No.0804 芸術・芸能・映画 『ウルトラマンが泣いている』 円谷英明著(講談社現代新書)

2013.10.03

 『ウルトラマンが泣いている』円谷英明著(講談社現代新書)を読みました。
 サブタイトルに「円谷プロの失敗」とあるように、本書は怪獣映画の金字塔「ゴジラ」をはじめ、「ウルトラQ」「ウルトラマン」「ウルトラセブン」など一連の特撮の名作を世に送り出してきた円谷プロ創設から、2007年の「事実上の崩壊」までを赤裸々に綴ったものです。著者は、円谷プロ初代社長である円谷英二氏の孫で、二代目社長である円谷一氏の子息の英明氏(六代目社長)です。本書の帯には、「なぜ創業者一族は追放されたのか」「『特撮の神様』の孫が明かす栄光と迷走の50年」と書かれています。

 本書の目次構成は、以下のようになっています。

「はじめに―怪獣が身もだえしたわけ」
第一章 円谷プロの「不幸」
第二章 テレビから「消えた」理由
第三章 厚かった「海外進出」の壁
第四章 円谷プロ「最大の失敗」
第五章 難敵は「玩具優先主義」
第六章 円谷商法「破綻の恐怖」
第七章 ウルトラマンが泣いている
「おわりに―祖父・円谷英二が残した日記」
「円谷プロ略年表」
「参考文献」

 特撮とは、ミニチュアや着ぐるみを駆使して、あたかも実写のように見せる独自の撮影技術です。「特撮の神様」と呼ばれた円谷英二が創設した円谷プロは、東宝の怪獣シリーズ、TBSのウルトラシリーズと映画、テレビの両業界でヒットを連発し、日本のみならず世界の映像業界をリードしてきました。CG全盛の現在において、「特撮など時代遅れ」と言う人もいるかもしれません。しかし、「はじめに――怪獣が身もだえしたわけ」で、著者は述べています。

 「当時の特撮は、CG(コンピュータ・グラフィックス)に慣れた今の視聴者から見れば、ちゃちな子供だましと言われるかもしれません。
 ただ、これだけは言えます。特撮にはでこぼこした手触り感があります。
 それは実物だけが持つ迫真です。どう壊れるかはやってみなければ誰にもわかりません。作った人が、こうなるだろうと考える決めつけを、あっさり裏切ります。全能ではない
生身の人間と、なかなかその思いに応えてくれない素材が織りなす、結果が予想できないドラマです。
 一方、CGは破片の広がりも勢いも時間も調和し、誰もが予想した通りに整然と壊れます。製作者が考えた通りに動くからです。また、現代ではCGなら何でも描けるという知識が知れわたっています。もはやどんな壮大な迫力ある映像でも、見る人に驚きや感動は生れないでしょう。便利になった代償として、『意外性』という創作映像の最も魅力的な要素は、失われてしまいました」

 「特撮の神様」は、とにかく「こだわり」のある職人気質の人で、ビジネスではなく「芸術作品」として仕事をしてきました。撮影の現場で、「こんな映像を世に出してはダメだ」と怒鳴ったことが何度もあったそうです。円谷英二のもとには、大変な苦労の末に生み育てられた「人」と「技術」が集積されていきました。しかし、多くの人材が円谷プロから巣立っていきました。著者は、次のように書いています。

 「祖父には、技術も、また、それを駆使できるスタッフも、円谷プロで独占するという発想はありませんでした。
 東宝の『ゴジラ』や『モスラ』などを作った後、1963年に円谷プロと東宝との専属契約が解消された翌年には、独立した祖父の弟子たちが、大映で『大怪獣ガメラ』を作ったのがそのいい例でしょう。当時の東宝は、祖父には表立って文句は言わなかったそうですが、関係者は苦々しく思っていたようです。
 1966年、円谷プロのTBS『ウルトラマン』とほぼ同じ時期に、フジテレビで放送された実写版『マグマ大使』の特撮を担当したのも、祖父の弟子たちです。逆に、1971年、フジテレビで円谷プロの『ミラーマン』が放送されていたころ、その裏番組としてTBSで放送されていた『シルバー仮面』も、やはり直前まで円谷プロで活躍していたスタッフが制作したものです。
 そのころ、すでに祖父は鬼籍に入っていましたが、人の囲い込みをしない社風というか伝統は、受け継がれていました」

