No.0536 日本思想 『下山の思想』 五木寛之著(幻冬舎新書)

2012.01.29

 『下山の思想』五木寛之著(幻冬舎新書)を読みました。

 いま、ベストセラーになっている話題の本です。帯には「もう知らないフリはできない。」と大書され、「未曾有の時代にどう生きていくか。究極のヒント」と続いています。

 本書は、以下のような目次構成になっています。

「まず、はじめに」
「いま下山の時代に」
「下山する人々」
「いま死と病いを考える」
「大震災のあとで」
「ノスタルジーのすすめ」
「おわりに」

 「まず、はじめに」の冒頭で、著者は次のように述べています。

 「いま、未曾有の時代がはじまろうとしている。
 いや、すでにはじまっているのかもしれない。
 私たちがそれに気づかなかっただけなのだろうか。
 いや、それもちがう、という声がどこかできこえる。気づかなかったのではない。
 気づいていながら、気づかないふりをしてきたのだ。
 とんでもない世の中になってきたぞ、と実感しながら、それを無視してきたのである。
 しかし、その知らんぷりも、もうできなくなってきた。
 言い古された話だが、自殺者の数が13年連続して3万人をこえた。
 3万数千人というのは公式の数字である。ハッピーな数字は水増しし、暗いニュースは少なめに、というのがこの国の常識だから、実際の自殺者の数は、たぶん統計のはるか上をいくだろう。これを未曾有の時代といわずに何というのか」

 日本の経済も揺らいでいます。超優良企業が次々に危機に見舞われ、国家財政も不安だらけです。資産家たちは、我先にと海外の口座を開いているとか。しかし、多くの日本人はそんな危機感とは無縁でした。未曾有の時代に直面しながらも、傍観しているだけです。そんなときに起こったのが、あの東日本大震災でした。著者は、次のように述べています。

 「東日本の大災害と福島原発の事故は、大きなショックだった。
 しかし、いまでは復興と除染がもっぱらの話題である。
 それはなぜだろう。放射能の深刻な事態を知りつつ、それが社会全体の持続したテーマとならないのは、なぜか。
 私が思うに、それは人びとが、私たちの住む世界は、すでに十分に汚染されつくしていることを感じているからではないだろうか。
 レイチェル・カーソンが『沈黙の春』を発表したのは、1962年だった。公害という名の自然の破壊は、その前にすでに限界をこえていたのである。
 大気圏・宇宙・水中での核兵器実験が条約で禁止されたのは、1963年のことだ。それまでのやりたい放題の核実験によって、空も、海も、野山も、十分に汚染されてしまっていた。それは常識といっていい事実だろう」

 いくら日本という国が不安だらけであっても、わたしたちは国に拠らなければ生きていけません。国家の保障するパスポートを持たなければ、隣国にさえも行けないのです。だからこそ、わたしたちはこの国の行方に目をこらさなければならないのです。そして、著者は次のように述べています。

 「私たちは明治以来、近代化と成長をつづけてきた。それはたとえていえば、山に登る登山の過程にあったといえるだろう。
 だからこそ、世界の先進国に学び、それを模倣して成長してきたのである。しかし、いま、この国は、いや、世界は、登山ではなく下山の時代にはいったように思うのだ。
 私たちがいま学ぶべきは、先進諸国にではない。すでに下山した国々、いま下山中の国々の現実ではあるまいか。下山の先進国、という言いかたは変だが、ギリシャも、イタリアも、スペインも、ポルトガルも、英国も、すべて下山の先進国である。そしてまさにいま下山にさしかかった大国がアメリカだろう。
 私たちがもしアメリカに学ぶべきものがあるとすれば、発展と成長の過去ではなく、大国が急激な下山をどうなしとげるかを注目すべきなのだ」

 わたしは、この文章を読んで、ある書物のことを思い浮かべました。司馬遼太郎の『坂の上の雲』(文春文庫)と著者の『人生の目的』(幻冬舎文庫)です。

 NHKでドラマ化もされた司馬遼太郎の『坂の上の雲』では、小国・日本が大国・ロシアを破るという歴史的事実が感動的に描かれていました。日露戦争で奇跡の勝利を得た日本は、その成功体験が仇となりました。

 アジアの国として初めてヨーロッパの強国の一角を崩し、せっかく坂をのぼって見晴らしのいい場所に出たのに、その後、坂道を転げ落ちるように太平洋戦争における敗戦へと向かっていきます日本史上初の敗戦はまさに明治維新にも匹敵する社会の大変革であり、その後、再び坂の上の白い雲をめざした日本人は奇跡の経済復興、そして高度成長を果たします。残念ながら、現在の日本は「第2の敗戦」などといわれ、政治も経済もアメリカのなすがままで、まったく活気がありません。

