No.0385 哲学・思想・科学 | 宗教・精神世界 | 評伝・自伝 『聖人の思想とその現代的意義』 道徳科学研究センター編(モラロジー研究所)

2011.07.17

 『聖人の思想とその現代的意義』道徳科学研究センター編(モラロジー研究所)を読みました。

 「孔子・釈迦・イエス・ソクラテスに学ぶ」というサブタイトルがついています。この読書館でも紹介した『四人の教師』と同じく、四大聖人について書かれた本です。

 本書の編者である道徳科学研究センターとは、モラロジー研究所内の機関です。モラロジー研究所とは、総合人間学としての「モラロジー」を唱えた廣池千九郎によって創設されました。廣池は、昭和3年(1928年)に発表した『新科学モラロジーを確立するための最初の試みとしての道徳科学の論文』という大著で、人類に確固とした生活の基準を与え、歴史を越えて人々に深い影響を与えてきた聖人もしくは精神的存在に注目し、彼らの実行した道徳を「最高道徳」と名づけました。

 それには大きく5つの系統があり、それは孔子、釈迦、イエス・キリスト、ソクラテスおよび日本皇室の先祖神である天照大神を中心とする道徳系統です。モラロジーの中心課題は、この最高道徳の実行の効果を学問的に明らかにし、人類に対して最高道徳の実行を推奨することにあります。それゆえ、モラロジーにおいては、聖人の思想の研究が極めて重要となります。

 廣池は、4人の聖人が日常生活の生き方の指針にとどまらず、魂の救いまでも含む教えを説いていると考えました。それが宗教、倫理道徳、哲学に深く関わっていることは言うまでもありません。そのため、モラロジー研究所道徳科学研究センターでは「聖人研究プロジェクト」を立ち上げ、さまざまな研究活動を行ってきたそうです。

 本書の目次構成は、以下のようになっています。

「はしがき」
「『精神革命』とその現代的課題」(伊藤俊太郎)
「儒教から見た現代~孔子を通して」(加地伸行)
「仏教は文明共存の道を示しうるや?~釈尊の教えの現代的意義」(奈良康明)
「イエスは何を語ったのか?~イエスの思想の現代的意義」(八木誠一)
「ソクラテスはなぜ死んだのか~ソクラテスの思想の現代的意義」(加来彰俊)

  いずれも、各分野を代表する高名な学者が勢揃いしています。これも、すべて「聖人研究プロジェクト」の一環だそうです。それぞれの聖人の思想を取り上げた講演を行って、その内容を収録し、本書が完成したわけです。

 それでは、それぞれの研究者の発言を見ていきたいと思います。最初に文明史学者の伊藤俊太郎氏は、「『精神革命』とその現代的課題」の中で、四大聖人それぞれについて簡潔にまとめています。孔子については、まず「礼」の本質から説き、次のように述べています。

 「『礼』とは何でしょう。礼というのは人の行うしきたり、一つの儀式です。人間が行うフォームですよ。これが礼なのです。お葬式はこういうふうな次第でやります。結婚式はこういうふうにやりますと、冠婚葬祭というのはみなそうでしょう。
 孔子がそこから出発した儒家集団というのは何だったかというと、この礼を研究する集団だったのです。易しく言うと、冠婚葬祭屋だと考えてください。冠婚葬祭屋だから、お葬式ではこういうのはいけませんよというようなことを知っている。儀式の次第の知識を持っているわけです」

 これは、いつもわたしの考えていることと同じであり、納得できました。伊藤氏は、孔子の「仁」が「天」につながっていることを示し、次のように述べます。

 「彼の内在的な仁の確信は結局、終局的には天というものと結びついているということになる。しかしそれは、もはや神話的なものではなく、この世の道徳的実践を支えている超越的原理です。ですから、人間の精神の発見と超越者の自覚というものは、ここでも相即的であるといってよいでしょう。これが『精神革命』の実相だと思う。それを私は『内在的超越』と言ってみたいのです。つまり人間の精神に内在しているものが、その中にすっぽり入り込むのではなくて、それを超えたものを自覚する。しかし超越的超越ではない。初めからこの世を超越している超越的超越ではない。あくまで自分の精神、内在的なものに結びついた超越というものがある。内在的内在でもない。内在的内在というのは、超越者がみんな自分のところへ持ってきて自分の中に解消してしまう。こういうものでもない」

