No.1083 エッセイ・コラム | 哲学・思想・科学 『正統とは何か』 G・K・チェスタトン著、安西徹雄訳(春秋社)

2015.06.04

 『正統とは何か』G・K・チェスタトン著、安西徹雄訳(春秋社)を読みました。
 1874年にロンドンに生まれ、1936年に逝去した著者による敬虔で辛辣な警句が散りばめられた神学的エッセイです。著者は、イギリスを代表する詩人、随筆家、批評家、作家として活躍しました。推理作家としても有名で、カトリック教会のブラウン神父が遭遇した事件を解明するシリーズが探偵小説の古典として知られています。

   本書の帯

 本書の帯には「ブラウン神父シリーズで知られる鬼才が、傑作『木曜日の男』と同時期に発表したエッセイ。現実を見つめなおすとき、常に読み返されてきた、不朽の名著」「この世の生活を信じなければ、この世の生活を改善することさえ不可能」と書かれています。

   本書の帯の裏

 本書の目次は、以下のようになっています。

「新装版のための序」 西部邁
一  本書以外のあらゆる物のための弁明
二  脳病院からの出発
三  思想の自殺
四  おとぎの国の倫理学
五  世界の旗
六  キリスト教の逆説
七  永遠の革命
八  正統のロマンス
九  権威と冒険
「解題―生涯と作品」 ピーター・ミルワード
「訳者あとがき」

 冒頭の「新装版のための序」で、思想家の西部邁は以下のように書いています。

 「チェスタトンは、ニーチェのことを評して、『ニーチェには、生まれながらの嘲弄の才能があったらしい。哄笑することはできなくても、冷笑することはできたのだ。・・・・・・孤立した傲慢な思考は白痴に終わる。柔かい心を持とうとせぬ者は、ついには柔かい脳を持つことに到りつくのである』といっている。ここでいわれている『柔かい心』とは、伝統に内包されている人類の知恵を洞察せんとする精神の構えのことだ。その構えをかなぐり捨てた現代の知識人には、ニーチェにおいてもそうであったように、『自殺狂の気味』がある。それも当たり前の話で、理性の前提を破壊するということは『思想を破壊する思想』を生み出すことにほかならず、そういう自己破壊のはてに待ち構えているのは自殺のみである」
ニーチェが猛毒を持った「否定」の思想家ならば、チェスタトンは大いなる「肯定」の思想家であることが、本書を読めばわかります。

 また、現代日本を代表する保守思想家である西部氏は「伝統」について次のように述べます。

 「伝統とは何か、それを具体的に語ることは―神仏についてほどではないとはいえ―厄介な作業である。歴史によって運ばれ来たれしもの、つまりトラディションは、具体的には保存さるべきものとしての伝統と、廃棄さるべきものとしての因襲との混交である。それのみならず、トラディションの具体的な現われは、それが用いられる背景や脈絡に応じて、様々に変わりうる。たとえば、挨拶というトラディションは、ある場合には尊ぶべき丁寧さとなるが、ほかの場合には退けるべき慇懃さとなるというふうにである。そうとわかれば伝統の精髄はまずもってそこに示されている精神の形のようなものとして把握されるほかなく、そしてチェスタトンが示したのは、平衡感覚の形としての伝統ということなのであった」

 さらに西部氏はチェスタトンの思想の本質を次のように分析します。

 「『2つの激烈な感情の静かな衝突から中庸を作り出していた』のがキリスト教であると彼はみた。宗教観のことはさておくとして、かかる中庸の知恵の歴史的蓄積が伝統であるという解釈はよくうなずけるものである。その一例としてチェスタトンが挙げたのは『勇気』という道徳である。たしかに、勇気とは激しく生きようとする意志によって率いられるものなのだが、本格的な勇気とは激しい死の決意によって支えられるものでもある。つまり、生き延びるために死に急ぐ、死に急げども生き延びようとする、という逆説のただなかにあるのが勇気という徳なのである」