 坂の底もいいところで、見晴らしは最悪です。  人々の心にもどんよりとした悲観主義があるようです。東日本大震災の発生によって、その悲観主義はいっそう深刻になりました。いまこそ、もう一度、天を見上げて白い雲をさがさなければなりません。そして、勇気を出して坂を上って行かねばならないのではないでしょうか。

 坂の上の雲が必要なのは、日本という国家だけではありません。わたしたち個人もまた、自分なりの白い雲を見つけなければなりません。五木寛之氏は『人生の目的』において、その白い雲を「希望」と呼ぶか、「信念」と呼ぶか、または「人生の目的」と呼ぶか、それは各人の自由だが、そういった坂の上の雲を持たずに送る人生など、なんと空しいものかと述べています。

 しかし、人間というのは坂をのぼるだけではありません。その峠をすぎて秋風の中をゆっくりと坂道を谷底に向かってくだってゆくときもあります。木登りでも登山でも、「のぼり」より「くだり」が大事と言われますが、人生もまったく同様で、坂をくだる老年期というものが非常に大切なのです。そういった『人生の目的』におけるテーマがそのまま本書『下山の思想』につながっているように思いました。

 それでは、なぜ著者は下山に関心を持つのでしょうか。その問いに対して、著者は「それはたぶん、登山に対して下山というプロセスが、世間にひどく軽く見られているからかもしれない。軽視されているというより、ほとんど無視されているのだ。登ることに対して、下りることは、ほとんど問題外だったのではあるまいか。それは、現在もそうだろう」と答えます。そして、著者はさらに次のように述べています。

 「そんなことを考えながら、いま小倉にいる。
 きのう羽田から福岡空港へとんで、博多駅から新幹線でやってきたのだ。
 九州へきて感じるのは、いま東日本を襲った大震災に対する温度差だ。節電や生活必需品不足などで、なんとなく薄暗い首都圏からくると、ことにそれがよくわかる。
 鹿児島への新幹線が開通し、新装なった博多駅は、給料日後の土曜日だったせいもあるのか、ものすごい活気があった。九州各地からやってくるのだろうか。とにかく人出が半端ではない。格差社会というのは、つまりこういうことだろう。
 九州では福岡へ集中する。福岡では博多駅ビルに集中する。
 博多のエネルギーを見ていると、この国は大丈夫、という気になってくるから不思議だ」

 下山の思想というのは、著者の一貫したテーマであるようにも思います。「下山」とは、当然ながら「老い」というものに通じます。
 以前、著者は『林住期』(幻冬舎文庫)という題名の本を書きました。そのタイトルは、「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」という、古代インドの人生を4つに分ける思想からとったものです。中国でも、人生を「青春」「朱夏」「白秋」「玄冬」の4期に分けています。

 著者は、「登山」というのは前半の2期にあたり、後半の2つの季節に相当するのが「下山」であるような気がすると述べています。人間の一生でいうなら、50歳までと、それ以後となります。今の時代なら、さしずめ60歳で定年退職してから後と考えるのが自然かもしれません。以下のような文章にも、著者の下山の思想がよく表れています。

 「太陽も、朝日として昇り、夕日として西のかたに沈んでいく。朝日にかしわ手を打つのが神道で、西方の空に沈む夕日に合掌するのが仏教である」
 この一文は名文ですね。そして、「親のない子は夕日をおがめ 親は夕日の真中に」という歌を紹介して、著者は次のように述べます。
 「朝日と夕日と、どちらがすぐれているか、などという議論は意味がない。日は昇り、そして空を渡り、やがて西のかたに傾いていく。
 夕日の美しさ、落日の荘厳さに心うたれる人は少なくないだろう。
 日はまた昇る。しかしそれはいったん西のかなたに沈んだあとのことである。
 落日といい、斜陽という。そこには没落していくマイナスの感覚がある。しかし、私は沈む夕日のなかに、何か大きなもの、明日の希望につながる予感を見る。
 日は、いやいや沈むわけではない。堂々と西の空に沈んでいくのだ。
 それは意識的に『下山』をめざす立場と似ている」

 著者は、仏教に関心が深い作家としても知られています。本書の「いま死と病を考える」という章の最後にある「養生と宗教のあいだに」という一文が興味深かったです。仏教では「煩悩」ということをしきりに問題にしますが、著者は次のように述べます。

 「煩悩を去る、ということは、修行の最終目標だった。そのためにさまざまな苦行が試みられている。一方、法然、親鸞など浄土教系の教えは、煩悩を捨て去るのではなく、煩悩をかかえたまま成仏するという思想だった。
 煩悩とは何か。親鸞はわかりやすくそれを説明している。
 煩悩とは、『身のわずらい、心のさわり』のことであるという」

