No.1287 グリーフケア | 死生観 | 社会・コミュニティ 『自死』 瀬川正仁著(晶文社)

2016.07.27

 『自死』瀬川正仁著(晶文社)を読みました。
 「現場から見える日本の風景」というサブタイトルがついています。著者はノンフィクションライターで、1978年、早稲田大学第一文学部卒業。80年代より映像作家として、アジア文化、マイノリティ、教育問題などを中心にドキュメンタリーや報道番組をつくってきたそうです。それらの経験をもとに、さまざまなジャンルのノンフィクションを手がけているとか。著書に、『老いて男はアジアをめざす』『若者たち―夜間定時制高校から視えるニッポン』『集める人びと』(バジリコ)、『アジアの辺境に学ぶ幸福の質』(亜紀書房)、『教育の豊かさ 学校のチカラ』(岩波書店)などがあります。

   本書の帯

 本書の帯には「自ら選んだわけじゃない。」のキャッチコピーとともに、以下のように書かれています。

「治安はどこよりもよいのに、飛びぬけて自死の多い国、日本。生命保険の取り決め、向精神薬の薬害、ギャンブル依存症、金銭問題・・・・・・複雑に絡み合う問題の根は、どこにあるのか」

 またカバー前そでには、以下のような内容紹介があります。

「日本は先進国のなかで、飛びぬけて自死の多い国である。それは、なぜなのだろうか。学校で、職場で、家庭で、人を死にまで追い込むのは、どのような状況、心理によるのだろうか。また遺族は、親しい人の死をどのように受け入れていくのか。借りていた部屋の損害賠償の問題や生命保険の取り決め。向精神薬の薬害、貧困、ギャンブル依存症など、複雑に絡み合う自死の人の問題点を読み解き、自死をした人の家族会、医師、弁護士、宗教家など、問題にかかわっている多くの人びとを取材しながら、実態を明らかにする」

   本書の帯の裏

 本書の「目次」は以下のようになっています。

序   「自死」にこだわる理由
第一章 学校と自死
第二章 職場と自死
第三章 宗教と自死
第四章 精神医療と自死
第五章 責任と自死
第六章 高齢者と自死
「あとがき」にかえて
主な参考文献

 序「『自死』にこだわる理由」の冒頭を、著者は以下のように書き出します。

「日本が自死大国と呼ばれるようになって、どのくらいたつのだろうか。政府の統計によると、日本の自死者数は1998年から2011年までの14年間、連続して3万人を超えている。2009年をピークに自死者の数は減少に転じたものの、いまだに年間2万50000人近くが自ら命を絶つ、世界有数の自死大国であることに変わりはない」

 また、日本における自死者の数について、著者は以下のように述べます。

「日本政府は、自死者の数が2万5000人を切ったことで自死対策の成果を強調している。ただ、ここで注意したいのは、私たちが知らされる自死者の数は、日本政府が『自死』であると認定した人の数のことであり、実際に自死している人の数はそれよりずっと多い。それは数字のマジックというより、数え方の違いによるものだ。
 これはしばしば指摘されることだが、日本では毎年17万人ほどが『異常死』を遂げている。『17万人の異常死』と聞くと思わず身構えてしまうかもしれないが、『異常死』とは専門用語で、医師の診断によって原因が特定された以外、すべての死が『異常死』に分類される」

 さらに著者は、日本が「世界に冠たる治安の良い国」だと言われていることを指摘しつつ、以下のように述べます。

「日本で暮らす外国人の多くが日本の魅力の筆頭にあげるのが、『おもてなし』の心でも、『便利さ』でもなく、『治安の良さ』だ。確かに、2012年の統計を見ると、日本の殺人件発生率はアメリカの15分の1、ブラジルの84分の1、最も高かったホンジュラスの300分の1に過ぎない。それほど日本は治安の良い国なのだ。だが、ここまで見てきたように日本は世界に冠たる『自死大国』でもある」

 本書では、「自殺」という言葉を使わず、一般にはなじみの薄い「自死」という言葉が使われています。この点について、著者は考えを述べます。

「『自死』という言葉は、差別と偏見に苦しんできた多くの遺族が望んだ表現であり、遺族たちの請願によって、島根県、鳥取県、宮城県のように公文書の表記をすべて『自殺』から『自死』に変えた自治体もある」

