No.1125 グリーフケア | プロレス・格闘技・武道 『2009年6月13日からの三沢光晴』 長谷川晶一著(主婦の友社)

2015.09.28

 『2009年6月13日からの三沢光晴』長谷川晶一著(主婦の友社)を読みました。
 ノアのエースであったプロレスラー・三沢光晴が絶命したあの日、「リング上で何が起きたのか?」を7回忌を節目に振り返るノンフィクションです。著者は1970年東京生まれのノンフィクションライターで、主に野球を中心としたスポーツ関連の作品を書いています。

   本書の帯

 表紙には戦う三沢選手の雄姿の写真が使われています。
 帯には「三沢光晴が最後に残したメッセージ『答えは自分で見つけろ』あの日のこと、あの日からのこと・・・・・・関係者20人の証言を元にした渾身のノンフィクション」と書かれています。

   本書の帯の裏

 アマゾンの内容紹介には以下のように書かれています。

「稀代の名レスラー・三沢光晴がリング上の事故で命を落とした2009年6月13日。当日、会場にいた選手、マスコミ、そして治療にあたった医師の証言から、あの日起こった出来事の真相に迫る。死因は即死とも思われる頸髄離断だったが、ICUでは一度心拍が再開していたという。広島大学病院の救命医があの日のICUでのことを初めて明かす。そして最後の対戦相手となった齋藤彰俊は事故から数カ月後、三沢が生前に残したメッセージを受け取っていた。『社長からのメッセージを受け取って、すべて受け止めて現役を続けるという自分の決断は間違っていないと思えました』という齋藤は『答えは自分で見つけろ』という三沢のメッセージを胸に今も歩み続けている。また、小橋建太、潮﨑豪、丸藤正道、鈴木鼓太郎、浅子覚、西永秀一ら深い関係を持つ人物たちにとって2009年6月13日からの三沢光晴はどう息づいているのか?」

 本書の「目次」は以下のようになっています。

序章  三沢光晴からの電話
第一部 2009年6月13日の三沢光晴
第一章 午後3時、会場入り
第二章 午後8時43分、バックドロップ
第三章 午後10時10分 最期の瞬間
第四章 翌朝7時、齋藤彰俊の決断
第五章 それぞれの6月14日
第二部 第一部 2009年6月13日からの三沢光晴
第六章 2015年、春―あれから6年
第七章 レスラーたちの「それから」
第八章 三沢光晴からの伝言
 終章  オレのマブダチ
「あとがき」

  本書は20人もの人々に取材して書かれています。
 しかしながら、やはり最も印象深いのは三沢選手が命を落とすきっかけとなったバックドロップを放った齋藤彰俊選手の発言です。特に、三沢の遺体が安置されている霊安室に入ったときの描写は胸を打ちました。第四章「第四章 翌朝7時、齋藤彰俊の決断」に以下のように書かれています。

  霊安室に入ると、すぐに三沢夫人に頭を下げた。
 「自分が、最後に三沢さんを投げた齋藤彰俊です。本当に申し訳ありませんでした」
 三沢夫人が静かに答える。
 「いや、そうじゃないから・・・・・・。決してあなたのせいではないから・・・・・・」
 なおも齋藤は頭を下げる。
 「本当に、本当に申し訳ありません・・・・・・、申し訳ありません・・・・・・」
 言葉にならない声で齋藤が絞り出す。三沢夫人は諭すように続ける。
 「決してあなたのせいではないので、気になさらないで下さい。これから大変だと思うけど、ぜひあなたも頑張って・・・・・・」
 夫の死に直面してもなお気丈に振舞い、対戦相手である自分を気遣う姿を見て、齋藤の涙は止まらなかった―。
 (『2009年6月13日からの三沢光晴』p.116~117)

