No.0818 読書論・読書術 『戦略読書日記』 楠木健著(プレジデント社)

2013.10.30

 『戦略読書日記』楠木健著(プレジデント社)を読みました。
 著者は、一橋大学大学院 国際企業戦略研究科教授で、専攻は競争戦略とイノベーションです。著書にベストセラーとなった『ストーリーとしての競争戦略』(東洋経済新報社)、 『経営センスの論理』(新潮新書)などがあります。

 本書のサブタイトルは「本質を抉りだす思考のセンス」で、帯には「『ストーリーとしての競争戦略』の原点がここにある」というキャッチコピーに続いて、「『日本永代蔵』『最終戦争論』『一勝九敗』『プロフェッショナルマネジャー』『クアトロ・ラガッツイ』『生産システムの進化論』『日本の喜劇人』・・・・・。読んでは考え、考えては読む。本との対話に明け暮れた挙句の果てに立ち上がる、極私的普遍の世界。楠木健の思考のエッセンスとスタイルが凝縮された一冊」とあります。

 さらに、カバーの前そでには、「読書は経営のセンスを磨き、戦略ストーリーを構想するための筋トレであり、走り込みである。即効性はない。しかし、じわじわ効いてくる。三年、五年とやり続ければ、火を見るよりも明らかな違いが出てくるはずだ」と書かれています。

 本書の目次構成は、以下のようになっています。

「まえがき」
序 章  時空間縦横無尽の疑似体験
     『ストーリーとしての競争戦略』楠木建著
第1章  疾走するセンス
     『元祖テレビ屋大奮戦!』井原高忠著
第2章  「当然ですけど。当たり前ですけど」
     『一勝九敗』柳井正著
第3章  持続的競争優位の最強論理
     『「バカな」と「なるほど」』吉原英樹著
第4章  日本の「持ち味」を再考する
     『日本の半導体40年』菊池誠著
第5章  情報は少なめに、注意はたっぷりと
     『スパークする思考』内田和成著
第6章  「バック・トゥー・ザ・フューチャー」の戦略思考
     『最終戦争論』石原莞爾著
第7章  経営人材を創る経営
     『「日本の経営」を創る』三枝匡、伊丹敬之著
第8章  暴走するセンス
     『おそめ』石井妙子著
第9章  殿堂入りの戦略ストーリー
     『Hot Pepper ミラクル・ストーリー』平尾勇司著
第10章 身も蓋もないがキレがある
     『ストラテジストにさよならを』広木隆著
第11章 並列から直列へ
     『レコーディング・ダイエット決定版』岡田斗司夫著
第12章 俺の目を見ろ、何も言うな
     『プロフェッショナルマネジャー』ハロルド・ジェニーン著
第13章 過剰に強烈な経営者との脳内対話
     『成功はゴミ箱の中に』レイ・クロック著
第14章 普遍にして不変の骨法
     『映画はやくざなり』笠原和夫著
第15章 ハッとして、グッとくる
     『市場と企業組織』O・E・ウィリアムソン著
第16章 日ごろの心構え
     『生産システムの進化論』藤本隆宏著
第17章 花のお江戸のイノベーション
     『日本永代蔵』井原西鶴著
第18章 メタファーの炸裂
     『10宅論』隈研吾著
第19章 「当たり前」大作戦
     『直球勝負の会社』出口治明著
第20章 グローバル化とはどういうことか
     『クアトロ・ラガッツィ』若桑みどり著
第21章 センスと芸風
     『日本の喜劇人』小林信彦著
ロング・インタビュー「僕の読書スタイル」
[付録]読書録

 序 章「時空間縦横無尽の疑似体験」で、著者は自著である『ストーリーとしての競争戦略』を取り上げながら、次のように述べています。

 「戦略分析は担当者(たとえば『経営企画部門』の『戦略スタッフ』)の仕事である。しかし、戦略をつくるということは、商売全体を組み立てるということであり、担当者の手に負えない。あくまでも経営者の仕事だ。戦略をストーリーとして考えるという僕の視点からすれば、戦略は分析の産物ではない。戦略の構想は何よりも『綜合』(シンセシス)の思考を必要とする。戦略をつくるという仕事にはそもそも『分析』(アナリシス)の思考とは相容れない面がある」

