No.0170 メディア・IT 『街場のメディア論』 内田樹著(光文社新書)

2010.09.10

 街場のメディア論』内田樹著(光文社新書)を読みました。

 現代日本における「知」のフロントランナーによる待望のメディア論です。帯に「メディアの不調は日本人の知性と同期している」と大きく書かれています。

 本書は女子大生を相手に語った講義内容をベースにしていますが、第一講は「キャリアは他人のためのもの」と題されています。ここで、わたしのハートにヒットしたメッセージが2つありました。

 1つは、結婚や就職においては、与えられた条件のもとで最高のパフォーマンスを発揮するように、自分自身の潜在能力を選択的に開花させなければならないということ。最高のパートナーを求めて終わりなき「愛の狩人」になったり、天職を求めて「自分探しの旅人」にならない生き方を教えることがキャリア教育のめざす目標だそうです。

 もう1つは、人間の潜在能力は「他者からの懇請」によって効果的に開花するものであり、自己利益を追求するとうまく発動しないということ。すなわち、「世のため、人のため」に仕事すれば、どんどん才能が開花する。逆に、「自分ひとりだけのため」に仕事をしていると、才能は発揮できないということです。これは、わたしが「夢よりも志」と常々言っていることに通じるメッセージだったので、思わず膝を打ちました。

 「内田バブルではないか」との意見に、ご本人は「たしかに本を出し過ぎた」と反省。なんと新刊の塩漬けを宣言し、出版業界に波紋が広がっているそうです。大量出版が続けば、著者が疲れて質も下がるというのが理由だとか。

 それにしても、次から次に本を書かれてきた内田センセイ。その旺盛な執筆活動には何か秘密があるのでしょうか? 本書を読むと、やはり秘密があることがわかりました。

 本書をはじめ、内田氏の著書の多くは、大学での授業を素材にされているそうです。教鞭を取られている神戸女学院大学の学生・院生たちの発題とディスカッションのライブ録音をテープ起こしして、それを編集者がある程度まとまりのある形にエディットするそうです。それから著者が加筆して1冊の本に仕上げるというのです。このような本作りについて、著者は次のように述べます。

 「この本作りのやり方が僕はなかなか気に入っています。たぶんそれは、複数の人たちが関与しているからだと思います。単一の『作者』がきちんとすみずみまでコントロールしているものよりも、いろいろな人の声や私念がまじりあっている本のほうが僕は好きです。なんとなく風通しがいいような気がして。それに、一冊の本の中に、書き手ひとりの声だけではなくて、他の人たちの声のための場を『とりのけ』ておくということは、ものを考える上でとてもたいせつなことじゃないかと僕は思っています」

 また、著者が出す本の半分くらいは、ブログなどでネット上に発表したものを編集者がエディットした、いわば「コンピレーションアルバム」だそうです。こういった本の作り方については賛否両論あることと思います。「ブログの記事を寄せ集めた本なんて」という読者も必ず存在するでしょうから。

 しかし著者は、大学の授業を素材にし、ブログ記事を集めるという二つの方法によって、次から次に本を作り、世に送り出し、多くのベストセラーを生んでいるわけです。そんな著者は、ネット上で公開した自身のテクストについては「著作権放棄」を宣言し、次のように述べます。

 「引用も複製も自由です。別に僕の許諾を得る必要はありません。それどころか、僕の書いたことをそのまま複写して、ご自分の名前で発表していただいても結構ですと宣言しているのです(まだ試みられた方はおられませんが)」

 なぜ、著者はそのような気前の良い宣言をするのか。それは著者にとって、書くことの目的が「生計を立てること」ではなく、「ひとりでも多くの人に自分の考えや感じ方を共有してもらうこと」だからだそうです。

 ここから、「著作という行為は、書き手から読み手への贈り物」という著者の考え方が披露されます。贈り物を受け取った側は、それがもたらした恩恵に対して敬意と感謝を示します。それが現代の出版ビジネスモデルでは「印税」というかたちで表現されますが、それはオリジネイターに対する敬意がたまたま貨幣のかたちを借りて示されたものであると、著者は考えます。

 オリジネイターが、すばらしい作品を創り上げて、読者に快楽をもたらしたとします。読者は、その功績に対して「ありがとう」と言いたい気持ちになります。著者によれば、作物の価値とは、贈与が行われた後になって初めて生じます。それをどうやって贈与と嘉納が淀みなく進むようなシステムを整備するか、それが最優先の課題になるというのです。ですから、著者は「著作権」を重視する現在の出版ビジネスシステムに違和感を感じ、次のように述べます。

 「僕たちがなによりも優先的に配慮すべきは、読者を創り出すこと、書き手から読み手に向けて、すみやかに本を送り届けるシステムを整備することです。それに尽きる。出版にかかわる諸制度やルールの適否は、その基準にしたがって考量される」

