No.0555 エッセイ・コラム 『続 大人の流儀』 伊集院静著(講談社)

2012.03.06

 『続・大人の流儀』伊集院静著(講談社)を読みました。

 著者の『大人の流儀』の続編です。前作同様に、本書もベストセラーになっています。帯には、恰幅のよい著者の写真と一緒に次の言葉があります。

 「他人が困っているときに優しくできるか。
 幸福のすぐ隣に哀しみがあると知れ。
 大人になるとは、そういうことだ。」

 また、「あなたのこころの奥にある勇気と覚悟に出会える。『本物の大人』になりたいあなたへ、待望の第二弾。」というコピーが踊っています。全体の構成は「風」「花」「雪」「月」となっており、最後に「星~被災地から見たこの国」という長めのエッセイが収録されています。

 本書には全部で38本のエッセイが収められていますが、最初にわたしの興味を引いたのは「葬儀」を題材とした1本でした。「人はサラリーのみに働くにあらず」という題名なのですが、著者は次のように述べています。

 「この頃は葬儀に金をかけないようにする家が増えているが、東京、地方都市でもまだまだ派手な葬儀がある。必要以上の葬儀をするのは政治家、成金の企業、博徒くらいで、そこに見栄と、一部には葬儀をひろく人に知らしめる目的があった。
 役者、タレントもどきが葬儀の後で、たとえば女優もどきが、主人とは愛で、絆でとドラマの筋書のようなことを口にするが、馬鹿を抜かせ、と思う。ワイドショーもレポーターが、愛が、絆がすべったころんだと言うが、阿呆を抜かせ、といつも思う。
 私は基本的には葬儀は簡素で、人知れず幕を引かせてやるべきだと思う。葬儀の席で必要以上に泣く者を目にすると、何が起こったのだと呆きれる」

 わたしは、「著者は、もしかして葬式無用論者?」とは思いませんでした。それは、前作の『大人の流儀』の最後で、最愛の妻・夏目雅子を送ったようすが感動的に書かれていたからです。著者は、派手な葬儀は好まないにせよ、けっして葬儀の存在価値そのものを否定する人ではありません。

 それどころか、著者は常に「死者」を意識して生きている人だと思います。それは、若くして亡くなった実弟についての文章からもわかります。「大人が口にすべきではない言葉がある」というエッセイで、著者は述べます。

 「弟は17歳の夏、瀬戸内海で海難事故で亡くなった。その経緯はいろんな所で書いたので、ここでは書かないが、母にとっては何事にもまして切ない出来事であった。
 母は今でも弟の写真の前に線香を立て、菓子などを置き、御歳になられましたか、と笑って訊く。いつも明るい素振りでそう口にするのは彼女の性格なのか、他の子供たちの手前そうしているようにも思える。
 『詮方ないことを口にしなさるな』
 母は私にそう教えた。
 それを口にしても、言った当人も聞いた者も、どうしようもないことを大人は口にするべきではないという教えである。
 『一度、言葉を含んでから口にするものだ』
 父はそういう言い方をした。
 世の中には、そういう類いの言葉があるものだ。それでも人は切なかったり、口惜しい時にそれを言葉にする。言わずもがな、とも言う」

 まさに「大人の流儀」と呼べる、非常に含蓄のある文章だと思います。

 わたしが好きなのは、「大人が酒を呑みたくなるとき」というエッセイです。著者は、次のように書いています。

 「酒は呑む人と、呑まない人がいる。
 酒を知らずとも生きていけるし、無理に呑むものではない。私の周囲にも下戸(酒を呑まない人、呑めない体質の人)は大勢いるし、これまでの経験では仕事に関しては下戸の人とやった仕事が上手く行くことも多い。
 しかし私は酒は少し呑めた方がいいと思っている。
 なぜか? 祝事や祝宴でともにほろ酔いになり喜びを分かち合えることもひとつある。
 私の考えでは、酒が一番、その力を、恵みのようなものを与えてくれるのは、祝事の、幸いの逆の心境の時である」

