No.0397 宗教・精神世界 『グノーシス主義の思想』 大田俊寛著(春秋社)

2011.07.29

 『グノーシス主義の思想』大田俊寛著(春秋社)を読みました。

 著者は、1974年生まれの気鋭の宗教学者です。一橋大学社会学部を卒業、東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻宗教学宗教史学専門分野博士課程を修了し、現在は埼玉大学の非常勤講師を務めています。本書の帯には「キリスト教最大の異端、その思想の深度」というキャッチコピーとともに、以下のような文章が記されています。

 「伝統や権威に反逆するもうひとつの<知>のかたちとして、心理学者ユングやポストモダンの思想家など、多くの知識人を魅了してきたグノーシス主義。しかし彼らの理解は、おのれの空想や独善を仮託した蜃気楼にすぎなかった。虚妄の解釈を排して、歴史の流れを大胆につかみ、テキストを細心に読み解くとき、<父なる神>の真の姿を求めて進化したグノーシス主義の発展と崩壊の軌跡がはじめて明らかになる。」

 本書の目次構成は、以下のようになっています。

「序章」

第1章 グノーシス主義前史
   1.古代都市の信仰―「父」というフィクション
   2.プラトン主義的形而上学
   3.ストア主義的自然学
   4.混淆主義的変身譚

第2章 二つのグノーシス神話
   1.『ポイマンドレース』
   2.『ヨハネのアポクリュフォン』

第3章 鏡の認識
   1.グノーシス主義と精神分析
   2.プレーローマの成立と破綻
   3.奪われた自己像
   4.仮現論―真実の神の変容
   5.新婦の部屋

第4章 息を吹き込まれた言葉――グノーシス主義とキリスト教
   1・グノーシス主義とキリスト教
   2.神の三つのペルソナ―キリスト教教義の要約
   3.言葉の分裂
   4.真の神の名

「文献一覧」
「あとがき」

 世の中には困った陰謀論者が多いですが、オカルトやSF好きな人なら、「MJ12」という名前を聞いたことがあるでしょう。そう、UFOやエイリアンに関する調査研究、あるいは接触交渉を行うとされている機関です。そのMJ12の思想的原点こそグノーシスであると言われ、陰謀論者が好む闇の支配者主流派の中にもグノーシスに源流を持つ者が多いとか。神秘主義思想な傾向を持つグノーシスは、錬金術などにも多大な影響を与えているというのです。

 グノーシスとは、いったい何か。「グノーシス」は、ギリシャ語の「知識」を意味します。そしてグノーシス主義とは、一般に「この世界は原理的に欠損を抱えている」という思想だとされています。究極の知識として現われるグノーシスは人間の魂を根本から変え、この世から永遠の光へ近づけることができるとされています。

 歴史的に認められたグノーシスがキリスト教の登場に密接に結びついている一方、それより以前にユダヤ教の神秘的な思弁の中にグノーシス思想の萌芽が存在しています。それは後に、エッセネ派のようにカバラを生み出す一因となります。

 イスラム教もまた、シーア派の思想やスーフィーに代表されるグノーシスを生みました。キリスト教と同じく、グノーシスはユダヤ教やイスラム教においても深い神秘主義を生み出しましたが、いずれも不信の目で見られました。いかなる宗教に関係するにせよ、グノーシスはある精神状態につながっています。

 グノーシス派の人々にとって、霊魂は肉体に閉じ込められており、したがって、彼は宇宙を闘争する2つの力に支配されたものと考えます。

 精神が物質に対立するように、光は闇と闘争する。
 善は悪と、生は死と、知識は無知と闘争する。
 人間の悲惨を生んだ最大の原因こそ無知である。

 グノーシスの特徴となる思想をあげれば、こんなところでしょうか? わたしは、かつて『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ文庫)の中で、グノーシスについて触れました。同書の帯には、「『ダ・ヴィンチ・コード』の謎を解く鍵、グノーシス派まで丸わかり!」などと書かれています。

 教会に異端と見なされたキリスト教の分派の1つにグノーシス派があります。

 パウロの使徒書簡はすでにそのことを暗示しています。いわゆる「グノーシス」はほぼ普遍的な現象を意味するので、「グノーシス派」とは区別されます。グノーシス派は1世紀から4世紀までに偉大な輝きを放ちました。しかし、グノーシス派の原典が徹底して破棄されたので、彼らの敵である教父たちの攻撃を通してしか知られていません。

