No.0826 評伝・自伝 『奇跡の人の奇跡の言葉』 ヘレン・ケラー著、高橋和夫・鳥田恵共訳(H&I)

2013.11.14

 『奇跡の人の奇跡の言葉』ヘレン・ケラー著、高橋和夫・鳥田恵共訳(H&I)を読みました。
 かの三重苦を乗り越えたヘレン・ケラーが1927年に執筆した『My Religion(私の宗教)』の全訳で、敬愛するスウェーデンボルグから学んだ言葉が記されています。カバー前そでには、以下のような内容紹介があります。

 「奇跡の人、ヘレン・ケラーの宗教観を決定付けた、天才科学者スウェーデンボルグは、霊界・天界を自由に往来し、奇跡としか言いようのない数々の言葉をヘレンの胸に刻み込んだ。これはヘレンの心を救っただけでなく、現代を生きる我々をも勇気付けてくれる」

 本書の目次構成は、以下のようになっています。

第一章:他界を見た天才科学者
第二章:恩人ヒッツ氏の導きで
第三章:スウェーデンボルグの肖像
第四章:「聖言」の秘められた意味
第五章:天界の生活
第六章:神は愛なり
第七章:歓びこそが生命
第八章:障害は神から与えられた試練
「訳者あとがき」

 第一章「他界を見た天才科学者」の冒頭を、著者はこう書き出しています。

 「ハンス・アンデルセンはその美しい作品の中で、ある庭園のことを書いています。その庭では、いくつもの鉢から巨木が芽生えたのですが、鉢が小さすぎてその根はひどく締めつけられていました。それでも木々は勇ましく陽光の中に立ちあがり、輝かしい枝を広げ、開花の恩恵を降り注ぎ、疲れた人々を黄金の果実で元気づけていました。あらゆる小鳥たちがその心地よい枝に来て歌っていましたので、木々の中心にはいつも心が洗われるような楽しい歌が響いていました。巨木たちは、ついには自分たちを閉じこめていた固く冷たい枷を打ち砕き、自由という甘美な大地に力強い根を張ったのです。
 私には、その奇妙な庭園というのは、エマヌエル・スウェーデンボルグという途方もない天才を育んだ18世紀という時代を象徴しているように思われます」

 見えない、聞こえない、話せないという「三重苦」の闇の中にいたヘレン・ケラーの心に光を射したのはスウェーデンボルグの言葉でした。ヘレンはスウェーデンボルグから世界の秘密、生命の神秘を学びます。

 ある日、突然、彼女には直感のひらめきがやって来たのでした。そのときの様子が、本書には次のように書かれています。

 「その日、私は図書室で30分ほど静かにすわっていましたが、やがて(サリヴァン)先生のほうを振り向いて言いました。『なんて不思議なんでしょう! 今までずっと、私は遠くのほうまで出かけていたんです。この部屋から一歩も動かなかったのに』。『それはどういうことなの、ヘレン?』。先生は驚いて訊ねました。『どうしたのかしら? 私、今までアテネに行っていたのよ』。その言葉が口をついて出るか出ないかの一瞬、ありありとした驚くばかりの現実感が私の心をとらえ、高揚させました。そして私は、私の霊魂が実在すること、しかもそれは場所や身体の制約を完全に超えているということを悟ったのでした。何千マイルも彼方の場所をこんなにありありと”見たり”感じたりしたのは、私が霊そのものだからであり、そのことにもはや疑う余地はありませんでした。霊にとって距離の隔たりなど問題ではありません。この新しい意識においては、神の臨在を、霊としての神ご自身の遍在を、宇宙にあまねく同席される造物主を、眼にすることができるのです。盲・聾・唖の身ではありながら、この小さな霊魂が大陸と大洋を越えてギリシャにまで到達できたという事実は、もうひとつ別の、津波のように押し寄せてくるわくわくした感情を私にもたらしてくれたことになります」

 アメリカの哲学者エマソンは、スウェーデンボルグから大きな影響を受けていました。ヘレンは、エマソンが著書『偉人伝』でスウェーデンボルグについて触れた以下の文章を紹介しています。

