No.0770 民俗学・人類学 『暮らしの中の民俗学3 一生』 新谷尚紀・波平恵美子・湯川洋司編(吉川弘文館)

2013.08.05

 『暮らしの中の民俗学3 一生』新谷尚紀・波平恵美子・湯川洋司編(吉川弘文館)を再読しました。
 この『暮らしの中の民俗学』シリーズは全3巻で、各巻のテーマが「一日」「一年」「一生」に分かれて構成されています。3人の編者のうち、新谷尚紀氏と湯川洋司氏は民俗学者ですが、波平恵美子氏は文化人類学者です。なお、くだんのシンポジウムに波平氏も出演される予定です。

 本書の帯には「人が生まれてから死ぬまで、さらに死後に至るまで。繰り返すことのできない人生の中で出会う儀礼にこめられた民俗の知恵とは?」と書かれています。
また、カバーの裏には以下の内容紹介があります。

 「『一生』という時間をテーマに、妊娠と出産、子どもの世界、仕事、結婚、病気と治療、死と葬送、墓などを考える。生涯における死と再生をめぐる問題を取り上げることで、人が生きていくための方法と意味を問い直す」

 本書の目次構成は、以下のようになっています。

「刊行にあたって」
「一生の民俗」・・・・・・・・波平恵美子
妊娠・出産 いま・むかし・・・松岡悦子
子どもの世界・・・・・・・・・本田和子
仕事・・・・・・・・・・・・・湯川洋司
性・恋愛・結婚・・・・・・・・八木透
病気・治療・健康・・・・・・・立川昭二
老い・・・・・・・・・・・・・内田忠賢
中元と歳暮・・・・・・・・・・山崎祐子
死と葬送・・・・・・・・・・・波平恵美子
墓・・・・・・・・・・・・・・田中藤司
「参考文献」「索引」「執筆者紹介」

 本書の序章である「一生の民俗」では、波平恵美子氏が次のように述べます。

 「人の一生を、時間という大きなテーマにおいて見るとき、ひとつの軸は誕生、成長、老化そして死というライフサイクルによるものであり、いまひとつの軸は、同じ成長(あるいは老化)の段階においても生じる、病い、闘病、快復という、短い期間に体験する生と死のサイクルによるものである。つまり、誕生から死に至るまでの大きな時間軸の中に、いくつもの小さな生と死と再生という時間軸が組み込まれているとして人の一生をみることができる」

 「一年の中に一日というサイクルが取り込まれているように、人の一生の中にも、生と死を象徴する儀礼や個人的な体験のかたちで小さなサイクルが取り込まれている。人が死んで後に行なわれる死者儀礼もまた、死が『死者としての誕生』であり、時間の経過と死者儀礼とによって『ご先祖』として成長していくというサイクルがさまざまな死者儀礼を行なう人々によって説明されている。このように、『時間』というテーマの中での『人の一生』の複雑な構造は民俗として多様なかたちをとって示される」

 「妊娠・出産」では、日本の伝統的な出産のようすを非常によく表わす例として、昭和初期の雑誌に掲載されている事件が紹介されています。埼玉県児玉郡に住む74才の田中某というおばあさんは、産婆の免許をもたずに昭和6年1月から8月までの間に6名の赤ん坊を取り上げ、謝礼としてお金やもてなしを受けたとして、罰金10円を言い渡されました。この判決に対して素人産婆の弁護人は、あまりに村の実情を無視した判決だとして上告しましたが、結局有罪が確定することになったそうです。

 旭川医科大学医学部助教授の松岡和子氏は、次のように述べます。

 「共同体の人々が助け合いや儀礼の機会と見なしていた出産が、医療によるべき行為と規定されるようになると、赤ん坊の承認や母親の地位の移行という通過儀礼の側面は、出産の安全性とは無関係の取るに足らないことと見なされるようになる。さらには、出産を安産に導くための神々への祈りや信心、妊娠中の心得などのいくつかは、迷信として軽んじられるようになる。そのようにして出産は共同体の人間関係、神々やコスモロジーのレベルと切り離され、女性個人の身体のできごとへと狭められていくのである。出産はこのような新旧の視点の交錯する時を経て、やがて現代のように医学的な身体の問題へと囲い込まれていったといえよう」