 ここで、「精神革命」という言葉が出てきました。この「精神革命」について語るにあたり、伊藤氏は人類史の5大変革期という文明史の5つの段階について説明します。この5段階のうち、第1が「人類革命」で、これは人類の成立ということです。ここで人類が形成されると、第2の「農業革命」が起ります。そして第3番目の転換点は「都市革命」です。その次に起こる第4番目の変革期が「精神革命」で、ちなみに第5は「科学革命」ということになります。伊藤氏は、「精神革命」について次のように述べています。

 「人類史における第4の変革期となる『精神革命』は、実に偉大な世界史の曲り角をつくりあげました。それは人間の『精神の発見』とそれに伴う『超越者の自覚』です。この人間の精神性(spirituality)を超越者との関係で捉えるとき、それを『霊性』と言ってもよいでしょう」

 「精神革命」には、おのおの違った道筋ではありますが、いわば「究極霊性」を求めて、同じ方向に向かっている4つの系譜があります。すなわち、キリスト教の「アガペー」、仏教の「慈悲」、孔子の「仁」、ソクラテスの「イデア」を求める4つの道です。それらは、も確かに違った形をとっています。それは同じ山の頂上、頂きを求めているのだけれど、登山口は違っている。しかし求めるところは1つなのです。しかし、そこには「自宗教中心主義」という問題が立ちはだかっています。それに対して、伊藤氏は次のように訴えます。

 「求めるところは同じなのだということを自覚すれば、いったいどうして自宗教中心主義というものがまだ続いているのでしょうか。そして宗教の名における戦争が行われるのでしょうか。諸宗教は結局、同じ頂上に向かうさまざまな道程ですから、対立者というよりむしろ協力者であるべきです。互いに学び合うところはあっても、滅し合うものではありません。今地球上の諸文明が共存していかねばならないグローバルな時代に、自宗教中心主義を乗り越えて、他宗教の存在や意義についても認識を広げて、『究極霊性』に向かって人類共通の精神的基盤を確立しなければならないと私は思います」

 「究極霊性」を求める伊藤氏の思想はスケールを拡大し続けます。ついには宇宙の始まりにまで行き着き、伊藤氏は次のように述べます。

 「世界はビッグ・バンから始まりました。バーンと大きな爆発によって、しだいに宇宙が大きくなってきて、その中に銀河系ができ、銀河系の中に太陽系が形成された。太陽系の中に地球ができて、地球の上に生命が誕生し、そしてそれが進化して我々人間となり、さらには文明の形成に至りました。これは通観してみますと、宇宙は生きた自己組織系なのです。宇宙は自分自身をしだいに創っていく自己組織系なのです。
 この流れはただごとではありません。ここにひとつの大きな形成力を見ます。それが神であると私は言いたい。神というのは何か遠くのほうで宇宙から離れて存在していて、『世界よ成れ!』と命令したから世界ができたというものではないと思います。そうではなくて、宇宙の自律的発展を支えている、なんとも言いがたい壮大な力、これが神なのです。そう思います」

 伊藤氏は、それが「内在的超越」なのだと述べます。内在していて、その中の超越というわけです。結局、わたしたち自身が宇宙の長い歴史を背負っているのです。そして、わたしたちはやがて再び宇宙に戻っていくのです。

そして伊藤氏は、「精神革命」に続く「科学革命」のさらに後のビジョンを語ります。それは、文明の形態がもう一つ変わる「環境革命」です。伊藤氏は、わたしたちに次のように語りかけます。

