No.0310 文芸研究 『三島由紀夫 幻の遺作を読む』 井上隆史著(光文社新書)

2011.04.20

 『三島由紀夫 幻の遺作を読む』井上隆史著(光文社新書)を読みました。

 著者は、わたしと同じ1963年生まれの日本近代文学の研究者です。現在は、白百合女子大学の教授だそうです。

 1970年11月25日、作家・三島由紀夫は、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自決を遂げました。その死の当日、遺作となった小説の原稿が編集者の手に渡されます。

 『豊饒の海』の第四巻『天人五衰』の最終原稿です。

 しかし、「創作ノート」と呼ばれる三島のノートには、完成された作品とは大いに異なる内容の最終巻が考えられていました。近年、「創作ノート」の調査が進み、知られざる最終巻のプランの全貌も見えてきました。

 『豊饒の海』は、仏教の唯識思想を重要なテーマとしています。

 著者は、この唯識思想に基づいて、三島が検討していた幻の第四巻の作品世界を仮構します。そして、そこから三島の自決の意味をさぐり、三島の文学が書かれ、かつ読まれた場としての戦後日本を再考した本です。

 まず、本書は以下のような構成で書かれています。

「プロローグ」
第一章:幸魂(さちみたま)の小説―『豊饒の海』の構想
第二章:唯識とは何か
第三章:救済の理念としての輪廻
第四章:世界は存在する?
第五章:光明の空に赴く
第六章:虚無と救済の闘争
第七章:神々の黄昏
第八章:五つの観点から―「第四巻 plan」ノート再読
第九章:もう一つの『豊饒の海』
第十章:虚無の極北の小説
「エピローグ―さらに、もう一つの『豊饒の海』

 同じく「没後40年」に書かれ、三島事件の謎を取り上げた『昭和45年11月25日』中川右介著(幻冬舎新書)と比べて、正直言って、本書の内容は非常に難解です。

 それは、本書の大部分が唯識思想について述べられているからです。

 大乗仏教の重要な学派が唯識瑜伽行派です。

 3、4世紀のインドでマイトレーヤ(弥勒)、アサンガ(無著)とヴァスバンドゥ(世親)の兄弟の三大論師によって体系化されました。

 彼らは、一切の存在はただ(唯)心のはたらき(識)のつくり出した幻影にすぎず、あらゆる存在を生み出す根底にはアーラヤ識(阿頼耶識)があると考えました。

 アーラヤ識とは「霊妙な意識」を意味し、その貯蔵庫の中に、あらゆる経験が業の種子となってデータとして蓄積され、次の転生を決定するのです。

 西洋では、この考え方は秘教的なグノーシス主義に支配的な理論でした。

 プロティノスが重視し、その理論は新プラトン主義者たちによって採用されました。

 西洋と同じく東洋でも、わたしたちを宇宙につなぎ留めているこの種子を跡形もなく焼き尽くすことが重要だとされています。この汚れた種子を滅して清浄な種子で満たすためには、瑜伽行(ゆかぎょう)というヨーガ的な瞑想法を実践するのです。

 その伝統は、中国の玄奘、慈音大師基、日本の南都北嶺の法相宗にまで連なります。

 唯識はきわめて難解な思想ですが、これを理解する最高の文学テキストが日本にはあります。そうです、三島由紀夫の遺作『豊饒の海』四部作です。

 この小説の大切なテーゼは法相宗の徹底的解説であるとされるほど、仏教の唯識哲学をベースにして書かれています。評論家の小室直樹氏など、「三島が日本人に対して遺した最も適切な仏教入門」とまで高く評価しています。

 小室氏によると、『豊饒の海』は一般に輪廻転生の物語と思われていますが、最後の『天人五衰』で三島は魂の輪廻を明確に否定し、唯識を強く打ち出しています。

 唯識の思想は難解ですが、一言でいえば「万物流転」、すべてのものは移り変わるということです。魂の輪廻転生を否定した三島由紀夫は、生まれ変わって復活するのは何かという問いを読者に残したとも言えるでしょう。

 日本人の多くは、仏教は人間の魂の存在を認め、輪廻転生を唱える宗教だと思っています。しかし、日本人における輪廻転生の思想には、実は仏教というよりヒンドゥー教の観念がかなり混じっているのです。これについて、小室氏は著書『日本人のための宗教原論』(徳間書店)に次のように書いています。

 「おそらく、仏教の真理なんか有象無象にわかるわけがないと思った仏教の偉い坊さんたちが、恐ろしくわかりやすいヒンドゥー教の教義やインド人の俗信(民間の迷信、民話)を仮に使って、布教につとめたというところではないのだろうか」