 「妊娠・出産」では、「生と死の対称性」の問題も述べられています。

 「アイヌの人々は人間だけでなく動物や、人の用いる道具の魂も循環するものと考え、魂をこの世からあの世に送る儀礼を行なった。そのことは、わざわざ大切に育てた子グマを殺してあの世に送ることで、クマが再びアイヌの村を訪れてくれる(つまり、狩猟の獲物になる)ことを願うクマ送りの儀礼に顕著に現われている。だが、魂がこの世とあの世を循環するという考えはアイヌ文化だけでなく、日本人も古くはそのような考えをもっていたとされ、子孫が亡くなった人の供養を行なうのは、亡くなった人が無事祖霊となり、やがて再びこの世に戻ってくることを願ったからだと言われている」

 また、エナ(胞衣、胎盤)が蓑笠と表現される習俗も紹介されています。これについて、民俗学者の小松和彦氏などは、赤ん坊があの世からこの世へと旅する存在だと見なされていたと指摘しています。

 「妊娠・出産」の「おわりに」冒頭で、松岡氏は次のように述べます。

 「妊娠・出産が通過儀礼であり、それが女性を母に男性を父に変える働きをすることは、古今東西さまざまな文化に共通してみられることである。そして、共同体全体がその成員ともども共通の節目を越えていくことで、成員が足並みをそろえて成長し、次の段階へ移行することができるのである。このように、通過儀礼が持つ社会的地位・役割を変える働きは、すなわち人が加齢とともに成長発達していくのを手助けする力でもあった。伝統的な出産習俗を見ていくと、それが共同体の人間関係やコスモロジーを動員してうまく母への転換を起こさせ、育児を行なわせるべく機能していたことがわかる」

 最後に、以下のような注目すべき事例が紹介されていました。

 「まるでかつての共同体を再現させようとするかのような試みが、妊娠・出産・育児期の女性たちによって、各地の助産所や保育所で行なわれているのは興味深いことである。たとえば、助産所で出産した女性たちが、あたかも産小屋での連帯を永続させるかのように、○○会という会をつくって産後も育児の情報を交換したり、出産を機に社会的な問題に目覚めて市民活動を行なったり、後につづく若い女性たちにお産の情報を発信するなどしている。このような女性たちにとって、助産所はかつての地域共同体のような役割を果たしているが、それが地域共同体と異なるのは、かつての地縁・血縁ではない選択的な人間関係に基づいている点である。そして、このような女性たちのつながりの中心にいるのが、かつて呪術的力を持つこともあるとされた産婆、つまり現代の助産師である」

 このような、いわば「妊娠・出産」における相互扶助の会は、現存の冠婚葬祭互助会の枠組みの中でもできないかと、わたしは考えました。各互助会が会員向けのサービスとして提供することは可能だと思います。

 次に「子どもの世界」では、お茶の水女子大学学長の本田和子氏が現代の子どもについて、次のように述べています。

 「かつて、伝統的社会を生きた人々の知恵が、『ケの日』と異なる『ハレの日』の設定において暮らしのリズムを活性化したとすれば、その知恵は今日の子どもたちの中にも受け継がれている。そして、『学校』と『電子情報』に囲い込まれている子どもたちにとって、それら『ハレの日』の『常ならぬ出来事』は、隙もなく効率化され画一化された子どもの世界に、瞬時の綻びの導入される貴重な機会にほかならないだろう」