 1945年、上エジプトのナグ・ハマディで、グノーシス派の文書が発見されました。このナグ・ハマディ文書は多くの経外福音書や経外黙示録を含んでいました。その中でも特に際立っているのは、『トマスの福音書』と『トマスの行伝』です。前者は、本当にキリスト教の起源となるイエスの言葉を集めた貴重なものです。後者は、詩の形式で表現された魂の贖罪についての偉大な神話が要約されています。

 以上のような見方で、わたしはグノーシス主義をとらえたわけですが、これらは主に『グノーシス 陰の精神史』『グノーシス 異端と近代』(ともに大貫隆・島薗進・高橋義人・村上陽一郎編、岩波書店刊)などの研究書で得た知識に基づくものでした。

 しかし、本書『グノーシス主義の思想』の著者である大田氏は、それらの国内における先達の「グノーシス主義」研究の方法は間違っていたと指摘するのです。では、著者はグノーシスをいかなるものであると理解しているのか? グノーシスの基本文献であるナグ・ハマディ文書における代表的テキストの1つである『ヨハネのアポクリュフォン』の翻訳コピーを空港ロビーで読みはじめたときの衝撃を、著者は次のように書いています。

 「そこに記されている内容は、難解で古色蒼然といったものとは反対に、きわめて赤裸々で、アクチュアルなものに感じられた。あらゆるものを破壊し尽くしたいという攻撃的衝動、光の神々と闇の神々の抗争を記す凄惨な、しかしどことなくユーモラスな筆致、愚かな盲信を笑い飛ばす嘲笑の響き、淫靡に彩られた性愛に関する描写、自らを取り巻く現状に対しての冷静な分析を綴る直截な言葉の数々が、そのテキストには渾然一体としたまま共存しているように思われた。グノーシス主義の精神の『熱』に当てられ、次第に冷静さを失った私は、ロビーの椅子から立ち上がり、翻訳のコピーを手にしたまま辺りを落ち着きなく歩き回ることになったのである」

 『ヨハネのアポクリュフォン』を最後まで読み終えた著者は、グノーシス主義についての認識を得ます。そして、それを何とか現代の学問的言語によって表現したいと思い至った著者は、次のように述べています。

 「一言で言うなら、グノーシス主義という思想体系は、一方でとても魅惑的で興味深いものでありながら、他方でその総体を正確に理解することがきわめて困難な対象なのである。しかしこのように言ってしまえば、読者のなかのある人々は、それはおかしい、と感じるかもしれない。なぜなら、『グノーシス主義』、あるいは『グノーシス』という言葉は、今では広く人口に膾炙し、SFやアニメといったサブカルチャーの領域において好んで用いられる用語の1つにさえなっているからである。さまざまな書物や雑誌、あるいはインターネット上の言説において、あたかもすべてが了解済みであるかのように『グノーシス(主義)』について語られ、それが肯定されたり否定されたりしているのを、人は容易に見つけることができるだろう」

 著者によれば、グノーシス主義をめぐる言説は大きく、(1)ロマン主義という思想に由来するもの、(2)文献学的、歴史学的実証主義に基づくもの、に分けられます。著者は、次のように述べています。

 「平たく言えば、人々は、キリスト教正統信仰以外のさまざまな宗教のなかに『エキゾチックなもの』を見出し、これに好奇心を寄せ、しばしば近代社会のもたらす疎外感によって荒廃した自らの心の『癒し』に用いるようになったということである。このような思想的傾向は、『ロマン主義』という概念によって総称される。
 そしてもう1つは、プロテスタンティズム的な聖書主義や自然科学的な実証研究の影響から、文献学や歴史学に基づく実証主義的姿勢が、人文系の学問の基礎に据えられるようになったということである。言うまでもなく、グノーシス主義に関する近代的研究においても、このような大きな学問的変化が色濃く影響を及ぼしている」

 著者のスタンスは、あくまで文献学的、歴史学的実証主義に基づいてグノーシス主義を研究するべきであり、そこにロマン主義の要素を入れることの危険性を訴えます。ロマン主義が入り込むとファンタジーを生み出す結果となり、歴史や宗教や文献の理解が歪曲されてしまうというのです。著者が批判するロマン主義思想家として取り上げられるのは、まずは中沢新一氏であり、次のように述べています。

 「かく言う私自身も、初めてグノーシス主義の名前を目にし、その思想に興味を覚えたのは、現代日本の代表的なロマン主義者の1人と見なされうる、中沢新一の著作においてであった」

 その中沢氏に代表されるロマン主義者たちによる宗教論は、「ポピュラリティーを獲得することを目的に作り上げられた口当たりの良いファンタジーにすぎず、まともな思想研究や宗教研究の名に値するものではない」と著者は喝破します。さらに著者は、次のように述べます。

 「中沢のグノーシス論もその例に漏れず、グノーシス主義に関して実際には氏がほとんど無知であり、いくつかの入門書や事典の記述から得た浅薄な知識をもとに、そこから自分勝手な連想を繰り広げたものにすぎない」

 日本の若手宗教学者がその処女作で、ここまで中沢新一氏を徹底批判することに度肝を抜かれましたが、著者の批判の矛先はさらに大物ロマン主義者へと向っていきます。その相手は、なんと、かのカール・グスタフ・ユング!