 著者いわく、分析と綜合の違いは、「スキル」と「センス」の違いといってもよいそうです。分析がスキルを必要とするのに対して、綜合はセンスにかかっているとする著者は、次のように述べます。

 「スキルとセンス、どちらも大切である。ただし、両者はまるで異なる能力であり、区別して考える必要がある。戦略『分析』がそうであるように、スキルは分業の結果として現れる個別の『担当業務』に対応している。ファイナンスのスキルがある人がファイナンス担当をやり、法律のスキルのある人が法務担当をやり、アカウンティングのスキルがある人が経理担当をやる」

 さらに、著者はスキル偏重の風潮について、次のように述べます。

 「だから今の時代、多くの人がスキルに傾く。センスがないがしろにされる。会社の中でもスキルばかりが幅を利かせるようになる。気がつくと会社全体が『担当者』だらけになる。挙句の果てに、『代表取締役担当者』タイプの社長が出てくる。何をやっているのかというと、代表取締役の担当業務を粛々とこなしているだけ。まるで戦略が出てこない。こうなるともはや笑えない状況だ。誰も本来の意味での経営をしていないということになる。『担当分野』がないのが経営者の仕事だ」

 なるほど、この「担当分野」がないのが経営者の仕事というのはよくわかります。そして、著者はなんと「モテる」という言葉を持ち出して、次のように述べます。

 「スキルがビジネスのベーシックス、『国語算数理科社会』の世界だとすれば、センスというのは課外活動、『どうやったらモテるか』という話である。『こうやったらモテるようになりますよ』という標準的な方法論は存在しない。それでも『モテる人』と『モテない人』がいることは厳然たる事実だ。実際に『モテる人』を見ればすぐにわかることだが、『なぜモテるか』は人それぞれ千差万別。モテている人にはその人に固有の理由がある。センスとはそういうものだ」

 わたしはこれを読んで、「なぜ、あの人はモテるのか?」というキャッチコピーが帯に入った拙著『龍馬とカエサル』(三五館)の内容を思い出しました。同書には「ハートフル・リーダーシップの研究」というサブタイトルがついていますが、これはもちろん「センス」と深い関係があります。

 「センス」について、著者は次のように述べています。

 「センスのいい人がそう都合よく自分のそばにいてくれるわけではないし、鞄持ちをできたとしても見る対象がごく少数に限定されてしまう。もう一段さらに擬似的ではあるが、もっと日常的に手軽にできる方法があったほうがよい。それが読書である」

 著者は、戦略のセンスを錬成する手段として、読書が優れていると断言します。では、なぜ読書が優れているのか。著者は、このように述べます。

 「論理を獲得するための深みとか奥行きは『文脈』(の豊かさ)にかかっている。経営の論理は文脈のなかでしか理解できない。情報の断片を前後左右に広がる文脈のなかに置いて、初めて因果のロジックが見えてくる。紙に印刷されたものでも電子書籍でもよい。あるテーマについてのまとまった記述がしてあるものを『本』と呼ぶならば、読書の強みは文脈の豊かさにある。空間的、時間的文脈を広げて因果論理を考える材料として、読書は依然として最強の思考装置だ」

 さらに、読書について著者は次のようなことを言います。

 「あくまでも一般論ではあるが、戦略のセンスをつけるための読書としては、フィクションよりもノンフィクションが向いている。具体的な事実のほうがロジックが強いからだ。フィクションだとロジックは作家のつくりたい放題なので、どうしても論理が緩くなる」
 まあ、論理を獲得するという目的のためならノンフィクションが適しているでしょうが、経営者として総合的な人間力を獲得するためにはフィクションを読むことも必要ではないかと思います。
 また、著者は読書するときの姿勢についても言及しています。