 さらに、この魅力あふれるエッセイの最後に、著者は次のように書いています。

 「人類が地上にあらわれ、社会という、人生という、不条理をともなうものを生きはじめ、酒というものを祖先が発見したのを、私は必然だと考える。一杯の酒で、ほろ酔ったやわらかなひとときで、どれだけの人が救われたのかと思う。しかも美味い。
 さほど人の生は切ないことがやってくるものなのだ。それを精神力だけで克服できるほど人は強靭な生きものではない。100歳近い、翁が、わしゃ晩酌で生きとるみたいなもんです、と言われれば、それが信じられる」

 酒について書かれたエッセイには名作が多いですが、この「大人が酒を呑みたくなるとき」も素晴らしい作品だと思います。酒の持つ「癒し」の力を見事に表現しているからです。もっとも、呑み過ぎると、「癒し」とは程遠い世界に行ってしまいますが・・・・・。

 わたしが本書で一番共感したのは、「幸福のすぐ隣に哀しみがあると知れ」というエッセイです。大人にとって恥かしいことのひとつは迂闊な行動をすることが挙げられるとして、著者は述べます。

 「相手が哀しみの淵に、喪に服しているのにも気付かず、礼を外す態度を取ることが人間にはある。世の中というものは不幸の底にある者と幸福の絶頂にある者が隣り合わせて路上に立つことが日常起こるものだ。
 だから大人はハシャグナというのだ。夜、酔って大声で歌ったり、口笛を吹くなというのは、そういうことを戒めるために教えられてきたことなのだ。
 人間の死の迎え方はさまざまであるが、尊ばれるべき立場にあるのは、その家族、近親者である。彼等に対する礼儀を外すことはやはり人間として許されるべきことではない。悔みの言葉も態度もどんなに慎重に選んでも、近しい人を失くした人にはおそらく足りないのが気遣いである。
 幸せのかたちは共通点が多いが、哀しみのかたち、表情はひとつひとつが皆違っているし、他人には計れないということを承知しておくことだ。それがたしなみである」

 これも、「大人が口にすべきではない言葉がある」と同様、「これぞ、大人の流儀!」と叫びたくなります。著者のこの文章には他者に対する「思いやり」や「慈しみ」が溢れています。わたしのように冠婚葬祭という「幸福」と「哀しみ」の両方の世界に関わっていると、著者の言葉が胸に沁みます。

 そして、最後の「星~被災地から見たこの国」も素晴らしいエッセイでした。仙台に住む著者夫妻は、いわゆる東日本大震災の被災者となりました。3・11の夜のことを、著者は次のように書いています。

 「あの夜、仰ぎ見た星のあざやかさは何だったのか。
 まだ何千人という人が濁流の中で命をつなげる術を求めて依るべき流木や足先の着く場所を求めてもがいていた夜。あの夜の、異様に近い星々のあざやかさに、これまで何度も耳にした、惨状の現場で見た自然の異様な美しさが事実であり、大いなる力は平然と虫けらの死のごとく人間を眺めているのだと実感した」

 著者は、東日本大震災後の日本に失望したようです。それは、以下のような文章からもわかります。

 「株価が一気に下がり、リーマンショック以来だと報道。こんな時に株を投げ売る輩が日本の株の大半を持っているのなら、いっそ下がるまで下げさせて、株式というものの本来の在り方を日本人は学ぶべきだ。投資やファンドという会社はどこか他国へ追い出してしまえ。こういう時に支えるのが経済の持っている役割ではないのか。経済人という言葉があるのなら経済人とは金を儲けることだけしか頭にない人種なのか。
 急激な円高。また投機買いだろう。世界経済で何が許せないかというと、ゲームのように為替、株の投機に走る連中だ。かつてファンド会社を起業した若い男が、金を儲けて何が悪いんですか、と嘯いた。吹聴は悪いんだよ。黙ってやれ。それが大人だ。それに物を生産せずして、金を得ることは賤しいことだ」

 この文章を読んだわたしは、「金を儲けて何が悪いんですか」と嘯いたファンド会社の社長がいま、シンガポールに移住していることを思い出しました。そして、拝金主義に覆われた”明るい北朝鮮”につい先日まで滞在していたことが夢のように感じました。

 でも、著者の「物を生産せずして、金を得ることは賤しいこと」という言葉には異論があります。マネーゲームは賤しいかもしれませんが、ホスピタリティを提供する接客サービス業は物の生産に劣らない、いや勝ると言っていいほど価値のある仕事ですよ。

Archives