No.1252 哲学・思想・科学 | 宗教・精神世界 『宗教の理論』 ジョルジュ・バタイユ著、湯浅博雄訳(ちくま学芸文庫)

2016.05.25

 『宗教の理論』ジョルジュ・バタイユ著、湯浅博雄訳(ちくま学芸文庫)を再読しました。「聖なるもの」の誕生と衰滅のプロセスを徹底的につきつめた名著です。著者は1897年生まれのフランスの哲学者、思想家、作家です。フリードリヒ・ニーチェから強い影響を受けた思想家として知られ、後のモーリス・ブランショ、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダなどに影響を及ぼし、ポスト構造主義に影響を与えました。1935年、芸術家や思想家を結集して政治結社「コントル‐アタック」を結成。36年、カイヨワ、レリスと社会学研究会を創設。46年、雑誌「クリティク」を創刊しています。55年に頸部動脈硬化症と診断され、62年に病状が急速に悪化し、永眠。聖マドレーヌ教会堂裏の墓地に埋葬されました。

 バタイユの両親は無宗教でしたが、本人の意志でカトリックに入信。敬虔なクリスチャンとして過ごしますが、そのうちに神秘主義的な素養が芽生えました。そして、ニーチェの読書体験を通して、1920年代の始めまでには無神論者となりました。「死」と「エロス」を根源的なテーマとし、経済学・社会学・人類学・文学・芸術・思想・文化・宗教・政治など多岐の方面にわたって旺盛な執筆活動を続けました。発表方法も批評や論文・評論、対談集から詩・小説・哲学書まで様々な形態をとっています。

 本書のカバー裏には、以下のような内容紹介があります。

「ミシェル・フーコーをして『今世紀で最も重要な思想家のひとり』と言わしめたジョルジュ・バタイユは、思想、文学、芸術、政治学、社会学、経済学、人類学等で、超人的な思索活動を展開したが、本書はその全てに通底・横断する普遍的な”宗教的なるもの”の根源的核心の考察を試みる。その視線が貫いていく先にある宗教の”理論”は、あくまで論理的な必然性まで突き詰められたものであり、矛盾に満ちた存在”人間”の本質を、圧倒的な深みをもって露呈させる。バタイユ死後に刊行された、必読のテクスト」

 本書の「目次」は以下のような構成になっています。

「本書はどこに位置づけられるか」
「緒言」
第一部 基本的資料
1 動物性
2 人間性と俗なる世界の形成
3 供犠、祝祭および聖なる世界の諸原則
第二部 理性の限界内における宗教
1 軍事秩序
2 二元論とモラル
3 媒介作用
4 産業の飛躍的発展
「・・・・・・とみなす者へ」
付録「全体を示す図表および参照文献」
「註」
「解題――バタイユにおける〈至高な自己認識〉」
「訳者あとがき」

 第一部「基本的資料」の2「人間性と俗なる世界の形成」では、「最高存在」について以下のように述べられます。

「ある意味では、世界は根本的な様式においてはまだ明確な境界のない内在性である(存在がある量としての存在の内で判明に区切られないまま流動すること、つまり私は水流の中における水流の定まることのない現存性のことを想い浮かべている)。したがって世界の内部に、1個の事物のように判明に区切られ、境界づけられたある1つの『最高存在』を定置することは、まず初めは貧困化することを意味するのである。1つの『最高存在』を創り出すということのうちには、他のどんな価値よりももっと大きな価値を定義しようとする意志がおそらくあるだろう。しかしこの増大させようとする欲求は、結局のところ減少させる結果となるのである。『最高存在』は客観的な個別性=人称性を持つけれども、そのせいでこの最高存在はそれと同じ性質を持つ他の個的=人称的な存在たちの傍らに位置することになる」

 また、「聖なるもの」として、著者は以下のように述べています。

「あらゆる民族がおそらくこの『最高存在』という概念を抱いた経験があるけれども、それを確立するための操作はいたるところで挫折したように思われる。原始人たちの『最高存在』は一見したところ、将来ユダヤ人たちの〈神〉が、そしてもっと後にはキリスト教徒たちの〈神〉が手にするようになった威信に比肩しうるほどの威信は、どうも持たなかったようなのである。それはあたかもそのような操作が、連続性の感情が余りにも強かった時代に行われたかのようにみえる。そしてまたあたかも生命存在たちと世界との動物的な、あるいは神的な連続性が、〔最高存在というような〕ある1つの客観的な個別性へと還元される初めての、不器用な試みのせいで、まず初めは限界づけられ、貧困化させられたかのようにみえるのである。あらゆる点から判断して、原始人たちはわれわれよりもずっと、動物に近く存在していたと考えられる」