 この、伝統とは「中庸の知恵の歴史的蓄積」という指摘には心から納得できました。

 チェスタトンの教養はあまりにも深く、見識はあまりにも鋭いです。たとえば、二 「脳病院からの出発」の最後では、「太陽」と「月」のメタファーで神秘主義について述べています。

 「自然界をくまなく探しても、われわれが直接目で見ることのできぬ物は1つしかない。われわれが物を見る光の光源そのものである。真昼の太陽と同じように、神秘主義は、みずからは誇らかに人間の視覚の彼方にありながら、他の一切を明らかに人間の目に示してくれる。論理万能の主知主義は、これにたいして月光と言うことができるだろう。月光のごとく冷やかに実体がない。光は見えても熱がない。それにまた、死の世界から反射されてくるかりそめの光にすぎぬ。ギリシア人は正しかった。アポロを、想像力の神ばかりでなく正気の神ともしたからだ。アポロは、詩の神であるだけでなく、また治癒の守り神でもあったのである。これらのことを言うためには、ドグマとある特定の信仰が必要であるけれども、それについては後で語ることにする。ただ、ともかくも第一に、あらゆる人間は神秘主義によって生き、そしてその神秘主義は空に輝く太陽ときわめて相似た位置にあることだけはまず言っておかねばならない。われわれの意識には、この神秘は一種卓絶した混乱のように映る。煌々と輝きながら昏々として形なく、燦然たる光でありながら同時に黯然たる陰でもあると見える。これにたいして月の円環は、黒板に書いたユークリッドの円環と同様に明快で歴然とし、循環的でありまた必然的である。というのも月は完璧に理性的であるからだ。そして月はいつも狂気の生みの親なのである。古来、狂気を、月の引き起こす病いと言いならわすのは、けだし古人の知恵の伝えるところと言うべきであろう」

 また、三「思想の自殺」では以下のように述べています。

 「もっとも現代的な哲学は、単に狂気の気味があるだけでなく、自殺狂の気味があるということだ。懐疑の専門家は、人間の思考の限界に頭をぶつけ、そして頭はもう割れてしまっているのである。正統派の人びとの警告にしても、進歩派の高言にしても、自由思想の危険なきざしなどを論じているかぎり、まったく間が抜けてしまうのはこのためである。今日われわれの目にしているのは、自由思想の成長期であるどころか、実は自由思想の老年期であり、最後の崩壊の相であるからだ。司教様がたや信者のお偉がたの皆様が、もし懐疑論が行き着くところまで行けばどんな恐ろしいことになることか、などと論じてみたとて始まらぬ。現にもう行き着くところまで行きつくしているのである」

 本書の白眉は、四「おとぎの国の倫理学」です。チェスタトンは、以下のように「伝統」について述べています。

 「伝統とは、あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ。単にたまたま今生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない。伝統はこれに屈することを許さない。あらゆる民主主義者は、いかなる人間といえども単に出生の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する。伝統は、いかなる人間といえども死の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する」

 わたしは、この文章を読んで、葬儀をあげずに遺体を焼却し、その遺骨や遺灰も火葬場に捨ててくるという「0葬」を連想しました。まさに「0葬」など、確固とした思想もなしに伝統を破壊するだけの愚行に過ぎません。そして、その背景には「死者の無視」「死者への愚弄」があります。イギリスを代表する保守思想家であったチェスタトンは、以下のようにも述べています。

 「われわれは死者を会議に招かなければならない。古代のギリシア人は石で投票したというが、死者には墓石で投票して貰わなければならない」

 つまり、今生きている者が伝統を死者の墓石のようにして背負う他には、聡明にある途はないというのです。六「キリスト教の逆説」の冒頭では、以下のように述べられています。

「われわれの住むこの世界で本当に具合の悪いところは何か。それは、この世界が非合理の世界だということではない。合理的な世界だということでさえもない。いちばん具合が悪いのは、この世界がほとんど完全に合理的でありながら、しかも完全に合理的ではないということだ」