 「読書をするときには姿勢が大切である。本をあまり目に近づけないように、といった物理的姿勢も大切だが、心の構えはもっと大切だ。著者や登場人物と対話するように読む。対話をすることによって自分との相対比が進む。本当は生身の優れた人間と直接対話できればいいのだが、そういう人は遠くにいたり、忙しかったり、死んでしまっているのでなかなかかなわない。そこに相手がいないときでも、いつでもどこでも誰とでも、時間と空間を飛び越えて対話ができる。ここに読書の絶対的な強みがある」

 拙著『あらゆる本が面白く読める方法』(三五館)にも書きましたが、わたしは本の「著者プロフィール」を見ながら、出来る限り具体的に著者の姿を想像しながら対話をしているつもりで読書します。

 また、古典の著者は基本的に亡くなっています。つまり、死者ですね。死者が書いた本を読むという行為は、じつは死者と会話しているのと同じことです。わたしは、よく『読書とは交霊術だ』というのですが、きわめてスピリチュアルな行為が読書なのですね。わたしは、三島由紀夫の小説を読むときは『盾の会』の制服を着た三島が、小林秀雄の評論を読むときは仕立ての良いスーツを着た小林秀雄が目の前にいることを想像します。

 古代の人でも同じです。『論語』を読むときは孔子が、プラトンの哲学書を読むときはローブ姿のプラトンが、わたしの目の前に座って、わたしだけのために話してくれるシチュエーションを具体的にイメージするのです。

 序章の最後に、著者は次のように読書の効用を述べています。

 「戦略のセンスを磨くためのいくつかのアプローチのうちで、読書はもっとも『早い・安い・美味い』方法だ。本格的なフランス料理のフルコース(=商売丸ごとを自ら経験して、試行錯誤を通じてセンスを磨く)には及ばないけれども、相対的に低コストで、時間をかけずに、いつでもどこでも日常のルーティンとして生活に取り込めるというのが読書の素晴らしいところ。
 スポーツに例えれば、毎日シビれるような試合はできないが、ジムでの筋トレや走り込みならばルーティンとして取り組める。読書は経営のセンスを磨き、戦略ストーリーを構想するための筋トレであり、走り込みである。即効性はない。しかし、じわじわ効いてくる。3年、5年とやり続ければ、火を見るより明らかな違いが出てくるはずだ」

 この部分が、カバーの前そでで使われた文章ですね。

 第1章「疾走するセンス」では、井原高忠著『元祖テレビ屋大奮戦!』を取り上げながら、著者は次のように述べています。

 「戦略ストーリーとは全体の『動き』『流れ』についての構想である。分業は仕方ないにしても、戦略の実行局面では『分業しているけれども分断されてない状態』を保つ。ここにリーダーの本領がある。サブ・コンからトークバックを全開にして全員に指示を飛ばすというスタイルにはまことに味がある。理想的なリーダーの構えだ。
 戦略づくりは民主主義ではうまくいかない。戦略ストーリーは組織や部署ではなく、特定の人が担うものだ。その意味で、戦略ストーリーをつくる立場にある人は丸ごと全部を動かせる『独裁者』である必要がある」

 第5章「情報は少なめに、注意はたっぷりと」では、内田和成著『スパークする思考』を取り上げながら「情報」について次のように述べます。

 「毎日インターネットとまじめに向き合っていたら時間がいくらあっても足りない。自分の読んだ本や観た映画の備忘録として僕もツイッターを使っているが、タイムラインにバーッと情報が入ってくると読み切れなくて困るので、極力フォローしない。もちろん全部読む必要はないとわかっていても、情報が流れてくれば読んでしまう。目の前の情報を取り込もうとするのはおそらく人間の本能なのだろう。これがインターネットの抱えている本質的な矛盾である。情報の遮断とそのための方法論がこれからのアウトプットのカギを握っていると思う」