 同じく著者は、話題の電子書籍化問題についても違和感を感じており、次のように語っています。

 「電子書籍を基盤とするビジネスモデルについて、僕はこれを礼賛する論者たちのように楽観的ではありません。それは端末機器が重いとか軽いとか、画面が見やすいとか明るいとか、起動が速いとか遅いとか、費用対効果がいいとか悪いとかというレベルの話ではなくて、電子書籍ビジネスが実需要を前提にして設計されているからです。このビジネスモデルは、僕の直感では、本をあまり読まない人間が考案したものです。本をアンパンのように『ときどき欲しくなるもの』というふうにしかとらえていない人間が考案したものです」

 出版文化がまず照準すべき相手は「消費者」ではなく、「読書人」である。電子書籍では絶対にかなわないリアルな書籍の強みとは何か。それは実際の書架に並べられて、未読の人間に「読みなさい」というプレッシャーをかけられることである。そのように考える著者は、読書人層を継続的に形成するためには、「選書と配架にアイデンティティをかける人」の数を絶対的に増やすことが必要であると訴え、次のように述べます。

 「この『読書人』たちの絶対数を広げれば広げるほど、リテラシーの高い読み手、書物につよく固着する読み手、書物に高額を投じることを惜しまない人々が登場してくる可能性が高まる。単純な理屈です。図書館の意義もわかる。専業作家に経済的保証が必要であることもわかる、著作権を保護することのたいせつさもわかる、著作権がときに書物の価値を損なうリスクもわかる、すべてをきちんとわかっていて、出版文化を支えねばならないと本気で思う大人の読書人たちが数百万、数千万単位で存在することが、その国の出版文化の要件です」

 本書を読むと、これから新聞はますます発行部数を減らし、テレビはますます視聴率を落とすことが確信されるのですが、いわゆるオールド・メディアの中で一番しぶといのが書籍だということがわかります。

 わたしが本書でもっとも刺激を受けたのは、第7講「贈与経済と読書」でした。偉大な構造人類学者レヴィ=ストロースは、「コミュニケーション」のことを「交換」と呼びました。なぜ、交換が成立するのでしょうか。それは、何かを受け取ったものは反対給付の義務から逃れられないからです。

 レヴィ=ストロースは、「近親相姦」の問題に注目しましたが、著者は「近親相姦」とは誰も反対給付の義務を覚えない状況のことであると指摘します。自分の所有物を自分ひとりで独占的に利用し、誰にも贈与しなければ、誰も「ありがとう」という言葉を言いません。すなわち、「近親相姦の禁止」とは、「ありがとう」という言葉を誰かが言わない限り人間的な社会がスタートしないということなのです。

 レヴィ=ストロースが名著『親族の基本構造』に示した知見をもとに、著者は「人間であろうと望むなら、贈与をしなくてはならない。贈与を受けたら返礼しなければならない。すべての人間的制度の起源にあるのはこの人類学的命令です」と述べています。つまり、「ありがとう」こそは社会制度の起源なのです!

 親族を形成するのも、言葉を交わすのも、財貨を交換するのも、すべてコミュニケーションです。あらゆるコミュニケーションとは「価値あるもの」を創出するための営みです。人類最初の経済活動が「沈黙経済」であったことは、経済学の常識とされています。見知らぬ部族同士が、それぞれのテリトリーの境界線上で、顔を合わせずに特産物などをやりとりする。この「沈黙交易」から、経済そのものが始まったのです。著者は、次のように述べます。

 「『沈黙交易』が始まった、その起源の瞬間を想像してみてください。ある日歩いていたら、自分たちのテリトリーのはずれに、『何か見知らぬもの』が置いてあった。人工物でもいいし、自然物でもいい。とにかく『ふつうはそこにないもの』があった。それを隣人からの『贈り物』だと思ったことから沈黙交易は始まった。たぶんそういうことだと思います」

 これを「贈り物」だと思ったのは、もしかすると早とちりだったのかもしれません。隣の部族の人間が不要物として棄てていったものかもしれません。しかし、それを「自分宛ての贈り物ではないか」と思う人がいたことが大事なのです。そして、その人が「贈り物」に対して返礼義務を感じたことから、経済という営みが始まったのです。著者は、ここから贈与のサイクルが起動したと見て、次のように述べます。

 「人間的制度の起源にあるのは『これは私宛の贈り物だ』という一方的な宣言なのです。おそらく、その宣言をなしうる能力が人間的諸制度のすべてを基礎づけている。ですから、端的に言えば、何かを見たとき、根拠もなしに『これは私宛ての贈り物だ』と宣言できる能力のことを『人間性』と呼んでもいいと僕は思います」

 わたしは、何かを自分へのプレゼントであると思える能力こそが「人間性」であり、「ありがとう」と誰かが言った瞬間から経済が始動したというくだりに感銘を受けました。

 もともと経済には「こころ」があったのです。まさに、ハートフル・エコノミーですね。

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