 本書には、著者による他の円谷一族の人々に対する恨みのようなものが延々と綴られています。幼少時代のわたしを含めて、多くの子どもたちに夢を見せてきた円谷プロ。そんな「夢工場」としての企業の夢のない内幕が赤裸々に暴露されており、読んでいて複雑な気持ちになりました。そこに書かれた大人の事情は、多くの同族企業にも見られることなのでしょう。ただし、円谷プロ「失敗」の原因がすべて同族経営にあったのかといえば、これには異論があるとして、著者は次のように述べます。

 「1973年に叔父の皐さんが三代目社長に就任し、皐さんの死後、四代目社長に息子の一夫さんがなっています。その間、我々円谷一の一族は、円谷プロの経営の中枢には関与できなかったのです。そんな噂を耳にしながら、私たちは手をこまねいているしかありませんでした。あえて言わせていただければ、円谷プロの経営の問題は、同族経営ではなく、ワンマン経営にあったのです」

 また、本書には過去の放漫経営に対する検証と反省が赤裸々に綴られています。経営者である自分にとって、この部分はじつに勉強になりました。

 円谷プロは、さまざまな迷走と失敗を重ねてきましたが、そのひとつにアメリカ進出の挫折があります。鳴り物入りでハリウッドで制作された「ウルトラマンパワード」がまったくヒットしなかったのです。なぜ、文化の壁が乗り越えられなかったのか。著者は述べます。

 「子供向けのヒーロー番組の作風の根本が違っていたのです。アメリカでは、より現実味のある等身大ヒーローが主流でした。スーパーマンもバットマンも、スパイダーマンもキャプテン・アメリカも、長く子供たちに愛されてきたヒーローは等身大に限られています。キングコングなどの巨大怪獣は存在しても、それと戦うヒーローが巨大化することはありません。ヒーローが持っている超能力も、ある程度、科学的に説明のつくようにしています」

 「ウルトラマンパワード」と同時期に、石ノ森章太郎原作の「秘密戦隊ゴレンジャー」の流れを汲むスーパー戦隊ものである「パワーレンジャー」という日本の特撮番組がアメリカで大人気になったそうです。著者は、「ウルトラシリーズのように、どこか遠くから来たヒーローが、突然、巨大な姿を現し、人間を守ってくれるという発想は『嘘くさい』と思われてしまったのか、受け入れられる素地はありませんでした。長く培われた文化的土壌の壁は厚く、米国市場は意外に閉鎖的で、ウルトラマンはそれを乗り越えることはできなかったのです」と述べます。

 わたしが最も考えさせられたのが、第四章「円谷プロ『最大の失敗』」でした。円谷プロは1971年にキャラクター・ビジネスを本格的に開始しますが、その後はずっと怪獣ブームの浮き沈みに翻弄され続けたそうです。怪獣ブームは、おおむね次のような5つの時期に分けられます。

 第一次ブーム:「ウルトラQ」「ウルトラマン」「ウルトラセブン」が放送された1966~67年、第二次ブーム:「帰ってきたウルトラマン」「ウルトラマンA」「ウルトラマンタロウ」「ウルトラマンレオ」とレギュラー番組が続いた1971年~74年、第三次ブーム:「ウルトラマン80」が放送された1980年。その後、じつに16年の空白あり、第四次ブーム:「ウルトラマンティガ」「ウルトラマンダイナ」「ウルトラマンガイア」の平成三部作と、少し間を置いて「ウルトラマンコスモス」が放送された1996年~2001年、第五次ブーム:「ウルトラマンネクサス」「ウルトラマンマックス」「ウルトラマンメビウス」が作られた2004年~06年。

 これらのブームについて、著者は次のように述べています。

 「ブームというのは、どんなものでも同じだと思いますが、とにかく振れ幅が極端です。『ウルトラマンレオ』終了後の約6年間(1979年のアニメ『ザ☆ウルトラマン』を除く)と、『ウルトラマン80』の後、新作の地上波レギュラー放送がなかった約16年間というふたつの沈滞期がありましたが、いつからそうなるのか、予測することは困難でした。ある日、突然、それまでのにぎわいが嘘のように、玩具店から客足が遠のき、グッズの売れ行きがガタ落ちするのです。前の年の収入が10億円あったので安心していたところ、翌年は一挙に5000万円まで落ち込み、『ゼロがひとつ足りないのでは』と数字を何度も見直した覚えがあります」

