No.1130 評伝・自伝 | 読書論・読書術 『雑書放蕩記』 谷沢永一著(新潮社)

2015.10.10

 『雑書放蕩記』谷沢永一著(新潮社)を再読しました。
 著者は、1929年大阪府大阪市生まれの文芸評論家、書誌学者です。
 関西大学名誉教授で、専門は日本文学(近代)でした。惜しくも2011年3月8日に逝去されましたが、本書は1996年の刊行です。内容は、「新潮」の1994年4月号から96年8月号にかけて連載された回想記です。

 著者は、畏友であった渡部昇一氏と多くの共著を残しています。
 この読書館でも紹介した渡部氏の『青春の読書』について、わたしは「『読書の思い出』を綴った本としては、本書は最高峰であると思います。他に比べるべき本があるとすれば、著者の盟友であった谷沢永一氏の『雑書放蕩記』ぐらいでしょうか」と書きました。『青春の読書』の中には、谷沢氏との思い出に触れた部分がたくさん登場します。いかに谷沢氏の存在が渡部氏にとって大きなものであったかを痛感しました。

   本書の帯

 本書の帯には以下のように書かれています。

「本は私にすべてのことを教えてくれた―。蒐書六十年、その数二十余万冊、稀有の読書人が熱い心で描く感動の読書自伝。」「新潮社創立100年」

   本書の帯の裏

 また帯の裏には、以下のように書かれています。

「戦中戦後の混乱期にあって、家にいれば読書、外に出れば古本屋巡り・・・・・・。小学二年生の時の最初の一冊『プルターク英雄伝』から、大学院生時代に感銘を受けた内藤湖南『先哲の学問』まで、39冊の思い出の書を通し、若き日の読書遍歴を回想」

 本書の「目次」および取り上げられている本は以下の通りです。

 1.最初の一冊
   ―『プルターク英雄伝』
 2.夜店と古本屋
   ―『茶話全集』『湖畔吟』
 3.心躍りの筋道
   ―『伊藤痴遊全集』『813』
 4.円本
   ―『大佛次郎集』『三銃士』
 5.天王寺中学
   ―『マノン・レスコオ』『田園の憂鬱』
 6.劣等生暮し
   ―『家族、私有財産及び国家の起源』『古寺巡礼』
 7.回覧雑誌
   ―『文藝五十年史』『ジョゼフ・フーシェ』
 8.天井裏の我が世界
  ―『支那思想と日本』『ヂュリヤス・シーザー』
 9.見切りの端本
   ―『第二貧乏物語』『戦争と平和』
10.生涯の師と終生の友
   ―『日本資本主義論争』『随想録』
11.文藝評論畏るべし
   ―『危険な関係』『作家の態度』
12.関西大学自治会委員長
   ―『小説の美学』『島崎藤村』
13.大阪学生文藝部連盟
   ―『斎藤茂吉ノオト』『小説の方法』
14.脳中の書
   ―『ラ・ロシュフコオ箴言録』『現代日本文学辞典』
15.『えんぴつ』時代
   ―『不安と再建』『西行』
16.他に見出し難し
   ―『童子問』『奢侈と資本主義』
17.ヴァレリイ熱
   ―『レオナルド・ダ・ヴィンチ論考』『幻影城』
18.しんどがりの大学院生
   ―『南の風』『世阿弥十六部集評釈』
19.身の振り方
   ―『女の学校』『蜂の寓話』
20.助手二任ズル
   ―『仁斎日記抄』『先哲の学問』
「さてもそののち―後記に代えて」

 本書は著者の幼少時代からの読書経験を自伝化した内容となっています。
 小学1年生の2学期、晴れて級長となった著者は、教師の指名で「前に出て、何か知っている話を聞かせよ、まず級長からはじめるべし」と言われて教室の前に出たのはいいものの、意識は空白でした。谷沢永一少年はこの歳まで本を読んだことがなく、ゆえに話の筋というものが頭のどこにもなかったので、話をすることができなかったのです。最後は泣き出し、両手で顔をおおってしまいました。

