No.0591 日本思想 『日本の文脈』 内田樹・中沢新一著(角川書店)

2012.05.02

 『日本の文脈』内田樹・中沢新一著(角川書店)を読みました。

 本書は、現代日本を代表する2つの知性による対談集です。『大津波と原発』に続く両者の対談となります。

 本書の帯には、次のように書かれています。

「『日本辺境論』の内田樹と、
『日本の大転換』の中沢新一。
野生の思想家がタッグを組み、
いま、この国に必要なことを
語り合った渾身の対談集。
鎮魂と復興の祈りを込めて―。」

 このコピーに登場する2冊についても、『日本辺境論』、『日本の大転換』で読んでいます。ちなみに、わたしは、両氏の著書はほとんど全部読んでいます。

 本書の「目次」は、以下のようになっています。

「まえがき」中沢新一
プロローグ:これからは農業の時代だ!
第一章:これからの日本にほんとうに必要なもの
第二章:教育も農業も贈与である
第三章:日本人にあってユダヤ人にないもの
第四章:戦争するか結婚するか
第五章:贈与する人が未来をつくる
第六章:東洋の学びは正解よりも成熟をめざす
第七章:世界は神話的に構成されている
―東日本大震災と福島原発事故のあとで
コラム「荒ぶる神の鎮め方」内田樹
「あとがき」内田樹

 最初に、「まえがき」を中沢氏は次のようにの書き出しています。

 「3・11の大震災が起こる以前は、この本は『日本の王道』というタイトルで出版される手はずになっていた。ぼくもそのための『まえがき』を書く準備をしていた。しかし、あの日を境にして、ぼくたちを取り巻いていた世界は、大きく変わってしまった」

 『王道』のほうの「まえがき」では、「この本は価値転換の書である」という書き出しにするつもりだったという中沢氏は、次のように述べます。

 「『内向きである』とか『非効率的である』とか『国際的でない』とか『ガラパゴス的である』とか、さかんにネガティブなことを言われて批判されているいわゆる『日本的なもの』を、広く深い人類的な視点から見直してみると、むしろこっちのほうが人類的には普遍性を持っていて、その反対の価値観、つまり『効率性第一』とか『利己的個人主義』とか『障壁なき国際性』とか『今日のアングロサクソン型グローバル資本主義』とかを支えている考え方のほうが、ずっとローカルで特殊的にひねこびていて、人類的な普遍性を持たない考え方なのだということで、2人の考えは全く一致していた」

 ともに1950年生まれで、ともに70年に東大に入学したという両者には、共通の同級生がいました。佐々木陽太郎というパスカルとサドの研究をしていた人で、仲間内では非常に嘱望されていましたが、若くして亡くなったそうです。内田・中沢の両氏は、在学中は面識がなかったのですが、おそらく佐々木陽太郎氏の葬儀ですれ違っていました。2人は、次のように語り合っています。

【中沢】 
 こうして内田さんとお話しするおおもとの縁は、佐々木陽太郎かもしれないと思うと、不思議な気持ちになるなぁ。

【内田】 
 知り合うときって、必ずキーパーソンがいますね。高橋源一郎さんとは竹信悦夫という、高橋さんの灘高時代の友だちで、大学時代からは僕とつるんでたのがいるんですけど、竹信ももう死んでるんです。
 死者が媒介になってつながる関係って、深まりますね。その人の思い出を語り継ぐ責務みたいなものがわれわれにはあるって思うからかな。
 この「死者が媒介になってつながる関係が深まる」という言葉には考えさせられました。

本書で最もわたしの心に響いたのは、第四章「戦争するか結婚するか」でした。これは、最初に章タイトルを見たとき、たいへん驚きました。なぜなら、わたしは常々、「戦争と結婚は反対語」であると訴え、「結婚は最高の平和である」と口にしているからです。本書では、次のような会話が繰り広げられます。

【中沢】 
 最初はヤマトタケルの東征のように戦闘で入っていくんだけど。

【内田】 
 蝦夷討伐に出かけた征夷大将軍の坂上田村麻呂もそうですね。

【中沢】 
 だけど、そのやり方はよくなかった。在原業平は、男女の行為を通じて野蛮なものを文明化していく使命を担っている。

【内田】 
 混血ということで。

【中沢】 
 「まあまあ、むずかしいこと言わないで、仲よくしましょうよ」っていう戦法(笑)。

【内田】 
 なるほど、戦争を回避するための戦略としてはありですよね。

【中沢】 
 日本の国家政策でしょう。戦闘の跡ってあんまりないでしょう。日本神話を見るともっぱら結婚ですよね。まず、天孫降臨したニニギノミコトが鹿児島のアタ隼人のところへ行って、コノハナサクヤ姫と結婚するわけですよね。