 「みなさんは宇宙の歴史を背負って生きているのです。長い長い宇宙の道のりの所産なのです。我々は宇宙から出てきて、宇宙へ還っていく。そういう宗教をなんて名づけたらいいのかと、私はつくづく考えました。そしてそういう宗教観を抱いた人たちがいたことに気づきました。
 西のほうからひとり挙げてみると、それはゲーテです。ゲーテのキリスト教はそういうものでした。内在的な万有神論。神が自然の中にいて、宇宙の力みたいなものが、結局神なのです。スピノーザの神即自然というものなのです。
 今度は東のほうからひとり挙げましょう。宮沢賢治です。宇宙から来て、やがて宇宙へ戻っていくという心情を、彼は書いていますよね。『宇宙の微塵となりて散っていこう』という有名な詩があります。
 ゲーテ、宮沢はあえて『教』をつければ『宇宙教』だった。英語でいうとcosmic religionということになる。こういうものが『環境革命』における宗教としては、私は力を持ちうるのではないかと思う」

 儒教学者の加地伸行氏は、「儒教から見た現代」で、まず日本仏教とは事実上は儒教なのだと明らかにしています。加地氏は次のように述べます。

 「普遍宗教と言われていますが、東北アジアでは、仏教は日本しかないのが実情です。しかし、その日本における仏教の中身を見ると、その10%くらいが、インド仏教であり、その他の10%くらいが道教(中国から生まれた宗教)です。そして、あとの80%が儒教です」

 日本仏教の中の8割は儒教だということは、日本仏教は事実上は儒教ということになります。このことを加地氏の一連の著書で学んだわたしは、『葬式は必要!』(双葉新書)などで積極的に紹介してきました。そして加地氏は、孔子その人について次のように語ります。

 「まず何よりもこの孔子という人は、人間中心の考えを基礎としていると言えます。この世界は何によってできているかとかいうような存在論みたいなことにはあまり関心を持っていません。人間が中心です。これは儒教の基本でありまして、人間をどう見るかということが99%の関心事であるわけです」

 それでは、儒教は人間をどのように見るのか。それについて、加地氏は次のように述べます。

 「人間は”ぼんくら”だというのが儒教の見方ですが、その”ぼんくら”も人間として、生きていかねばなりません。その時、どのように生きていけば良いのか、生きていくために最小限のことはちゃんと覚えていかなければいけない、というところから教育が始まっています。それが昔から言われている『読み書き算盤』です。『読み書き算盤』という基礎的なことだけを教えればいい。つまり学校としてできる教育は、ほとんどの人間が、誰でもがんばればそこまではいけるという程度としてのもの、すなわち『読み書き算盤』ができるところまでを教えるのが教育だというわけです。その上は、才能のある人が型を破って新しいものを生み出していけばよいという考え方です」

 さらに、儒教は人間の種類を分けるという発想をします。続いて、加地氏は次のように述べています。

 「そうしますと、この”ぼんくら”の人間ばかりの中から、今度は人間の種類を分けていくことになっていくわけです。このような分け方というのはいかなる思想でもあります。例えば、マルクスは、人間には2種類あるんだと。『搾取する奴と搾取される奴がいる』と分けています。人間を2種類に分けていくわかりやすい考え方です。また、江戸時代の商売人達は、この世には、『金をどうやって儲けるかと朝から晩まで考えている奴』と、『金をどうやって使おうかと朝から晩まで考えている奴』とがいると考えました。確かに真理です」

 「それと同じく儒教では、人間には2種類あるということを言っています。どういう種類かと言いますと、『自分の幸福だけを考える人間』と『自分の幸せのみならず、他者の幸せを考える人間』の2種類です」

 さらに加地氏は、続けて次のように述べています。

 「こういうふうに人間は2つに分かれる、と孔子は言っていますが、世の中を見ていると確かに、他者の幸せを考える人間が必ずいます。儒教では、孔子の言葉として『論語』の中で、『他者の幸せを考える人間』を『志のある人間』すなわち『士』というふうに言っています。そこで孔子は、この『自分の幸せだけを考える人間』を『民』というふうに区分し、このような人たちが圧倒的に多いと言っています」