 続けて、著者は「自死」という言葉について以下のように述べます。

「実は私自身、『自ら命を絶つ』という行為を表現するのに、どのような言葉が適切なのか、いまだによくわからない。ただ、『Suicide(18世紀以前はself-kiling)』という英語の翻訳である『自殺』という言葉が、複合的な要因の中で『死』に追い込まれていった個人の状況を正しく伝えておらず、また、『自殺』という言葉の持つ差別と偏見にまみれた既成概念が、名称を変えることで、少しでも変化するための一助になればとの思いから、本書では『自死』という言葉を使うことにした」

 わたしは、これまで「『自殺』でも『自死』でもどちらでもいいのではないか」と考えていましたが、本書を読んでからは「自死」という言葉を使うべきであると思いました。

 第一章「学校と自死」では、「若者の自死は増えている」として、著者は以下のように書いています。

「15歳から39歳、いわゆる若年層の自死率に限ると、日本は先進国の中でダントツの1位なのだ。さらに看過できないのは、15歳から34歳までのすべての世代において、死亡原因の第1位が『自死』となっている。これはG7と呼ばれる先進国の中で、日本にしか見られない現象である。しかも近年、自死する若者の数は確実に増えている。バブル経済が崩壊した1991年と22年後の2013年を比べてみると、15歳から24歳までの若者の自死率は2倍以上になっている。ところが、この重大な事実は見落とされがちだ。この30年の間に30歳以下の若者の数が4割も減っているため、総数だけを見ているとほぼ横ばいだからである」

 また、「若者を取り巻く状況」として、以下のように書かれています。

「『希望の喪失』、あるいは『閉塞感』といったキーワードは、状況こそ違え、いまの若者にも通底している気がする。その象徴的な出来事のひとつに『就活自死』がある。警察庁の自殺統計によると、2007年から2014年の8年間に、就職活動が原因で自死した若者は302人いる。また未遂者は実際に亡くなる人の10倍といわれるので3000人以上が自死を試みたと推定される。ある新聞社が就活をしている学生にアンケートをとったところ、2割の学生が就活中に死にたいと思ったことがあると答えている」

 さらには、「いじめの誕生」として、以下のように書かれています。

「文部省(現在の文部科学省)が学校における『いじめ』の統計を発表するようになったのは、『現代用語の基礎知識』に『いじめ』という言葉が掲載された翌年、1985年度からだ。きっかけになったのは1986年2月、つまりその年度の終わりに起こった、東京の中野富士見中学の『いじめ自死』事件とされている。当時中学2年生だった鹿川裕史君(13)が、『このままじゃあ、生きジゴクになっちゃうよ』という遺書を残して命を絶った。その後、『葬式ごっこ』を初めとした鹿川君に対するむごい『いじめ』の実態が明らかになったことで、学校における『いじめ』が、日本における重要な社会問題のひとつであるという事実を日本国民全体が共有したのだ」

   数珠を持ったまま投票する山本太郎議員(写真:時事通信社)

 わたしのブログ記事「葬式ごっこ許すな!」にも書いたように、昨年9月18日、安保法案で揺れる参院本会議で牛歩を続けていた「生活の党と山本太郎となかまたち」の山本太郎共同代表は、壇上で議席を振り向き、安倍晋三首相に向かって焼香するふりを数回繰り返しました。議場は山本氏の一連の行動を批判する激しいヤジに包まれましたが、とんでもない行為です。

   安倍首相に向かって合掌する山本太郎議員(写真:時事通信社)

 生きている人間に対して焼香の仕草をしたわけです。こんなことが学校などで流行したら、どうするのでしょうか。自分の考えにそぐわない者、気に食わない者に対して焼香・合掌のパフォーマンスを行うことが流行したら、どうなりますか。多くの人たちは、かつて自殺者を生み、大きな社会問題にもなった中野富士見中学の「葬式ごっこ」を連想したのではないでしょうか。こういう大人の行為を子どもは真似するのです。いじめを誘発するような愚行を犯した山本太郎には国会議員の資格はありません。

 「『いじめ自死』ゼロという現実」では、文部科学省の統計に、いじめ自死「ゼロ」と記録されている2006年、山形県米沢市の県立高校に通っていたある女子高生が「くさい」などの言葉の暴力を長期間にわたって受けていた事実が明かされます。2006年11月、彼女は通っていた高校の渡り廊下から飛び降りて、自ら命を絶ちました。携帯電話の中に「詩」という形で自分の心の内を書き残していましたが、その中の「遺書」として書かれた文章には以下のような言葉があります。

