No.1017 読書論・読書術 『乱読のセレンディピティ』 外山滋比古著(扶桑社)

2014.12.12

 『乱読のセレンディピティ』外山滋比古著(扶桑社)を読みました。
 著者は1923年生まれの英語学者で、お茶の水女子大学名誉教授です。大ロングセラー『思考の整理学』の著者としても知られます。

   『思考の整理学』読書版!(本書の帯)

 本書のサブタイトルは「思いがけないことを発見するための読書術」で、帯には「184万部! 東大・京大で5年連続販売冊数1位『思考の整理学』読書版!」「『知の巨人』が、思考を養い人生を変える読み方を伝授!」「〈セレンディピティ〉とは、探しているものではない、思いがけないことを発見する能力」と書かれています。

   乱読の価値とは(本書の帯の裏)

 また帯の裏には、「乱読の価値とは」として、以下のように書かれています。

 「一般に、乱読は速読である。それを粗雑な読みのように考えるのは偏見である。ゆっくり読んだのではとり逃すものを、風のように速く読むものが、案外、得るところが大きいということもあろう。乱読の効用である。本の数が少なく、貴重で手に入りにくかった時代に、精読が称揚されるのは自然で妥当である。しかし、いまは違う。本はあふれるように多いのに、読む時間が少ない。そういう状況においてこそ、乱読の価値を見出さなくてはならない。
 本が読まれなくなった、本ばなれがすすんでいるといわれる近年、乱読のよさに気づくこと自体が、セレンディピティであると言ってもよい。
積極的な乱読は、従来の読書ではまれにしか見られなかったセレンディピティがかなり多くおこるのではないか。それが、この本の考えである」

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

 1. 本はやらない
 2. 悪書が良書を駆逐する?
 3. 読書百遍神話
 4. 読むべし、読まれるべからず
 5. 風のごとく・・・・・・
 6. 乱読の意義
 7. セレンディピティ
 8. 『修辞的残像』まで
 9. 読者の存在
10. エディターシップ
11. 母国語発見
12. 古典の誕生
13. 乱読の活力
14. 忘却の美学
15. 散歩開眼
16. 朝の思想

 1「本はやらない」には「本は身ゼニを切って買うべし」として、以下のように書かれています。

 「本は買って読むべきである。
 もらった本はありがたくない。ためになることが少ない。反発することが多い。どこのだれが書いたかはっきりしない本から著者自身も考えていなかったような啓示を受けることがある。本は身ゼニを切って買うべし。そういう本からわれわれは思いがけないものをめぐまれる」

 このごろは図書館が整備されており、本を買わなくても借り出して読むことができます。しかし、著者は「社会として誇ってよいことである」と断った上で以下のように述べています。

 「図書館の本はタダで読める、というのがすばらしいというのは常識的で、タダほど高いものはない。自分の目で選んで、自分のカネで買ってきた本は、自分にとって、夕ダで借り出してきた本より、ずっと重い意味をもっている。図書館の好みで入れた本をタダで借りてくるのは自己責任の度合が少ない。もちろん、図書館の本でも感動できる、自分のためにもなる。しかし、自分の目で選んで買ってきて、読んでみて、しまった、と思うことの方が重い読書をしたことになる。
 本を選ぶのが、意外に大きな意味をもっている。人からもらった本がダメなのは、その選択ができないからであり、図書館の本を読むのがおもしろくないのも、いくらか他力本願的なところがあるからである」

 また、「もっともおもしろい読書法」では、「新刊は新しすぎる。古本は古い。ちょうど読みごろの出版後5、6年という本は手に入れることもままならない。図書館はここで役に立つ」と書かれています。わたしは、これは至言であると思いました。

 2「悪書が良書を駆逐する」の最後には、以下のように書かれています。

 「心ある読者が求められている。つまり、自己責任をもって本を読む人である。自分で価値判断のできる人。知的自由人」

 4「読むべし、読まれるべからず」では、「知識と思考」として以下のように書かれています。

 「知識はすべて借りものである。頭のはたらきによる思考は自力による。知識は借金でも、知識の借金は、返済の必要がないから気が楽であり、自力で稼いだように錯覚することもできる。読書家は、知識と思考が相反する関係にあることに気がつくゆとりもなく、多忙である。知識の方が思考より体裁がいいから、もの知りになって、思考を圧倒する。知識をふりまわして知的活動をしているように誤解する」

 さらに、「知識信仰」の弊害について、著者は述べています。

 「本を読んでものを知り、賢くなったように見えても、本当の人間力がそなわっていないことが多い。年をとる前に、知的無能になってしまうのは、独創力に欠けているためである。
 知識は、化石みたいなもの。それに対して思考は生きている。
 知識、そして、思考の根をおろしているべき大地は、人間の生活である。
 その生活を大切にしない知的活動は、知識の遊戯でしかない。
 いくら、量的に増大しても、生きていく力とのかかわりが小さい」

 著者は、「生きる力に結びつく読み方」として、次のように述べます。

 「哲学者・西田幾多郎が、若い学者からの、『論文のすぐれている人と講演のすぐれている人と、どちらが、本当にすぐれているのでしょうか』という意味の問いに答えて、『それは、うまい講演のできる人』と答えたというエピソードが伝わっているが、文字信仰の人たちだけでなく、広く一般の人をも驚かせた」