【内田】 
 半島からやってきて、ネイティブの女性と結婚する。

【中沢】 
 あとはもう結婚の嵐ですよね。「結婚とは、戦争の弱化した形態である」というわけですね。結婚って戦争の一形態でしょう。

【内田】 
 言われてみればそうですね。

【中沢】 
 表面上は穏やかですけど、休火山のように戦争が内在していて、ときどき噴火することもある(笑)。ここから「戦場の弱化した形態が交易である」とも言えます。結婚と交易は、もともと同じなんですよね。

【内田】 
 なるほど。

 拙著『結魂論~なぜ人は結婚するのか』(成甲書房)に詳しく書きましたが、わたしは以前から「結婚は最高の平和」と唱え続けています。

 「戦争」という言葉の反対語は「平和」ではなく、「結婚」ではないでしょうか。トルストイの名作『戦争と平和』の影響で、「戦争」と「平和」がそれぞれ反対語であると思っている人がほとんどでしょう。でも、「平和」という語を『広辞苑』などの辞書で引くと、意味は「戦争がなくて世が安穏であること」となっています。

 平和とは戦争がない状態、つまり非戦状態のことなのです。しかし、戦争というのは状態である前に、何よりもインパクトのある出来事です。単なる非戦状態である「平和」を「戦争」ほど強烈な出来事の反対概念に持ってくるのは、どうも弱い感じがします。

 また、「結婚」の反対は「離婚」と思われていますが、これも離婚というのは単に法的な夫婦関係が解消されただけのことです。「結婚」は戦争同様、非常にインパクトのある出来事です。戦争も結婚も共通しているのは、別にしなければしなくてもよいのに、好き好んでわざわざ行なう点です。だから、戦争も結婚も「出来事」であり「事件」なのです。

 もともと、結婚は男女の結びつきだけではありません。太陽と月の結婚、火と水の結婚、東と西の結婚など、神秘主義における大きなモチーフとなっています。結婚には、異なるものと結びつく途方もなく巨大な力が働いているのです。それは、陰と陽を司る「宇宙の力」と呼ぶべきものです。同様に、戦争が起こるときにも、異なるものを破壊しようとする宇宙の力が働いています。つまり、「結婚」とは友好の王であり、「戦争」とは敵対の王なのです。

 人と人とがいがみ合う、それが発展すれば喧嘩になり、それぞれ仲間を集めて抗争となり、さらには9・11同時多発テロのような悲劇を引き起こし、最終的には戦争へと至ってしまいます。逆に、まったくの赤の他人同士であるのもかかわらず、人と人とが認め合い、愛し合い、ともに人生を歩んでいくことを誓い合う結婚とは究極の平和であると言えないでしょうか。結婚は最高に平和な「出来事」であり、「戦争」に対して唯一の反対概念になるのです。

 さて、東日本大震災後に対談された部分では、第七章「世界は神話的に構成されている――東日本大震災と福島原発事故のあとで」が読み応えがありました。「原発に向かって祈る」において、中沢氏は次のように「神話」について語っています。

 「神話というのは、アナロジーなどの媒介のメカニズムを使って、この世界の出来事を解釈する哲学的思考のことです。そして神話に出てくるトリックスターこそインターフェイスで、これがいなくなると世界の均衡が崩れるというのが神話の考え方です。『全地球的神話にいちばん近いのは仏教だ』と神話学者のジョーゼフ・キャンベルが言っていますが、仏教は仏教以前からある古い神話をたくさん取り入れています」

 それに対して、 内田氏も「世界」と「神話」の関係について、次のように語ります。

 「世界って神話的に構造化されているんですよね。その神話的構造はまだ生き残っていて、近代的な制度の下で現に活発に動いている。だから、そういう神話的な制度には、神話的なアプローチでかかわっていれば問題は起きないんですよ。それを無視したことがグローバル資本主義社会の最大の失敗だと思う。
 人間の世界にはまず物語があって、その物語の骨組みに合わせて社会制度をつくっているんだから。原発だってもとをただせば神話的なテクノロジーなんですから、物語的にプラントを設計して、物語的に管理すればよかったんですよ。その気遣いを怠り、ただの機械であり、ただの金儲けの設備だと思っていたから、こんな目に遭ってるんじゃないですか。だからせめて物語的に供養すべきなんです」

 「世界は神話的に構成されている」とか「物語的に供養すべきである」とか、内田節が炸裂していますが、まったくその通りだと思いました。

 そして、興味深く感じたのは、「天皇」についての以下のようなくだりでした。

【中沢】 
 今回の震災と原発事故のあとに感じたのは、日本の民は立派だということです。天皇のお振る舞いも立派でした。でもそのあいだにいる官僚がダメですね。

【内田】 
 荒ぶる神を鎮める仕事の専門家は天皇ですからね。陛下はきっと宮中で原発のために事故以来ずっと呪鎮儀礼をしてると思いますよ。たぶん、たくさんの人がいまも日本中でひそかに原発供養をしている。でも、政治家と官僚とメディアはそういうことを一言も言わない。

