No.0572 SF・ミステリー 『西郷の貌』 加治将一著(祥伝社)

2012.03.30

 『西郷の貌』加治将一著(祥伝社)を読みました。

 『あやつられた龍馬』『幕末維新の暗号』(ともに祥伝社)に続く、禁断の歴史シリーズの新作です。ただし、ノンフィクションではなく、フィクションの形を取っています。

 『あやつられた龍馬』と『幕末 維新の暗号』は、わたしも非常に興味深く読みました。前者は「フリーメーソン」、後者は「隠れ南朝勢力」が暗躍するという陰謀ロマンですが、とても面白く、時間の経過するのも忘れて一気に読了しました。特に『幕末 維新の暗号』に登場する、幕末維新の英雄の群像写真「フルベッキ写真」の謎には強く心を奪われました。

 本書は、前作から「写真ミステリー」という要素を引き継いでいます。しかも、かの西郷隆盛の真実の写真を探し出すという物語です。これが、面白くないはずがありません!

 本書のサブタイトルは「新発見の古写真が暴いた明治政府の偽造史」です。

 また、帯には「維新英傑の顔は、なぜ消されたのか?」と大書され、「その写真には若き日のリアルな姿があった―チンケな肖像は、もう見飽きた。『本物』をとことん味わえ!」という扇情的なコピーが続いています。表紙カバーの折り返しには「『西郷隆盛の写真』は実在しない―はずだった」とあり、以下の内容紹介が書かれています。

 「歴史作家・望月真司は、1枚の古写真に瞠目した。
 『鳥津公』とされる人物を中心に、総勢13人の侍がレンズを見据えている。そして、その中でひときわ目立つ大男・・・・・かつて望月が『フルベッキ写真』で西郷隆盛に比定した侍に酷似していたからだ。この男は、若き日の西郷なのか? 
 坂本龍馬や勝海舟らと違い、西郷を写した写真は現存しない、とされている。よく知られた西郷の肖像は、彼の死後、外国人が描いたものだ。『13人撮り』の大男が西郷だとしたら、この写真はいつ、何のために撮られたのか。謎を解明すべく、望月は鹿児島へ飛んだ。明治維新の中心人物たちと『南朝』を結ぶ糸、西郷と公家の関係、武器商人・グラバーの影・・・・・望月は、次々と驚愕の事実に直面する」

 本書の内容は非常に刺激的で、不思議な説得力もありました。しかし、本書はあくまでも小説であって歴史書ではありません。

 『竜馬がゆく』や『翔ぶが如く』といった司馬遼太郎の小説がそのまま「史実」ではないように、いやそれ以上に本書は「歴史の真実」を描いているわけではありません。あくまでも書かれていることは「推測」であり「仮説」なのですが、その魅力は途方もなく大きいです。「13人撮り」の古写真に写っている大男が西郷隆盛その人かどうか、もちろん、わたしには判りません。しかし、その人物が放つ強烈なオーラは只ならぬ気を放っており、「もしかすると・・・・・」と思わせるものを確かに持っています。

 西郷隆盛の写真の真偽は別にして、本書には興味深い点が多々ありました。たとえば、地元・鹿児島には「アンチ西郷」とされる人々がいて、西郷ほど薩摩をダメにした張本人はいないと非難していること。これは、まったく知りませんでした。
 また、太宰府天満宮の麒麟像がグラバーの「ジャパン・ブルワリー」ビールのラベルになったことも知りませんでした。しかも、天駆ける麒麟は明治天皇のメタファーであり、それがキリンビールの聖獣図へと変遷していったというくだりは刺激的でした。

 他にも、江藤新平の「佐賀の乱」について触れた次のくだりは考えさせられました。

 「『乱』という言い方は間違っている。『乱』という表記には薄汚い不逞の暴徒が治安を乱した、という蔑みが含まれている。したがって、西軍(官軍)が勝った戊辰戦争は『戊辰の乱』とは言わない。西南戦争も同じ伝で、2つとも「戦争」である。
 漢字表記と用語の使い分けは、一見どうということはないように思える。何度も述べるようだが、歴史を造る者にとっての大切な仕事だ。
 『横領』を『埋蔵金』や『プール金』と置き換えれば役人の罪が消えるし、原発の『爆発』を『白い煙が上がった』と発表すれば、下町の松の湯みたいにほのぼのとしてくる。
 『やらせ』もすごい。『やらせ』だと言い切ってしまえば、エリート階級による偽装工作という国民に対する重大な詐欺行為が、子供の悪ふざけになって無罪放免になるほどだ。
 ことほどさように言葉1つで『善』を『悪』に貶め、『邪』を『正』に変えてしまうのだから恐ろしい。我々は官僚が造ったイメージ戦略にやすやすと乗せられてしまうのだ。
 『佐賀の乱』というろくでもないレッテルを貼られ、首謀者とされた江藤が、寒風吹きすさぶ戦場を抜けて、ぬくぬくと温かいこの地に西郷を頼った」

