No.0870 宗教・精神世界 | 日本思想 『日本人の心のかたち』 玄侑宗久著(角川SSC新書)

2014.02.05

 『日本人の心のかたち』玄侑宗久著(角川SSC新書)を読みました。
 芥川賞作家にして現役僧侶である著者の最新刊で、帯には「東日本大震災後、初の書き下ろし」「『両行』と『不二』で解き明かす日本人論」と書かれています。

   本書の帯には「両行」と「不二」の文字が・・・・・

 また帯の裏には「無常(忘れたい)とあはれ(忘れられない)の両行、そして身と心の不二。その無限運動こそが、災害列島に住むわれわれ日本人の産みだした直感的な生き方です!」とあります。

 さらにカバー裏には、「日本人は特殊で素晴らしい。両行と不二の間を行ったりきたりしながら、つねに直観的かつ柔らかな思考で、物事に対処してきた人々だからである。だからこそ、押し付けられたグローバリズム的思考ではなく、古来より培われてきた日本人の心の基本形へ、もう一度立ち返るべきではないだろうか。東日本大震災の経験を通じ明らかになった、日本人に残る文化的土壌とローカリズムの重要性を説く」という内容紹介が書かれています。

   本書の帯の裏に書かれた言葉

 本書の目次構成は以下の通りです。

 「はじめに」
章前
第一章 「仕合わせ」と「さいわい」の国~産霊の力への渇仰~
第二章 両行という思想
第三章 「不二」の思想
第四章 結びに代えて
「あとがき」

 著者は、福島県の三春に住んでいます。言うまでもなく東日本大震災の被災地であり、福島第一原発の事故の被害にも遭ったわけです。それでも「福島で生きる」ことを選んだ著者は、「はじめに」で次のように述べます。

 「復興とは、なにより日本人の心の復興でなくてはならない。忘れかけていた『心のかたち』を取り戻す絶好の機会にしなくてはならない・・・・・・」

 そして、その「日本人の心のかたち」について次のように書いています。

 「本書で取り上げる『日本人の心のかたち』とは、結局『両行』と『不二』なのだが、まずは『荘子』の『両行』という思想を紐解きながら、それに重なった日本人の『心の生産性』への信仰を明らかにしたいと考えた。そして最後は、『両行』する価値観をまとめあげるための『不二』という思想である。
 『不二』はじつは『維摩経』という大乗経典のメインテーマだが、殆んどの方は経典として読んだことはないかもしれない。内容はじつに面白いが、たしかに難解でもある。しかしなぜか、この思想は原典を遠く離れ、日本人の心の奥底にいつのまにか入り込んでいたのである」

 前著『しあわせる力』では、「八百万の基本ソフト」あるいは「七福神」を通して、著者は日本人がさまざまなものを対等の横並びにする傾向を指摘しました。
 『しあわせる力』の続編ともいうべき本書の第一章「『仕合わせ』と『さいわい』の国~産霊の力への渇仰~」で、著者は次のように述べます。

 「初めは何か大きな存在に『仕合わせ』、『対』を生みだし、そこから並列の『咲き賑わい』(→さいわい)を作りだしていく様子を描いたと思う。仏教各宗派しかり。中国から輸入したお茶もしかり。また空海がわざわざ金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅を併置したり、儒教、仏教、道教の3つの世界観を並べてみせた(『三教指帰』)ように、どんなものでも対等の横並びにしてしまうのが日本人だったはずである」

 著者によれば、何か大きな存在が現れたとき、日本人はまずそれに学びつつ対抗し、対になる価値観にまで育てあげようとする傾向をもっていたといいます。それは何かが絶対化するのを嫌う心性でもあります。次々に対抗すべきものを産みだし、相対化していくのです。儒仏道の三教にしても、並べることで「東洋の宗教」という新たな枠が浮上してくるわけです。 著者は、これらを踏まえて次のように述べます。

 「結果としてさまざまな別種のものが横並びになり、その状況を日本人は『さいわい(=咲き賑わい)』と呼んだ。つまり日本人は、どんなものも仕合わせて対を生みだし、さいわいにしてしまう民族なのである」