 ここから、儒教の政治思想というのは生まれてきたわけですね。インド哲学者の奈良康明氏は、「仏教は文明共存の道を示しうるや?」で、仏教の「縁起」をめぐって次のように述べています。

 「私たち人間が無常であり、縁起している真実をそのまま受け取れないのは自我が欲望という形で働き出すからです。欲望とは『ナイモノヲネダル』ことと『カギリナクネダル』という2つの大きな特徴があります。いずれもしかるべく調整しないと、欲求不満をもたらし、人生を不安にします。だから無常というハタラキは、自然の側では何もしていないのに人間の側で勝手に『かくあれ』といってねじ曲げて、不満を起こす原因となっています。その意味で世界は無常なものだから、思いどおりにならない苦しみや不安の原因となります。無常なるが故に苦なり、という理由です。
 しかし、これは自然の側の責任ではありません、人間の側で勝手に自我欲望を振り回しているからです。病気が治ったとか、赤ちゃんが生まれたという無常は文句を言わずに受け入れるくせに、病気になったとか、恋人が死んだ、という無常は受け入れません。これは人間の勝手というべきでしょう」

 また奈良氏は、「苦悩」や「欲望」をめぐって次のように述べます。

 「人間とは、いや『私たちは』、いや、それでも徹底しませんので、主語は『私』です、私は生まれついての無明性に依って縁起、無常等の真実を見抜けず、欲望をいたずらに振り回して苦を招いています。これを『人生は苦なり』と仏教では言います。人生を無条件で苦である、と言うのではありません。仏教ではそういうことは一切言っていません。『人生は苦なり』とか、『一切皆苦』というのは今見たように、無明と自我欲望とで自らに欲求不満を招いている『私』の人生のことを言うものです。『人生に苦あり』ということとは区別してください」

 わたしはこれまで「一切皆苦」という考え方には大きな違和感があったのですが、この説明を読んで納得できました。さらに、昨今話題となった「無縁社会」という言葉がいかに妄言であるかも述べられていました。

 「帝釈の網」という、華厳の縁起思想を巧みに表現した比喩があります。帝釈天とは「インドラ」というヒンドゥー教の神ですが、仏教に取り入れられて、仏法および仏教徒の守り神になりました。その帝釈天が地球上に大きな網をかけたというのです。地球をすっぽり覆うほどの巨大な網が下りてきて、わたしたちの上にも来ている。1つ1つの網目が、わたしたち1人1人です。網目にはシャンデリアのミラーボールのようにキラキラ光る「宝珠」がぶら下がっている。

 つまり、人間はすべて網目の1つでミラーボールのような存在なのです。この比喩には、2つのメッセージがあります。1つは、「すべての存在は関わり合っている」ということ。もう1つは、個と全体の関係です。全体があるから個があるわけですが、それぞれの個が単に集合しただけでは全体になりません。個々の存在が互いに関わり合っている、その「関わり合いの総体」が全体であると仏教では考えるのです。奈良氏は、このことから次のように述べます。

 「全体があるから個がある、それは当たり前のことですが、同時に、その中のただ1つの個がなくなったら全体もなくなる、と見ます。だから『縁起の社会観』なのです」

 「縁起」という仏教思想を社会に当てはめてみたら、どうなるか。奈良氏は述べます。

 「社会の問題に当てはめれば、家族、地域社会、会社、教団、国家、世界などの全体があるからこそ、私たち、いや、『私』は存在しています。その一人ひとりの『私』が相互の複雑なかかわり合いの中で全体を支えている。世界の中のメンバーとしてある私というものは自分だけの存在ではないし、その意味で共に生きていかなければ世界はうまくいかないのです」

 そうです、わたしたちはすべて関わり合っている、つまり「縁」によって結ばれているのです。そもそも社会とは縁ある者どものネットワークであり、すなわち「有縁」なのです。最初から「無縁社会」など、ありえないことがよくわかります。神学者の八木誠一氏は、「イエスは何を語ったのか?」で、次のように述べます。

