No.1131 読書論・読書術 『読書連弾』 渡部昇一・谷沢永一著(大修館書店)

2015.10.11

『読書連弾』渡部昇一・谷沢永一著(大修館書店)を再読しました。
この読書館で紹介した『青春の読書』 の著者と『雑書放蕩記』の著者による「読書」をテーマにした対談本です。
1979年初版ですが、わたしは中学生のときに読んでいます。
ですから、じつに36年ぶりの再読となります。

『読書連弾』の帯

本書の帯には以下のように書かれています。

「本を読むこと集めることに、いずれおとらぬ情熱を傾けてきた二人の読書人が、少年の日の読書の観劇から、古書店とのつきあい方、洋書・和書・古書・新書の魅力までを語り明かした十二時間。本好きの人びとに贈る心弾む書物談義の数々」

『読書連弾』の帯の裏

カバー裏の著者写真(若い!)

本書の「目次」は以下のような構成になっています。

「まえがき」渡部昇一
少年時代の読書
古本とのつきあい
百科事典の効用
アングラ出版の核心
論争の方法
翻訳について
「あとがき」谷沢永一

「まえがき」で渡部氏が本書について次のように書いています。

「国文学の書誌研究にかけては鬼の名のある谷沢永一氏と対談して、それを本にしたらという企画を大修館の藤田侊一郎氏に持ちこまれた時、ありがたいことを言ってくれる人もあるものだと感激して引き受けた。恩師佐藤順太先生を喪ってからすでに久しいが、谷沢氏のお話をうかがう機会があれば、佐藤先生から与えられたような至福の時間をまた持てるだろうと思ったからである。そしてこの期待は裏切られなかった。本についてこのような人の話をうかがったのは何年ぶりのことだったろうか」

全編とにかく稀代の本好きである二人が本の話をするわけですから、楽しく対談しているというポジティブな気が読者にも伝わってきます。
特に「ほしい本はむこうからやってくる」というくだりが興味深かったです。
渡部氏が「ほしい本というのは、意外なものでも、その内見つかるという不思議なことに気が付きましたね」と言えば、谷沢氏も「向こうから飛び込んで来てくれる。偶然入った本屋さんの、一番近い棚にポンと入ってるなんてね」と言います。

さらに、二人は以下のような対話を繰り広げます。

谷沢  『アララギ』の大正時初年の「赤光批評号」というのが1冊だけ30円で昭和24年に百貨店の即売会に出たことがありました。これを見つけたのが病みつきでしたね。こんなもの手に入れるのは絶望的だと、もう頭から期待しておりませんでしたけれど、本当にそれが目の前に出てきた時は運命を感じましたね。だから、どうしてもほしいと思い込んで待っておれば、かなりの本はむこうからくるんだろうと思います。

渡部  首相になったディズレリのお父さんは一生何もしないで古本屋で立読みした人なんですよ。立ち読みやってはおもしろいことを書きぬいた。Curiosities of Literature 文学綺談ですね。これは3巻ものなんですよ。学生時代にこんなのは日本で見つからないだろうと思ったら、結局バラバラで3巻とも見つかったね。これはやっぱり『探せよ、さらば見出されん』という実感でした。エディションがみんな違うんですからデコボコでね。どうしてバラバラになったのか、そしてどうして3つともあったのか。そんな経験があると、何でも見つかるなと思う。

さまざまな本を紹介

わたしは、この対話を読んで、非常に感銘を受けました。ネットの古書サイトで何でも簡単に見つかる時代ではないのです。今では想像もつかないような努力をして本を探していた時代です。本当に本を愛している人間にもとには本の方からやって来るという話には胸が熱くなります。ちなみに、わたし自身も「ほしい本はむこうからやってくる」という経験を何度もしています。