 さらに著者は、日本人の宗教に対する姿勢について述べています。

 「仏教というある種整然とした形をもった思想に接し、日本人はそれに対抗するように神道を形成していく。しかも対抗と言っても、それは敵対するということではない。簡単に言ってしまえば、相対化して『咲き賑わう』状況に持ち込みたいのだろう。なんとか『仕合わせ』たいのである。
 神と仏とは、すでに平安時代に流行した『今様』のなかで併記されている。次第に複雑な習合と混淆を重ね、お互い刺激しあいながら共存していったと言えるだろう。神は『むすび』、仏は『ほどく』存在。対になった和語の在り方にも、はっきり仕合わせる意識が見て取れる」

 興味深かったのは「無常を生きる人々の挨拶」の項でした。 著者は、まずお辞儀というものについて、次のように述べます。

 「お辞儀という日本人の挨拶は、『大化の改新』頃から始まったらしい。仏教の影響かどうかは分からないが、それこそ『寂滅現前』を行為化したものに思える。お辞儀は大和朝廷によって勧められ、しかしなかなか広まらないため、天武天皇は『跪礼・匍匐礼を止め、立礼に統一する』という詔勅を出したとされる。それまでは片膝を立て、尻を床に落とす跪拝や、匍匐拝というのだから四つん這いのような姿勢で礼を示していたらしい。それをむしろ簡略にするつもりで、立礼に統一しようとしたのである」

 続けて、立礼の成立について次のように書かれています。

 「天武天皇は『天皇』の称号を定め、『日本』という国号を用いた最初の天皇だが、同時に『古事記』や『日本書紀』の編纂を命じたことでも知られる。新しい都である藤原京を造営しつつ、道教に関心を寄せ、神道を整備し、仏教も最大限に保護していく。この国のかたちについて、真剣に考えていた方であったことは間違いないだろう。礼法もその重要な要素だったはずである。
 正坐が成立するのは畳が流布する室町時代まで下るのだが、日本人のお辞儀はまず立礼を以て、7世紀半ばに始まったのである」

 著者は日本人の挨拶の背景には「無常」の思想があるとし、こう述べます。

 「茶の湯によって確立された我々の挨拶は、やはり古代から連綿と続いてきた『無常』の行動化であったと言えるはずである。
 さっきまでの続きではない『今』に、我々はお辞儀するたびに立ち返る。それは辛い別れや悲しい出来事のあとほど、有効な作法ではなかっただろうか」

 わたしは、著者のこの言葉には全面的に賛成です。 いま「グリーフケア」という言葉がよく知られるようになってきましたが、じつは「葬儀こそ最大のグリーフケアの文化装置である」というのがわが持論です。葬儀は、いかに悲しみのどん底にあろうとも、その人を人前に連れだします。引きこもろうとする強い力を、さらに強い力で引っ張りだすのです。葬儀の席では、参列者に挨拶をしたり、お礼の言葉を述べなければなりません。それが、残された人を「この世」に引き戻す大きな力となっているのです。

 「道」と名のつくあらゆる武道や稽古事が、礼に始まって礼に終わるのは偶然ではないとして、著者は次のように述べています。

 「禅の言う『無心』になれば、身1つになるわけだが、日本人のお辞儀という挨拶は、『無心』の身1つになるための大いなる契機ではないか。きっとこの国の人々は、『無心』こそ最も生産性の高い心であり、その身も自由闊達に動けることを、禅や茶道を知る遥か以前から経験的に知っていたのだろう。日本の伝統的な文芸・伝承を重視し、祭りや芸能などの掘り起こしに力を注いだ天武天皇がお辞儀の原型を定めたのも、おそらく単なる思いつきではなかったはずである」

 このくだりを読んで、わたしは非常に感銘を受けました。 天武天皇こそは、日本人の心の「初期設定」をしたのかもしれません。

 2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。 著者自身も被災者なのですが、2013年3月11日の時点で、死者が15,332人、行方不明者が2,668人だとされています(警察庁の発表)。 この事実について、著者は次のように述べています。

