No.1005 国家・政治 | 歴史・文明・文化 『[増補]決定版・日本史』 渡部昇一著(扶桑社文庫)

2014.11.16

 『[増補]決定版・日本史』渡部昇一著(扶桑社文庫)を紹介いたします。
 本書は2011年(平成23年)7月刊行の『決定版・日本史』(育鵬社)に、その後の政権交代などを踏まえて加筆・改題し、文庫として刊行したものです。帯には、著者の顔写真とともに「この1冊で歴史通!」「大人のための歴史教科書」と書かれています。

   著者の顔写真入りの本書の帯

 またカバー裏には、以下のような内容紹介があります。

 「『われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか』という問いが発せられるとき、その答えのヒントとなるもの、それが自分の国の歴史です。幸いにして日本には世界に誇れる歴史があります。この素晴らしい歴史を鑑として、今一度、誇り高き日本を取り戻さなくてならなりません。それはこの時代を生きる日本国民全員に与えられた使命であると思います。
 本書は、こうした著者の視点から、日本人の歴史という美しい『虹』を描いた『渡部日本史』の決定版。大人のための歴史教科書です」

 本書の目次構成は、以下のようになっています。

「文庫版への序文」
「旧版まえがき―日本の通史を初めて1冊の本に著した理由」
第一章  古代―日本人のメンタリティはこうしてつくられた
◆コラム◆女帝となるための特別な条件とは?
第二章 中世―「民の暮らし」を意識した武家政権の誕生
◆コラム◆足利義政によって確立された、日本人の美意識
第三章 近世―新時代は信長の比叡山焼き討ちから始まった
◆コラム◆日本人の理想像とは――大和心と大和魂
第四章 近代―日本は西欧のアジア植民地化に立ち向かった
◆コラム◆新時代の生き方「自助」を教えた中村敬宇
第五章 現代―自分の国の歴史を再び問い直す
◆コラム◆教科書問題について

 著者は「日本には神話の時代が生きている」と唱えていますが、「文庫版への序文」の最後にも次のように書いています。

 「最近も、天照大神のご長男・天忍穂耳尊の子孫の高円宮家の女性と、同じ天照大神のご次男・天穂日尊の子孫の出雲大社の禰宜との婚約が発表された。何と素晴らしいことか。建国300年もならないアメリカと、建国80年にもならない中華人民共和国の歴史との対比の何と鮮明なことか。日本は神話の時代の文明が、今なお最も進んだ文明圏をつくっているのだ。共に祝福し合おうではないか。読者諸君!」

 また「旧版まえがき―日本の通史を初めて1冊の本に著した理由」では、著者が尊敬するオーウェン・バーフィールドの指摘する「国史」と「史実」の研究の違い紹介しています。その主旨の大要は次のようなものです。

 「雨上がりの空には無数の細かな水滴がある。そこで美しい虹を見るためには、適当な方向と距離が必要である。歴史上の事実も毎日起こる無数の事件だ。その事件の1つ1つを調べても、その国の”国史”といえる国民の共通表象は生じない。それは水滴をいくら調べても虹にならないのと同じことだ」

 その「虹」を見るためには、どうすべきか。著者は述べます。

 「通史には史観が要る。虹を見るには特定の視線が必要なように。私の日本史観の特徴といえるものは次の2点ではないかと思う。
 第1は、王朝の断絶がない日本では、神話の伝承は歴史研究から切り離せない。
 第2は、日本の国体(国の体質、英語ではコンスティテューシヨン)は、断絶したことはないが、大きな変化は5回あり、今は6回目の変化を待っている時代である」

 著者は、出版社のWACから全7巻にも及ぶ日本の通史を執筆するという依頼を受けました。その通史が完成する頃、育鵬社の歴史教科書『新しい日本の歴史』にも参考意見を述べるように頼まれたそうです。そのときのことを、著者は次のように書いています。

 「そのとき私は、『国史という美しい虹が見えるようなものを作ってください』とお願いした。特に取り上げてお願いしたことは、東京裁判の全権所有者で、日本を裁く側の頭目であったマッカーサーが、帰国後、アメリカ上院の軍事外交合同委員会という最も公的な場所で「したがって彼ら(日本人)が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障(自衛)の必要に迫られてのことだったのです(Their purpose ,therefore,in going to war was largely dictated by security)」(小堀桂一郎編『東京裁判日本の弁明』講談社学術文庫より)と証言したことを、コラムのように囲んで教科書に入れてほしいということだった。
 しかし文科省の教科書調査官は、これを許さないのだという。しかし日本を侵略国と公式に断定したのは東京裁判だけである。その裁判をやらせた最高責任者が、「あれは自衛戦だったのだ」と公的な場所で証言してくれたのである。これは「意見」でなく「史実」、しかも戦後の日本における最重要な史実なのであるからこれを掲載させないのは不思議である。強いて善意に解釈するならば、このマッカーサーの文言を育鵬社の教科書が入れると、他社の歴史の教科書がすべてボロクズになることを、文科省の教科書調査官は心配してあげたのであろう」