 また著者は、「検索」が「情報遮断」であるとして、次のように述べます。

 「検索というサービスがある。これにしても、自分の注意や関心から外れる情報をスクリーニングするための作業であり、ある意味では『情報遮断』である。ただ、ごく消極的で緩い遮断にすぎない。情報通信技術が進歩すればするほど、人は注意を犠牲にするようになる。だとすれば、もっと積極的というか攻撃的に情報を遮断する必要がある。人間の脳のキャパシティが向こう1万年ぐらい増大しないとすれば、遮断こそが注意を取り戻すいちばん手っ取り早い方法になる。内田さんの本はこの点でまことに実用的だ」

 第11章「並列から直列へ」では、岡田斗司夫著『レコーディング・ダイエット決定版』を取り上げて、次のように述べます。

 「レコーディング・ダイエットのコンセプトは『太る努力をやめる』、この一言に尽きる。単純にして明快、しかも独創的。秀逸至極なコンセプトである。
 なぜ単純明快なのか。このコンセプトが『何ではないか』がはっきりしているからである。『太る努力をやめる』ということは『痩せる努力をするのではない』ということだ。言葉の上では当たり前に聞こえるが、『痩せる努力をする』から『太る努力をしない』への転換、ここにレコーディング・ダイエットの独創性がある。これまで人々がいいと思って目指していた方向を所与として、そのさらに先に行きましょうという話ではない。そもそも拠って立つ次元が異なる。文字どおりの新機軸であり、言葉の正確な意味でのイノベーションであるといえる」

 この「太る努力をやめる」というレコーディング・ダイエットのコンセプトは非常に深いですね。マネジメントや個人の生き方を考える上でも大いに参考になる発想だと思います。著者は、さらに述べています。

 「このコンセプトは人間の本性を的確にとらえているという意味でも秀逸である。戦略の実行に向けて人々の気持ちに火をつける力がある。ダイエットを『痩せる努力をする』ことだと考えると、体重が減らないと自分を責めてしまう。しかし、太っているのは『努力の結果』と再定義すれば、無理な努力をやめればいいのだから、やたらとポジティブな話になる」

 なるほど、そうすると酒の飲みすぎも、タバコの吸い過ぎも、すべては努力の結果であり、努力をしなければ簡単にやめられるわけですね。

 第17章「花のお江戸のイノベーション」では、井原西鶴著『日本永代蔵』(掘切実訳注、角川ソフィア文庫)を取り上げて、次のように述べています。

 「その業界で既存の支配的な戦略やビジネスモデルのもとで『合理的』で『大切』なことであれば、みんなが必死に資源と努力を投入する。しかし、『今みんなが必死になってやっていること』の先には、戦略のイノベーションはない。裏を返せば、従来の支配的な戦略にとってカギとなる武器を完全に無力化する、ここに戦略のイノベーションの本質がある。これが(手前勝手な推測かもしれないが)、西鶴が記述した越後屋呉服店のケースから僕が引き出した洞察だ。
 現代の戦略イノベーションでもこうしたロジックが見てとれる。『ストーリーとしての競争戦略』でも書いた話だが、ガリバーインターナショナルの『買い取り専門』の戦略ストーリーは、それがイノベーションであったという意味で、論理的には越後屋呉服店と相似形にある」

 この越後屋呉服店とガリバーインターナショナルが相似形にあるという見方もユニークですが、この章では以下の一文に深く共鳴しました。

 「最新の経営手法を紹介するビジネス書もいいけれども、たまには歴史を過去に遡り、古い本を読んでみることをおすすめする。具体的なレベルで全然違っているほうが、中途半端に実践的な『これは使える』という話が出てこないので、抽象レベルにある論理に目を向けやすいからだ」

 そして、本書で最も興味深く読んだのが、第19章「『当たり前』大作戦」でした。著者は、出口治明著『直球勝負の会社』を取り上げますが、出口氏は日本で74年ぶりに生まれた独立の生命保険会社である「ライフネット生命保険」の創業経営者です。ライフネット生命保険の創業ビジョンは以下の3つで、きわめてシンプルです。