 皆は恵まれすぎているから退屈なんだ。
 恵まれすぎてて、心が貧しいんだ。
 だから戦争をしろって意味じゃないけど。
 きっとアフリカの難民の方が温かい心を持っているね
 日本人は心がスカスカしていて、濁っていて、曇り空みたいだ。

 平和なんて幻想掲げて何するの?
 そんなの一生手に入らないよ
 私みたいな狭い世界で暮らしている子でさえも、差別を受けているのに

 この世は悲しみと喜びがあるから美しい。
 6の悲しみと、4の喜び。
 これが、私の中のこの世の比率。
 なにもない。0
 これが、私の中の死という考え。
 6つの悲しみと4つの喜びより、起伏もなにもない0へ。
 臆病な私は、0へ。

 第二章「職場と自死」では、「『過労自死』の真相」として、自死した病院の小児科部長のケースが紹介されます。彼は、部長会議の席で、毎回のように小児科の収益性が低いことを責められていました。そして、収益を伸ばすように叱咤されていたそうです。しかし、著者は以下のように述べます。

「小児科はそもそも収益率が悪い診療科なのである。そのため、最近では小児科を置かない総合病院も増えている。一番の理由は、子どもは大人のように症状を手短に、しかも正確に訴えられないことだ。そのため、小児科医の重要な能力のひとつは、子どもから病状を正しく聞き出すコミュニケーション能力であるといわれる。当然のことながら、子どもの心を開かせるためには色々な話をし、その合間に質問をぶつけるなどしなければならない。大人を診察するようにテキパキとは進まないのが普通だ。また、注射や検査をいやがる子どももいる。そんなこんなで、子どもの診療時間は大人の2倍、3倍かかることも珍しくない。それにもかかわらず、現行の報酬システムでは、子どもであろうと大人であろうと、1人あたりの診療報酬は同額なのである」

 また、「若者を潰すブラック企業」では、以下のように述べられています。

「流行語大賞にもなった『ブラック企業』という言葉の力もあって、若者を酷使する企業の実態は少しずつ明らかになってきている。『ブラック企業』の定義は、長時間労働、サービス残業という名の賃金の不払い、それにパワーハラスメントやセクシャルハラスメント、これら3つのうちのどれかひとつ、あるいは、いくつかが多発している企業ということになる。かつては、そうした企業は裏社会と結びついていたり、明らかに怪しげな空気を漂わせていたので、比較的容易に見抜けた。ところがここ20年あまり、私たちが名前を知っている有名企業でも、同様のことがおこなわれていることが明らかになってきた」

 著者は「名ばかり店長」などの事例を紹介した後、述べています。

「100円コンビニ、280円の牛丼店、激安の居酒屋。景気回復に明るい未来が見えない中、消費者が安い物に飛びつくのはある程度仕方ないかもしれない。だが、行きすぎた価格競争は、最終的には人件費を削ることでしか達成できない。私たちは、そのために低賃金で過酷な労働を強いられている多くの労働者がいることを忘れてはならない、と感じている」

 「『過労自死』を生む土壌」では、著者は「安息日の掟」に言及して、以下のように述べています。

「ヨーロッパの多くの国では、1週間の労働時間の上限が48時間と定められていて、いかなる理由があっても、それ以上働かせてはならないという法律がある。また、仕事の終了から、翌日の仕事開始まで最低11時間の休息を与えなければならないことも法律で決まっている。そうした制度が堅持されている背景には、社会が共有している確固たる思想があるからだ。それは、冒頭で紹介した旧約聖書の『安息日の掟』と無関係ではないと思う。『安息日の掟』は、単に『休日には仕事をするな』という意味ではない。人間には金儲けや日々の生活の糧を稼ぐこと以上に大切な仕事がある。それは神が考える理想の社会を実現するために人々が思索を巡らすことである」

 続けて、著者は「安息日の掟」について以下のように述べます。

「現世の垢にまみれ、思考停止に陥るまで働き詰めの暮らしをしていたら、人として一番大切な仕事、「世の中をよくするための思索を巡らす」という仕事ができなくなってしまう。それは人として重大な過ちを犯したことになる。『安息日の掟』はそうした理念のもとに生まれた。そして、旧約聖書を聖典とするユダヤ教、キリスト教、イスラム教の世界は、いまもその理念を受け継いでいる。日本社会は『何にも縛られない自由な時間を持つことこそが人間の責務だ』という古の人々の英知を、もう一度噛みしめる必要があるのかもしれない」