 また、幕末の大思想家である横井小楠についての記述が秀逸でした。少々長い引用になりますが、素晴らしい文章なので以下に紹介いたします。

 「横井小楠という名前は小さな楠木正成だ。
 朝も夕も楠木命、ご多分に洩れず、この男もまた尊南朝だ。種を明かせば血脈だ。
 先祖は足利尊氏と闘った南朝武将、北条時行だという。
 血は不思議だ。血など、見映えはどれもみな同じ赤い液体で、しかも代が替わるごとに他の液体が加わって、どんどん原液が薄まってゆくにもかかわらず、20代も30代も長い時を遡った人物の血が、その人の立ち位置というものに何か決定的な影響を与えてしまうのである。人間、己の血に縛られるのは宿命みたいなものだ。
 血と試練によって、その人が造られる。
 江戸に到着した小楠は水を得た魚のように、佐久間象山はじめ、名だたる思想家という思想家をぐるりと巡った。知恵者は知恵者を受け入れ、けっして拒むことはない。
 貧欲なまでの吸収精神、小楠はさらに足を水戸へ延ばして藤田東湖と会う。
マルクスが共産党の代名詞ならば、東湖は『水戸学』南朝の代名詞だ。互いに堂々たる尊南朝、意気投合しないわけはない。
 刺激されて国表にもどった小楠は、私塾を開く。
 1843年のことだが、その名も『小楠堂』である。
 1852年、『学校問答書』を著わす。これをむさぼり読んだ吉田松陰は、是が非でも自藩、長州藩の教科書検定に合格させ、採用させんと動いた。
 吉田松陰は直情径行の人だ。矢も楯もたまらず翌年の晩秋、萩から足を運ぶ。ここには5日間の滞在だったが、飢えた子供のように、ほとんどの時間を小楠との面談に夢中になっている。桁違いの惚れ込みようだ。
 敬服の度合いは時を追って熱を帯び、不自由はさせないので長州に来て欲しいと小楠に懇願するもののうまくいかなかったとみえ、実現はしなかった。
 長州の星、高杉晋作も小楠に惚れ込んだ1人だ。福井で本人と会った形跡があり、同志久坂玄瑞に、小楠をやはり自藩の藩校、明倫館の学頭及び兵制相談役として招きたい旨を話している。福井藩、長州藩、小楠はあちこちで引っ張りだこだ。
 思想家ヒットチャート、ナンバー1である」

 歴史ロマンといえば、邪馬台国の場所をめぐっての近畿説と九州説がありますが、本書で著者は次のような仮説を立てています。

 「九州王朝が近畿に移動した後釜を、違う倭の国が引き継ぐというのはどうだろう。
 そしてどんどんと、そこが膨らみ大きくなった。
 やがて独立王国のようになって半島の倭人と緊密に手を結び、一緒に唐と戦うほどの仲になった。つまり倭を名乗る国は、2つあったという説だ。
 1つが近畿であり、もう1つが九州だ。このころ近畿勢力は大倭国を名乗っている。大倭国が近畿で、倭国が九州だったと考えられなくもない。
 誰が名付けたのか『都府桜』という都を持つ倭国。そう考えれば、戦争前後であってもあちらはあちら、こちらはこちらと何食わぬ顔で近畿からは遣唐使を派遣できる。
 その後、九州王朝は近畿王朝に平伏し、呑まれてゆく」

 この文章など、じつに、さりげなく書かれています。しかし、わたしは、著者のただならぬ歴史知識と豊かな想像力を感じました。

 著者は、現行の天皇制がよほど気に入らないようです。前作の『幕末維新の暗号』同様に、本書でも現行の天皇制に批判的です。また本書では、福島第1原発の事故の情報隠蔽についても強い怒りを抱いています。

 それはまあ問題ないのですが、この2つがドッキングして、「今の政府も原発事故を隠蔽したのだから、天皇の歴史も隠蔽されていて当然」といった論調が続き、これはちょっと陳腐さを感じました。個人的には歴史のミステリーを明らかにしていくという「謎解き」が好みであり、著者のイデオロギーが強く感じられる部分は、小説としての魅力を殺しているように思いました。ただ、ミステリーの素材として、日本人には「フリーメーソン」よりも「隠れ南朝」のほうが合っていることは間違いないでしょう。

 これからも刺激的な続編を期待しています。

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