 ふつうは煩悩というと内面の精神的問題であると思いがちですが、じつは肉体的問題、すなわち健康的問題も含んでいるというのです。そこで、トータルに「煩悩」の対処法を考えた人物こそブッダであったとして、著者は次のように述べます。

 「ブッダは、すこぶる現実的な生活技法についても語った。『アナパーナ・サティ・スートラ』という教えは、中国で『大安般守意経』と訳された。ひらたくいえば、これは『呼吸のしかた』『息をする上での注意』『呼吸の心得』といった意味だ」

 「ブッダの考え方」について考え続けているわたしにとって、この著者の発言には大きなインスピレーションを与えられました。

 さて、本書の最終章である「ノスタルジーのすすめ」は、「日刊ゲンダイ」の連載エッセイを元にしているらしく、テーマの一貫性はあまり感じられませんでした。やたらと靴の話が出てくるのですが、わたしは興味が持てませんでした。

 しかし、非常に面白く感じた部分もありました。「トンデモ本」の話題です。なんと、国民作家として有名な著者は、「トンデモ本」の愛読者であるというのです! 「夏の夜の小さな娯しみ」というエッセイに次のように書いています。

 「寝苦しい夏の夜を、どうすごすか。私たち旧世代は、活字を読む。DVDとか、テレビを見ていると、眠気が訪れてこないのである。こういう夜に、私がもっとも愛用する本は、いわゆる『トンデモ本』と称される一連の出版物だ。
 『トンデモ本』というのは、現実世界の反面鏡だ。黒白逆転し、画像がデフォルメされているところがおもしろい。ケネディ暗殺の真相やら、9・11の陰謀やら、マリリン・モンローの死の推理やら、外国ネタは数々ある。フリーメイソンをはじめ、歴史を動かす秘密結社の話も楽しい。キリスト教に対する仏教の影響や、その反対の仏教へのキリスト教の影響などを述べた本もある。
 日本の古代史は、『トンデモ本』の宝庫だ。旧満州国に関する本もおもしろい。
 日本国が遠からずギリシャ化する、という本もよく目にする。こういう本を『トンデモ本』と呼んで、ひとくくりにするのは間違いかもしれない。なかなか説得力があり、それぞれ一面の真実が行間に埋まっているからだ。
 書き手の筆力と、想像力がすぐれていると、じつにおもしろい。いわゆるジャーナリズムや世論などと、まったく正反対の主張がくりひろげられるからである。
 日本国は大借金国である、という本もあり、いやまったく借金などないんだ、という説もある。夏のむし暑い夜には、この手の本が一番だろう」

 天下の五木寛之が「トンデモ本」を愛読していたとは驚きです。わたしも嫌いなほうではなくて、中高生の頃などは大陸書房などから出てきた超文明系の「トンデモ本」を貪り読んでいたクチですが、社会人になってからはなるべく読まないように努力してきました。「トンデモ本」はあまりにも面白いので、現実の解釈に悪影響を与えるのではないかと思ったからです。また、フリーメーソンに代表される陰謀論の類が多く、社会的にも非常に有害であると思ったからです。

 しかし、著者の五木寛之氏は以下のように述べます。

 「いわゆる『トンデモ本』のなかには、単なる妄想をくりひろげているだけのものもある。しかし、その論拠に疑問があっても、なにかしら時代の底にわだかまる不安を映しだしているものもある。そんな『トンデモ本』に心を惹かれるのは、理由のないことではない。
 学者の説は、ほとんど後ヅケである。驚くことに、今ごろ『バブル経済はどうして崩壊したか』みたいな本が結構、店頭に並んでいる。
 リーマンショックについての本も無数にある。
 だが、私たちが知りたいのは、この先どうなるか、だ。それも50年、100年先の未来図ではなく、2年先、3年先の世の中の変転だ。
 そうなると、着実で良心的な専門家には答えようがない。現状の分析はできても、そこから一歩先、半歩先に踏みだすことがはばかられるのである。
 そこで『トンデモ本』の出番となる。大胆不敵に来年を予想し、確信をもって語る。そんな本がおもしろくないわけがない。『トンデモ本』には一面の真理が隠されている。そこが人を惹きつけるのだ」

 著者によれば、健康とか、養生に関しても、「トンデモ本」が花盛りだそうです。じつにさまざまな説が横行していて、読めば読むほどわからなくなってしまうとか。さらに著者は、次のように述べています。