 ウルトラシリーズのコンセプトは、コロコロ変わりました。その理由について、著者は次のように述べています。

 「円谷プロがそうせざるを得なかった一番の理由は、新シリーズが始まるごとに、あるいは始まった後も、テレビ局から、『設定やストーリーなどの内容は、今の時代に合わせたものにしてほしい』という要求が、繰り返されたからでした」

 古いものを否定し、その時代のトレンドに合わせようとすると、同時代にヒットしているものを真似するのが手っ取り早いです。その結果、「ウルトラマンA」は当時流行していた「仮面ライダー」の影響を受け、次々に新しい仮面ライダーが登場するのにならって「ウルトラ兄弟」という集団が多用されました。次の「ウルトラマンタロウ」では、さらに集団主義が強調され、兄弟から家族へと進みました。ウルトラの父やウルトラの母といった、冗談のような存在が生れていきました。ヒゲの生えたウルトラの父、胸の出ているウルトラの母を見ながら、わたしは子どもながらに「なんだかなあ・・・」と思った記憶があります。

 「ウルトラマンレオ」では、「ジャングル大帝」レオの影響を受けた名前の主人公ウルトラマンレオが、「巨人の星」や「あしたのジョー」といったスポーツ根性ものの影響から、ウルトラセブンの猛特訓を受けます。「ウルトラマン80」は米国映画「エイリアン」の、「ウルトラマンティガ」は同じく「スター・ウォーズ」の影響が強く感じられます。このようにウルトラシリーズでは、視聴者が「いかにも」と感じるような模倣が繰り返され、それによってコンセプトが迷走していったのです。

 このコンセプトの迷走について、著者は次のように述べます。

 「時代に合わせるため、あるいは制作サイドの”大人の事情”で、コンセプトを安易に変えてしまうことは、昔から他の子供番組にもありがちでしたが、そこそこの年齢の子供には見透かされてしまいます。今の若者なら、突っ込みどころ満載と言われてしまうでしょう」

 さらに、著者は次のように続けます。

 「ウルトラシリーズのように長く続く番組の場合は、もっと慎重であるべきだったのではないかと思います。コンセプトをいじくることに集中するあまり、初期のウルトラシリーズにあった、さりげないユーモアや市井の庶民のペーソスなど、単純な勧善懲悪の子供番組とは一線を画する一味違った趣は、ほとんど忘れられてしまいました」

 次の著者の言葉は、表現に関わるすべての人々の心に響くことでしょう。

 「ウルトラシリーズが始まった1966年とほぼ同時代に公開がスタートした松竹映画『男はつらいよ』の場合、1969年から主人公である寅さんのキャラや話の設定をまったく変えないまま、二十余年にわたって作られました。
 TBSの時代劇『水戸黄門』は、シリーズ化された1969年から2011年までの42年の長きにわたって、偉大なるマンネリと揶揄されながらも、継続して制作されました。途中で設定を変えたこともありましたが、不人気だったため、すぐに元の定番に戻しています。
 なぜ、ウルトラマンも、偉大なるマンネリではいけなかったのでしょうか」

 これは出版業界の人々にも言えることです。「新しくなければ読者がつかない」「新しくしなければ読者に飽きられる」という脅迫観念のようなものが、業界内にあるように思います。テレビや広告業界などの基本的に「新しもの好き」な連中が集まる業界ではなおさらで、別にクライアントが希望してもいないのに強引に広告スタイルやCMコンセプトの変更を提案するプランナーは後を絶ちません。要は、クリエイターも含めて、自分たちが遊びたいのです。これは、建築家などにも言えることでしょう。「新しければいい」というのは、非常に安易で幼稚な発想です。

 経営学者のドラッカーは「継続」と「革新」を訴えました。そう、変えていいものと、変えてはいけないものとがあるのです。ウルトラシリーズは「革新」のみに走って自滅したのでした。著者は、次のように述べています。

 「結局、ウルトラシーズには、その時々で適当に変えてしまうご都合主義=『しょせん子供番組なのだから何をしても許される』という言い訳が、常に付随していました。ウルトラシリーズの変遷を見て、大人になったファンは次第に離れていきました。時には嫌悪感すら抱かせてしまったことが、円谷プロ『最大の失敗』だったと思います。子供は親の表情を常に見ていて、親の感じ方に敏感に反応するものです。ファンのこだわりを軽んじ、子供の感性をも軽んじたことで、しっぺ返しをくらったのだと思います」