 帰宅した永一少年は、母親にこの日の悲しい出来事を正直に話しました。すると、その日の夕食後、母は「これから毎月、雑誌と書籍を月に1冊ずつ買うたげる。どの本が欲しいか自分で探しなはれ。1冊ずつやで」と言いました。こうして、著者は生まれて初めて、書物の世界へ推参することになったのです。この年の12月上旬、著者は祖父につれられて書店へ行き、ちょうど晴れ晴れしく刊行をうたっていた「講談社の絵本」の第1回刊行(昭和11年12月1日)の全部、『乃木大将』『岩見重太郎』『四十七士』『漫画傑作集』の4冊を買ってもらいました。定価は1冊35銭、市電の片道運賃が当時6銭でした。それから56年後、懐旧の情にかられた著者が「講談社の絵本」を古書店の販売目録で求めたところ、なんと1冊が2万円だったそうです。この4冊の絵本こそ谷沢家に入った記念すべき最初の書籍であり、永一少年が耽読したのは言うまでもありません。

 そして、永一少年が自分の意志で購入した最初の本は、澤田健の『プルターク英雄伝』(昭和11年9月10日・大日本雄弁会講談社、『少年プリューターク英雄伝』〈昭和5年3月18日〉の改版)でした。小学2年生になった頃でしたが、本文436頁のきっちりと堅牢な丸背の造本で、定価1円50銭でした。注文した書店に何度も「まだ来ていませんか」と聞きに行ったという著者は、この『プルターク英雄伝』について次のように書いています。

「なにしろはじめての我が蔵書である。丸かじりの意気ごみで私はとりくんだ。この歳ごろは誰でも記憶力がよいから、自然にほとんどそらんじる。ギリシャとローマの世界に一方的ながら何人かの知人ができた。知人というより親戚にちかい。家族についでもっとも身ぢかなひとびとである」

 本書には、他にも多くの著者が出合った本の魅力が語られています。
 たとえば、小学3年生のときに遭遇した『伊藤痴遊全集』です。
 伊藤痴遊は夏目漱石と同じ慶応3年の生まれ、はじめ自由党の壮士、のち政友会に属して衆議院議員もつとめました。明治17年頃から「政治講談」として、幕末明治の英雄たちの銘々伝を自作自演、全国いたるところに足をのばしました。
 そこで採りあげた人物は、西郷南洲、木戸孝充、大久保利通、乃木希典、佐久間象山、吉田松陰、高杉晋作、伊藤博文、井上馨、星亨、坂本龍馬、中岡慎太郎、山県有朋、板垣退助といった面々で、そのほか快傑伝とか豪傑伝とかの短篇集にまじった人物本位の幕末明治史でした。

 著者は、この『伊藤痴遊全集』について次のように書いています。

「のち司馬遼太郎が仕事をはじめるまで、この分野は伊藤痴遊の独壇場であった。大型の人物たちが全国にわたって活躍する曼荼羅を、痴遊は半世紀にちかい鋭意努力により、ひとりで着々と織りあげたのである。いくら賞めてもたりぬ壮観であった。明快で調子の高い話術に誘われながら、彼の全集2万余頁を読みたどるなら、近代の成立期を導く歴史の脈拍が、否応なく読者の胸奥に伝わる。さらに進んで勉強したいと思うときに備えて、歴史の枠組みと網の目が、おのずから脳裡に形成される。面白くて素晴らしい入門書であった。西郷隆盛も坂本龍馬も、私にとっては伯父さん叔父さんくらいの近い距離となり、その運命の転変に一喜一憂させられる。横浜の富貴楼のお倉や東京の喜楽の女将や大浦のお慶さんやも登場する。いろどり華やか硬軟とりどりの人間模様がくりひろげられる。こうして足場の絶好な展望台を与えられ、私は歴史の森にさまよいこみ、その逍遥を心から楽しんでいた」

 また小学4年生のときには、探偵小説に遭遇しました。夜店で見つけた『813』(昭和5年1月15日・平凡社)を見切り値で買ったのです。『怪奇探偵ルパン全集』第10巻でした。著者は次のように書いています。

「この本は子供心を直撃し震えおののかせた。途中でやめることができない。夕食に呼ばれているのが怨めしいほどである。『怪人二十面相』の種本であることはすぐわかった。とすれば、いま自分は本物に突きあたっているのだ。子供の世界のそのずっとむこうに、大人の世界が広がっているとは感知しているが、そこへ知らぬ間に参入しているらしいのである」