 「例をコーヒーに見てみよう。コーヒーはもともとは薬だった。イスラム教のもっとも聖なる時間である深夜の瞑想、それを支えるための聖なる飲物だったのである。
 コーヒーのカフェインは、長いあいださまざまに論議されてきた。現代では、摂りすぎは良くない説から、カフェイン毒物説、そして最近ではコーヒーを1日3杯以上飲む人はがんになりにくい、という有益説までが登場するしまつである。
 常識としてカフェインは、体に良くないとされる。
 ところがカフェインは体に良い、という本がでていて混乱する。
 塩も日本人の健康に害があるとされてきた。しかし、工業用化学製品である塩化ナトリウムは有害だが、天然塩はどれほど摂ってもかまわない、と説く本もある。高血圧の人にも、あえて塩をすすめるのは、なかなか勇気の必要なことで、それを『トンデモ本』あつかいするのは、間違っているかもしれない」
 最近、健康に関する書籍の内容が罪に問われて出版社の関係者が逮捕されるという事件が起きました。この事件の背景には大きな思惑というか検察の闇を感じてしまいますが、本来、健康の本なんて「トンデモ本」だらけなのです!それを、いちいち逮捕していたら、出版社の経営者なんてみんな収監されてしまいますね。

 著者は、「真実は必ず一種の怪しさを漂わせて世にあらわれる」と喝破します。そして、「堂々たる真実などはない。『トンデモ本』と称される本のなかに、大事なことが隠されている。それがおもしろくて私たちは『トンデモ本』を手にするのだ」と述べます。

 著者によれば、これまで歴史上の名著とされてきた本の中にも、「トンデモ本」はたくさん存在したそうです。たとえば、平安時代が鎌倉政権にとってかわられる12世紀後半、43歳の法然が、「トンデモ」ない説を世に広めました。著者は「善行も、修行もいらない。ただ、ナムアミダブツと声にだしてとなえるだけでよい。それだけでどんなに罪深い者も必ず救われる、というのである。これは当時の仏教思想から見れば、『トンデモ』ない意見である」と述べています。

 さらに、著者は次のように述べています。

 「いま読んでも『選択本願念仏集』はすごい。
 手を触れればたちまち血が流れそうな激しさにあふれている。
 古今東西の『トンデモ本』のなかで、最高、最重要な1冊だろう。法然は温厚な人柄で知られた。しかし、表面おだやかに見える人ほど、内面に燃えたぎる焔は激しい。
 その時代にこの書を目にした人は、体が震えるほどの衝撃をおぼえたことだろう。
 親鸞もその1人だった。そして彼は生涯その師の志を背おって歩き続ける。
 平田篤胤もすごい『トンデモ本』の書き手である。さらにいえば、白隠禅師もそうだ。
 鶴林と号した白隠は、臨済禅中興の祖として宗門外にもファンは多い。『夜船閑話』の1冊をひもとけば、禅を堅苦しく考えている人などびっくり仰天するだろう」

 うーん、なんだか「トンデモ本」のイメージが変わってしまいますね。というか、「トンデモ本」こそ「本の中の本」という感じがしてくるから不思議です。
 でも、わたしは「トンデモ本」には2種類あると思います。

 1つは、著者がいくら変人扱いされようとも、自説を腹の底から信じていて、なんとか本当の真実を世に広く知らせたいと思っている「トンデモ本」。これを、わたしは「リアルな(ガチの)トンデモ本」と呼びます。

 もう1つは、ただ本を売らんがために常識から逸脱した奇異な説を意図的に唱える「トンデモ本」。これを、わたしは「フェイクな(ヤオの)トンデモ本」と呼びます。後に世界を大きく変える可能性を持っているのは言うまでもなく前者です。『洗脳論語』という本などは後者の代表例と言えるでしょう。

 結局、著者の最大の「強み」は、物事を反転して見るという能力ではないでしょうか。いわば、「発想の転換力」とでも言うのでしょうか。これまでも、「ため息」とか「猫背」とか「うつ」とか、明らかにネガティブとされている言葉に対しても著者は新たな光を当ててきました。本書の「おわりに」の冒頭に、著者は次のように書いています。

 「私は考え方が暗いと、昔からよく言われたものだ。たしかに物事を悲観的に考えるほうではある。人生を考えるに際しても、まず、死から逆算して考えることが多かった。
 笑う、ユーモア、希望、などの大事さを十分承知した上で、あえて悲しみや、涙や、憂鬱についてずっと書いてきた。それは私の精神的出発点が、この国の敗戦、という時点にあるということかもしれない。高度成長のさなかにも、私はネガティブなことばかり言ってきたように思う。時代に逆らう、というのは、私の病気のようなものかもしれない」

 時代に逆らうことが病気かどうかは、わたしにはわかりません。ただ、未曾有の時代を迎えた今、本書に書かれているような「下山の思想」には、間違いなく、わたしたちが生きていくためのヒントがあると思いました。

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