 「月光から不老薬を精製しようとする夢想家というふうに同時代人の眼に映ったこの人物が、当時の世界にあってだれよりも真実の生を生きたことは疑う余地もない・・・・・巨大な魂をもった人物だった。その時代の人々にはとても理解できないほどかけはなれており、彼を認めるのは長い焦点距離が必要だった」

 エマソンと同じく、ヘレンもスウェーデンボルグから多大な影響を受けました。彼女は、次のように述べています。

 「私たちがスウェーデンボルグに想いをはせてみますと、イマジネーションのスクリーンの上に次から次へと印象的な人物の姿が現れてきます。たとえばミケランジェロがいます。彼は石の中に天使の姿を見て、その幻の姿を彫りあてるまで鋭く刻みこみつづけました。一方スウェーデンボルグの内なる眼は、生きた天使を目撃すべく見開かれ、”神の言葉”を字義的に解釈した真理、つまりそれは石材にあたるのですが、その石材から、「神は神の子供たちに愛と救いをもたらす」という天界のメッセージを彫りあてたのでした。ベートーヴェン、モーツァルト、ワグナーのことを考えてみますと、スウェーデンボルグの肖像に別のタッチが加わります。彼らは、人の心を天界へ導くようなハーモニーをこの世に注ぎこみましたが、スウェーデンボルグのほうは宇宙の中に聖なるハーモニーを聞き取っており、彼が言うとおり、天使の合唱団が歌う最高に甘美な音楽を実際に耳にしているのです」

 ヘレンがどれだけスウェーデンボルグのことを尊敬しているか。それは、以下の文章を読めば、よくわかるでしょう。

 「ロシアのアレキサンダー1世は農奴を解放し、リンカーンは合衆国で黒人の奴隷制度を廃止しました。かたやスウェーデンボルグは、宗教の殿堂の上に「今や信仰の神秘の内に知的に入ることが許されている」と書かれているヴィジョンを見て、人々の心を解放し、教会の専制勢力をくつがえす、霊的哲学を人類にもたらしました。アガシが動物学と古生物学で行なったことを、マルクスが経済学で行なったことを、ダーウィンが進化論で行なったことを、スウェーデンボルグは宗教で行ないました。つまり、たびかさなる論争と雷鳴のごとき呪詛の声でもって、悲観主義的、断罪主義的、偽善的な大陸文学を粉砕して地獄の深みへ追いやったのでした」

 それにしても、ヘレン・ケラー自身の教養の豊かさにも驚かされます。教養といえば、ヘレンはスウェーデンボルグの思想を「広範で疑う余地のない教養」ととらえており、次のように述べています。

 「スウェーデンボルグが世界の生命思想の中でどのように位置づけられるかを考えてみるなら、人類の宗教的教師たちを思いおこしてみるとよいでしょう。釈迦は、東洋人の鑑として輝く穏やかな生涯を送りました。孔子は教訓によって教え、ムハンマドは偶像崇拝に支配された地域一帯に、火と剣をかざしつつ唯一神についてのメッセージを伝えました。けれどもスウェーデンボルグは、健全で濁りのない信仰――無知や暴力から宗教を守り、抑圧の手段として宗教を用いようとする者たちの狡猾さから宗教を守ることができる、唯一の合理的真理――を分かち与えるために努力しました。ほかの指導者たちは、まじめで誠実ではありましたが、科学的知識や、人間の行動原理についての洞察はもっておらず、人間の心と身体に束縛を創り出さないように社会を守ることができる唯一の戦闘的真理ももってはいなかったのです」

 スウェーデンボルグはともかく、ヘレン・ケラーが孔子やムハンマドの思想まで知っていたとは! まったく驚きです。まさに「奇跡の人」ですね。スウェーデンボルグは偉大な神秘家として天界の様子を詳しく報告した人ですが、彼の天界からの報告について、ヘレンは次のように述べます。