 本田氏によれば、消滅が嘆かれている伝承遊びに関しても、同様の見方が可能だといいます。本田氏は述べます。

 「たとえば、『鬼ごっこ』『隠れん坊』などの戸外遊びは、子どもらの世界から姿を消した。しかし、ゲーム機器のディスプレー画面上で、彼らはキャラクター同士の『追跡』や『一時的隔離』などの操作に余念もない。また、かつての野原の『虫取り』は、『捕獲ゲーム』で再現されているとする指摘もある(中沢新一 1997)。伝承玩具を代表する『独楽』や『ビー玉』は、簡単な操作器具を備えた手動玩具として子どもたちに遊ばれてもいる。そして、『回転』によって目眩を感じる独楽の魅力や、『ころがりぶつかり合う』ことで予測を越えた展開を見せるビー玉の面白さは、これらの玩具の中にも保存されているではないか(森下みさ子 1996)」

 「仕事」では、山口大学人文学部教授の湯川洋司氏が、お茶の水女子大学教育学部教授の波平恵美子氏が日本各地で自身が行ない、2000年に発表した村落調査の結果を紹介しています。その調査によれば、波平氏は以下の点を結論として挙げています。

(1)村落の人々にとっては生きがいとは死にがいでもあること。
(2)同じ村落に生きる同世代の人々は同様の生きがいと死にがいを持つこと。
(3)自己の死後も含めての生きがいと死にがいの内容を決定していること。
(4)若い世代は、自分の死後の状況までを含んだうえでの現在の生きがいを決定する傾向が見られなくなっていること。

 波平氏はまた、「山桜を植える人」と題した印象深い事例を挙げており、湯川氏が以下のように紹介しています。

 「この話は昭和40年代における60代半ばの人の行為について述べたものであるが、自分の家の前の山に見える桜の木は自分の祖父が植えたものであり、これから生まれる孫や曾孫の代の人々が自分の植えた満開の山桜を楽しめるように桜の苗木をいまのうちに植えておくのだという考えに基づいていた。そして、『そこに見出されるのは、次々と引き継がれてゆくいのちへの畏敬の念であり、それを表現しようとする意志である』と波平は説いている(波平 1996)」

 わたしは、映画「ファミリー・ツリー」を連想しました。「ファミリー・ツリー(family tree)」とは、大地に根を張り、受け継がれる家族の系譜という意味ですが、わたしは冠婚葬祭のイノベーションに活かせると思っています。
 わが社は樹木葬の紹介もしています。また、墓の代用としての樹木だけではなく、新婚のカップルに桜の苗木をプレゼントして植えていただくというサービスも現在計画しています。結婚の記念に新郎新婦が桜の苗木を植え、「○○家の樹」というプレートをかけるというものです。それを毎年、春になると訪れるのですが、だんだん子どもができ、孫ができて、家族一緒に花見をするわけです。公園の桜ではなく、自分たちの家族の樹に咲いた桜を花見する・・・・・。こんなロマンティックな計画を、わが社では現在進めているのです。

 「性・恋愛・結婚」では、「嫁盗みの習俗」というのが興味深かったです。佛教大学文学部教授の八木透氏は、以下のように述べています。

 「じつは日本には、カカソビキ・ヨメカタギ・ドラウチ・ヨメゴオットイなど、嫁盗みを意味する民族語彙が数多く伝えられている。全国に伝承されている嫁盗みの形態は、娘本人も親もその婚姻に反対していて行なわれる場合と、親は反対しているが娘本人は盗まれることを予期している場合と、娘本人も親も承知しているにもかかわらず、種々の義理や経済的な理由で、表面上反対している場合とがある。しかし実際の事例では本当の嫁の掠奪は少なく、内々に双方が了解しあったかたちの、形式的・儀礼的掠奪が主であったと考えられる。また嫁盗みは、正確にいえば駆け落ちとは若干異なり、嫁を盗んだ旨を大声で叫んだり、後に娘の親にその旨を告げたりすることがならわしとされていた。たとえばこれを、高知県ではスケトドケ、長崎県ではテンナイなどと称し、娘を盗んだ若者の友人が娘の家に出向いて、土間に片足を踏み込んでその旨を伝えねばならなかったという。このような約束事は、盗みの行為がある意味では一種の儀礼であり、本当の掠奪とは異質なものであったことを物語っている」