 第三章「宗教と自死」では、「『自死』に冷淡な宗教」として、カトリックが取り上げられます。著者は以下のように述べます。

「693年のトレドの宗教会議で、『自死者はカトリック教会から破門する』という宣言がなされ、『自死』が公式に否定されたのだ。さらに名教皇といわれた聖トマス・アクィナスが、『自死は生と死を司る神の権限を侵す罪である』と規定したことで、『自死=悪』という解釈が定まったといわれている。その結果、自死者は教会の墓地に埋葬してもらえないという時代が長く続いた」

 イスラム教についても同様です。著者は述べます。

「もうひとつの一神教の雄、イスラム教においても、自死は地獄へ落ちる行為とされている。その根拠とされるのがコーランの『婦人章』第29節と30節にある。その中で、『あなたがた自身を殺し(たり害し)てはならない』と明確な禁止の啓示が下されていて、さらに、『もし敵意や悪意でこれをする者あれば、やがてわれは、かれらを業火に投げ込むであろう』と続けている。つまり、自殺は地獄へと通じる行為であることを示唆している」

 そして、仏教の場合はどうか。著者は以下のように述べます。

「日本人に身近な仏教の世界で、ブッダの教えの中に『自死』に対する特別な言及はない。つまり、肯定も否定もしていないのだ。ただ、仏教では殺生は十悪の1つとされていることから、自分で自分の命を絶つ『自死』を殺生のひとつと解釈する僧侶は少なくない。そのため、自死で命を落とした人にむごい戒名をつけたり、キリスト教同様、墓地に埋葬することを拒むなどの差別が長年にわたって行われてきた。このように、仏教思想の中に、『自死』=『自分に対する殺生』という考えがあるかどうかは別として、『無明(浅い考え)や煩悩(世俗の悩み事)によって自死するのは好ましくない』という考えが仏教界全体の基本認識になっているようだ」

 日本においては、「自死者」は「地縛霊」になると考えられることが多いです。「『地縛霊』のたたり」として、著者は以下のように述べます。

「自死者や殺人事件の犠牲者はこうした『地縛霊』になるケースが多いと信じられている。日本人が自死者や殺人事件の犠牲者に対する強い忌避の念を持つ背後のひとつに、この『地縛霊』の存在があると思われる。『地縛霊』の解釈については一様ではないが、一般的には、その土地に近づいた人に災いを起こしたり憑依したりして悪さをする霊と考えられている。例えば、『地縛霊』がいる部屋で暮らす人はそのせいで病気になったり、その場所に駐車場をつくったとすれば、その駐車場を利用する自動車が事故を起こしやすくなると考える。こうした信仰に基づく迷信は根が深く、日本人が自死に対して持つ偏見と深い関わりを持っていると思われる」

   上智大学での特別講義のようす

 わたしのブログ記事「上智大グリーフケア講義」で紹介したように、7月20日、わたしは上智大学グリーフケア研究所で特別講義を行いましたが、そこでカトリックが自死者を否定していることを取り上げました。しかし、自死はけっして「自ら選んだ」わけではなく、魔や薬のせいという要素も強いと言えます。ただでさえ、自ら命を絶つという過酷な運命をたどった人間に対して「地獄に堕ちる」と蔑んだり、差別戒名をつけたりするのは、わたしには理解できません。それでは遺族はさらに絶望するというセカンド・レイプのような目に遭いますし、なによりも宗教とは人間を救済するものではないでしょうか。

 しかし、最近では流れが変わってきました。著者は述べます。

「『自死』が社会問題化し、また自死遺族たちが声をあげたことで、長い間、『自死』を差別してきた伝統宗教の世界にも変化の兆しが見えている。例えば、キリスト教の世界ではローマ法王であった聖ヨハネパウロ2世が1995年の『回勅』の中で、「自殺者を断罪するのではなく、自死を選ばざるを得なかった人生を神に委ねる姿勢が大切だ」と、自死者に対する過去の対応の過ちを認めて謝罪した。もちろん、キリスト教が『自死』を正しい行為だと認めたわけではない。自死にいたった苦しみや遺された遺族の悲しみに、キリスト教があまりに無頓着だったことを詫びたのだ」