 「私たちの生活はいろいろな限定の中にあるため、その限定を守ることが正しいと思われる場合が多いのですが、それでは人間は日常生活の担い手(主体)である単なる自我となりおわっています。それではいけないのであって、実はそういう限定は、全部超えることができるものです。限定を超えたときに初めて人間は自我を超えた自己の深み―自分を越えたもの―に触れることができます。そこから人間は新しく成り立っていくのです。それをパウロは『愛』と言ったのです。ではイエスは何と言ったか、その点については福音書の中にはっきり出ていないので、私が勝手に作るわけにはいきません。『神のはたらき』が『自己』を成り立たせる。個人または共同体の生は『神のはたらき』の表現でなくてはならない。しかし実人生はそれを覆っている、ということですが、イエスはそれを明確に概念化してはいないのです。ただ『神の支配』という言葉で暗示しているだけです。それを明確化するのは現代に生きる宗教者の責務でしょう」

 八木氏は、「プログラム」という言葉を非常に重視しています。プログラムとは、喫茶店に入って座ったら店員がメニューを持ってきてコーヒーを注文するといったような日常生活を支えている「約束ごと」のようなものです。わたしたちの日常生活はプログラムの中にあるのであり、逆に言えば、プログラムがない社会ではコミュニケーションが成り立ちません。

 現在では、個人、家族、社会というレベルで、また今日、今年、来年というレベルで、プログラムはますます複雑になり強化されています。人間とは通念の奴隷であり、通念とは共有されたプログラムに他なりません。

 ニーチェなどの哲学者は、これを破壊してエゴイズムを乗り越えることを訴えました。しかし、イエスはどうだったのか。この「プログラム」こそがイエスの思想を理解する上で最大のキーワードになるという八木氏は次のように述べます。

 「イエスは『プログラムを破壊せよ』と言っているのではないと思います。しかし、『思考・行動・価値観・選択の上で、私たちがプログラムに制約されているということが、はっきり自覚されなくてはならない。そうでなくては人間の自由―これは人間を超えたところから成り立ち、また他者への自由な奉仕に形を変える―は成り立たない』と、イエスは言っているように思えるのです。

 最後に哲学者の加来彰俊氏は、「ソクラテスはなぜ死んだのか」で述べます。

 「ソクラテスは一生涯、正義について探求し、正義とは何かと問い続けてきた人であり、そして何度も死の危険にさらされながらも、正義を守り通してきた人であったと言われていますが、その彼が、生涯の最後の土壇場で、これまでの自分の言行の一切をふいにすることはできなかったでしょう。彼の行動を一生監視し続けていて、そのつど警告を発していた、あの『ダイモーンの合図』も、この場面では沈黙したままでしたから、ソクラテスは、これはこれでよしとしたのではないでしょうか。法廷における弁明の初めにも、中間でも、そして最後にも、また牢獄の中での最後の言葉の中にも、『神に委ねる』とか『神の導きに従おう』とかいうようなことが言われています。ソクラテスも結局は、正義を守りながら、ということはつまり、不正は決してしないということですが、最後のところは、『神』というような何か絶対的なものに自分の身を委ねていたのではないかと思われるのです」

 そして、加来氏は以下のように述べています。

 「ソクラテスの生活信条は、生きることではなく、よく生きることを大切にすべきであり、そしてその『よく』とは、『美しく(立派に、見事に)』とか『正しく』とかいうことと同じだというものでしたが、ソクラテスは正しく生きることによって見事な生を送り、そしてまた見事な死を遂げたのだと言ってよろしいでしょう」

 非常に簡にして要を得た発言であると思います。そう、ソクラテスは「正しく生きる」ことによって「見事な生」と「見事な死」を手に入れたのです。これは、四大聖人すべてに共通することであり、わたしたち全員がめざすべきことでもあります。

 本書は、その道の第一人者がそれぞれの聖人を語っているだけあって、いずれも多くの気づきを与えられました。わたしは、ますます四大聖人に深く魅せられました。

 今後も、1人の「聖人研究家」として、わたしは4人のメッセージに耳を傾け、その現代的意義を探っていきたいと思います。

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