 「2年経って『行方不明』とはいったいどういうことか、ご存じだろうか。今回は遺体が見つからなくても『死亡届』が受理されるのに、である。それについて、私は津波被害の大きかった宮城県の石巻で忘れられない体験をした。
 津波から半年ほどあと、まだ『戻ってこない』という娘さんの父親は、死んだとは思えないのだと呟き、『生きてるとしたら、どういう可能性があると思いますか』という私の遠慮ない質問に、次のように答えた。
 『津波のショックで記憶喪失になって、知らねぇ浜さ流れ着いで、そごで知らねぇ人だぢの世話になりながら、別な名前で生きてっかもしんねぇベ』
 おそらく針の穴を通すほどの可能性とは本人も知りながら、微かな可能性に縋るように、そう言うのである。2,668人の行方不明者の周囲には、いまだにそんなふうに思って諦めていない家族親族が、間違いなく1万人以上はいるだろう。そんな人々の『祈り』を受けた存在が、『行方不明者』なのである」

 わたしはこれを読んでやりきれない気分になるとともに、「希望」という言葉は「物語」という言葉と同義語であると思いました。まさに物語だけが遺族を絶望から救い、深い悲しみを癒せるのではないでしょうか。

 「無常」と「あはれ」について、著者は「『無常』が忘れようとする方向だとすれば、それと拮抗する『忘れられない』気分が『あはれ』ではないか」と述べます。
 その「あはれ」という言葉は、すでに『古事記』や『日本書紀』、『万葉集』などに見られるそうです。『日本書紀』には「陰陽」が登場します。「陰陽」は、道教のシンボルともいえる太極図において見事に描かれました。著者は述べます。

 「陰陽がうねるように絡み合って一円を成すあの太極図こそ、日本人の求めた産霊の力そのものではないか。陰と陽はあくまでも対等だし、それは女性と男性にもむろん比定される。そして太極図とは、大小どんなレベルでも内部に措定されるエネルギー生成の原理である」

 古代日本人が触れた太極図には、陰陽の織りなす命の発生が示されており、それは「産霊」の姿そのものだったのです!

   サンレーのマークは陰陽!

 これを読んで、わたしは「はっ」としました。たしかに、その通りであると思いました。わが社の「サンレー」という社名の由来の1つである「産霊」は、もともと生成力つまり、自然の万物を生み出すクリエイティブな力を表わしました。
 ちなみに、わが社は冠婚葬祭を業とする会社です。結婚式と葬儀を二大事業としているわけですが、「冠婚」と「葬祭」は陰陽そのものです。
 サンレーのマークは婚礼のシンボルカラーである赤と葬礼のシンボルカラーである紫の二色から成る陰陽を示すデザインで、太極図にも似ています。
 それにしても、神道家である鎌田東二氏の著書ならともかく、仏教者である玄侑宗久氏の著書を読んで「産霊」という言葉に遭遇するとは思いませんでした。

    鎌田東二氏(左)、玄侑宗久氏(右)とともに

 「サンレー」という社名には「讃礼」という意味もあります。 孔子の説いた「礼」の精神を讃えるということです。 わたしは、孔子の思想つまり儒教を学ぶ人間の1人ですが、本書には「儒教と道教の両行」についても書かれています。著者は述べます。

 「儒教に対する道教の在り方そのものに、儒教へのカウンターという意識がある。別な言い方をすれば、老子も荘子も、明らかに孔子の存在や主張を知ったうえで、反論としての主張を続け、そのような人生を送ったのである。いわば道教そのものが、儒教と『両行』することを願ったのではないだろうか」

 この著者の意見にも、わたしは全面的に賛成ですね。

 中国人は遅刻せずに目的地に向かっている途中は儒家で、何かが起こって遅刻してしまうと道家になると、よく言われます。組織人としてのモラルを重んじる儒家は遅刻を嫌いますが、遅れてしまった場合はどんなに遅刻を後悔しても取り返しがつきません。それで、今度は組織人としてではなく、個人としての安心を道教に求めるというわけです。
 しかし、著者は「べつに遅刻しなくても、人が生きていくためにこの2つの考え方は両方必要ではないだろうか」として、以下のように述べます。

