No.0631 読書論・読書術 『本の運命』 井上ひさし著(文春文庫)

2012.07.08

 『本の運命』井上ひさし著(文春文庫)を読みました。

 わたしは読書論の類に目がないのですが、大満足のうちに一気に読み終えました。いやあ、こんなに面白かった読書論は久しぶりです。渡部昇一著『知的生活の方法』以来ではないでしょうか。

 著者は、非常に有名な小説家、劇作家、放送作家です。
 1934年(昭和9年)、山形県川西町生まれ。上智大学外国語学部フランス語科卒業。在学中から、浅草のストリップ劇場フランス座の文芸部兼進行係となり、台本も書き始めます。戯曲「うかうか三十、ちょろちょろ四十」が芸術祭脚本奨励賞を受賞します。
 つまり、放送作家として最高のスタートを切ったわけですね。
 64年からは、NHKの連続人形劇「ひょっこりひょうたん島」(共作)の台本を5年間にわたって手がけました。69年には、劇団テアトル・エコーに書き下ろした「日本人のへそ」で演劇界にデビュー72年には、江戸戯作者群像を軽妙なタッチで描いた「手鎖心中」で直木賞を受賞。同年、「道元の冒険」で岸田戯曲賞と芸術選奨新人賞も受賞。
 以降、戯曲、小説、エッセイなど多才な活動を続けて、戯曲「しみじみ日本・乃木大将」「小林一茶」で紀伊國屋演劇賞と読売文学賞(戯曲部門)、小説「吉里吉里人」で日本SF大賞、読売文学賞(小説部門)を受賞します。
 さらには、 「昭和庶民伝三部作」でテアトロ演劇賞、「シャンハイムーン」で谷崎潤一郎賞、「太鼓たたいて笛ふいて」で毎日芸術賞・鶴屋南北賞を受賞。小説「腹鼓記」「不忠臣蔵」で吉川英治文学賞、「東京セブンローズ」で菊池寛賞を受賞。
 自ら「遅筆堂」を名乗り、 87年には13万冊にも及ぶ膨大な蔵書を生まれ故郷の川西町に寄贈し、図書館「遅筆堂文庫」が開館されました。
 2009年、戯曲を中心とする広い領域における長年の業績で、恩賜賞日本芸術院賞を受賞、日本芸術院会員に選ばれました。そして、2010年4月9日に永眠しました。
 まさに、輝かしい文人人生を歩んだ人だと言えるでしょう。

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

第一章:「生い立ち、そして父母について」の巻
第二章:「戦争は終わったけれど――」の巻
第三章:「井上流本の読み方十箇条」の巻
第四章:「無謀な二つの誓い」の巻
第五章:「三カ月で嫌になった上智大学」
第六章:「子供を本好きにするには」の巻
第七章:「ついに図書館をつくる」の巻
〈解説〉私流本の読み方  出久根達郎

 本書は、本当に隅から隅まで全部に赤線を引きたいくらいにわたしの考えとマッチしました。こんな名著をこれまで未読だったことを不覚に思うほどです。
 特に、『本の運命』というタイトルが素晴らしいです。この「本の運命」という言葉について、著者は第一章の「生い立ち、そして父母について」の巻の冒頭で、次のように述べています。

 「本屋さんでふと1冊の本が目にとまる、手を伸ばす。その時、なにか不可思議な力が働いているように思えてならないのです。僕の中のなにが、その本を手に取らせたのか、それとも、本が僕にむかって『読んでくれ』と訴えたのか。出会いからして、本というものは運命的でしょう。
 逆に、本は人の運命も変えます。一冊の本が、読んだ人の考え方、生き方を変えるということがありますね。いま僕が、物を書いて生きているのも、子供の頃の本との出会いがあったからなのです。
 また、本自体の運命というものもある。本は人の手から手へと渡っていきます。あわや大学図書館に所蔵されそうになった昭和初期のエノケン一座の台本50冊が、どうして僕のところにやってくることになったか。僕が古本屋に売った『漱石全集』は、いかにしてアイオワ大学図書館に納まる運命となったのか。読みたい本を手に入れるためにつかった秘術の数々―(笑)」

 本書の白眉は、第三章の「井上流本の読み方十箇条」の巻でしょう。稀代の読書の達人である著者の読み方10箇条とは、以下の通りです。

「その1.オッと思ったら赤鉛筆」
「その2.索引は自分で作る」
「その3.本は手が記憶する」
「その4.本はゆっくり読むと、速く読める」
「その5.目次を睨むべし」
「その6.大部な事典はバラバラにしよう」
「その7.栞は1本とは限らない」
「その8.個人全集をまとめ読み」
「その9.ツンドクにも効用がある」
「その10.戯曲は配役をして読む」

 いずれもまったく同感ですが、特に「その4.本はゆっくり読むと、速く読める」には感心しました。本書の解説を書いた作家の出久根達郎氏も「第四項、これは本書の中の最大の名言ですね」と書いていますが、著者は次のように述べています。

 「どんな本でも最初は、丁寧に丁寧に読んでいくんです。最初の10ページくらいはとくに丁寧に、登場人物の名前、関係などをしっかり押さえながら読んでいく。そうすると、自然に速くなるんですね。最初いいかげんに読んでいると、いつまでたってもわからないし、速くはならない。でも、本の基本的なことが頭に入ってくると、もう自然に、えっというぐらいに速く読めるようになるんです」

 著者はまた、「僕は、速読法というのはあんまり信用してないんです」とも述べています。しかし、その後で、かの司馬遼太郎が「写真読み」つまり「フォト・リーディング」をしている場面に遭遇して仰天した思い出が語られています。