 また、著者は「聖なるもの」について、以下のように述べます。

「聖なるものという感情はもはや明らかに、連続性のせいでそこではなにものも判明に区切られていない濃霧の内に消失していた動物の感情ではありえないのである。まず第一に言えることは、濃霧の世界においては絶えず混同が生じていたのは真実であるとしても、こうした濃霧は1つの明晰な世界に、ある不透明で見通せない総体を対比させるということである。この総体は、明晰であるものの極限に判明に区切られて現われる。それは少なくとも外部からは、明晰であるものと区別されるのである。また他方で動物はなんら眼につくような抗議もすることなしに、自分を埋没させる内在性を受け入れていたのに対し、人間は聖なるものという感情の中で、ある種の無力な怖れを味わうのである。この怖れは両義的である。聖なるものが魅惑し、惹きつけること、ある比類のない価値を持っていることは疑問の余地がない。しかしそれと同時にその聖なるものは、この明晰かつ俗の世界にとって、つまり人間がその特権的な領域をそこに捉えるこの俗なる世界にとっては、眩暈を生じさせるほど危険なものとして現われるのである」

 さらに、著者は「精霊たちと神々」で以下のように述べます。

「『最高存在』とはある意味で1つの純粋な精霊である。同様に死者の霊は、生きている人間の霊=精神のように明確な物質的現実に依存することはない。そしてまた動物の精霊、あるいは植物の精霊、等々と、固体としての1匹の動物、1本の植物との間の絆はきわめて漠然としている。それらに関して問題となっているのは、神話的な精霊――所与の諸現実とは独立した精霊なのである。こうした条件において精霊たちが構成するヒエラルキーは、しだいしだいに一方には人間の霊=精神がそうであるような身体=肉体に依存する精霊たちを置き、他方には『最高存在』や、動物、死者などの独立した精霊たちを捉えるという根本的区別の上に立脚するようになっていく。後者の独立した精霊たちは、ある1つの同質的な世界、つまりその内部ではヒエラルキー上の相違はほとんどの場合微弱でしかないようなある神話的な世界を形成する傾向を持っている。『最高存在』は神々のうちの至高者であり、天空の神ではあるけれども、一般的に言って他の神々よりも強力であるが、しかし同じ性質の神にしか過ぎないのである」

 3「供犠、祝祭および聖なる世界の諸原則」では、「死と供犠の通常行われる連合」として、以下のように述べられています。

「供犠には実に子供っぽい無意識状態があるので、生贄を死へと至らしめることがその動物に加えられていた侮辱を、つまり惨めにも1個の事物の状態まで還元されていた動物の蒙っていた侮辱をはらしてやる1つの様式として現われるほどである。しかし実のところを言うと、殺害することが文字通りに必要だというわけではないのである。それでも死という現実秩序の最大の否定が、神話的秩序の出現を促すうえで最も好都合なのである。また他方では供犠における殺害は、生と死の苦悩に充ちた二律背反をある1つの転倒によって解消するのである。実際内在性においては、死はなにものでもない。が、しかし死がなにものでもないということから、ある1つの存在はけっして真には死から分離していないのである。死が意味を持たないということ、死と生の間に差異がないということ、死に対する怖れもなくそれに対抗する防禦もないということ、こうした事実からして死はなんらの抵抗をひき起こすことなく全てに侵入しているのである」

 また、著者は「死」について次のように述べています。

「死がそこにあったときには、誰もそこにそれがあると知らなかった。死は無視されており、それが現実的な事物たちの利にかなうことであった。死は他のものたちと同じように1つの現実的事物だったのである。しかし突如として死は、現実社会が嘘をついていたことを示す。するとそのとき深く考慮に入れられるのは、事物が喪失されたということではなく、また有用なメンバーが失われたということでもない。現実社会の失ったものは1人のメンバーではなく、その真理なのである。内奥の生命はもうすでに私にまで十分到達する力を失っており、それを私は基本的には1個の事物のようにみなしていたのであるが、その内奥の生を十分なまで私の感受性へと戻してくれるのは、それが不在となることによるのである。死は生をその最も充溢した状態において啓示し、現実秩序を衰滅させる」