 「病気・治療・健康」では、北里大学名誉教授の立川昭二氏が「民話」について、以下のように示唆に富んだ指摘をしています。

 「『民話』はもともと庶民の日常の暮らしの中から生まれ語り継がれてきたものであるが、とりわけ死と向かい合う人間存在の根源に根ざした世界から生まれた『物語』である。たとえば松谷みよ子の集めた『現代の民話』も多くが人の死にかかわる話である。死者が死ぬ間際に肉親や知人の夢枕に姿を見せた話。あの世からこの世へたのみごとやことづてを託す死者の話。大学病院で開腹手術をしたとき明るい花野を歩いたという娘の話(松谷 1988)。こうした現代の民話は、何も遠い明治・大正の昔話ではない。昭和、それも高度成長の昭和40、50年代の話である。高度成長後の現代日本において、仮にそうした「現代の民話」が生まれるとしたら、それにもっともふさわしい場といえば、それは決して山間僻地や離島などではなく、むしろ庶民が死と否応なく向かい合う病院を中心とした現代文明に組み込まれた医療の現場ではないだろうか」

 また、日本人における「病気を分かち合う心性と習俗」に関する記述も興味深かったです。立川氏は以下のように述べています。

 「医療人類学者のマーガレット・ロックも言うように、日本人にとって「病気は元来個人に関することでなくて、家族という単位が責任を分かちあうべき事件(原文ではevent)である」。したがって、「治療は、家族のメンバーが皆で参加すべきものと考えられ」てきたのである(ロック 1990)。こうした日本人のメンタリティは、たとえば病人が病院に入院した場合、その病人を家族としても社会人としても切り離そうとはしない。そのメンタリティは文化人類学者の大貫恵美子が指摘しているように、入院患者への濃密な「付き添い」と「見舞い」という日本人特有の行為となって表われる(大貫 1985)」

 「老い」では、国立歴史民俗博物館助手の関沢まゆみ氏が、「老いと儀礼」について次のように述べています。

 「親の寿命を超えたときにはじめて自分自身の残された寿命について考えるという人は多い。個人にとって親の寿命が自分自身の死を意識する内的動機となるというのは考えうることである。伝統的な制度の中にも、死が近いことを知らせる儀礼がある。それが老人の年祝いである」

 さらに、関沢氏は長寿祝いについて、次のように説明します。

 「天平12年(740)の聖武天皇の40歳の賀の祝い(『東大寺要録』)、延長4年(926)の宇多法皇の六十賀の祝い(『日本紀略』『扶桑略記』)、天永3年(1112)の白河法皇の六十賀の祝い(『百練抄』)等々の記録によれば、歴史的には奈良、平安の貴族たちの間では、40歳を初老として、以後50歳、60歳、70歳と10年ごとに算賀と呼ばれる長寿祝いの儀礼が行なわれていたことが知られている。江戸時代後期、屋代弘賢(1758~1841)『諸国風俗問状』(1817年調査)の『老人いはひ事』と言う質問には『四十より十年ことに賀するは通例、此外に六十一、八十八、猶外にも祝ひ候事候哉』とあり、江戸に居住していた屋代弘賢にとっては算賀の祝いは『通例』のことであったことがうかがえる。しかし、現在では42歳を大厄とか初老といい、ついで61歳の還暦、77歳の喜寿、88歳の米寿などを長寿祝いとする伝承が一般的である」

 また、老人たちの「出会いの場」について次のように述べています。

 「現代社会においては地域や家族の絆が緩んできており、親と子と孫のような家の世代の縦のつながりや、地域社会の祭祀組織や講のような公的なつきあいなどにかわって、興味、関心をともにできる相手との私的なつきあいが大切にされるようになってきている。このような変化の中で、老いの『場』を誰とともに過ごすか、その新しい動きとして注目されることのひとつは、これまでの伝統的な宮座や念仏講、婦人会のような男女別枠からはなれて、気の合う男女が互いに一緒に老いを生きる出会いの場の設定が有効であるということである」