 「悪夢から目覚めたとき、自分の上でほほえんでいる愛しい顔を眺めることができたら、それにまさる歓びがあるでしょうか? 私たちがこの世から天界へと目覚めたときは、きっとそんな感じに違いない、と私は信じたいのです。もう”亡くなって”しまった私の友人たちの一人ひとりが、今は暁の彼方の幸福な世界とこの世とのあいだの新しいかけ橋になっていることを、私は信じて疑いません。その人たちの手の感触が感じられなかったり、彼らの優しい言葉を聞けなかったりすると、私の魂はときとして悲しみに沈みこみます。けれども、信仰の光はけっして私の青空から消えてしまうことはなく、私はもういちど心を取りなおして、彼らが自由であることを歓ぶのです。私には、なぜだれもが死を恐れるのか理解できません。この世の生は死よりももっと冷酷です。なぜなら、生は別離や離反をもたらしますが、死のほうは、本当のところ永遠の生であり、再会や和解も可能だからです。肉体の眼の内側にある霊眼が来世で開かれたときには、自分の心の国で、ただ意識だけをもって生活をすることになるのだ、と私は信じています」

 そして、愛についての以下のヘレンの記述は非常に感動的です。

 「私の肉体の耳は閉じられているので、発声訓練をするとき私がもっとも努力するのは、いわば内側の耳でもって音と言葉の本当のイメージを捕まえることです。そして、発声装置とも言える心を正しく用いるようになればなるほど、私の発音は人に理解してもらえるようになるでしょう。こうした声のたとえを愛にあてはめるのは、かなり無理があると思われるかもしれません。が、原理的にはまったく同じなのです。あらゆる情緒、好悪、興味、流れなどをともなう各人の人生は、その人の内奥の愛によって形づくられ、色づけられ、最終的にはその栄枯盛衰もコントロールされてしまいます。ですから、もし気高い感受性やすばらしい理想を身につけ、幸せに対するせつないほどの憧れを満たしたいと望むなら、愛とは活動力であり、創造力であり、牽引力であるという真正な精神的概念を形づくるよう努力する必要があります」

 ヘレンは「三重苦」という障害を背負った自分のことをどう考えていたのか。それは「神罰」とか「不慮の事故」ではなく、「鍛錬」や「試練」、そして「魂の浄化」と考えていたのです。彼女は、次のように述べています。

 「私は自分の身体的障害を、どんな意味でも神罰だとか不慮の事故であると思いこんだことは一度もありません。もしそんな考え方をしていたら、私は障害を克服する強さを発揮することはできなかったはずです。いつも思うのですが、”ヘブル人に宛てたパウロの書簡”にある『神がこらしめられるのは、私たちを子として扱っておられるからである』(「ヘブル人への手紙」12章7節)という言葉には、とても特別な意味がこめられているようです。スウェーデンボルグの教えも、私のこの見解を支持してくれています。つまり彼は、必ずと言っていいほど誤解される”こらしめ”とか、”せっかん”という聖書中の言葉を、”神罰”としてではなく、”鍛錬””試練””魂の浄化”として定義しているのです」

 最後に、次の一文で本書は終っています。

 「私の神秘的世界は、私がまだ”見た”こともない木々や雲や星や渦巻く流れなどのある可憐な世界です。眼が見える友人たちにとっては何もないところに、私はしばしば美しい花や小鳥や笑いさざめく子供たちを感じ取ります。彼らはいぶかしそうに、私が『海にも陸にもけっしてなかったような光』を見ているのだといいはります。けれども、彼らの人生にかくもたくさんの不毛の地があるのは、彼らの神秘的感覚が眠っているためだということを、私は知っています。彼らはヴィジョンよりも”事実”を好みます。彼らは科学的な実証を求め、それを手にすることができます。科学はたゆみない忍耐をもって人間の起源をサルにまで遡り、満足げにひと休みしています。しかし神はこのサルからスウェーデンボルグのような見者を創られたではありませんか。ですから、生が死と出会ってそれらがひとつになるように、科学は霊と出会ってひとつになるのです」

 わたしは、これまで多くの宗教や精神世界についての本を読んできました。しかし、本書ほど神秘的で、かつ説得力のある本を読んだことはありません。ヘレン・ケラーの人生そのものも奇跡的でしたが、本書の内容もまた奇跡的であると言えるでしょう。1人でも多くの方に読んでほしいと心から思います。

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