 さらに、著者は『813』について書いています。

「私は自尊心をくすぐられたのかもしれない。つまり本気で読んでいる。ゆえにだんだんと怖くなってきた。五体をこわばらせて本にしがみつく。すでにして夜である。スタンドの光りがおよばぬところには、魑魅魍魎の類いがひそむ気配もある。全身がすくんで動けない。体を前にかがませる。うしろをふりかえることもできない。手足が固くちぢかんでいる。そこまではまだよかったのだが、おしっこがしたくなったのには弱った。便所がこわいのである。とてものこと行く気になれない。向う側まで畳を踏んでいって障子をあけて濡れ縁に出てそこを曲って便所へ向う、そのあいだに、何が待ち伏せしているかしれないではないか。私はぎりぎりまで我慢した。とうとうたまりかねて立ちあがったとき、脚が震えて膝はがくがくである。あの夜の恐怖より以上にこわかったことはその後いちどもない」

 中学生になった著者は、勤労動員で工場に通いながら読書を続けます。
 昭和13年11月、岩波新書(のち赤版と追称)が創刊されます。日本における出版の歴史において、廉価版という形式に権威を保持させた稀有の成功でした。新刊書店にとっても歓迎すべき売れ筋の常備品となりましたが、著者が最初に買ったのは津田左右吉の『支那思想と日本』(昭和13年11月12日)でした。この本について、著者は以下のように書いています。

「覗き見たところ行文が解り易そうであるし、標題にも訴えてくる懐かしみあったゆえなのだが、僅か200頁のこの瀟洒な一冊が私の胸中に爆弾を破裂させた。世間一般に通り相場で横行し、謳い文句になっている謂わゆる常識が、遠慮会釈なくこてんぱんにやっつけられている。その激烈な破壊力には情け容赦がない。毅然として信じるところを説き進める著者の態度が颯爽としている。気後れもなく右顧左眄もなく言い澱みがない。天地の間に自分ひとりを置いて余念なく語っている。世間に嫌われはせぬかなどと心配していない。剛直である。蹶然として立つの気概である。講談や浪花節の語法で言うなら、まさに、男のなかの男、であろうか」

 昭和30年11月18日、著者は関西大学の学長室に出頭して「助手二任ズル、文学部勤務ヲ命ジル」という辞令を受けます。ここから長い著者の学者生活が始まるわけですが、その直前に東洋文化史の巨人である内藤湖南の『先哲の学問』に遭遇します。ここには、学者としての理想が描かれていました。著者は次のように書いています。

「『先哲の学問』は湖南一代の湖南流儀による沈潜が凝縮された未曾有の傑作であるが、なかでも私を震撼させた雄篇は『大阪の町人学者富永仲基』である。思想および歴史を読み解くために心得とすべき方法のすべてが富永仲基によって洞察されているのに心底から驚き、更にはその勘所を平明に徹して解説する湖南の把握と要約の腕前に敬服した。世にはそれを読むと読まぬとでは以後の思考態度に雲泥の差を生じさせる恐るべき書物が僅かながら存在すると思われるが、富永仲基は蓋しその最たる絶品ではないだろうか」

 富永仲基(とみながなかもと)とは、江戸時代大坂の町人学者、思想史家です。懐徳堂の学風である合理主義・無鬼神論の立場に立ち、神道・仏教・儒教を批判しました。彼の学問は、思想の展開と歴史・言語・民俗との関連に注目した独創的なものといわれています。わたし(一条)自身の立場は、神道・仏教・儒教こそは日本人の「こころの三本柱」であり、三宗教の共生こそが「和」のシンボルであると思っていますので、それらを片端から批判する仲基の考えには共感できません。しかしながら、万巻の書を読んだ内藤湖南や谷沢永一のような読書人がここまで高く評価するということは、やはり只者ではないのでしょう。いつか、わたしも仲基を読んでみたいと思います。