 では、具体的にはどのような出会いの場があるのでしょうか。
 たとえば注目されるのは、老人会のゲートボール、ハイキングや俳句などの同好会的な集まりの場だそうです。高齢者複合施設である「サンレーグランドホテル」をはじめ、わが社の施設やイベントにおいても、まさに高齢者の方々の「出会いの場」を提供したいと願っています。

 「死と葬送」では、文化人類学者である波平恵美子氏が、死に関する日本人の伝統的な民俗とその変化について次のように述べます。

 「日本人の葬送はすべて死者の身体に対して行なわれる。近親者が亡くなったあるいは亡くなろうとしている人の名を呼ぶ『タマヨバイ』と呼ばれる儀礼は、かつて葬送を構成する数多くの儀礼の中のひとつであった。それもまた魂に呼びかけることだけが重要なのではなく、身体から離れて行こうとする魂を呼び戻し再び身体に取り込むための儀礼であり、この儀礼においても身体は重要な要素であった。この儀礼の後も魂が身体に戻らないことを確認することによって、身体と霊魂との関係が、生前と死後とでは変化するということを顕わにする場でもあった。枕飯を供え水を頻繁に取り換え、通夜では弔問客は死体の顔を眺め、火葬後の骨を家族や親族で拾いあげ、遺骨の入った壺を祭壇に飾る等々のことはすべて身体に対して行なわれる儀礼である。正月や彼岸そして盆行事の墓参りは遺体や遺骨が存在する場所への訪問という意味も持つ行為であることを考えると、通夜や葬式だけではなく死者儀礼は死後も長年にわたって『身体』にかかわって行なわれる」

 また、「民俗の変貌と持続」において、波平氏は病院での清拭について以下のように述べています。

 「現在病院で患者が亡くなった場合、ほとんど例外なく行なわれている『清拭』という行為はひとつの好材料である。死亡した患者の身体の清拭は、病院で患者が死亡するような状況が生まれて間もなく病院で誕生し、いわば『病院の民俗』『医療者(看護師)の民俗』として定着した。清拭を湯灌の代替と見なせば民俗は持続しているといえるし、死者にとっての他人である医療者が行ない、しかも病院で行なうことを強調すれば、それは新しい民俗が生まれ古い民俗が消滅したと考えることができる。あるいは、湯灌が持っていた鎮魂と死の不浄性を取り除くという儀礼的意味に重点を置けば、やはり古い民俗は消滅したといいうる。しかし、死亡が確認されるや否や行なわれる清拭についての『死後ただちに行なわれなければならない』『死者の身体が清められなければならない』という行為者(看護師)の認識に注目すれば、信仰的要素は弱められているものの、湯灌を行なった死者の家族や近親者であった人々の認識からは医療者のそれはそれほど大きく隔たっていない」

 さらに、波平氏は日本人の葬送について、以下のように述べます。

 「葬式を民俗学では『葬送』と呼んできた。それは、死者をあの世へ『送る』ための儀礼であること、その形式は葬列を組み幡や吹き流しや竿を立てて『ここには遺体がある』と周囲に誇示しつつ墓地へ向かうことが大きな要素となっている。高く掲げられた竿や色とりどりの吹き流しは、遠くからでも目立つし、打ち鳴らされる鉦(ところによっては銅羅や爆竹や空砲)の音は、いやでも人々の視線を引きつける」

 このような状況を波平氏は「遺体のみせびらかし」と呼び、次のように述べます。

 「まさに葬列はそれに参加している人々だけではなく、死者と生前無関係であった人々の注視を浴びる効果を生んでいる。こうした葬列を組むことが不可能になったとき遺体を自動車で運ぶことになったが、通常の自動車とは意匠がまったく異なる霊柩車は通りすがりの人々の視線を引きつけないではおかない。なぜこうした特別なデザインの自動車を考案し、それで遺体を運ぶことを選択したのか、さらに、なぜ外的環境が大きく変わったにもかかわらず、現在でも遺体を病院から直接火葬場へ運ばず、幾度も移動しているのかを考えたとき、機能においてはかつての葬列を組んでの野辺の送りと変わらないものを求めた結果が霊柩車ではないのかという結論に至る」