   上智大学での特別講義のようす

 この「自死者に対して、キリスト教はどうすべきか」という問題は、上智大学グリーフケア研究所が取り組むべき最大の課題ではないかと思います。著者は述べます。

「いまでも、カトリックの世界には『自死』は罪であるという考えが根強い。しかし、近年、教会内部でも自死者に対する名誉回復の動きが進んでいる。一方、差別的な戒名などによって、長年『自死』を差別してきた日本の仏教界も、日本社会における自死者の急増を受け、これまでの『自死』に対する向き合い方を見直そうという動きが広まっている」

 著者は、「『自死』した人は弱かったのか」として、以下のような自死者についての素晴らしい例え話を披露します。これには本当に感心しました。

「例えばコップを床に落として割ってしまったとする。もし、床に落としたのがガラス製でなく、金属やプラスチック製のコップだったとしたら、おそらく割れなかったに違いない。ガラスはこうした素材に比べて衝撃に『弱い』という性質がある。それでは、壊れやすいガラスは食器として金属やプラスチックよりも劣っているだろうか。多くの人が、食器に金属やプラスチックではなく、壊れやすいガラスや陶磁器を使い続ける理由は、ガラスには壊れやすいという欠点を差し引いて余りある長所があるからだと思う。ワインをアルミニウムやプラスチックのコップで飲んだとしたら、美味しいと感じるだろうか。会席料理をアルミニウムの皿に盛りつけて食べて、美味しいと感じるだろうか」

 続けて、著者は以下のように述べています。

「同様に、仮に自死した人がある種のストレスに対する耐性が弱かったとして、それをもって彼らを『弱かった』と結論づけてよいのだろうか。彼らの『脆さ』は、『優しさ』や『思いやりの深さ』など、人間の美しさと対になっていることが多いと私には思える。様々な要因で自死に追い込まれた人たちは『弱い人間』だったのではなく、他者を傷つける代わりに自分自身を追い込むことで問題を解決しようとした、『心優しい人』だったのかもしれない。もちろん、ストレスに強い体質をつくることは厳しい生存競争のある社会を生きてゆく上で重要なことだろう。だが、そうでなかったからといって、そのことで自死した人を非難したり見下したりするのではなく、我々がするべきは、1人の人間を『自死』するまでに追い込んだ状況こそを問うてゆくことではないか」

 第四章「精神医療と自死」では向精神薬をめぐる闇について言及され、「多剤、大量処方という問題」として、著者は以下のように述べています。

「向精神薬による治療の問題点を整理してみる。まず最初にあげなければならないのは、向精神薬は脳内物質をコントロールするという高いリスクを伴う薬品であるにもかかわらず、その危険性に対する認識があまりにも希薄なことだ。それを改善するためには、まず厚生労働省など公的機関が、向精神薬を投与した患者がその後どんな人生を歩んだのかをデータ化し、真実をありのまま公表する必要がある。しかし、識者たちの再三の要請にもかかわらず、追跡調査はいまだにおこなわれていない。これは原発事故などによる低線量被曝が、人体にどのくらいのダメージを与えるのかというデータが、公には未だに存在していないことと同じかもしれない。この基礎データがないため、良い変化が現われれば『向精神薬が効いた』と称し、悪い変化が起こると『病状が悪化した』という妄言がいまだにまかり通っている。だが、知識のない一般人には、それに反証するすべがないのだ」

 第五章「責任と自死」では、「『腹切り』と『特攻』」として、著者は切腹について以下のように述べています。

「自死するとき『腹』を切るのは、『腹部には人間の霊魂と愛情が宿っている』という古くからの考えが関係している、と新渡戸稲造氏は『武士道』の中に記している。日本語には、『腹黒い』、『腹が立つ』、『腹芸』など、精神性を表す言葉の中に、『腹』を使った語句が数多くある。だが、こうした考え方は日本独自のものではなく、元々中国にあったといわれていて、実際、かつては中国や韓国にも『切腹』の習慣があった。さらに腹を切るという所作のルーツを遡ると、太古の時代、身の潔白を証明するために内蔵を取り出して占うという風習があったことが関係しているともいわれている。そうした文化が武家社会に受け継がれ、江戸時代に様式化された結果、日本独特の『切腹』文化になったというのだ」

