No.1266 哲学・思想・科学 | 宗教・精神世界 | 民俗学・人類学 | 神話・儀礼 『今日のトーテミスム』 レヴィ=ストロース著、仲澤紀雄訳(みすず書房)

2016.06.18

 『今日のトーテミスム』レヴィ=ストロース著、仲澤紀雄訳(みすず書房)を再読しました。1962年に初版が刊行された本です。これまで、この読書館でも『構造人類学』『野生の思考』『神話と意味』『月の裏側』など、著者の本を紹介してきましたが、最近、紹介した『卒業式の歴史学』に本書が引用されており、読み返してみたくなったのです。

 本書のカバー裏表紙には、以下のような内容紹介があります。

「19世紀以来、《未開》社会のある社会集団と特定の動植物や無生物(トーテム)との間に交わされる特殊な制度的関係はトーテミスムと呼ばれ、幾多の実地調査が重ねられてきた。しかしそれぞれの《未開》社会を調べるほどに、各事例の間には一般化できない種々の差異があることが分かってきた。レヴィ=ストロースは、従来のトーテミスム理解は、人間と自然を非連続として捉えるキリスト教的思考の恣意と幻想にすぎないと批判する。フレイザー、ボアズ、マリノフスキー、デュルケームなどのトーテミスム理論を分析しつつ、トーテミスムについての新しい捉え方の先駆をルソーやベルクソンに見いだし、現実(自然)を前にした人間精神の操作、論弁的な思考の構造を明らかにする」

 本書の「目次」は、以下のようになっています。

今日のトーテミスム
 序  論  
 第一章 トーテム幻想
 第二章 オーストラリアの唯名論
 第三章 機能主義的トーテミスム
 第四章 知性へ
 第五章 心の中のトーテミスム
人類学の課題
「あとがき」
「文献」
「主要用語解説」

 本書のテーマは「トーテミスム」です。
 前に、この読書館でもフロイトの著書『トーテムとタブー』を紹介しましたが、トーテミスムというのは、人や集団が動物や植物(時には非有機物だったりもするが)と何らかのつながりをもっているという信仰です。フレイザー、デュルケム、マリノフスキーといった高名な学者をはじめ、これまで未開社会においてはトーテミスムが存在していると考えられてきました。しかし、レヴィ=ストロースはルソー、ベルクソン、ラドクリフ・ブラウンらを援用しながら、トーテミスムなるものは人類学者の幻想に過ぎないと断じています。

 第一章「トーテム幻想」で、著者はトーテミスムについて述べています。

「トーテミスムということばは、1つは自然、もう1つは文化という2つの系列の間に観念的に措定されたいくつかの関係を包括する。自然の系列は、一方には範疇、他方には個体を、文化の系列は、集団と個人とを含んでいる。これらの項は、すべて、それぞれの系列で集団的および個別的という二様の存在様式を区別するよう、また2つの系列の混同を避けるように選ばれているが、選択の客観的根拠はない。しかし、この前提的段階においては、相互にはっきり区別されたものでありさえすれば、いかなる項を用いることも許される」

 第三章「機能主義的トーテミスム」では、著者は以下のように述べます。

「人は、人間と植物および動物との類縁関係に対する信仰、増殖の儀礼、食物上の禁制および飲食の秘蹟的形式を基礎づけるものを問うことだろう。人間と動物との間の類縁関係は容易に確かめることができる。人間同様に、動物は動き、音声を発し、感動を表明し、身体と顔とを持つ。さらに、動物の力は人間の力より優れているように見える。鳥は飛び、魚は泳ぎ、爬虫類は脱皮する。人間と自然との間で動物は仲介者の地位を占めており、こうして動物は人間に種々の感情をおこさせる。畏敬ないしは危惧、食物としての渇望、これがトーテミスムの成分だ。生命のない対象―植物、自然現象ないしは工作された物―は〈トーテミスムの実体とはなんら関係のない・・・・・・副次的形成〉のものとしてのみ介入する」

 偉大な社会学者であるエミール・デュルケムは、トーテミスムの存在を認めていました。しかし、人類学者ラドクリフ=ブラウンは、デュルケムに敬意を表しながらも、彼の論法を「神聖視されたものという観念の不完全な分析から出発したもの」として斥けました。
 これを踏まえて、著者は以下のように述べています。

「トーテムは神聖なものだ、ということは、《儀礼的関係》という言葉が動機づけられた態度および行為の集まりを示すということを認めた場合には、人間とそのトーテムとの間に儀礼的関係が存在するということを確認しているにすぎない。したがって、《神聖な》という観念は説明を与えず、問題をただ儀礼的関係という一般的問題にまわしたにすぎない」

 著者は「人々はある状況におかれて不安を覚えるから呪術に訴えるのではなく、呪術に訴えるからこれらの状況が不安を感じさせる」というラドクリフ=ブラウンの説などを紹介しながら、以下のように述べています。

「遠い過去に根が沈みこんでいる信仰や慣行を最初の起源について、われわれはなにも知らず、また、けっしてなにも知ることはないだろう。しかし、現在を問題にする限り、各個人が社会的行動をその場その場で自己の感動の働きのもとに自発的におこなっているのではないことはたしかだ。人人は、集団の成員としては、各人が個人として感ずることに応じて行動するのではない。各人は自分に許され、あるいは命ぜられている行動の仕方に応じて感ずるのだ。慣行は、内的感情を誘発する以前に、外的規範として与えられている。そして、これら無情な規範が、個人の感情、および、個人的感情が表われてうる、ないしは表われるべき境遇を決定する」

 続けて、著者は以下のように述べます。

「また、制度および慣行が、その最初の起源となった個人的感情に似かよった個人の感情によってたえずあらたにされ、新しい力を与えられて活力を得ているものなら、これらの制度、慣行はつねに溢れ出るばかりの情緒的豊かさを包蔵しているのでなければならず、それがその肯定的な内容ということにもなろう。ところが、事実はそうではなく、これら制度、慣行に対して示される忠実さは、大抵の場合、因襲的態度に由来していることが知られている。いかなる社会集団に属するにせよ、その一成員が慣行遵奉になんらかの理由を与えうることはまれだ。その人間が言えるのは、せいぜい、事態はつねにそうであったし、自分は自分以前に人々が行動したように行動している、ということだ」

 デュルケムは、社会的現象を情緒性から派生させました。
 トーテミスムについての彼の理論は、必要から出発し、感情への訴えで完結しています。しかし、著者は「集会および儀式のさいにそこで現に感ずる感動が、儀礼を生み、あるいは存続させるのではなくて、儀礼活動が感動を挑発するのだ」と喝破します。
 デュルケムのいう「湧きたつ社会環境とその興奮そのもの」から宗教的理論が生れたどころか、社会環境は宗教的理論を前提としているのです。
 そして、著者レヴィ=ストロースは以下のように述べるのでした。

「真実のところ、欲動および感動はなんの説明にもならない。肉体の強さからにせよ、精神の無力さからにせよ、欲動および感動はつねになにものかに由来している。いずれの場合にせよ、帰結であって、けっして原因であることはない。原因は、生物学のみがその術を心得ているように、有機体の中に求めるか、それでなければ知性のうちにのみ求めることができる。後者こそ、心理学および民族学に与えられた唯一の道である」

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