「よい百科事典ほど便利なものはない」という渡部氏の話も良かったです。

「百科事典なんですけどね。例えば、部落の問題について、喜田貞吉さんなんかの本を見ると、古い文献が引用してありますね。なるほど、やはり素人ではこういう研究は書けないなと思ったことがあった。たまたま遅ればせながら『古事類苑』を見たところが喜田さんが引いてるような本は全部原典で出ているわけですね。この時に『古事類苑』を見て以来、ぼくはどんなテーマでも望みとあらば書いてみせるわ、という感じになったんですよ。前にそれに似たようなことは、谷沢さんもご指摘になりましたが、蘇峰の『近世日本国民史』でも感じたことありました。『古事類苑』を見ましたら、まあ書けないものはない。あれだけもうみな原典のまま出てるんだから、引用しても嘘にならないし、知識の宝庫として百科事典というのは物を書く人にとっても、単に知らないことを調べるんじゃなくてスプリングボードになるんじゃないかなと考えたことありました。それから『広文庫』―あれはほとんどぼくらの同世代の人は知らない本でした。ぼくはたまたま田舎の中学の図書委員やってたときに、武器庫に重ねてあったのを整理したもんで、いろんな奇妙な本にぶつかったんです。例えば巌谷小波の『大語園』とか、今の『広文庫』とか。パラパラ読みしてもおもしろいんですよ。後に古本屋に出たときに両方とも買ったんです。古い百科事典というとみなバカにするし、百科事典的知識というのは今は恥ですね。ところが、案外知られてないけれどもいい百科事典というのは大変便利です。ただ、百科事典というのは、素朴進化論的に新しければいいものだという迷信が一般になっているんですね。百科事典は見直す必要があるんじゃないかな」

気楽亭の『群書類従』の書棚

気楽亭『近世日本国民史』の書棚

わたしは36年前にこの渡部氏の発言を読んでから『古事類苑』『広文庫』が欲しくてたまらなくなりました。当時はまだ中学生でしたが、「将来は作家になってやろう」と心に決めていましたので、そのとき必要な本であると思ったのです。高校生になってからは、夏休みや冬休みのたびに東京に出かけ、神保町に入り浸って、とにかく本を買いまくりました。これは父親公認で、『古事類苑』『広文庫』『大語園』をはじめ、『国史大系』、塙保己一の『群書類従』、吉田東伍の『大日本地名辞書』、諸 轍次の『大漢和辞典』、それに『明治文化全集』などの高価な本をとにかくたくさん買いました。渡部氏の『知的生活の方法』で知った徳富蘇峰の『近世日本国民史』も100巻全部買いました。今から振り返っても、よく買いまくったものです。

わが実家の書庫「気楽亭」のようす

田舎の高校生が何度も訪れて、高価な本を大量に買い込むものですから、店主にも顔を覚えられるわけです。その頃、神保町でも一、二の格式を誇る某古書店の店主から、「本を選ぶ目を見ていると、あなたはただ者ではない。きっと、将来は偉い人になりますよ」と言われたのが嬉しく、今でもよく憶えています(笑)。大学進学で東京暮らしが始まると、古本屋でほしい本をみつけては購入し、実家に送っていました。今から思うと、父には相当な散在をかけてしまいました。でも、それらの本はすべて、わたしのブログ記事「実家の書庫」で紹介した気楽亭に収められています。

気楽亭『古事類苑』の書棚

気楽亭の『国史大系』と『広文庫』の書棚

ちなみに『古事類苑』とは、明治政府により編纂が始められた類書(一種の百科事典)です。明治29年から大正3年(1896-1914)に刊行されました。古代から慶応3年(1867)までの様々な文献から引用した例証を分野別に編纂しており、日本史研究の基礎資料とされています。日本最大にして唯一の「官撰百科事典」でもあります。
一方、『広文庫』は日本の明治時代前の文献からの引用文を集大成した類書で、物集高見によって大正時代に完成しました。文献の引用文を集大成している点は先行する『古事類苑』と共通します。分野別に編纂されている『古事類苑』に対して、五十音順に編纂されている点、また、国学者・物集高見個人の編纂物である点が特徴だと言えるでしょう。編纂には17年を要し、大正5年から7年(1916-1918)に広文庫刊行会から全20冊で刊行されました。渡部氏は『古事類苑』『広文庫』の素晴らしさを力説したわけですが、それに対して谷沢氏は次のように意外なことを言います。以下の対話を紹介します。

谷沢  『古事類苑』『広文庫』の悪口を言っているのが柳田国男ですね。大正期に言っているんです。ああいう無目的な資料の配列はだめだと。実は若いときに、それを先に読んでしまったので。つまり大正期からそういう考え方が出て来て、柳田国男さんという人は弟子には資料収集をさせて、弟子が論理をつくることは抑制して、そしてそのいいところは全部自分が柳田理論として作ってしまう。それだけが学問だという信念で、実際、いろんな点で資料収集というものの悪口は何遍か書いてます。ぼく若かったもんですから、ついそんなもんかいなと思ってしまった。

渡部  私も大学在学中も、それ以後も『古事類苑』を教えてくれる人には1人も逢わなかった。結局知るようになったものの、誰もほめる人がなかった。今価値が認められて再版も出てますが。やっぱり昔流の国学者の集め方というのは素朴なものですが、それだけに使い道はあるんでしょう。『広文庫』を書くときは物集さんはあの引用した本全部集めたんですね。
さらに渡部氏は『広文庫』について以下のように語っています。