 「どんな組織でも、大きくなればなるほど儒教的な『仁』『義』『礼』『智』『信』の五徳などか重要になる。しかしそれだけで人生が充実するのかというと、些か疑問である。人間組織に関係のない『道』を説き、『無為』や『自然』を標榜して長寿を目指す道教的な考え方も、やはり補完的に必要だと思わざるを得ない」

 さらに著者は、古代日本人における「両行」について、次のように述べます。

 「もともと道教や老荘思想は組織には向かない考え方だから、国家理念からはいつしか姿を消し、奈良時代を通して次第に『公』的な場面からは姿を消していく。しかしそれは、けっしてこの国からの消失を意味してはいない。むしろ、水のように浸潤し、蔓延し、人々の『私』的な部分を支えていったのではないだろうか。『鶴と亀』『松に鶴』『金と銀』など、今に続く長寿や婚礼のシンボルは、明らかに全て道教に由来している」

 著者によれば、仏教の教義にも多くの両行があり、「智慧」と「慈悲」の関係がその典型だそうです。そして、著者は次のように述べています。

 「大乗仏教はまたこの他にも『薬師如来』と『阿弥陀如来』の両行を産みだした。東の空に朝日の瑠璃光をおびて現れる薬師如来は、現在なら医療、治療の権化と言えるだろう。つまり医療者によるCUREの象徴である。
 一方、人がいつかは死ぬ存在であることを思えば、治療一点張りでは心の平安は訪れない。そこで西の空には夕日の彼方に阿弥陀如来が現れ、終末介護や緩和ケアなどのように、死に向かう不安をやわらげるのである。薬師如来のCUREに対し、こちらがCAREを司ると見ることは充分可能だろう」

 さらに、著者は「CURE」と「CARE」について、「CUREからCAREに移行する面はたしかにあるものの、これもまた本来は同時並行すべき接し方ではないだろうか。本物のCUREにはCAREも必要になるし、CAREだって本格的にしようと思えばCUREなしでは成り立たない。薬師如来と阿弥陀如来は、双方揃ってこそ人間の安寧を保証する両行だったのである」と述べています。
 この一文は本書の白眉といってもよく、「CURE」と「CARE」の関係についてのくだりは目から鱗が落ちる思いでした。この考え方を知るだけでも、本書を購入して読む価値があります。

 著者は、現代日本における都市というものが「経済優先」「効率重視」といった価値観によって成り立っていると言います。そして、都市には別な価値観も必要であるとして、次のように述べます。

 「都市のなかに存在する全く別な価値観の場所、本当はそれが神社仏閣であってほしいと思う。経済優先、効率重視の世の中にあって、それとは反対の価値観が、神社仏閣のなかだけでも息づいていてほしいのである。
 やじろべえのバランスをとるように、もう1つの極端に違う考え方があれば、片方の極端も許せる・・・・・・。そんな心情も、我々にはありはしないだろうか。
 もともとイザナギとイザナミの夫婦は、その体に『余っている』部分と『足りない』部分をもった両極端な取り合わせだった。そんな2人の名前に共通する『イザナ』は『誘(いざな)う』を意味する言葉である。違うからこそ惹かれあい、誘い合い、そして産霊の力を発揮するのではないだろうか」

 ここでも「産霊の力」という言葉が登場して、わたしは嬉しくなりました。

 ここまで「両行」の思想を紹介してきましたが、次は「不二」です。 第三章「『不二』の思想」において、著者は次のように述べています。

 「古代の人々は、『たま』(丸いもの)が『しい』(動き回るもの)で、『からだ』(空っぽな器)に出入りし、それによって『いのち』がはたらくものと考えた。そしてきちんと全ての『たましい』が収まっている状態を、『身』と呼び、単に『からだ』と言えば死体の意味だったのである」

 日本では、いわゆる肉体と精神、「からだ」と「こころ(魂)」が「身」という言葉で合流し、それがあらゆる文化の底流をなしているというのです。

 「たましい」の数はいくつあるか。この問い対して、現代日本人の多くは「1つ」と答えることでしょう。しかし、精神分析学のユングは「たましい」が1つと考える民族のほうが世界でははるかに少数派だと述べています。沖縄の人々は今でも「魂は7つ」と主張しますが、古代では日本全土でそのように考えていたのかもしれません。現在でも、ラオスの人々は「魂は32個」だと信じているそうです。

