No.0308 評伝・自伝 『異形の日本人』 上原善広著(新潮新書)

2011.04.17

 『異形の日本人』上原善広著(新潮新書)を読みました。

 帯にある「タブーにこそ、人間の本質が隠されている」というコピーに惹かれたからです。

 著者は新進気鋭のノンフィクション作家として知られ、2010年に『日本の路地を旅する』(文藝春秋)で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しています。

 ここでいう「路地」とは、「被差別部落」のことだそうです。他にも、『コリアン部落』(ミリオン出版)、『被差別の食卓』(新潮新書)などの著書があります。

 本書のカバー見返しは、次のように書かれています。

 「虐げられても、貧しくとも、偏見に屈せず、たくましく生きた人たちがいた。哀しい宿命のターザン姉妹、解放同盟に徹底的に弾圧された漫画家、パチプロで生活しながら唯我独尊を貫く元日本代表のアスリート、難病を患いながらもワイセツ裁判を闘った女性、媚態と過激な技で勝負する孤独なストリッパー・・・・・社会はなぜ彼らを排除したがるのか?マスメディアが伝えようとしない日本人の生涯を、大宅賞作家が鮮烈に描く」

 次に本書の目次を見ると、以下のようになっています。

「はじめに」
第一章 異形の系譜―禁忌のターザン姉妹
第二章 封印された漫画―平田弘史『血だるま剣法』事件
第三章 溝口のやり―最後の無頼派アスリート
第四章 クリオネの記―筋萎縮症女性の性とわいせつ裁判
第五章 「花電車は走る」―ストリッパー・ヨーコの半生
第六章 皮田藤吉伝―初代桂春團治
「あとがき」

 この目次だけ見ても、本書の雰囲気がだいたい把握できると思います。

 たしかに、本書では、さまざまな波乱万丈の人生模様が繰り広げられています。

 しかしながら、内容は基本的に関連性のない人物レポートのオムニバスです。

 月刊誌に発表したルポをまとめたもので、古くは10年前のルポルタージュとのこと。

 ただし、最終章の桂春團治だけは書き下ろしだそうです。

 テーマも取材時期もバラバラなので、全体のまとまりには欠ける観はありました

 『都市伝説と殺人』(朝倉喬司著)によく似ているという印象を受けました。

 なお、わたしが『都市伝説と殺人』を書評で紹介した直後に、著者の朝倉喬司氏が孤独死されているのが明らかになりました。心よりお悔やみ申し上げます。

 さて、本書に登場する6人の中で、わたしが最も関心を持っているのは劇画家の平田弘史氏です。彼は、今から半世紀前にもなる1962年(昭和37年)に『血だるま剣法』という劇画を発表しましたが、これが大問題になりました。本書(『異形の日本人』)には、問題の『血だるま剣法』のあらすじが紹介されていますので、以下に引用します。

 「路地に生まれた主人公・猪子幻之助は、剣で身を立て部落差別からの解放を夢見ていた。しかし、唯一の理解者であった師匠の差別的な裏切りに、夢も希望も潰された幻之助は復讐の鬼と化す。かつての剣友たちとの壮絶な切りあいの末、手と足が切断された幻之助だったが、不屈の精神でそれを乗り越え、やがてはダルマの姿をした悪鬼となる。そして彼を蔑んだ人々を、幻之助はさまざまな方法で一人ずつ殺していく」

 この本は、その壮絶な描写ゆえに「悪書」とされますが、一方で絶大な支持を得たカルト・コミックともなります。

 しかし、部落差別を助長するという部落解放同盟の指摘により、最終的に『血だるま剣法』は完全に封印されてしまいました。

 よく読めば、天理教を信仰していた両親の影響もあって差別を強く憎んだ平田氏が社会の矛盾を衝き、平等を強く訴えていることがわかります。

 しかし、当時は冷静な議論など不可能だったようです。

 当時、平田氏は「世の中はいろいろあって、こちらが良いと思って描いたことでも、逆の意味にとられることもあるんだな」と思ったそうです。

 この言葉から、わたしは賀川豊彦のことを連想しました。『隣人の時代』(三五館)にも登場する賀川豊彦は、近代日本最大の社会運動家であり、「隣人の時代」を先取りした偉人でありながら、なぜか現代では「忘れられた巨人」となっています。