 例として、チェスタトンは以下のような話を展開します。

 「かりにどこかの天体から非常に数学的な生物がやって来て、人間の体を仔細に点検したとする。すぐに判明することは、人間の体にとって左右相称が欠かせぬ要件だということだろう。1人の人間はいわば2人の人間の合成であって、右半分の人間は左半分の人間と正確に対応している。右に腕があれば左にも腕があり、右に脚があれば左にも脚がある。この事実を発見した宇宙人は、さらに次の発見へと進んで行く。どちら側にも同数の手の指があり、足の指もまた同数である。目が1組、耳も1組、鼻の穴も1組、さらには頭の中の脳葉まで左右1組になっている。ついに宇宙人はこれを1個の法則と考えるに到るだろう。そして、次に、一方の側に心臓のあることを発見して、当然もう片側にももう1つ心臓があるにちがいないと推論する。ところがその時、まさに推論の正しさをもっとも深く確信したその瞬間、それが誤りであることを思い知らされるにちがいない。地上のあらゆるものの薄気味の悪いところは、まさしくこの、黙って論理をほんのちょっとだけズラしてあるという点にある」

 チェスタトンは、以下のようにキリスト教倫理の重大事を指摘します。

 「人間の心臓は真中にはなく、左に寄っていることを正しく言い当てるとはこのことだったのである。地球が丸いことを知っているばかりでなく、どこで見ればそれが平たいか、正確にその場所を知っているとはこのことのほかにはない。キリスト教は人生の奇妙な偶然を探し当てたのだ。単に法則を発見したばかりではなく、例外まで見通したのだ」

 まさに、新しいバランスの発見こそがキリスト教倫理の重大事なのです。さらにチェスタトンは、「正統」について次のように述べます。

 「正統は何かしら鈍重で、単調で、安全なものだという俗信がある。こういう愚かな言説に陥ってきた人は少なくない。だが実は、正統ほど危険に満ち、興奮に満ちたものはほかにかつてあったためしがない。正統とは正気であった。そして正気であることは、狂気であることよりもはるかにドラマチックなものである。正統は、いわば荒れ狂って疾走する馬を御す人の平衡だったのだ」

 七「永遠の革命」の冒頭では、以下のように書いています。

 「今まで主張してきたところを要約すれば、結局3つの命題に帰着する。第1、この世の生活を信じなければ、この世の生活を改善することさえ不可能であること。第2、あるがままの世界に何らかの不満がなければ、満足すること自体さえありえぬということ。第3、この不可欠なる満足と不可欠なる不満を持つためには、単なるストア派の中庸だけでは足りぬこと―以上である」

 チェスタトンは、「伝統」とは「中庸の知恵の歴史的蓄積」であると喝破しています。そして、その一例として「挨拶」を挙げています。渡部昇一先生も敬愛するチェスタトンの言葉はわたしの心に響く珠玉の名言ばかりでした。特に心に強く残ったのは、「正統とは歴史の流れの連続性を確保するものにかかわるものである」という言葉でした。ならば、親が亡くなったら、子が葬儀をあげる。故人と血縁、地縁のある者は葬儀に参列する。これ以上の「正統」があるでしょうか!

 人類最古の営みこそ葬儀でした。葬儀とは、人類の歴史の連続性を確保するものなのです。日本人が「0葬」という極端なニヒリズムに走ることは、歴史の流れの連続性を断絶することにつながります。人間にとっての最大の「伝統」とは、死者を弔うことです。

 考えれば考えるほど、0葬というのはおかしなトンデモ思想です。これを「おかしい」と感じない人々は「思考停止」した「凡庸」な人々なのです。というわけで、本書のメッセージは『〈凡庸〉という悪魔』の内容にも重なっています。本書の刊行は、1908年ですが、いま読んでも現代の諸問題への対処法を教えてくれます。こういう本を不朽の名著というのでしょう。

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