 「たましい」の一部は「身」を離れることがあると考えられました。驚いたり、転んだり、木から落ちたりした場合ですが、著者は次のように述べます。

 「そのような事態を、古代日本の人々は『たまげる(魂消る)』と表現した。消えた『たましい』は、場合によっては他人のからだに憑いたり降りたりもする。だからこそ、この国には憑依現象が多く認められ、沖縄の『ユタ』や青森の『いたこ』などのような、独特の降霊文化が発達したのだろう。
 『水子の霊が憑く』ような事態も、日本ではすんなり信じられ、水子供養もあっという間に広まった。20世紀にイギリス心霊学が導入された際も、地縛霊、因縁霊などが憑依する事態を、日本人はごく自然に受け容れてしまったのである」

 日本人にとって、精神と肉体とは相容れないものではありませんでした。 著者は、「からだ」という言葉の意味について述べています。

 「『からだ』の意味は江戸時代以降、次第に普通の『身体』を意味するように変化はしていくが、頭の奥底ではやはり古層の意味合い、『たましい』の安定した器としての『からだ』という認識が生きているのではないだろうか。だから『たましい』と『からだ』は相補的というより、欠かせないパートナーという意味で、生きているかぎり分けようがない。つまり『不二』なのである」

 ここで、ついに「不二」という言葉が登場しました。 著者は日本人が「不二」という考え方を持つに至ったのは、富士山の存在が非常に大きいとして、次のように述べています。

 「江戸に幕府を開こうとした徳川家康は、全てが揃った京都や大阪に対抗できるシンボルを求めていた。江戸には当初、大坂から4千人ほどの人々が移住し、細々と生活を始めたらしい。元々は野原だったことを懐かしみ、江戸の人々は正直にその原風景である芒を飾り、団子を満月に供える「お月見」の行事を考えたとも言われる。しかしもっと大きな、京にも浪速にもないようなシンボルはないか・・・・・・。すると日本橋の上から、じつに神々しい富士山が見えたのである。いやおそらく、家康公にはもっと早くから富士山への深い信仰があったに違いない。関ヶ原の戦いに勝利した家康公は早速そのお礼として、駿河の浅間神社に本殿、拝殿、楼門をはじめ、30余りの建物を造営する。そこには武田信玄が植えたとされる枝垂れ桜もあったのだが、そうしたものは残したまま境内地を整備し、さらに8合目以上を神域・境内地として浅間神社に寄付したのである」

 富士山は古来より霊峰とされ、日本人の信仰の対象になってきました。特に浅間大神が鎮座するとされた山頂部は神聖視されました。富士山修験道の開祖とされる富士上人によって、修験道の側面も築かれ、登拝が行われるようになりました。
 いわゆる「富士信仰」が生まれ、「富士講」などが派生します。
 駿府城で亡くなった家康は、死後に「東照大権現」と呼ばれる神となります。とうとう、神は人とも「不二」になってしまったわけです。著者は述べます。

 「こうしてみると、日本人は『両行』が好きなのと同様に、『不二』も相当好きなのだとわかる。おそらく『神』も『仏』も家康公も、『一歩下がって眺めれば』皆『ありがたい存在』として『不二』『不三』なのである」

 このように、本書は「両行」と「不二」をキーワードに、日本人に独特の心のはたらかせかたを眺めています。第四章「結びに代えて」で、著者は述べます。

 「まずは心の生産性(産霊の力)を高めるため、我々には『対』あるいは相補的な価値観を、両行させる特徴があると申し上げた。しかも日本人はこの『両行』する価値観から、論理的にどちらかを選んでいるわけではなく、直観、あるいは『無我』『無心』の状態で決めている、ということも申し上げたと思う。
 そうすると、その決断の瞬間には『不二』が実現しているのではないか」

 日本とは何か。著者は「心を初期化し、大いなる『和』を目指すなかで、敗者・弱者、そしていま対立する相手さえも包み込んでしまう、『大和』という在り方を希求したのがこの国だったように思える」として、さらに次のように述べています。