 第一章 「古代――日本人のメンタリティはこうしてつくられた」では、「日本の建国の精神となっている神武天皇の教え」として、「東征」を行って大和朝廷を打ち立てた神武天皇は、神話の系図の最後に現れるところから、ギリシャ神話でいえばアガメムノンに相当するであろうと指摘し、さらに次のように述べます。

 「日本の文化的遺産、つまり古代文化は、エジプトのピラミッドや古代ギリシャの神殿のような単なる『遺跡』ではない。現在もなお『生きている』ところに、その大きな特徴があるのである」

 また「天皇から乞食までの歌が載せられている『万葉集』が持つ意味」では、著者は次のように述べています。

 「ある国民の特徴を見るとき、彼らが『何の前において万人が平等であると考えているか』という見方をすると、大いに参考になる。例えば一神教の国では、万人は神の前に平等である。古代ローマでは法の前に平等であった。また、シナでは皇帝の前に平等で皇帝だけが偉かった、という見方ができる。
 ところが日本の場合は変わっていて、『和歌の前に平等』という思想があったようである。歌が上手であれば天皇と同じ本の中に入れてもらえるのは、この『和歌の前に平等』という思想を如実に表しているように思われる。
 日本には言霊信仰があって、言葉に霊力があると信じられていた。それゆえ日本語というものに対して特別の尊敬心があった。それを上手く使える人間は、人の心を動かすことができる。ゆえに、和歌ができる人は天皇と同じ本に名前を入れる価値があるという発想があったと思われる」

 「日本語で書かれた『古事記』、漢文で書かれた『日本書記』、その意味」では、先の敗戦までの千数百年間にわたり、日本人は自分たちの歴史を『古事記』や『日本書記』によって認識し、それに従って行動してきたと著者は指摘し、次のように述べます。

 「江戸中期の学者・伊勢貞丈(1717〜1784)は『いにしえをいにしえの目で見る』といった。ドイツから発達した文献学でも『古代の目線(der Blick der Fruhe)』を重んじている。古代を知るには古代人のものの見方や考え方を知らなければならないということだが、歴史を見るときにはこの姿勢を決して忘れてはならないと思うのである」

 「神社を尊び、仏教も敬うようになった日本人の起源」では、著者は以下のように述べています。

 「仏教伝来の扱い方は、外国の歴史と比べるとその特徴がはっきりする。例えばローマ帝国皇帝コンスタンティヌス大帝が『ミラノ勅令』(313年)で最初にキリスト教を認めた話は、ヨーロッパ史の中ではゴシック文字で年代が書かれるくらいの重大事件であった。ところが日本では外国の宗教である仏教を尊崇すると最初に決められた用明天皇の名前を知っている人は稀といってもいいだろう。
 なぜ用明天皇の名前がほとんど無視されてきているのか。これは仏教というものが、強いていえば1つの高い学問として入れられ、神道に代わるようなものとして捉える意識がなかったということを表している。『仏教はありがたい教えである』と天皇が考えたとしても、それは儒教を尊んだのと同じで、従来の神道を捨てたのだとは日本人の誰も思わなかったのである。『日本書紀』の中にも、用明天皇について『仏の法を信じられ、神の道を尊ばれた』と書かれているように、仏教は神道に代わる宗教としては考えられていなかったのである」

 日本には、神道・仏教・儒教・キリスト教・・・・・・さまざまな宗教が共生しています。この独特の宗教文化のルーツは天武天皇にあるとして、著者は「日本人のメンタリティの原型となった天武天皇の発想」で以下のように述べています。

 「天武天皇は天智天皇の遺志を継いで律令国家の確立につとめた。
 また、仏教を篤く信じ、薬師寺を建立したり、全国の家ごとに仏壇をつくって仏像を拝むように命じた。しかしその一方では、685年に伊勢神宮の式年遷宮(原則として20年ごとに神社を建てなおすこと)を決めているのである。さらに、伊勢神宮のみならず全国の神社の修理も命じている。まさに神も仏も平等に扱っているのである。
 この天武天皇的発想はそのまま今に伝わり、新年には神社に初詣に出かけ、お盆にはお寺詣りをし、クリスマスには教会へ讃美歌を聞きに行くといった平均的日本人のメンタリティの原型となっている」