 著者は、「グノーシス主義は、近現代のロマン主義者たちが『何か深遠なもの』『何かエキゾチックなもの』を見出そうとする際の格好の対象の1つになっているわけだが、そのもっとも典型的なケースと見なされるのは、心理学者C・G・ユング(1875~1961)の研究である」と述べ、ロマン主義的なグノーシス論の「元祖」と言うべきユングの研究内容を「でたらめ」の一語に尽きると斬っているのです。それでは、著者は「ロマン主義」というものをどのように捉えているのか? 著者は、以下のように述べています。

 「ごく簡単に要約するなら、ロマン主義とは、近代思想の主流の位置を占める『啓蒙主義』に対抗するものとして存在する思想的潮流である。啓蒙主義においては、万人にはその共通の『良識』として『理性の光』が与えられており、理性的な自我の働きによって世界の姿を隈無く照らし出すことができると考えられている。しかしロマン主義は、啓蒙主義の唱える『光』の思想に対して、強く異を唱える。ロマン主義は、光によっては照らし出すことのできない領域が、理性の外部に残り続けることを主張するのである。その領域は、『宇宙』や『無限』、あるいは『闇』や『悪』と呼ばれる。そして人間の理性的『自我』は、これらの外部的存在を内部に取り込むことによって、本来的な『自己』へと成長することができるとされるのである」

 これは、非常にコンパクトな「ロマン主義」についての優れた解説であると思います。そして、著者は「ユングやその他のロマン主義者は、このような『自己実現』の目的論や、その基調をなす善悪二元論をもって、グノーシス主義を理解しようと試みる」と述べています。いやはや、中沢新一やユングの著作が大好物で、これまでほぼ全作品を読んでいるバリバリのロマン主義者(笑)である(なにしろ、書名がそのままカミングアウトになっている『ロマンティック・デス』という著書さえある!)わたしとしては、著者のこの批判に戸惑いつつも、その勇気に敬意を表したいと思います。

 著者は、グノーシス主義を理解する上で「父」という存在に注目します。サブタイトルにも「〈父〉というフィクション」と入っているように、「父」は本書を貫くメイン・テーマとなります。著者は次のように述べています。

 「ここでやや視野を広げて考えてみると、『父』という存在は、実は人間という種に特有のものであると言うことができる。例えばほ乳類の動物の場合には、人間に限らず、そこには自然に『母』が存在する。ほ乳類とは文字通りに、出産後の子供を授乳によって育てる動物のことであり、そしてその授乳期間はある程度の長さにわたるため、『母』と『子』のあいだには自然に、物理的かつ精神的な結びつきが発生するからである。
 しかしながら人間以外のほ乳類の動物においては、『父』は存在しない。近年の家族論においては、父の役割の重要性を見直そうとする流れのなかで、それが動物にも見られる自然的存在であることを主張するものがあるが、私にはそれは正しい見解であるとは思われない。確かに、群れをなして生活する動物では、力の強いオスがリーダーとなり、生きてゆくための知恵を群れの若い個体に伝える行為がしばしば見られる。しかしそれは、人間における『父』が持つ存在意義や役割とは、まったく異なるものだと言わなければならないだろう」

 「父」の追求は、グノーシス主義の本質を明らかにすることでもありました。著者は、次のように述べています。

 「家族宗教における『父』というフィクションは、漸次的に拡大することによって、都市国家という大きな共同体を成立させた。しかし逆説的にも、その社会において生み出された『民衆』という新しい階級は、個人主義化の促進によって都市国家を弱体化させ、共同体における『父』の姿を喪失させてしまうことになったのである。
 これ以降の古代の歴史では、『父』の形象の喪失によって社会の不安定化が増大する一方で、『新たな父』を求めるさまざまな思想的探究が行われることになる。そしてこのような探究の試みが、思想史のみならず、文学史や政治史の基本的なモチーフを形成しており、グノーシス主義という現象の発生もまた、このような背景を考慮に入れることなしに理解することはできない。すなわちグノーシス主義とは、古代末期に見られた『新たな父』を探求するさまざまな試みのなかの一つ、なのである」