1.保険料を半額にしたい
2.保険金の不払いをゼロにしたい
3.(生命保険商品の)比較情報を発展させたい

 本書には、次のようにライフネット生命の創業秘話が紹介されています。

 「近代的生命保険の創始者とされるのは、イギリスのオールド・エクイタブルのジェームズ・ドッドソン。出口さんは考えた。もしドッドソンがタイムスリップして、今の日本に来て、売り出されているさまざまな生命保険商品を見たら何と思うだろうか。『私が世のため人のためを思って考案した生命保険が、こんな奇妙な商品に変質してしまったのか・・・・・・』と嘆くだろう、と。つまり、それだけ生命保険というものが複雑きわまりない、いったい誰にとってどういうメリットがあるのかがわからない商品に成り果てていたということだ。
 そこでライフネット生命は、仮にドッドソンがみても、『これぞ生命保険』と太鼓判を押してもらえるような、設計がシンプルで価値が明確な商品を目指した」

 素晴らしい発想であると思います。つまるところ、「必要最小限」であること。これが出口氏の考える「いい保険」の条件なのです。また著者は、次のように同社の戦略を紹介しています。

 「ライフネット生命の戦略は『何をしないか』というトレードオフがはっきりしている。『変額保険はやらない』『生存保険はやらない』『セールスパーソンや代理店は使わない』『特約はやらない』。その意味でも、戦略の王道を行っている。教科書通りの明確な戦略だが、当たり前といえば当たり前。面白くないといえば面白くない」

 保険金の不払い問題に関する以下の記述も大変参考になりました。

 「保険金の不払い問題にしても、この本で出口さんが書いているように『販売を優先したため、(複雑な商品を売るのであれば)当然に必要とされる被保険者単位での名寄せシステム開発など、必要十分な支払管理体制を構築するに足る経営資源(ヒト、モノ、カネ)を支払管理部門に配分しなかった』ことが理由で起きている。供給側の論理でことが循環していくなかで、『消費者の論理が入り込む余地がなかった』のである。
 これは保険の世界に限った話ではない。あらゆる業界において、手前勝手な供給側の論理で、商品や流通が複雑化していくのは世の常である。お客の立場で考える。ますお客を儲けさせてから自分が儲ける。商売をするうえで当たり前すぎるくらい当たり前の原理原則だ。ところが、供給側の論理にどっぷりつかった会社にとって、これほど難しいことはない」

 ここで著者は、「プロクルステス」という言葉を持ち出し、説明します。
 「プロクルステスというのはギリシャ神話に出てくる強盗だ。この人は厄介な人で、旅人を自分のベッドに寝かせ、身長がベッドより長いとそれに合わせて身体のほうを切り落とし、短いと引っ張って無理やりに伸ばそうとする。出口さんは問いかける。『人間も会社も自分の都合に合わせて相手の都合を切ったり伸ばしたりしていないだろうか。』
 プロクルステスの寝台は、戦略をつくろうとする人がハマりがちな陥穽の典型だ。知らず知らずのうちに、自分の都合に相手の都合を合わせるような方向に走ってしまう。生保業界は絵に描いたような『プロクルステスの寝台』状態にあった。ライフネット生命の戦略ストーリーは、業界に定着していた巨大なプロクルステスの寝台をぶち壊そうとするものだといえる」

 第20章「グローバル化とはどういうことか」では、若桑みどり著『クアトロ・ラガッツィ』を取り上げて、次のように日本におけるキリスト教について述べます。

 「日本にキリスト教が伝来したのは16世紀後半のことだった。日本に入ってきたキリスト教は、その後急速に日本の社会に浸透していく。数十年で九州の全人口の30%を超える30万人が信者となったという。これはキリスト教の布教の歴史においても活目すべき大成功だった。
 初期の布教がなぜこれほど成功したのか。その答えは、戦国時代にあった日本の状況にあった。中世的な秩序が崩壊し、『なんでもあり』の下克上の争いがあちこちで勃発した。当時の日本は弱肉強食を絵に描いたようなワイルドな社会だった。
 戦国時代といえば大名同士が全国で天下取りの戦いを展開していたというダイナミックで勇ましいイメージなのだが、その時代に生きた普通の人々の暮らしたるや、悲惨としか言いようがない。家族は分散し、子女は売られ、棄て児、堕胎、間引きは公然、さらに重税、略奪、飢餓、飢饉、疫病・・・・・・」