 第二章「中世――『民の暮らし』を意識した武家政権の誕生」では、「”民主政権”を実現させた画期的事件、『承久の乱』と北条政子」の項で、著者は次のように述べています。

 「承久の乱は日本の国体の三度目の変化だと私は思う。この『日本の国体は変化すれども断絶せず』というのは、日本史および日本人の国民性を考えるうえでのキーポイントである。
 1回目の国体変化は、第31代用明天皇の仏教改宗である。
 2回目は源頼朝が鎌倉幕府を開いたことによって起こった。宮廷と関係なく天下を武力で征服し、守護・地頭を置いた。これは政治の原理の根本的変化である。
 そして3回目の承久の乱では、先に触れたように3人の上皇を島流しにした。さらに順徳上皇の子で4歳だった仲恭天皇は在位わずか70日で幕府によって廃された(当時は『半帝』とか、九条家出身なので『九条廃帝』などと呼ばれ、仲恭天皇と追号されたのは明治3年になってからである)」

 これ以降は、皇位継承を幕府が管理することになりました。宮廷の位でいえば、非常に低い武家の頭領が皇位継承を決めることになったのです。著者はこれを一種の「主権在民」として大きな国体の変化として見る著者は、次のように述べます。

 「4回目の国体変化は明治憲法の発布であり、5回目は敗戦による占領憲法の制定である。先にも述べたが、憲法は英語で『コンスティテューション』といい、これは元来『体質』という意味を持つ。したがって、憲法の制定は国の体質が変わったと考えてもいいだろう。ただ、日本では国体は変わっても断絶はしなかったという点が大変に重要なのである」

 さらに著者は、武家文化の本質を以下のように明快に説きます。

 「武家文化の本質は、わかりやすくいえば、やくざ世界の発想と同じである。やくざの世界は自分たちのシマを守ることに一所懸命であり、親分、義理人情を大切にする。それから女は二次的な役目しかしない。物と同じ扱いで、これはマフィアでも、女のことをthingと呼ぶことからも明らかである。また、武士は恥をかいたら切腹するが、これはやくざが指を詰めるのと同等である。要するに血を以て償うわけである」

 そのような武家に皇位継承を決められた皇室については、著者は以下のように書いています。

 「イギリスの歴史家・チェスタトンは、ローマ教皇について、時にろくでもない教皇が出たり宗教革命が起こったりするが、あとから見るとちゃんと続いてきている。これは馬乗りの名人が山あり谷ありの難所を駆け抜けてきて、馬から落ちそうだけれども落ちないで続いているのと似ているといったが、その感じは日本の皇室にもたとえられる。
 神代から見てくると、皇室は何度も断絶の危機に瀕していることがよくわかる。しかし、それを乗り切って、次第に万邦無比な安定した王朝になっていったのである」

 第三章「近世―新時代は信長の比叡山焼き討ちから始まった」では、冒頭に「戦国時代は約100年といわれるが、私はこの戦国時代がなかったら日本は実に寂しい国になっただろうと思う」と本音を吐いた後、著者は以下のように述べます。

 「当時の戦国大名は権謀術策を用いて権力を手にした者が多かったから、人間が賢くなった。上杉謙信だろうが武田信玄であろうが、知力を尽くして外交をやった。信長も秀吉も家康も同じである。その点では、戦国時代から家康に至る時代ほど、日本人の能力が発揮された時代はなかったのではないかと思われる。
 群雄割拠というのは確かに人間のレベルを上げる。ゆえに、まともな封建時代がない国は近代国家になれなかったといわれるのである。発達した封建時代があった国は西ヨーロッパと日本だけであって、インドにも中国にも朝鮮にもなかった。それらの国の近代化は、結局、植民地または半植民地の時代を通過するか、共産革命を通過するしかなかった」

 第四「近代―日本は西欧のアジア植民地化に立ち向かった」では、「世界の軍事史に強大なる影響を及ぼした日露戦争」として、著者は以下のように述べています。

 「日露戦争は単に日本が大国ロシアに勝ったというだけの戦争ではなかった。この戦争の結果は、さらに重大な影響を世界中に及ぼしたのである。それは、有色人種の国家が最強の白人国家を倒したという事実であった。これは世界史の大きな流れから見れば、コロンブスのアメリカ大陸発見以来の歴史的大事件といってもいい。世界中が目を疑うような奇跡的な出来事であったのである」