 さらに、著者は以下のように述べています。

「死を悲しみに密接に結びつけるのは、単純な意見である。死の到来に呼応している生者たちの涙は、それ自体歓喜と正反対の意味を持つというわけではまったくない。苦悩にうちひしがれるどころか、その涙は内奥性において捕捉された共通の生に関する鋭敏な意識の表現なのである。そして確実なことは、この意識が、死においてのように、あるいはまた単なる別離においてもそうであるように、突如として不在が現前にとって代る瞬間以外にこれほど尖鋭に研ぎ澄まされることはないということである。そしてこの場合において慰めとは(つまり神秘家たちが「精神の悦び」と名づける際にこの語が持つ強い意味における慰めとは)、ある意味でそれが持続できないという事実に苦々しく結びつけられている」

 「供犠という消費」では、著者は次のように述べています。

「一般的に言って死の持つ力が、供犠の意味を明らかにしてくれる。供犠はある失われた価値をその価値の放棄という手段によって復原するという点で、死と同じように作用するのである。ただし供犠にはいつも必ず死が結びついているというわけではなく、最も荘厳な供犠が流血の行為を伴わないこともありえる。犠牲として捧げるということは殺すことではなく、放棄することであり、贈与することである。殺害するという行為は、ただある深い意味を提示する行為以外のなにものでもないのである」

 「祝祭」では、著者は以下のように述べています。

「祝祭を原初的に創始する運動は、根本的な人間性のうちに与えられているけれども、この運動が再噴出の横溢状態に達するのは、ただ供犠という不安に充ちた集中化作用がそれを奔騰させるときにのみである。祝祭が集合させる人々は、感染し、波及する力を持つ捧物の消費(つまりそれが共同的合一である)によって、ある燃焼状態へと開かれる。とはいってもその燃焼は、逆方向のある種の知恵によって制限されているのである。祝祭の内に炸裂するのは破壊への熱望であるけれども、保守的に作用する知恵がそれを整序し、制限するのである。一方では消尽のあらゆる可能性がとり集められる。舞踊、詩、音楽そしてさまざまな伎芸が繰り拡げられるおかげで、祝祭は目を奪う劇的な昂揚と奔騰の場となり、また時間となる」

 「祝祭の限界づけ、祝祭が有用なものであるとする解釈および集団の定置」では、著者は以下のように述べています。

「祝祭は人間の生の融合状態である。事物にとっても個体にとっても、それは諸々の判明な区切りが内奥生命の強烈な熱によって溶解する坩堝である。しかし祝祭において生じる内奥性は結局のところ解消されてしまい、その儀礼に関り、活動する全てのものが現実的に、かつ個体として定置されることへと帰着するのである。ある現実的な共同性を目ざして、1個の事物のように与えられた社会的事象を目ざして――後に来るはずの時間を目がけた共同の操作のために――、祝祭は限界づけられるのである。つまり祝祭はそれ自身、有用な仕事や労働の成果の連鎖の内へその環のひとつとして取り込まれるのである」
「いずれにせよ積極的には豊穣を希求することにおいて、消極的には贖罪を願うことにおいて、まず事物として――つまり決定的な個別化と、持続を目ざした共同の仕事という意味で事物として――共同性が祝祭のうちに出現する。祝祭は内在性への真の回帰ではなくて、諸々の両立不能な必要性の間の和解、友情に溢れた、しかし不安に充ちた和解なのである」

 「解題――――バタイユにおける〈至高な自己認識〉」では、東京大学教授(フランス思想・文学)の湯浅博雄氏は以下のように述べています。

「第一部の扱う主題は、きわめて概略的に言うと〈宗教の誕生するプロセス〉の解明であると考えられるだろう。そして先回りして付け加えておくと、誕生した宗教が労働や操作、理性に基づく現実的な〈事物たちの世界〉に対し、その世界が生産する〈富〉の過剰を〈消尽〉することによって優位保っていた段階までの記述である。しかしやがて宗教は、生産に役立たぬ破壊である〈消尽〉を否定する理性が定める限界内へとおさめられていくことになるだろう」

 続いて、湯浅氏は次のように述べます。

「もちろんここで言う宗教とは、現代のわれわれが知見しうるようなキリスト教、仏教、イスラム教などという諸種の教派・教団・教義などのことではなく、〈宗教的なもの〉としてそれらに共通する普遍的な核心を指しているのであり、だから今日南太平洋の諸島や南米・アフリカの奥地などにわずかに残存している未開人たちの原始的な信仰まで包括した上で、それらに通底する本質として取り出せるようなものを意味している。その場合バタイユはデュルケームやモースにならって、そして1930年代に『社会学研究会』を組織した友人であるカイヨワ、レリスなどと同じように、〈宗教的なもの〉の本質をなす核を〈聖なるもの〉と呼んでいる。したがって宗教の誕生するプロセスは、言いかえれば〈聖なるもの〉の生成する――あるいは〈聖なる〉感情が生じるプロセスとも言えるであろう」

