のように述べます。

「ボードリヤールは、このようなバルトの観点をさらに押し広げ、現代社会における商品の価値一般が、差異のゲームによって支配されるようになったことをベースにし、それを持って、従来のマルクス主義的観点による価値論、つまり商品に注入された生産(労働)と付加された剰余価値をベースにした価値論がその有効性を失ったと主張したのである。『象徴交換と死』の(1)が『生産の終焉』と題されているのは、まさにそのことを指している」

 そして著者は、かつてのマーケティングの世界を振り返って、以下のように述べます。

「当時のマーケティングの世界では、『ライフスタイル』という言葉がしきりに流通し、ある商品を購入するというのは、それだけを買うのではなくて、それによって媒介されるトータルな『ライフスタイル』への入口なのだという具合に使用されていた。大衆の時代から少衆の時代などということも言われ、少衆化したそれぞれの集団は、独自の価値観を、それに見合った記号を生活中に編集することで『アイデンティティ』を演出すると言われたりした。そして、そのように編集される記号やライフスタイルの価値はと言えば、他の記号やライフスタイルとの差異だけによって決定されるものであり、その内部に、価値を保証する実体的な核を保持していたわけではなかったのだ。その最たる例が、たとえば『レトロ』という価値である。レトロであるということは、すなわち、すでに先端的な機能性を失った事物が、遊戯性、趣味性、そしてノスタルジーの相のもとに価値を帯びるという事態であり、その価値は、まさしく現代の事物との『差異』―時代的差異が商品体系の共時的な差異の体系の中に組み込まれたものとしての―によって決定され、その事物に与えられた新しい価値なのだ」

 著者は、ボードリヤーを深く文化人類学的な知見に影響を受けた思想家であると指摘します。そして、彼の議論のパラダイムは、西欧の伝統(キリスト教化から近代へとつながる綿々とした歴史)と「未開社会」の文化のいささか大雑把な二項対立によって構成されていると述べます。そして、西欧の伝統が死を生の世界に統合してこなかったことを、未開社会の事例を引き合いに出しながら批判するとして、以下のように述べています。

「冒頭部には、たとえばこんな断言を見つけることができる。『西欧文化の「合理性」の土台にある排除がある。それが死者と死の排除である』、そして、このような排除の末に西欧ではすでに『人びとは死をどう扱っていいのかわからなくなっているのだ。なぜなら今日では死者であることは正常ではないからである』とも言う」

 続いて、著者は以下のように述べています。

「これに対して『未開社会』では、別の時空に追いやられるのではなく、死者たちは、『生き生きと目の前におり、多面的な交換のなかで生者たちのパートナー』であって、そのような交換関係が成立している場合には、死者は『不死である必要はないし、またそうあってはならない』。簡単に言うと、私たちの世界―西欧近代の洗礼を受け、それにどっぷりと浸かっている日本の現代も例外ではない―では、死者は脱社会的な存在であるのに対して、未開社会では十分に社会的な存在として生者と共存し、交換の営みを続けているというのである」

 第4章「未完のボードリヤール―『死』の回帰性、断片性について」では、「死者の回帰」として、著者は以下のように述べています。

「端的に言えば、私たちの社会は、死者をその象徴的循環の中に組み込む方法を失ってしまったのである。死者との断絶、差異の強烈な認識がなければ、そこには『生』もない。死者を見失うということは、生を見失うということであり、逆に、そのような差異化の土台を喪失した生は、それじたいが緩慢で漫然とした『死としての生』のようなものにならざるを得ない」

 また、「死の可視化、英雄化」として、著者は以下のように述べます。

「共同体=権力にとって、構成員の死をどのように利用するかは、自らの強化にとって決定的に重要な意味を持っていたのであり、死者に『意味』を付与する権限の独占を通じて、体制の存続と強化を計ってきたとボードリヤールは主張するのである。このような構造の中では、死者の象徴的回帰は、彼の言う出来事としての強度を発揮するどころか、その擬似的な輝きを通じて単一な共同体の維持に供するという記号の一般経済の中に回収されてしまう。その等式の中では、『不死』の称号は死者に与えられる『一般的等価物』にすぎず、生者とのより単独的で多数的な交流の世界からの隔離は、『死者たちの監禁』であり、『老人の隔離』と同じような構造を持っていると彼は主張するのだ」