 また、ヨーロッパの「決闘」をめぐって「生き残ること」=「善」か否かという問題が以下のように述べられています。

「ヨーロッパの『決闘』の起源は、中世の裁判において、真実がはっきりせず、人間である裁判官に白黒がつけられないとき、神の声を聞くためにおこなわれたのが始まりだという。その根底には、神が正しい人間の命を奪うはずがない、という思想がある。つまり、ヨーロッパ社会には『生き残ること』=『善』という考え方があり、公式の裁判とは別に、「決闘」で白黒をつける風習は20世紀初頭まで続いた」

 続けて、著者は日本人の死生観について述べています。

一方、日本人には、『生き残ること』=『善』という考え方は皆無に近い。『負けるが勝ち』という言葉があるように、武士にとって、戦って相手に殺されたら負けであるが、自ら命を絶てば負けにはならない、という不思議な考え方がある。つまり、身の潔白を証明するために自らの命を絶つ勇気が、武士社会という共同体の中で評価を得ることによって、生き残った相手に後ろめたさを感じさせ、結果として勝利するという考えだ」

 また、著者は「贈与のための『自死』」として、生命保険について以下のように述べています。

「生命保険の歴史は15世紀のヨーロッパで始まったとされている。それは、今の生命保険の概念とは少し違っていて、奴隷貿易が盛んだったヨーロッパで奴隷を積んだ船が遭難事故や事件に巻き込まれた際、失った奴隷の数に応じて規定額を支払うという形の保険だった。その後、様々な経緯を経て、生命保険が現在の形になったのは18世紀のイギリスだった。ハレー彗星でその名を遺したエドモンド・ハリー氏が統計を元に、年代ごとの死亡リスクを算出し、それに応じた保険料を徴収し、死亡時に保険金を支払うという現在のビジネスモデルをつくったのだ」

 続けて、著者は、日本における生命保険について述べます。

「日本でも生命保険は明治初期に導入された。しかし、『人の命で金儲けをするのはけしからん』という考えの人が多かったため、ビジネスとしては成功しなかった。当時の日本には相互扶助する社会があったことも保険制度が成功しなかった一因といわれている。最初に成功した保険は『徴兵保険』と呼ばれるものだった。それは死亡時にまとまった金を受け取るというより、働き手が徴兵されたことによる一家の暮らしを支えるためのもので、幼少時から保険金を積み立てておくと、徴兵期間中、保険会社から生活支援金を受け取れるという形の保険だった、現在の学資保険に近い形のものかもしれない。日本に現在のような生命保険のシステムが定着したのは第2次世界大戦後のことだ。戦争未亡人の働き場所のひとつとして、日本生命などでお馴染みの生保レディがその推進役を担った。そして、日本の核家族化と足並みを揃えるように、保険に加入する人の数は大幅に増えていったのだ」

   ミャンマーのアーナンダ寺院にて

 第六章「高齢者と自死」では、希望を喪失した高齢者による「新幹線・焼身自殺事件」から見えてくるもの」として、日本の高齢者には絶望している人が多いが、上座仏教国であるミャンマーの場合は事情が違うことを紹介します。著者は、以下のように述べています。

「軍事政権が長く続いたミャンマーには、年金をはじめとした社会保障制度などないに等しい。また、医療水準も低く、日本では問題にならないような病気で簡単に命を落とす人がいる。それでも、彼女は日本社会を観察していて、この国の高齢者たちの『孤独』を感じ取っていた。『ミャンマーではお年寄りがいると、親戚や近所の人など、色々な人が遊びに来て言葉をかけてくれます。子どもや孫、家族が集まるときはいつも輪の中心にお年寄りがいます。だから、寂しいと感じることがないのです』」

   ミャンマーのニャンウー・マーケットにて

 続けて、著者はミャンマーについて以下のように述べます。

「私の知る限り、ミャンマーに限らず社会制度の整っていない発展途上国で、子どもが親の面倒を見ないという選択肢は存在しないし、子どもがいないお年寄りは、親戚の誰か、もしくは近所の人が面倒を見てくれるのが普通だ。長い間、そういう社会が営まれてきたのだ。儒教の影響が強く、家という制度を大切にしてきた日本人にも、かつては高齢者にはそれなりの敬意と心遣いがあったと思う」