 著者は続けて、以下のように富永仲基について熱く述べます。

「以後の私はすべての場合に仲基の樹てた法則を念頭において書物に接するを常としたが、未だ嘗て仲基の方法を当て嵌めるのに適しないと頭を打って困惑した例はない。湖南は至って控え目に『恐らく日本が生み出した第一流の天才の一人であると言っても差支えないと思ふのであります』と述べているが、私の見る限り仲基に匹敵する透徹した考察を成し遂げた偉材は何処の国にも見当たらぬのであるから、こと思想分析方法の洞察においては、仲基を以て世界的に空前絶後の存在と評価すべきではなかろうか。書物を読んで何事かを教えられるのは嬉しく楽しい。しかし読書の功徳にはあらゆる場合には或る程度の限界がある。それに対して世にある一切の文献を読み解くための根本的な考え方を授与される有難さには感謝の言葉もない。私は富永仲基の項を繰り返し読んで頭に入れ、あのあと思わず『先哲の学問』一巻を押し戴いたものである」

 さて、稀代の読書人であった著者ですが、2011年3月8日に逝去しました。
 つまり、東日本大震災発生の3日前に亡くなったことになります。当然ながら未曾有の大災害を知らないまま鬼籍に入ったわけですが、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の被害は大いに受けました。幸いに著者の家は改築の直後だったので、家屋の損傷は免れましたが、書庫の災害は無惨でした。二階の最も古い部分は書棚がすべて将棋倒しになり、本はすべて吐き出されて散乱しました。

 そのことを同年1月28日の「産経新聞」に書いたところ、直ちに司馬遼太郎から以下のような指示が与えられたそうです。

「書庫が大混乱した、ということを、右の夕刊で知りました、谷澤さんにとって、いのちを掻きまわされたようなものでしょう。あらかたひとに整理を頼もうとも、ご自身が、一冊のこらず手にとって衆星の居るべき場所に収めねば、どうにもならないでしょう。これは体を痛めると思いました。寒中です。谷澤さんの精神さえゆるせば、いったんは他の人々に容れてもらって、掃除をしてもらって、春到来とともに気永になさればどうでしょう。そのことのみ、気にかかります。体がこわばり、血液が循環しにくくなると、ろくなことはありません」
著者は、このアドバイスに深く感謝し、その指示通りにしたそうです。

 いったい、著者はどれぐらい本を持っていたのでしょうか。阪神・淡路大震災で書庫が復元不可能となったとき、次のように書いています。

「ここは潔く諦めをつけるべきである、と私は心を決めた。50坪強の書庫、少なく見ておよそ13万冊、それを元の如く復元するのはおよそ不可能である。或る本が書庫のどこかにある筈だ、というていたらくでは持っていないに等しい。蔵書のイノチは分類である。すべての整頓が所詮はできないとすれば、自分で秩序立て整理できる程度に減量するしかないであろう。すでにして私は65歳である。今後にあるいは為し得るかも知れぬ仕事の範囲と分野についても地道に考えるべきである。思案の落ちゆく先はただひとつ、蔵書の縮小である。大学へ納める予定の若干を残して、他は古書業界の大海へ一挙に放出しよう」

   わが書斎の谷沢永一コーナー

 50坪強の書庫! 13万冊の蔵書! これだけ聞いただけでも仰天しますが、さらに著者は「新潮」「中央公論」「文藝春秋」などの雑誌も創刊号からすべて所蔵していたそうです。「新潮」は新潮社に寄贈し、「中央公論」は古書店に放出、そして「文藝春秋」だけは資料として手許に残したというのですから、そのスケールの巨大さには感服するばかりです。
「さてもそののち―後記に代えて」では、著者は次のように書いています。

「これまで私が買い求めた本と雑誌は20万冊を越えるであろう。しかし残念ながら、私が蔵書家である時代は過ぎた。既にして66歳である。今後なお或いは為し得るかも知れない仕事にそなえて、手許に遺した愛惜の書をいつくしんでゆこう」

   まさに「読書の達人」でした

 小学1年生でまったく読書の経験がなくてお話ができずに泣き出した少年は、講談社の絵本や『プルターク英雄伝』を買ってもらって耽読します。それから数十年後に日本を代表する蔵書家となった著者の人生はまさに大河小説のようでした。著者は足しげく新刊書店や古書店を回って、一冊づつ蔵書を建設していきましたが、今やアマゾンで気軽に新刊書はもちろん古書も買える時代です。それでも、実際に書店で出合った書籍との縁、そしてその出合いを大切にする心が稀代の読書人を育てたのだと思います。
 本書を読んで、わたしも久々に古書店に行きたくなりました。

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