 それでは、バタイユにとっての〈聖なるもの〉とは何なのか。湯浅氏は述べます。

「ここで見た〈聖なるもの〉は、聖なるものではけっしてなく、力とエネルギーとしての聖性である。なぜ聖性が発生し、比類のない、逆らいがたい力となり、エネルギーとなるかという本質論である(実のところ、俗なるものの領域が画定されるのと同様に、聖なるものの範囲や圏域もなかば事物のように定められていくのは避けがたいと思われる)。このような聖性の顕現は、直接的・即時的な力の発現であり、その強烈なエネルギーは〈個体〉を解消するところまで突き進もうとするだろう。生物学的な個体、身体的な個体が消滅しないまま(持続を保ったまま)、〈聖性〉に一時的に、あるいは近似的に到達するためには、ある種のスペクタクルとか演劇に頼らなければならない。つまり〈模像=擬態〉が必要となる。それが供犠であると考えられる」

 バタイユにおける「供犠」についても、湯浅氏は以下のように述べます。

「供犠に参入する個人は、不安に戦慄しながら〈聖なる〉感情に貫かれる。まさに死なんとする生贄の動物、つまり突如として客体(もの)の領域から引き剥がされて内奥性へと回帰する運動に投入される犠牲獣と同一化するから、不安と恐怖の内に聖性を感受するのである。〈死〉は現実的な秩序(客体の領域)の最も強力な否定であり、一瞬の内にそのまやかしを暴露する。事物たちの客体としての定置は、その基礎を〈持続〉においている。後に来るはずの時間を目ざして事物は客体として構成される。が、死がそうである持続の不在と瞬間的な内奥の生の奔騰は、そうした事物の秩序の欺瞞を明らかにする。逆説的ではあるが、死は生の偉大な肯定者であり、生をその激烈な内奥性の充溢と奔出の瞬間において捕捉する研ぎ澄まされた意識なのである。『人間が最終的に自分自身の真の姿を自分自身に啓示するためには、人間は死なねばならぬであろう、が、彼はそれを生きつつ――自らが存在するのを止めるのを自ら眺めつつ――実行しなければならないだろう。言いかえれば、死それ自身が、まさにそれが意識的な存在を無へと戻す瞬間そのものにおいて、意識へと(自己意識へと)生成せねばならぬであろう。(・・・・・・)供犠においては、供犠執行者は死に襲われる動物と同一化する。そうやって彼は自ら死ぬのを眺めながら死ぬのだ・・・・・・』」

 そして、バタイユにおける「祝祭」について、湯浅氏は以下のように述べるのでした。

「祝祭においては〈客体たちの秩序〉が混沌と化し、〈禁止〉が破られるため(つまり〈侵犯〉されるため)内奥の生が奔騰し、強烈に聖性が発現するのが感じられる。が、祝祭は最終的には〈事物〉の秩序の要請する限界内へとおさめられることになる。ある現実的な共同体を目ざす仕事、つまり後に来るはずの時間を目標とする共同の操作=作業の有用な連鎖の中へ、その環としてとりこまれるのである。祝祭は本来人間を内奥性の激烈な、聖なる奔出へと回帰させる運動だから、どんな有用な目的とも操作や作業とも無縁なはずだ。しかし祝祭が呼び出す精霊たち(神話的な神々)は、操作を行う能力も属性として持っており、そこから祝祭には豊穣の祈願とか家畜の繁殖を願うような呪術的な操作性が付与されることになる。そうした操作=作業は〈持続〉を前提として含む共同の仕事なのであり、このようにして祝祭の内には共同性が定置されていく。そして逆にこの共同性の定置が、祝祭のもたらす内在性(聖性)に限界を施すのである」

 本書は、いわゆる社会学的宗教起源論です。宗教がいかに生まれ、社会の中でどのように変容していったのかを分析しています。モースをはじめ、ウェーバー、デュルケーム、デュメジル、フレーザー、ブランショ、ロバートソン・スミス、エリアーデなどの著作が参考文献として使われていますが、彼らの業績を踏まえながらも、「供犠」および「祝祭」といったバタイユならではのキーワードを駆使して宗教を論じた名著であると言えるでしょう。

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