 こうした中、キリスト教の宣教師たちは、貧窮者、病人、子供に救いの手をさしのべ、隣人愛を発揮したのでした。日本におけるイエズス会の戦略とはどのようなものだったか。それは、以下の通りでした。

 「日本に乗り込んできたイエズス会がとった布教戦略は『垂直型伝道』だった。宣教師が町へおもむき大衆に辻説法をしてボトムアップで信者を増やしていく(水平型伝道)のではなく、イエズス会はまず社会の上層部に働きかけた。指導者層を説得して改宗させたのちに、彼らの影響力をテコにして庶民へと信者を増やしていく。これが垂直型伝道の戦略である」

 さらに、日本における「垂直型伝道」について以下のように述べられています。

 「日本における垂直型布教の推進者は、布教長のカブラルだった。彼は、自分が日本人の心や習慣に合わせるのではなく、自分の心や習慣に日本人を合わせようとした。垂直型布教の性格からして、自然な成り行きだった。しかし、これが『プロクルステスの寝台』になり、布教は踊り場を迎えた。『これはキリスト教が全世界の異なった文明とまじわるときに犯した大きなあやまりのひとつ』と、著者の若桑みどりさんは指摘している。
 この限界を打破したのが、イエズス会の東インド管区巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノである。巡察師というのは全世界における布教の様子を定期的に視察して歩く監査官のような仕事である」

 このヴァリニャーノこそはきわめて有能なグローバル化のリーダーでした。彼は、自分たちのほうが日本に学ぶ必要はあると気づき、遣欧少年使節の生みの親となりました。また、イエズス会の「アジア支社長」としてグローバル化に絶大な貢献をしました。著者は、次のように述べています。

 「グローバル化へと舵を切る戦略的な意思決定をしたのはバチカン本社(教皇庁)であったにせよ、グローバル化が成功するかどうかは、結局のところヴァリニャーノのような非連続を乗り越えることができる経営人材がいるかどうかにかかっている。
 過去の日本の企業にしてもそうだ。高度成長期の日本の製造業は、猛烈な勢いで商売を世界に広げた実績がある。そこでもヴァリニャーノばり経営者(その典型例がソニーの盛田昭夫さん)が相手の市場や文化を深く理解して、率先して切り込んでいった。グローバル化はヴァリニャーノのようなリーダー抜きにはできない」

 著者はファーストリテイリングを例として挙げ、次のように述べています。

 「ユニクロでつくった商売の基本を崩さずに、市場のニーズや労働環境も異なる国で商売を展開しようとしている。ここでユニクロが直面する課題は、キリスト教を日本に根づかせようとしたイエズス会のそれと同じである。キリスト教の教義自体を変えてしまったらそもそも布教の意味がなくなってしまう。ユニクロにしても、これまで日本でつくってきた競争優位の根本部分を崩してしまえば、競争にも勝てないし、海外の顧客に価値を提供することもできない。そうなれば、そもそもグローバル化する意味がない。一方で、日本で培った経営をそのまま相手に押しつけるだけでは、カブラルになってしまう」

 最後に掲載されている「僕の読書スタイル」というロング・インタビューでは、次の言葉に大いに賛同しました。

 「僕に言わせれば、読書というのは、女好きの人が世界の大女優と取っ替え、引っ替えデートしているようなものです。それを現実にやったら10億5000万円ぐらいかかる。
ところが、本だとたったの105円。コストパフォーマンスは超絶ですね」

 この喩えは、ユーモアもあって素晴らしいですね。

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