「江戸時代なんかは何で調べたのかな。国学者はとても博学だと言われていますね。聞きに行っても教えてくれないんだって。それでお金を包むとすっと調べてくれるんだということを聞いたことがあります。物集さんが誰かに聞かれたとき、それをいちいち私に頼んで調べてもらうんじゃなくて、引けば出るのがあればいいんじゃないかということで『広文庫』を親子で作ったということも聞いたことがあります」

本書で語られているのは日本の事典の魅力だけではありません。
渡部氏といえば、ブリタニカ百科事典のすべてのエディションを所持されていることで有名ですが、そのブリタニカの凄みを以下のように語ります。

「戦後、うちの中学にあったブリタニカは、おそらく14版だったと思うんですが、それを見て、ブリッジというものを西洋人はやるそうだ、ブリッジのクラブを作ろうじゃないかということになった。ブリッジのルールなんかないので、英語力のあるやつが『ブリタニカ』の『ブリッジ』の項を読んで、コントラクト・ブリッジを勉強してルールを作って、ブリッジクラブを作ったですよ。それでオークション・ブリッジができないやつは英語クラブ会員じゃないとか言ってね。ぼくなんか卒業したらブリッジはやらなくなったんだけど、ブリッジをし続けて国際ブリッジのメンバーになってるやつもいるしね。ブリッジやろうと思えばブリッジができるし、鉄橋建てようと思うと鉄橋が建つぐらい書いてあるんですよ、よき時代の『ブリタニカ』というのは、第3版の『盲目(ブラインド)』なんて項目は、すごいですよ。盲目の人間が、詩の文学がどうしてわかるかなんてテーマを立てて、盲目の詩人に何ページも書かせてるわけです。それは後の版から見れば、ばからしいと削られて今ないです」

実家の応接間にある各種のブリタニカ

ブリタニカはとにかく凄い百科事典で、たとえば「ポピュレーション」というところを引くと、マルサスが書いていました。そこを引くとマルサスの『人口論』を読まなくても全部書いているのです。しかも1ページや2ページなどではなく、長大な論文です。それからジェームズ・ミルなども書いています。科学者でも当時の一流の学者が書いており、そいう論文の集合体がブリタニカだったわけです。
渡部氏の一連の著書によってブリタニカの魅力を知ったわたしは、これも神田の古書店で買い漁りました。初版のレプリカをはじめ、9版、12版などを購入しましたが、これらは今、実家の応接間の書棚に鎮座しています。

さまざまな本を紹介

本書での渡部氏はまことに楽しそうに本について語っていますが、それも谷沢永一という理想の対談相手を得たからでしょう。
「まえがき」の最後で、渡部氏は次のように述べています。

「ここに収録されたのはその時の話のすべてではない。テープレコーダーがとまってからも、仕事(?)がおわったという解放感のゆえか、面白い話がいろいろあった。筆をとった時は、人に触れれば人を斬り、馬に触れれば馬を斬る、という恐ろしげな谷沢氏も、個人的にはまことに温厚柔和な紳士であった。ジェントルマンというのは柔和(ジェントル)だからそう言われるのに違いないと思い込んだのは佐藤先生を最初に知るようになった時であったが、今回、同じような個人的特徴を谷沢氏に見出したことは嬉しい驚きであった」

『永遠の知的生活』(実業之日本社)

本書の対談から35年後、わたしは渡部昇一氏と対談させていただく機会に恵まれました。しかも「読書」や「知的生活」がテーマという夢のような時間でした。その内容は『永遠の知的生活』(実業之日本社)として刊行されましたが、そのときの対談で胸を貸して下さった渡部氏はまさに温厚柔和な紳士、ジェントルマンそのものでした。

『読書連弾』『読書有朋』

本書刊行の2年後の1981年、渡部氏と谷沢氏は読書対談の第二弾となる『読書有朋』(大修館書店)を上梓しました。ちなみに『読書連弾』の装丁は赤で、『読書有朋』の装丁は青。わたしは「赤本」「青本」と称していました。後年、拙著『孔子とドラッカー』『龍馬とカエサル』が三五館から刊行されたとき、それぞれの装丁が赤と青でした。読者から「一条本の赤本、青本」などと呼ばれているのを知り、わたしは「ああ、『読書連弾』『読書有朋』と同じだなあ」と感慨深かったものでした。その後、1990年に2冊は合本新装版である『読書談義』(大修館書店)に収められました。

2冊を合本した『読書談義』

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