 そして著者は、以下のように喝破します。

 「読書がいけないのではない。読書、大いに結構だが、生きる力に結びつかなくてはいけない。新しい文化を創り出す志を失った教養では、不毛である」

 5「風のごとく・・・・・・」では、「速読と遅読」として次のように述べます。

 「ことばは、ゆっくり読まれると情緒性が高まる一方、速く読まれると、知的な感じがつよくなる。重々しい感じを与えたかったら、ゆっくりゆっくり話せばいい。知的な印象を与えるには、速度が大切で、早口だと、なんとなく知的にきこえる。
 ウェットで情緒的であるより、ドライで知的であるのが好まれるのは世界的現象なのであろう。アメリカでは20紀後半に、早口化がはじまり、テレビ、ラジオのアナウンサーが早口になった。テープのかけ違いで、コマーシャルを早まわしにして流してしまった。それが思いもかけぬ人気になり効果をあげたというエピソードもあった」

 「丁寧さが仇に」では、次のように非常に興味深いことが書かれています。

 「ことばはかたまりのようになって並んでいる。うしろのかたまりは、前のかたまりの意味の残曵と結びつき、それによって意味がかたまる。そのかたまりのひとつにこだわって辞書など見ていれば、ことばの流れ、残曵は消えてことばは意味を失う。外国人に読んでもらうと、説明をきかなくても意味がわかるのは流れができて、ことばの自然が回復されるからである。
 ことばの流れは、映画のフィルムのようなものであると考えることができる。ひとつひとつは静止していて動きがない。これにスピードを加えて(映写すると)、バラバラだったフィルムの1コマ1コマが結びつき、動きが出る。読むのも、これに近いところがあると考えてよい、前のコマと次のコマとはすこし離れて独立している。これに読みという動きを加えると、間にある余白が消えて、コマとコマが結び合って動き、つまり意味が生ずる。
 辞書をひいたりして、流れをとめてしまい、むやみと時間をかけると、ことばをつないで意味を成立させている残曵が消えて、わかるものがわからなくなってしまうのである。一般にナメルようにして読んだ本がおもしろくないのは、速度が足りないからである。ゎからない文章だとどうしても読む速度を落とさざるを得なくなるが、丁寧に読むつもりが仇になっていっそうわからなくなってしまうのである」

 6「乱読の意義」は本書の白眉ですが、「アルファー読みとベータ―読み」で以下のように述べています。

 「読み方には2種類ある。ひとつは、テレビで見た野球の試合の記事のように書かれていることがら、内容について、読む側があらかじめ知識をもっているときの読み方である。これをアルファー読みと呼ぶことにする。書かれていることがわかっている場合、アルファー読みになる。もうひとつは、内容、意味がわからない文章の読み方で、これをベーター読みと呼ぶことにする。すべての読みはこの2つのどちらかになる」

 14「忘却の美学」では、「記憶は新陳代謝する」で、著者は以下のように述べています。

 「記憶はそのまま保持されるのではなく、忘却によって変化させられる。そのあと、忘却し切れなかったものが、再生される。この記憶もしばらくするとまた忘却のスクリーニングを受けて少し変貌する。これを繰り返しているうちに、もとの記憶が、大きく、あるいは少し変形する。その変化は美化であって、醜悪化されることは少ない。忘却は記憶を改善(?)する作用をもっているように思われる」

 また、続けて著者は「記憶」について以下のように述べます。

 「記憶はいつまでももとのままであるのではなく、忘却によって、少しずつ変化する。しかも、よりよく変化する。
 ふるさとの思い出は甘美である。しかし、はじめからそうであったわけではない。ふるさとを離れて時がたてば、おのずから記憶がうすれる。それを回想すると、なつかしいふるさとが生まれる。忘却をくぐってきた記憶、つまり、回想はつねに甘美である。甘美でないものは消える。
 イギリスの詩人、ワーズワースは『詩は回想によって生まれる情緒である』ということばを残しているが、生の情緒では詩にならない。時がたって、忘却によって加工、修正された記憶の情緒が詩になる、というのである」

 そして、著者は「忘却と記憶」の本質を解き明かします。

 「記憶は原形保持を建前とするが、そこから新しいものの生まれる可能性は小さい。忘却が加わって、記憶は止揚されて変形する。ときに消滅するかもしれないが、つよい記憶は忘却をくぐり抜けて再生される。ただもとのままが保持されるのではなく、忘却力による創造的変化をともなう。
 それで、美しさが生まれるのである。なつかしさも生まれる。忘却はある種の創造がおこなっているのである。新忘却の思考は、そういうはたらきを見のがさない。忘却は、記憶に対して破壊的であるけれども、一部では、記憶を回想に美化させるはたらきをもっている。美しい回想は記憶と忘却のはたらきによるというのが新しい忘却の美学である」

 16「朝の思想」の最後、すなわち本書全体の最後に、著者は次のように述べています。

 「散歩は体にいい。それ以上に頭のはたらきにいい、ということを知った、というより、悟ったのは、貧しいわが人生の中でひとつの事件であった。さらに、朝の散歩が人生のためにもよいと考えるようになった。
 平凡な人間で、大したことは何もできないが、朝の思想、朝の生活を自得したことを喜びとしている。朝の人間として一生を終わりたいと願っている」

 この本は、いわゆる「知的生活」について書かれた本です。「知的生活」といえば、『知的生活の方法』の著者である渡部昇一先生は外山滋比古氏のことを「尊敬すべき英語学者の先輩」と言われていました。もうすぐ、渡部先生とわたしの対談本である『永遠の知的生活』(実業之日本社)が刊行されますが、同書の中で渡部先生は「記憶」のメカニズムや「散歩」の効用についても大いに語られています。

 わたしは、『思想の整理学』にも『知的生活の方法』にも大きな影響を受けました。外山氏も渡部先生もともに英語学者ということで、やはり知的生活というのはイギリスが本場なのかもしれませんね。

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