 たしかに、そんなところかもしれませんね。とすれば、永久に過ごす地獄や極楽が存在するなどというのは、もう仏教ではありません。

 仏教の目的は、悟ること。すなわち、もろもろの煩悩をなくして、解脱して涅槃に入ることです。その煩悩は、「われが存す」という迷妄が根底にあるがゆえに生じます。

 よって、「われが存する」という迷妄を滅すれば、涅槃に行くことができる。これが仏教の蘊奥(うんのう)であり、また「魂はない」ということを意味するのです。

 とはいえ人間は、肉体が滅んでも魂は不滅であってほしいという希望を持つものであり、この希望がいわゆる「霊肉二元論」を生みました。

 西洋の哲学史においては、プラトンをはじめ霊肉二元論が名高いですが、インドの哲学者たちは、肉体の根底に本来の自我としての「アートマン」を想定しました。

 アートマンは、たとえ肉体が死んでも、生まれ変わり死に変わりながら、永遠に実在し続けます。仏教は、このバラモン教、ひいてはヒンドゥー教の輪廻転生の思想を受け継ぎ、さらに精密化していったのです。しかし輪廻転生のアイデアだけを受け継ぎ、その主体であるアートマンの存在は否定しました。

 すべては仮定であり仮説であると考える仏教は、実在論を認めず、それゆえ「魂」などという実在を認めることはありません。

 すると、次のような意見が出てきます。「魂が存在しないというのなら、仏教とは唯物論ではないのか」と。そう、仏教の本質とは唯物論ではないかという批判は、かつてインドにおいて盛んになされたのです。

 さて、「無縁社会」という言葉が少し前に流行しました。

 「無縁」というのは仏教用語ですが、これは「虚無」というものに通じます。そして著者はどうも、三島の遺作である『豊饒の海』を「虚無」を描いた小説として見ているようです。

 文学において「虚無」を描くとは、どういう意味を持つのか。著者は次のように述べます。

 「『天人五衰』は、存在の深部を、決して救済されることのない深刻な虚無に蝕まれた三島であるからこそ書くことのできた小説だが、虚無は三島ならぬ私たちには無縁なもの、というわけにはゆかないのである。あるいは三島が経験した程の深刻さではないかもしれないが、私たちも人間として生まれてきている以上、多かれ少なかれ虚無に蝕まれているのではないだろうか。そうであるなら、三島はむしろ私たちの代弁者として虚無の世界を徹底的に描いているとも言えるのだ。三島がこのようなことを試み、他に類例を見ない深さにまで掘り下げているおかげで、私たちは日常生活において虚無の脅威に脅かされることから免れ、守られているという見方も成り立つだろう」

 しかし、これは三島にとってあまりにも過酷な状況です。

 そのため、著者は続けて次のように述べます。

 「人間の精神の耐えうる限界を越え出ている。この状況を終わらせるために三島が選んだのは、みずからの存在に死という終止符を打つことだった。それは言い換えれば、目前に死という目標を掲げることで、逆に残された時間のすべてを『豊饒の海』を完成させるための営みに捧げようとすることである。その意味では、三島の自死は、文学の可能性の極北を切り開くために、あえて選ばれた行為だったと言えよう」

 このように述べる一方で、著者は「三島の死は文学のための死というものに限定されない」として、次のようにも述べます。

 「三島の死は、むしろ共同体の精神史のうえで確たる意味を持つ死、私たちの文化的アイデンティティの空洞化が、決して後戻りできない地点まで進みつつあることへの批判の死、具体的には憲法改正のための捨て石となる死、あえて言えば紛れもない諫死でもあったのだ。これは、現代の民主主義の尺度から見れば受け入れようのない考え方かもしれないが、それを承知の上で、三島はこうした挙に出たのである。それは自決前の演説で撒布された檄に『今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない』と述べられている通りである」

 たしかに三島の死には文学的側面と政治的側面があったでしょう。

 しかし、あくまで三島由紀夫とは文学者であり、政治に生きる者ではありませんでした。

 本書の中で、個人的には第十章で展開された三島が言うところの「世界を包括する小説」論が興味深かったです。人間や社会、歴史の全体を捉えて表現しようとする試みは「全体小説」などとも呼ばれましたが、プルーストの『失われた時を求めて』と、ジョイスの『ユリシーズ』が双璧とされています。

 そして、三島の『豊饒の海』も「世界包括小説」をめざして書かれたというのです。

 ならば、三島は自身の死をもって「世界を包括する」ことに成功したのでしょうか。

 三島由紀夫・・・・・まだまだ、この天才は謎に満ちています。

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