 しかし「日露戦争後、アメリカにとって日本は、やがて滅ぼすべき国となった」で、著者は以下のように書いています。

 「日本の勝利はアメリカ建国の基盤が緩むということも意味していた。アメリカにとって建国の基盤とは人種差別である。もし本当にアメリカに人種差別の意識がなかったとしたら、インディアン(ネイティブ・アメリカン)から土地を取り上げることはできなかったはずである。また、黒人を奴隷にして農業を発達させることもできないし、ヒスパニックを酷使して仕事をさせることもできなかっただろう。ゆえにアメリカの建国の基盤には疑いなく人種差別があった。
 ところが、アジアの片隅の有色人種が白人最大の帝国を海上の戦いで破った。それを聞いたアメリカのいちばん奥の院にいて政治的な知識のある人々の間に、日本は滅ぼさなければならない国になったという合意ができたと思うのである」

 最近、いわゆる「従軍慰安婦問題」が捏造と判明しましたが、次には「南京大虐殺」の捏造問題が控えています。「南京大虐殺」と呼ばれるものについて、著者は「南京戦から8年もたって、なぜ『大虐殺』と喧伝されたのか?」で次のように述べています。

 「いわゆる市民の犠牲者は、現在の調査では限りなくゼロに近いのである。南京戦の前の市民の数は20万人、占領後も20万人。占領1か月後にもなると、避難していた者も帰ってきて25万人になっている。
 ただ、日本人がいうだけではあまり信用されないかもしれないので、別の証拠を出そう。当時、蔣介石が外国人記者と対談した約300回の記録が残っている。しかし、その中でただの1回も南京大虐殺に対して蔣介石は言及していない。もちろん毛沢東も同じである。
 また当時、安全地区には外国政府の外交団がいたが、正式に日本に抗議した外国政府は皆無である。また、当時の日本は国際連盟から脱退した憎まれっ子だったにもかかわらず、国際連盟も非難していない。
 しかも、南京大虐殺に言及されたのは、南京攻略戦から8年経った東京裁判の法廷であった。なぜ8年も経ってからいきなり大虐殺が持ち出されなければならなかったのか。これは完全にアメリカの宣伝だと私は思う」

 さらに「東京裁判」についても、著者は次のように述べています。

 「東京裁判では、南京で占領後6週間の間に殺された一般人・捕虜の総数を20万から30万人としているが、勘ぐれば、この数は原爆や無差別爆撃でアメリカが日本の一般市民を殺した数とほぼ同じである。アメリカが自らの罪を薄めるために数を合わせたという説があるが、これも説得力が全くないわけではないであろう」

 第五章「現代―自分の国の歴史を再び問い直す」では、「占領下の日本で日本国憲法は成立したという、忘れてはならない事実」で著者は述べます。

 「戦争放棄をうたった第九条にしても、日本の憲法が、アメリカ軍の日本駐留を前提としてつくられていることを忘れたふりをして議論するから、その下心が透けて見えてくるのである。そのためかえって周辺国の横暴を招く結果になっている。北朝鮮による拉致やミサイル問題、ロシア、中国、韓国との領土問題などにおいて日本が譲歩を強いられている根底に第九条の縛りがあるのを見逃してはならないと思う。第九条を信奉する人々は、これがあったから日本は終戦から60年以上平和だったと主張するが、決してそうではない。日本が平和だったのは日米同盟があり、米軍が日本に駐留していたからである。それを知りながら気づかないふりをして第九条のみを神聖視するのは滑稽な話である」

 安倍信三首相をはじめ、多くの心ある政治家たちが憲法改正を実現しようとしています。では、そのためには何が必要なのか。著者が、以下のように明快に答えてくれます。

 「新しい憲法を作るためには、原則として明治憲法に返り、明治憲法の改正規約に従って新憲法を承認するという手続きが必要なのである。明治憲法による憲法改正は非常に簡単であり、3分の2以上の国会議員が出席した議会の3分の2の賛成があればいい。それを天皇が了承すれば簡単に改正できる。であるから、あらかじめ国民の合意を得た新憲法を作っておいて、それを国会で議決し、天皇に諮ってご承認をいただき、発布すればいいのである」

 そして本書の最後に、著者は読者に問いかけるのでした。

 「『われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか』という問いが発せられるとき、その答えのヒントとなるもの、それが自分の国の歴史である。幸いにして日本には世界に誇れる歴史がある。この素晴らしい歴史を鑑として、今一度、誇り高き日本を取り戻さなくてならない。それはこの時代を生きる日本国民全員に与えられた使命であると思うのである」

 このような高い志を持った通史を、わたしは読んだことがありません。読みながら、何度も胸が熱くなりました。そもそも、学問の世界においても専門分野の細分化が進む現在、1人の人物が通史を書き上げるという行為自体が偉業です。そのためには、図抜けた教養の豊かさが必要とされるからです。まさに、今の日本で1人で日本史を書くことができるのは著者しかいないでしょう。すべての日本人に、できるなら中国人や韓国人にも読んでほしい日本史の「決定版」です。

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