 さらに著者は、「神風特攻隊」に言及し、以下のように述べています。

「私たちは、神風特攻隊として死んでいった兵士たちを、日本という共同体の存続に捧げられた人々として記憶するように仕向けられている一方で、沖縄で自国軍によって死に追いやられた多くの名もなき人々の死は、記憶の空間から追放するよう、無意識のうちに迫られている。どちらに私たちがより大きな『負債』を負っているのかは決め難いはずなのに、そのような認識は広く共有されてはいない。つまるところ、死者の回帰は、それ自体、多分に操作的かつ儀式的であり、ある意味で偽造された象徴交換として行われることがあり得るということである」

 そして、著者は戦死した兵士たちの死に言及し、以下のように述べます。

「不謹慎な言い方になるかもしれないが、戦争で亡くなった兵士たちの死と意味の関係は、現代社会いおける『生命保険』の関係とまったく相同の関係を持っている。戦地に赴く兵士たちは、見事に国のために死んだ暁には、英霊として奉られるという『約束=保険』があり、実際に死んだならば、国という『意味』を司る保険会社は、粛々とその『意味』の支払いを履行するのである。そして、死の管理が、生の管理と表裏一体になるのは、まさにそのような投資と回収という構造がここにあるからであり、しかも、贈与される意味は、不死の魂という超越的な価値を持ったものであるのだから、死を賭けるにふさわしい支払いということになるのだ」

 3「回帰の径路―記念碑的と写真的」では、写真的「死」を持続する「断片性」であるとして、著者は以下のように述べています。

「写真という媒体は、そのような死者との関係を具現する特殊なメディアである。あらゆる物語や意味の連関から自らを切り離し、シニフィアンとしての強度を保持できるメディアであるということがボードリヤールにとって重要であった。3次元から2次元への引き算がその強度を保証しているという逆説に則って言えば、写真の像の力とは、その『意味を剝ぎとられた現存性』にあると言ってもいいだろう。その意味からの切断こそが、写真の機能を、かつて存在したものの肯定へと純化させるのである。だからこそそれは、人物であれ風景であれ、断片的でありながら、その断片を成立させていた世界の全体をアレゴリー的に示唆できるのである。ちょうど、発掘された陶器の一片が、もとの陶器全体を、そしてさらには、その陶器が使われていた世界全体を、たとえ細部が不明瞭であっても、たしかに存在したに違いないものとして感受させてくれるように」

 続けて、著者は「3・11」について以下のように述べています。

「私たちは、3・11の後、生存者捜索が始まると同時に、瓦礫の中から無数の写真が拾われ、洗われ、修繕を施され、多くの人の手に返されたことを知っている。それら無数の写真の多くは、津波の後、突然それまでとは違った意味の負荷を帯びて立ち上がってきたのだった。しかし、その『意味』は、抽象的なものではない。意味と呼ぶことさえ難しいような、失われた存在の具体的な証としてそれらは収集されたのだった」

 また、「死者の回帰」について、著者は以下のように述べます。

「生者の世界の彼岸にだけとどまっているのではなく、すぐ傍らにあって感じ取れるパラレル・ワールドのようなものとしての死者の世界、そしてそのような生者と死者の共存が織りなす交叉世界。あるいは、死者の像を媒介にして偶発的に発生する生者と生者のつながり。このような死者の回帰の仕方については、記念碑的なそれ―そこにはつねに意味が付与されなければならない、たとえば『国のため』など―に対して、安易な意味への還元を許さない、頑なに表面的(表層的)なものとして『写真的』と言ってみたい」