 さて、「父」といえば、言わずと知れたキリスト教におけるメイン・テーマでもあります。GODとは「父なる神」だからです。著者は次のように述べます。

 「グノーシス主義とキリスト教は、その活動を開始した当初、きわめて多くの前提を共有していた。超越的な『父なる神』の存在を証し立てるという目的、そしてそのために用いられる概念的な道具立ては、ほとんどそのすべてが共通のものであったと言ってさえ過言ではないだろう。しかし両者の差異は、最初は小さな亀裂であったものが、次第に大きな裂け目となり、それぞれをまったく異なる結末へと導くことになったのである」

 古代末期の世界には、失われた「父」の姿、そして、失われた「わたし」の姿を見出そうとするさまざまな思想的試みが繰り返されました。グノーシス主義は、数々の思想的潮流が渦巻く中で生まれたのです。そこで、グノーシス主義とはどのような運動として存在したのか。著者は、次のように述べています。

 「すなわちグノーシス主義は、プラトン主義的形而上学、ストア主義的自然学、混淆主義的変身譚を内部に取り込み、それらの要素を縦横に紡ぐことによって物語を構築しながら、同時に、それらすべてに反逆するという『離れ業』をやってのけたのだ」

 また、著者は本書の最終部分で、次のようにグノーシス主義を定義づけています。

 「グノーシス主義は一方で、否定神学をその極北に至るまで推し進め、真実の神とは『虚無の深淵』であるという、ある種の『無神論』と言っても良い認識に到達した。否、それはただの『無神論』というわけではない。『深淵』は、そこからすべてのものが生み出される根源であり、そして可視的世界に現れる神々は、そのような『深淵』に映し出された束の間の見せかけにすぎないのである。そしてグノーシス主義によれば、この世は『見せかけ』によって支配され、人は『見せかけ』に支えられて生きる。『虚無の深淵』からどのような仕方で『見せかけ』の神々が生み出されるのか――その思考は、古代から中世へと至る表象の再編の過程を見つめながら、宗教や信仰それ自体の生成論とも言うべき理論的地平を開いていったのだった。それゆえにグノーシス主義の思考は、幾度も消滅するにもかかわらず、奇妙な仕方で幾度も回帰する」

 本書は、グノーシス主義という謎の多い宗教思想を扱っていることもあり、けっして平易な内容ではありません。しかし、著者は一般読者にも理解できるようにと、さまざまな工夫を凝らしています。特に、地中海世界の思想を要約して説明してくれているので、グノーシスについての予備知識はなかった人にも興味深く読めるようになっています。

 また、グノーシスと関係の深いプラトン形而上学、新プラトン主義の神秘哲学、ストア哲学、アレクサンドリアのフィロン、オリゲネス、エイレナイオスなどの思想も紹介されているので、一種の思想ガイドとしても読めます。

 あえて難を言わせてもらえば、本書はあまりにも厳密な文体で書かれており、読んでいると肩が凝るところが多々ありました。「そこまで厳密に書かなくてもいいのに」と思う箇所もありましたが、これは著者がもともと実証主義に基づき、また学問的言語による表現をめざしていたわけですから、仕方ないかもしれません。

 それにしても、宗教学の中でも難物中の難物とされるグノーシスを論じ尽くす若き宗教学者の登場には驚きました。その非凡な才能は、必ずや今後の日本の思想界において大きな存在感を示すのではないかと思います。

 「あとがき」には、著者自身の「父」の不在や忘却について触れられています。著者は幼少時に父親を病気で亡くしており、母親と兄の3人家族として暮してきたそうです。著者は、次のように書いています。

 「最後に、私の家族である母と兄に対して。私の家族は、私のこれまでのおぼつかない足取りを常に見守り、励ましてくれた。特に実家を離れるまでの18年のあいだ、忙しい生活のなかでも母が欠かさず朝食と夕食を用意してくれ、家族で食卓をともにできたことは、小さくとも強固な共同性の感覚を芽生えさせ、私自身の精神的安定の基盤となったと考えている」

 この著者の家族への想い、そして亡き父への眼差しが本書のスリリングな内容に結びついていることを思うと、なんだかホロリときてしまいました。この泣かせる宗教学者は、次に物凄い名著を書きます。『オウム真理教の精神史』(春秋社)という本です。

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