 今や玩具会社から総合キャラクター会社に発展したバンダイは、多くのテレビ番組関連キャラクター商品を扱っています。2012年の時点で、最も売れているのは「機動戦士ガンダム」シリーズで、じつにウルトラシリーズの10倍以上だとか。著者は、次のように述べています。

 「ガンダムとウルトラシリーズには、共通点があります。最初の作品が、歴史的に評価が高いことです。しかし、その後の評判は違いました。私は、平成三部作を放送したMBS(毎日放送)が、同じ時間枠をガンダムに乗り換えた際、ガンダムが好きな理由を、コミックマーケットに集まった筋金入りのガンダムファンに尋ねたことがあります。その答えは、『ガンダムは、初期のクオリティやポリシーを守ろうとしている。実際は失敗した作品も多いんだけど、道を踏み外してはいないと思う』というものでした。ガンダムシリーズには、作る側と一緒に育てたいというファンの共感がありました。
 それこそが、ウルトラシリーズに決定的にかけていた要素でした」

 円谷プロはTYOに買収され、長年続いた創業者・円谷一族の経営は終わりを告げました。一世を風靡した企業の凋落のドラマは虚しいものです。いま、カルピスは味の素、ニッカウィスキーはアサヒビール、そしてアントニオ猪木が立ち上げた新日本プロレスはブシロードの傘下に入ってしまいました。わたしは、今も書斎に巨大フィギュアを置いているぐらい、「ゴジラ」が大好きです。「ウルトラQ」や「ウルトラマン」や「ウルトラセブン」も大好きでした。でも、「セブン」と、それ以降のウルトラシリーズには大きな断絶があると子ども心にも感じていました。ストーリーはどんどん凡庸になり、怪獣のデザインもつまらなくなっていきました。

 円谷英二が精魂込めて制作した「ウルトラQ」で発生した負債を何年もかけていったん返済しておきながら、そこで生れた利益を経営陣が放漫経営で食い潰し、金策とリストラの結果、再び生れた利益をまた放漫経営で食い潰したことが何とも悔やまれます。どうして、そのお金をクオリティの高い作品を作ることに使わなかったのでしょうか? 「はじめに」の最後には、「円谷一族の人間は皆、いい意味でも悪い意味でも、子供だったのかもしれません」と書かれています。

 本書は、過去の財産で食べていこうとするコンテンツ産業のみならず、あらゆる企業が根本的に孕んでいる「魔」のようなものを垣間見せてくれます。その意味で、新日本プロレスの衰退の記録と同じく、マネジメントの書として優れていると思います。「おわりに」の最後には、次のように書かれています。

 「私は今、映像の世界からは完全に足を洗い、ブライダル会社の衣装を運ぶ仕事で忙しく働いています。日々、淡々と過ごす中で、唯一の楽しみは、かつて円谷プロの若いスタッフたちと共に、よく父に連れていってもらった海釣りです。
 未明の薄暗い海で、ひとり静かに釣り糸をたれていると、私が子供だったころの円谷プロのスタジオの、華やかなりし日々の喧騒が聞こえてくるのですが、あるいは、打ち寄せる波の音が、そう聞こえるだけかもしれません」

 わたしは、この結びの一文を読んで感動しました。素晴らしい名文です。本書全体を通して、書き手としての著者の力量はかなり高いレベルにあります。

 それにしても、著者がいま、ブライダル会社の衣装を運ぶ仕事をしているとは! もちろん、それも立派な仕事ですが、同じ冠婚葬祭ならばブライダルよりもフューネラルのほうが著者の経験や感性が存分に生かせるのではないかと思います。それも故人の遺影を進化させた映像の仕事です。わたしは、なつかしい愛すべき亡き人を「幽霊」ならぬ「優霊」と呼び、グリフケアを意識した新時代の葬儀としての「優霊づくり」というものを考えているのですが、もし著者にその気があれば、ぜひ一緒に仕事をしてみたいと思います。

 「ウルトラQ」のあの幽玄的かつ幻想的な世界が、供養という世界によみがえり、愛する人を亡くした人々の悲しみを癒すことができたら、とても素敵ですね!

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