 日本の年金の金額設定は低いですが、それはなぜでしょうか。
 その理由について、著者は以下のように説明します。

「現在の年金制度ができたのは1959年のことだ。当時、日本の核家族化はまだ進んでおらず、しかも、サラリーマンの多くは正規社員で、終身雇用もほぼ約束されていた。そのため、老後は親族の支えが期待できる上、退職金などによる蓄えもそれなりにあるという前提があったからだ。また、平均寿命も今よりずっと短かったため、現役時代の蓄えだけで、亡くなるまでの生活費をまかなえる人が多かった。こうしたことを前提につくられた年金制度には、生活補助金という側面が強かったのだ」

 続いて、著者は以下のように説明します。

「ところが時代が変わり、1人暮らしの高齢者は2011年の時点で500万人を超え(総務省『国勢調査』)、65歳以上の高齢者の5人に1人以上が1人暮らしという状況になった。また、企業が正規社員を減らしてきたため、低賃金で貯蓄ができない上、退職金もない雇用形態で現役生活を終える人が増えている。そのため、年金の持つ意味合いが大きく変わっているのだ。ところが、日本の社会保障制度はそれに対応したシステムに変更できないまま、生活補助金程度の額しか支給できていないのである」

 「ギャンブル依存の高齢者が増えている」として、著者は述べます。

「アメリカではカジノをはじめ多くのギャンブルが合法化されていて、その総収入はおよそ10兆円といわれている。それに対して、日本最大のギャンブルであるパチンコ業界の総売上は年間20兆円、その粗利は3兆6000億円といわれている。アメリカの人口が日本のほぼ2.5倍あることを考えると、人口換算で、パチンコ業界だけでアメリカの全ギャンブルにほぼ匹敵する利益を上げていることになる。しかも、日本にはそのほかにも、宝くじ、競馬、競輪、競艇など大型の公営ギャンブルもあり、それらの利益の総額は5兆円を超える。つまり、日本は、アメリカをはるかに凌ぐギャンブル大国なのである」

 また、日本のギャンブル依存の最大の温床になっているパチンコ店が、業務区分上は「ギャンブル場」でなく「遊技場」であるという重要な事実を述べた後、著者は、その理由を以下のように説明します。

「理由は、パチンコで勝っても球と直接交換できるのはあくまでも景品であって、現金ではないからだという。だが、景品を取るためにパチンコをやる人などほぼいない。大半の客は、お金を目当てにパチンコ店に足を運んでいるのだ。ところが、パチンコ業者と換金業者が別の事業体であるという理由で、『パチンコ店はギャンブル場ではない』という詭弁がまかり通っている。その結果、ギャンブルに対する規制をいくらつくろうとしても、日本最大のギャンブル場であるパチンコ店がそれをすり抜けてしまうのだ」

 「自死現場から見えてくるもの」では、現在の日本で起こっている「自死」の多くには通底する要因があり、それを短い言葉で表現すれば「経済効率を最優先する社会」であるとして、著者は以下のように述べます。

「人は太古の昔から『効率』のよいものを求めて前進してきた。交通についていえば、2足歩行にかわって馬車を考えだし、さらに蒸気機関車や自動車へと進化させてきた。限られた時間しか生きられない人間にとって、『効率がよいこと』は極めて重要だと思うし、文明は、「効率のよさ」を求める人々の心と不可分に結びついて発展してきたのだと思う。だが、過度に『効率』を追い求めることには必ず副作用がある。例えば、人間の身体能力をはるかに超えたスピードで走行する自動車という乗り物ができるまで、交通事故による死者など数えるほどしかいなかったはずだ。『効率』が『経済効率』と同義語になった現代、『効率』を追い求めることに伴う副作用はさらに増大している。『自死』の増加もそのひとつだと思う」

 「『あとがき』にかえて」の最後では、作家の故・寺山修司氏が日本を評して言った「私たちが問題にすべきは『幸福』の不在ではなく、『幸福論』の不在なのだ」という名言が紹介されます。そして、著者は「私たちは、目先の利害だけでなく、自分たちの生きる社会をどうしてゆくべきなのか、真剣に考えなければならないときにさしかかっていると思う。毎年、『自死』によって失われてゆくおびただしい数の命は、私たちにそのことを伝えようとしている」と述べるのでした。

 非常に重苦しい内容でしたが、「小児科の収益率」とか「向精神薬の危険性」とか「生命保険の歴史」とか「パチンコ産業の背景」とか、これまで知らなかったことがたくさん書いてあって勉強になりました。「自死」は日本全体で取り組むべき最重要テーマであると思います。

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