 司馬遼太郎といえば、この人も度外れた読書家であり、蔵書家でした。著者は、そのエピソードを次のように述べています。

 「古本屋さんとのつき合いということでは、亡くなられた司馬遼太郎さんや松本清張さんは、ケタ違いでしたね。たとえば、会津若松の資料を探そうと思って神田にいくと、この前まであったはずの本が、ポカッと無くなって空いている。『どうしたんですか』と聞くと、『いま司馬さんのところに行ってます』というんですね。
 司馬さんが、『こういう本はないか』とおっしゃると、神田じゅうの本屋さんがみんなで協力して集めて、段ボールに詰めて大阪へ送る。それをぱっと見て、これは要る、これは要らないと分けていって、残ったものを送り返されていたそうです。ほんとに本が動いているという感じがしました」

 凄まじい話ですが、著者だって負けてはいません。『腹鼓記』という小説を書くとき、神田じゅうの古本屋さんに頼んで、狐と狸の本をごっそり集めたことがあるそうです。それには素敵な後日談がつきました。著者は、次のように述べています。

 「名作アニメを次々につくりだしているスタジオジブリが、数年前『平成狸合戦ぽんぽこ』という映画を作りましたが、その時、監督の高畑勲さんが神田で狸の資料を探したんだけど、どこにもない」

 「みんな井上さんのところに行ってます」というので、著者のところに問い合わせがあったそうです。そして、著者の図書館である山形県の「遅筆堂文庫」にまでスタッフが行って、泊り込みで閲覧したとか。完成した「平成狸合戦ぽんぽこ」のタイトル・バックには、「スペシャル・サンクス 遅筆堂文庫」と出てきました。
 それを見たとき、著者は「あ、僕の本が役に立っている」と思って涙が出たそうです。わたしは、このくだりを読んだとき、とても感動してしまいました。

 あと、第五章の「三カ月で嫌になった上智大学」の巻も面白かったです。
 とても嫌な感じの大学図書館の館員が登場するのですが、なんと著者の天敵ともいえる館員とは、かの渡部昇一氏でした。渡部氏が大学院生のときに大学図書館に住み込んでアルバイトをしていたのです。著者と渡部氏の因縁については、日垣隆著『つながる読書術』(講談社学術新書)に詳しく紹介されていますので、そちらをお読み下さい。
 本書『本の運命』は渡部氏の名著『知的生活の方法』以来に面白い読書論でしたが、この「知の巨人」とも呼べる2人が同じ上智大学の図書館で睨みあって合っていたとは、何だか愉快ですね!

 現在、電子書籍の普及などで、紙の「本の運命」が心配されています。本書が刊行された1996年の時点の話ではありますが、当時登場したばかりの電子ブックと比べて本について、著者は次のように述べています。

 「本というのは、実はコンピュータにも匹敵するすぐれた装置だと思っています。目次があり、見出しがあり、パッと開けば自分の読みたいページが出てくる。本自体が持っている使い勝手のよさは、コンピュータでもなかなかかなわない。これは人類が発明した装置の中では、最大のもののひとつだと思いますね。
 じっくり読みたい時はゆっくりと読める。あるいは、この先どうなるかと心が急く時は、どんどんページを繰っていく。これは電子ブックにはないんです。『ページ風を立てる』という言い方がありますが、これは電子ブックではどうやってもできない。特に小説にいたっては、最初の1行から最後の1行に至る作品が作り出す時間の流れというものがあります。それは電子ブックだと見えないんですね。うまく言えないんですけど、全体が見通せないというんでしょうか・・・・・」

 もちろん、著者がこの文章を書いてから16年もの時間が経過しています。著者は、このとき、キンドルもスマホも知りませんでした。でも、いくら時間が経っていたとしても、著者が説く本の長所はまったく古くなっていません。ここでは、時間を超越した人類最大の発明としての「本」の魅力が存分に語られています。

 そして著者は次のように「本とは何か」について語ります。

 「生活の質を高めるということを考えると、いちばん確実で、手っとり早い方法は、本を読むことなんですね。本を読み始めると、どうしても音楽とか絵とか、彫刻とか演劇とか、人間がこれまで作り上げてきた文化のひろがり、蓄積に触れざるを得ない。人間は、自然の中で生きながらも、人間だけのものをつくってきた。それが本であり、音楽であり、演劇や美術である。いい悪いは別にして、人間の歴史総体が真心をこめてつくってきたもの、その最大のものが本なんです」

 著者は続けて、次のように「本の運命」について語るのでした。

 「重ねて言えば、言語は人間に与えられた最上で最良の贈り物であって、その贈り物の大部分は本を媒介として人間に示されているんですね。本にまさる媒介物は将来も現れないでしょう。ですから、本の運命は厳しいなんてことを言うひともいますが、僕はそうは思わない。断言してもいいんですけど、本は絶対になくならない。
 本がなくなる時は、書記言語のなくなる時です。
 その時、人間はたぶん別の生き物になっているでしょうね」

 この文章は本書の最後の文章です。この一文を持って本書は終わるわけですが、わたしはこれを読んで涙が出るほど感動しました。これほど巨大なスケールで書かれた本へのエールがこれまで存在したでしょうか。ここには、著者の限りない本への愛情があります。
 わたしの『あらゆる本が面白く読める方法』(三五館)という本について、よく「こんなに本への愛が語られた内容を見たことがない。この本は、一条さんから本へのラブレターですね」と言って下さる方がいます。たしかに、わたしは心の底から本を愛していますし、あの本にはそれが表現されているかもしれません。
 でも、本書における著者の本への愛情は、わたしの比ではありません。本書は、今まで目にしたものの中で、最高の本へのラブレターであると思いました。

 最後に一言。わたしも、「本は絶対になくならない」と断言します。

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