 「こうした絶えざる心の初期化は、じつは日常の挨拶のなかでも錬磨され続ける。『こんにちは』『こんばんは』も日本式のお辞儀も、じつは寂滅現前して心を初期化する非常に有効な手段なのである。きのうの続きではない今日、そして昼間とはうって変わった夜が、そこでは求められている。1から出直す、この身1つで生きていく覚悟を、我々は1日何度もしているのではないか」

 挨拶が「心の初期化」という考え方は禅僧である著者らしいと思いました。

 著者は「日本人とは何か」についても、明快に述べています。

 「蓄積した知識や経験をできるかぎり脱ぎ捨て、なるべくなら『無分別』、『無心』、『無我』になって、大いなる『不二』の境地を実現したい。そう思っているのが我々ではないだろうか。『両行』によって心を相対化し、しかるのち冷徹に心を初期化し、直観で『不二』を実現するのが日本人なのだと思う」

 「両行」による相対化、そして直感での「不二」の実現・・・・・わたしは、どうしてもヘーゲルの「弁証法」をイメージしてしまいます。両行とは「正」と「反」、不二とは「合」に通じるように思えるのですが、これは間違いでしょうか?
 今度、玄侑氏にお会いする機会があれば、ぜひお訊ねしたいと思います。

 さて、「不二」といえば、モノと心の「不二」という考え方もあります。
 これに関連して、著者は「『心の時代』という言い方は、じつは昭和40年代から始まった。当然、これからはモノじゃなく、心だという意味で唱えられた。しかし『物有れば則有り』(『詩経』)とも言うように、あらゆる物事には一定の法則があり、当然ながら心もその法則に規定される。いわばモノを大切にすることによって、心のほうも育まれるのである」と述べています。

 最後に、著者は日本の「職人」と「産霊」の関係を考察します。 まず、著者は次のように日本の歴史をふり返ります。

 「この国は歴史の始まりから、確かにいつも最強の国に寄り添ってきた。しかしそこから多くを吸収しつつ、なんとか両行する価値を立ち上げ、必ず独自の文化を産みだしてきたではないか。まさに両行による『産霊』である。
 中国、ポルトガル、オランダ、イギリス、そして戦後はアメリカ一辺倒だが、そこでも『両行』や『不二』の精神作用は健在だったはずである。
 現実問題として我々はいつも巨大な相手に寄り添い、学んで吸収し、そして本体と対になるような、しかも当初のモノをも包み込んで俯瞰させるような新たな価値を創造してきた」

 この一文を読んで、わたしは非常に驚きました。
 なぜなら、「産霊」という日本古来の言葉が明らかに「イノベーション」という意味で使われているからです。著者は、「シャープ」の創業者・早川徳次によるシャープペンシルの発明、日清食品による世界初のインスタントラーメンである「チキンラーメン」の開発、UCCコーヒーの創業者・上島忠雄による世界初の缶コーヒー発売などを「いずれも業界そのものに再編を迫る、じつに革新的な産霊だった」と述べています。さらに、著者はロッテの関連メーカーによる携帯用使い捨てカイロ、TOTOのウォシュレット、富士フィルムの「写ルンです」、SONYのウォークマン、そして自動車のナビゲイターなどを「古きよき時代の産霊」として紹介しています。イノベーションとは「産霊」の別名だったのです!

 そして、それらの産霊=イノベーションを実現したのは「職人」でした。 この「職人」について、著者は次のように述べています。

 「日本には『職人』という素晴らしい言葉とそれに見合った存在がいた。べつに伝統工芸に限らず、近代的な工業生産さえも、多くの職人たちが支えていたと言えるだろう。職人とは、モノと心が一体化する人、モノにとことん『耳』を傾ける人、仕事と人生が『不二』になる人々ではないだろうか。そういう人々が日本の『産霊』の伝統を担ってきたような気がする」

 最後に「廉いから外国へ、という流れが、日本の職人文化全体を空洞化させ、モノと一緒に心まで捨てられつつある。そう思うのは、おそらく私だけではないはずである」という著者の言葉に大きく頷いたのは、わたしだけではないでしょう。
 本書は、「日本人」としての自分の心のかたちを知る上で有意義な一冊でした。

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