 『日本人の死のかたち』の著者は、続けて述べます。

 「日本人の死の民俗は葬送儀礼を中心に発達してきた。人の死に対しては、その人が所属していた集団である家族や親族や地域社会の人々がその役割の内容や軽重は異なりながら、儀礼を行なうことによって、自分たちが所属する集団の成員の1人が死亡したという状況に対応しようとする。儀礼をとおして死の意味を考え、それに参加した人は互いにその考えを確認しあう。儀礼を1人で行なうことも起こりうるが、多くは家族・親族・地域社会の人々あるいは友人が集まって行なう。こうして日本の場合、死にかかわる人々の行為は常に儀礼をともない儀礼を行なわなければ亡くなった人の死をいたむことにならないと考え、ないがしろにしたと見なす。それゆえに、ここではそうした傾向を仮に『儀礼主義』と呼んでおきたい」

 ここで、「儀礼主義」という言葉が出ました。波平氏は、儀礼について次のように述べます。

 「儀礼のことを指して『内容をともなわない形式だけのもの、外面だけのもの』ととらえがちである。しかし、内面的なものが伝達される手段は言葉だけではないし必ずしも言葉によって内容が正確に伝えられるわけでもない。道具立てや行為はそのひとつひとつに与えられた意味があり、その道具立てや行為が組み合わさることによって、より複雑な意味を組み立てることになる。言葉だけで伝えられた場合、その意味がときには理解できないこともある。しかし儀礼において一定のかたちを持った行為を繰り返すことによって意味ができあがることもあり、儀礼が必ずしも外面的であり内容をともなわないということにはならない」

 「儀礼主義」に続けて波平氏は、「供養主義」という言葉も紹介します。

 「日本研究を専門とするアメリカの文化人類学者ロバート・J・スミスは『現代日本の祖先崇拝』の中で、日本人が行なう祖先崇拝の行為を『供養主義(メモーリアリズム)』と称した。すなわち、祖先の霊を年中行事や死後何年かごとに行なう年忌供養の際に迎え、それに供物を捧げ人々が集まって儀礼を行なう。そのことが祖先の霊を慰めることになり、供養を受けた祖霊は儀礼を行なった人々やその人々が所属する集団である『家』や家族集団を守護すると信じられている。スミスは、こうした供養主義とでもいうべき日本人の祖先崇拝のあり方が、第二次大戦後の家制度の変化にともなって次のように変わりつつあると指摘する。つまり戦前とは異なり、日本人が親族との関係を選択的に活用し、その結果として近年故人となった近い親族に対してのみ愛情を表現する傾向が強くなって、単純化された供養主義というかたちをとってきている」

 そして「死と葬送」の最後に、波平氏は次のように総括しています。

 「日本人は長い間にわたって仏教とのかかわりで死者儀礼を行なってきた。『葬式仏教』という表現で仏教界自らのそのありようを批判的に考える傾向にあるが、信仰が薄れ宗教的要素が生活全般から消えつつあるにもかかわらず、いまなお多くの人々が仏式で葬式を行ない仏教が普及させた年忌供養の儀礼を行なっていることについての研究・分析が必要である。なぜなら、基本的に『家』制度に依存している大部分の仏教寺院は、経済的状況の変化や寺院(『家』)継承の価値観が失われつつあることから、次第に檀門徒の要請に応じられなくなっているからである。仏教が死者儀礼に『型』を与えていることから日本人の死の民俗の中心を成す『儀礼主義』は保たれているが、今後仏僧が列席せず『仏式』で葬式を行なうことができなくなったときこの死の民俗の中核は消失する。また、ケガレの観念が生と死と再生のサイクルを表現するものであるととらえた場合、ケガレの観念の消失と儀礼主義の消失が併行して起きる状況の中で、日本人の死の民俗がどのような内容を備えることになるのか、注意深く見守る必要があろう」

 「暮らしの中の民俗学」全3巻を通読しましたが、やはり本書の最後の「死と葬送」が最も読み応えがありました。また、いろいろなことを考えさせられました。

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