 以上のようなやり取りを読んで、わたしは少し驚きながらも、嬉しくなりました。よく知られているように中沢氏は共産主義にシンパシーを感じている人であり、内田氏も学生時代は機動隊と衝突するような運動家でした。そんな2人が手放しで天皇を称賛していることが新鮮でした。

 そもそも学者というのは革新を気取り、天皇制など頭から否定するものだという時代もありました。しかし、誰よりも自由で軽やかな「知」の申し子である2人が天皇を肯定していることに一種の爽やかさを覚えました。

 ちなみに、『原子力と宗教』(角川oneテーマ新書)で対談している鎌田東二、玄侑宗久の両氏も同書の中で、天皇の持つ「癒しの力」をきわめて高く評価しています。

 第七章の後半に出てくる「知的能力を最大化する方法」というのも面白かったです。まず、中沢氏が次のような刺激的な発言をします。

 「内田さんもさっきアイパッド2で原稿を書いてましたけど、アイパッドの発表会でスティーブ・ジョブズが手にタブレットを持っている姿って、モーセが手に石板を持ってる姿と似ているという話をしたんです。タブレットとは何か」

 それに対して、内田氏が次のように返します。

 「あ、そうか。モーセがシナイ山から下りてくるときに手に持ってた石板(stone tablet)なんだ。日本人は『タブレット』って言われてもピンとこないけど、英語圏の人ならすぐに『モーセの石板か』ってわかる。なるほど、だからアイパッドはこういう形をしていて、さらに1だけじゃなくて2があるんだ。1枚だけじゃダメなんですね。モーセは1枚目の石板を割って、2枚目が戒律として残るんだから。
 なんと、きわめて宗教的なガジェットではないですか」

 さらに内田氏は、「クラウドって、インターネットの中に雲の上の世界があって、そことつながってるってことだもんね。雲は神の臨在を暗示する形象ですからね。ますます宗教的だなあ」とも述べています。いやあ、このへんのやり取りなんか、じつに面白いですねぇ。まさに、「知的エンターテインメント」といった感じです。

 コラム「荒ぶる神の鎮め方」も、なかなか興味深い内容でした。内田氏は、原子力という現代の神への処し方を次のように述べます。

 「原子力は21世紀に登場した『荒ぶる神』である。
 そうである以上、欧米における原子力テクノロジーは、ユダヤ=キリスト教の祭儀と本質的な同型性を持つはずである。
 神殿をつくり、神官をはべらせ、儀礼を行い、聖典を整える。
 そう考えてヨーロッパの原発を思い浮かべると、これらがどれも『神殿』を模してつくられたものであることがわかる。
 中央に『神殿』があり、『神官』たちの働く場所がそれを同心円的に囲んでいる。
 その周囲何十キロかは畏るべき『神域』であるから、一般人は『神威』を畏れて、眼を伏せ、肌を覆い、禁忌に触れないための備えをせずには近づくことが許されない。
 それは爆発的なエネルギーを人々にもたらすけれど、神意は計りがたく、いつ雷撃や噴火を以て人々を罰するかしれない・・・・・・。
 原子力にかかわるときに、ヨーロッパの人々はおそらく一神教的なマナーを総動員して、『現代の荒ぶる神』に拝跪した」

 鎌田東二氏などは前述の『原子力と宗教』において、「原子力」と「一神教」を安易に結びつけるという最近の風潮に疑義を呈しています。たしかに、「一神教」を持ち出すと説明しやすいという側面はありますね。

 ぜひ一度、内田樹・中沢新一・鎌田東二・玄侑宗久の4氏で「原子力」と「宗教」について大いに語り合っていただきたいものです。それは、この上なくスリリングな座談会になる予感がします。

 最後に、「あとがき」で内田氏は中沢氏のことを「会っているはずなのに、なぜか会っていない人」と呼び、次のように述べています。

 「そんな中沢さんとついに会う日が来ました。『チベットのモーツァルト』が洛陽の紙価を高めてからすでに四半世紀が経過していたのであります。それだけ待ったのは誰かが『絶好のタイミング』を見計らっていたからでしょう。現に、会ったときに僕は不思議な『懐かしさ』を感じました。80年代から後、僕は中沢さんの仕事を1つの基準として、自分のポジションを定位してきました。この『同世代のフロントランナー』を応援したり、羨望したり、やきもきと気遣ったりしてきたのです。中沢新一はいわば僕の『想像上の同伴ランナー』だったわけです。ですから、僕が会ったときに『懐かしさ』を感じたのは当然のことだったと思います」

 この内田氏の「あとがき」には、非常な爽快感があります。本書を読んでいるあいだ、ずっと心地よかったです。それは、きっと同世代の人間同士の醸し出す親近感とともに、「想像上の同伴ランナー」にようやく会えたという安堵感、そして懐かしさが本書に漂っていたからかもしれません。

Archives