 さらに著者は、詩的言語において死者と出会うことについて述べています。

「古来、詩人たちが、死者の世界であれ、異界であれ、この世の境界を越えた外部との交通をよくする者であったことはあらためて言うまでもないだろうが、彼らがそのような交通を可能にするのは、自らの試みの無謀さ、不可能性を知りながらも、やむにやまれぬ欲求に押されてその不可能性の前に言葉を差し出すからなのであり、その不可能な交換に捧げられた言葉の『供犠』こそが、不在としての死者を不在のままに現前させるプンクトゥム的な強度を持ち得るのである。詩的言語の逆説はそこにこそある。意味の世界へときれいに収まる言語は、生者の世界ですぐにでも取引され、過不足なく交換される。詩的言語は、合理的な生の思考が閉め出した余剰の空間で、死者と想像的に出会うのである」

 4「生者と死者の交差する所」では、「生と死の相互的交換」として、著者は以下のように述べています。

「たとえば『未開社会』を論じる際にボードリヤールが、羨望的とも言える眼差しを持って語るのは、生きている者と死んだ者が、線状的な時間軸上の前後を占めるのではなく、持続する現在時において円環的な関係を結び続けるということだった。それに対して近代以降の世界では、死は生の対立物であり、到来して欲しくない終結点であり、生にとって殆ど意味を持たないものへと変質されてしまったというのである。したがって、できれば死なずに、いつまでも生きられることを私たちは目指すべきであり、死の漸次的排除こそが人類共通の目的であるかのように世界が組織される。しかし、とボードリヤールは、『未開社会』の例をモデルにして問う。そのような生の最大化は、逆説的に生の空虚化・形骸化を招いているのではないかと。そしてそのことを再認識させてくれるのが、死との特異な邂逅なのではないかと」

 「大切なのは、相互的な交換だ」と、著者は言います。でなければ、この仮死的な「生」への気づきは、容易にフロイト的な「死の欲動」へと転換されてしまうというのです。著者は述べます。

「しかし、フロイト的な図式では、『死』は、すべての不安や葛藤、一言で言えば、存在論的疎外を解消してくれる最終地点であり、すべての生ある存在は究極的にはそこを目指すのであり、現に進行しつつある『生』は、そのための迂回路に過ぎなくなってしまう。そこにはやはり、あの線状的な時間の感覚が浸透していて、生と死は、時間的な前後関係としてイメージされているのだ。ボードリヤールの主張においては、そうではなく、生と死は、つねに『たまたま』分割されており、であればこそ可逆性を保持していて、実際に、つねに両者の間に円環的な交換関係が成立していることが重要なのである。したがって、死も生も、独立したカテゴリーとしてどちらかだけが超越的な審級として働くということはあり得ないのだ」

 拙著『唯葬論』(三五館)にも書きましたが、「死」と「葬」は違います。「葬」とは「生」と「死」の円環的な交換関係にあるのです。「葬=生+死」と言ってもよいでしょう。

 終章「エピローグとしての対話―歴史的創造力の『詩的展開』」では、著者は再びインタビューに答えて、以下のように語っています。

「死の問題を考えると言いましたが、ボードリヤールの考えは、それまでのハイデガーやフロイトとは異質な感じがありました。どういうことかと言うと、基本的にハイデガーもフロイトも、生者にとって死がどういう意味を持つかという発想をしているという意味では似ている。もちろん、かたや意識の哲学であり、かたや無意識のそれではあるとしても、現に生きている主体にとって死というものがどのように現象するのかという問題の立て方においては同じなわけです。ところが、ボードリヤールが『象徴交換と死』の中で「未開社会」を持ち出して論じているのは、どうも、そういう枠組みとはズレるところがあります。つまり彼は、『死者』がどのように生者の世界に存在し得るのかということを考えようとしていたんですね」 わたしが『唯葬論』で示したように、問われるべきは「死」ではなく「生」と「死」の関係、すなわち「葬」であるといったところでしょうか。

Archives