 賀川豊彦も部落差別の問題によってその存在そのものを封印されてしまったのでした。

 しかし、賀川豊彦の場合も、平田氏の言葉を借りれば、「こちらが良いと思ってやったことでも、逆の意味にとられることもある」というのが真相ではなかったでしょうか。

 封印されていた『血だるま剣法』は、2004年に青林工藝舎から突如、40年ぶりに復刊されます。漫画評論家である呉智英氏らの尽力によるものでした。

 わたしは、このことを「朝日新聞」の読書欄で知りました。作家の荒俣宏氏が「『血だるま剣法』こそ、わが最大の愛読書である」として紹介していたのです。

 荒俣氏といえば、当代一の博覧強記として知られる大の読書家です。

 そんな人が「最大の愛読書」というのですから、わたしは非常に興味を持ちました。

 それで早速、アマゾンで購入しましたが、一読して仰天。

 すっかり平田ワールドにハマってしまいました。

 その後、すべての平田作品を取り寄せて読破したことは言うまでもありません。

 『血だるま剣法』が持つ暗いいかがわしさは、死穢のケガレに満ちていた中世の日本を連想させます。『花と死者の中世』の書評に書いたように、中世日本には、立華や茶の湯や猿楽などが生まれてきた「ケガレ」というカオスがありました。

 そして、そのカオスから、華道や茶道や能といった伝統文化が育っていったのです。

 さらに能からは歌舞伎が生まれ、江戸時代になると落語という文化が誕生しました。

 『異形の日本人』の最終章は、路地に生まれ、落語の世界に生きた桂春團治について書かれています。まず著者は、路地と芸能の関係を次のように説明しています。

 「路地と芸能の関係でいえば、歌舞伎も含めた芸能のほとんどが、元々路地の者たちの支配下にあった歴史をもつ。近代には祝詞を述べてまわる万歳(後の漫才)、鳥刺し舞いなどの門付け芸は、いずれも路地の者たちへの生業であった。現在では廃れてしまったが、今でも各地の路地には、そうした伝統芸にまつわる話が残っている」

 しかし、落語だけは、そうした芸とは区別されていたといいます。

 続けて著者は、落語の歴史について以下のように説明します。

 「歌舞伎は江戸時代の半ば頃に路地の支配を抜けているのだが、もともと上方落語は辻噺という、露天で軽口を語る芸から現在の形になったとされ、やがて武家や貴人に呼ばれて座敷で演じるようになった。上方落語の特徴の一つである見台とひざ隠しは、露天で話していた頃の名残りであるとされる。

 落語は屋敷や料亭などに呼ばれて一席演じることが多く、一般の客と同室になることがあるため、路地の者では都合が悪い。江戸時代まで、路地の者は身分違いのため同室は禁じられており、そのため彼らは路上で芸をしていた。落語とは区別されていたのである」

 そんな落語の世界に入ってきたのが、皮田藤吉という路地の若者でした。

 落語は江戸時代から明治にかけて完成されたこともあり、時代的にいっても路地の者たちが登場することがありました。

 もともと落語自体、社会的弱者の多く登場する芸能であったとも言えます。

 著者は、春團治誕生のいきさつについて次のように述べます。

 「『落語とは何か』という命題について、名人立川談志は『落語とは人間の業の肯定である』と、ずばり核心を衝いて言っている。人々の業を肯定する落語に飛び込んだ路地の皮田藤吉は、一代で大名跡の春團治となった」

 春團治といえば、都はるみと岡千秋の「浪花恋しぐれ」のモデルとして有名です。

 そして、同じ大阪には村田英雄の「王将」のモデルである将棋の阪田三吉もいました。

 阪田三吉は春團治の8歳年上でしたが、2人はほぼ同時代を生きました。著者は、この阪田三吉と桂春團治には、それぞれに共通点があるとして次のように述べています。

 「ほぼ同時代にその道を一代で極めたこと、文盲であったこと。苦労を共にした妻がそれぞれしっかり者であったこと、無頼派で奇行が多く、亡くなった後に劇や小説のモデルとしてよく取り上げられたこと、そして二人とも路地の出身であったことなど、挙げればきりがない。違う点といえば、春團治の方が女遊びが派手であったことくらいだ」

 本書を読んでいるうちに、わたしは、阪田三吉や春團治の内面に興味を抱きました。

 彼らをモデルにしたという小説も、機会があったら読んでみたいです。

 ということで、本書は全体のまとまりは弱かったですが、ノンフィクション作家としての著者の才能の豊かさの片鱗を感じることはできました。もちろん問題意識などにも鋭いものがありますが、何よりも注目すべきはその死線の向け方です。

 本書の感想を記したアマゾンのレビューの中に、「著者のルポを始めて読んだのだが、被差別部落民や障害者という難しい題材を扱っているときでも、文章が声高ではない。良い意味で淡々としている。そしてそこには上からでも下からでもない、公平な目線が感じられる」というものがありましたが、まったく同感です。

 著者のように、取材対象となる人物に対して常に適度な距離感を保っていることは、ノンフィクションを書く者にとって重要なことだと思います。

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