  それ以来、毎朝お経を唱えて拝んでいるという齋藤は著者の取材に対して、次のように語っています。

「あの日から、自分の人生は激変しました。その間、ずっと悩んできました。でも、6年が経つ現在、ようやく立ち止まってはいけないというのか、前進しなければいけないという思いが少しずつ芽生えてきたように思います。この6年間、自分自身を出さないというか、自分のオーラを消すというか、人よりも一歩引いている感覚でした。でも、最近になってようやく、”三沢社長はそれを求めているのだろうか?”と思えるようになりました。そして、やっと我を出すというのか、プロレスラーとしてもう少し自分を出すことに迷いがなくなってきました」

 多くの人々は、あの日に起こったことは「技のミス」「受け身の失敗」などと思っていました。しかし、あの日のバックドロップを唯一撮影した「週刊プロレス」の落合史生カメラマンの写真によって、技や受け身の失敗による事故ではないということが明らかになったのです。技をかけた齋藤選手にはまったく過失はありませんでした。

 第八章「三沢光晴からの伝言」で、著者は次のように書いています。

「齋藤には落ち度も過失もなく、丸藤正道が『交通事故としか思えない』と語る不幸な出来事で三沢は亡くなった。これが『真実』だった。しかし、齋藤の放ったバックドロップを最後に三沢は立てなくなった。これが『現実』だった。
 真実と現実は違う。それでも、その現実が齋藤を苦しめていた。
心ないファンからは『人殺し』という容赦のない罵声が飛んだ。自宅や家族への嫌がらせも相次いだ。ある格闘家は『技をかける際に齋藤がミスをした』と口走った」

 齋藤選手の背中には死神のタトゥーが刻み込まれています。
 三沢選手が亡くなり、そのときのタッグ・パートナーであったバイソン選手も鬼籍に入りました。しかし、このタトゥーを入れたのは両者が亡くなる以前のことでした。齋藤選手は次のように語っています。

「タロットカードの死神の意味は《再生》です。自分がこのタトゥーを入れたのは、常に死神を背負うことによって、いつ首を断たれても悔いのない人生を送りたいという意味です。誰もが最後には命を落とします。現世とお別れをするときに死神に会い、今生の通信簿を手にすると思うんです。死神と会うときこそ自分の総決算なので、だから、悔いなく生きるために、このタトゥーを入れたんです」

 齋藤選手のタトゥーは、けっして相手を威嚇したり観客に恐怖を与えるためのギミックではありません。それは「メメント・モリ(死を想え)」のサインであり、使命を終えた魂を収穫し、神のもとへ送り届ける収穫者としての死神をイメージしていたのです。そして、齋藤選手が初めて死神と直面した日こそ、6月13日であり、そしてその翌日でした。

 最後に著者は、次のように書いています。

「間違いなく、あの日以降、齋藤の人生は変わった。改めて『6年間』という月日を振り返ってもらった。
 『自分の生き方はずっと変わっていません。kれども、確かにあの日以降、人生は変わりました。すべてが変わりました。自分にとっては消えない過去、そして忘れてはいけない過去となりました。この消えない過去とともに歩み続ける毎日が始まり、背負ったものをどう変えていけるのか、新しい課題が始まりました。この経験を正にするのか負にするのか? それによって、三沢社長の死の意味も変わってくると思います。この経験をプラスに変えることができたら、三沢社長も喜んでくれると思います』」

 そして、齋藤選手は次のように「我が子を轢き殺してしまった親」の例を挙げています。これを読んだときは非常に感銘を受けました。

「世の中には、自分と同じ思いをして苦しんでいる人がいます。たとえば、自分の運転で我が子を轢いてしまった人もいるでしょう。憎しみなど何もなく愛情しかないのに、結果として自分が殺してしまって苦しんでいる。そういう方たちへ、”ともに頑張りましょう”と伝えることもできると思うんです」

 齋藤選手には、ぜひプロレスを通じて、「愛する人を亡くした人」たちの悲しみを軽くするグリーフケアに取り組んでいただきたいと思います。
 亡くなられた三沢光晴選手は、わたしの1つ年長で、享年46歳でした。
 故人の御冥福を心よりお祈りいたします。合掌。

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