No.0176 評伝・自伝 『寺山修司・遊戯の人』 杉山正樹著(河出文庫)

2010.09.15

 寺山修司・遊戯の人』杉山正樹著(河出文庫)を読みました。

 18歳の若さで華々しく歌人としてデビューし、その後は詩・小説・演劇・映画・エッセイといった多彩な分野で大活躍した寺山修司の評伝で、新田次郎賞、AICT演劇評論賞を受賞した本です。寺山修司は、三島由紀夫、澁澤龍彦と並んで、わたしが最も関心を寄せる戦後文化人の一人です。

 著者は1933年に東京に生まれ、「短歌研究」「文藝」編集長ののち朝日新聞社に入り、出版局編集委員、調査研究室主任研究員ほかを務めた人です。そして、著者は寺山修司のデビュー時から、彼の身近に接した人でした。著者は、本書の冒頭に次のように書いています。

 「私は寺山修司と三度かかわりあいを持っています。最初はかれが『チェホフ祭』で『短歌研究』の〈五十首詠〉に入選し、歌壇へデビューする十八歳のとき、つぎは〈演劇実験室・天上桟敷〉旗揚げのころで、文藝雑誌の編集長だった私はその立ち上げを見せてもらい、そして三度めは、未完に終わったかれのドキュメント『路地』と不運なあの覗き事件に、新聞社にいた私がかかわっていたのでした」

 「不運なあの覗き事件」とは、以下のような内容です。

 1980年(昭和55年)7月13火午後10時頃、寺山修司が東京都渋谷区宇田川町8丁目の木造2階建てアパートの敷地内に入り込み、階段付近をうろついていて住民につかまり渋谷署に突き出されたのです。
 寺山は住居侵入の事実を認め、2日後に釈放され、罰金の支払いを求める略式起訴をされました。ところが、8月1日の「朝日新聞」朝刊に〈寺山修司”夜の顔”〉〈アパート侵入、捕まる〉〈罰金命令〉と顔写真入りで報道され、それをきっかけに、「毎日」「読売」をはじめ、全国の地方紙が一斉にこの事件を面白おかしく報道したのです。しかし、この事件の裏には大きな秘密があったと著者は主張するのです。

 その秘密とは、当時、寺山修司は『路地』という著書を執筆し、朝日新聞出版部から刊行するという企画があったことです。その企画の担当者こそ著者でした。寺山は、アメリカのエッセイストでピュリッツアー賞を取ったスタッド・タッカーのルポルタージュ『Division Street』に魅了されていました。

 その本は、タッカーが自分のアパート近くの小さな路地を毎日、意味もなく訪ねて行き、そこの住人たちと、とりとめのない会話をしては記録します。それを20年以上も続けて、厖大な記録を整理するのです。タッカーは1軒ずつの家の生成と消滅、飼い犬の歴史、ゴミ箱の位置の変更、犯罪事件など、じつに細部にわたって書き込み、途方もなく面白い「日常生活の冒険」が生まれました。寺山修司は、その日本版を企画したのです。彼は、著者に次のように語りました。

 「ぼくらがふつう路地というと、両手を伸ばすとどちらかが塀に触れる幅だよね。ところが日本の近代はそういうものをどんどん無用化し封鎖してしまい、道は人間中心から車中心になって、散歩という思想を切り捨ててしまった。だから、人間が通れる道についてもういっぺん観察して、そこから人間の捉え直しをしてみてもいいんじゃないかと思った。文学や映画に描かれた路地あたりをひとつの手がかりにして、消えてゆく路地について考えてみたいんだな。一葉とか荷風の文学のなかの路地とか、落語や大衆演劇のなかの路地とか、滝田ゆうの『抜けられます』という表示のある路地とかさ」

 そして寺山修司の路地論は、以下のように現代社会を読み解く非常にユニークな見方を打ち出していきます。

 「路地というのは、表通りの喧嘩を解決する場所だったり、酔っぱらいがヘドを吐く場所だったり、じっくり別れ話をする場所だったりした。つまり、きわめて個人的な場所として意味をもっていたわけだけど、その突き当たりには、集合的な場所があった。たとえば、銭湯とかさ。銭湯がなくなってきたことと、路地が減ったことは無関係ではないんじゃないかな」

 この寺山の発言を知って、わたしは江戸しぐさのことを考えました。江戸の町人たちの「思いやりの作法」であった江戸しぐさには、雨の日に狭い路地で行き交う際の「傘かしげ」などの「往来しぐさ」がありました。また、銭湯は隣人の作法を学ぶ大切な場所でした。江戸しぐさとは、路地と銭湯から生まれたといっても過言ではありません。寺山の言うように、路地や銭湯から「人間の捉え直し」ができるかもしれないのです。さらに、寺山は次のように言います。

 「路地にただよう味噌汁の匂いとか、紙芝居の自転車のベルとか、そういう懐かしい日常はどこへ行ってしまったのか。子どもたちのユートピアだった場所は、もはや取りもどすことはできないのか。つまりこの企画は、都市論の補注としての路地の考察だといってもいいわけだし、人間関係の考察でもあるわけだ。人間疎外をとりのぞくための手段を考えることでもあるんだからね」

 人間関係の考察!人間疎外をとりのぞくための手段を考える! これは、わたしが最近脱稿した『隣人論』(仮題)のテーマそのままではありませんか。劇団〈天井桟敷〉の前衛的な世界観などから、一見、ニヒリズムというか虚無的な感じさえ漂わせる寺山修司が「人間疎外をとりのぞくための手段」を考えていたとは大きな驚きでした。そして、彼の覗き事件が、じつは『路地』執筆のための実地調査だった可能性は非常に高いと言えるのです。些細な事件が大事になったのは、彼が出歯亀や痴漢でもしかねない、きわめて不真面目な雰囲気を醸し出していたことも原因のひとつでしょう。

 そう、寺山修司は、その生涯において、あまり真面目に見られない人でした。そして、いつも本心を言わず、嘘をついていると思われていました。著者は、そんな寺山について次のように述べます。

 「寺山修司は嘘つきだ、法螺(ほら)吹きだ、かれは身辺雑記でさえ虚偽を書いている、というのも旧世代の寺山批判のひとつです。ふつう随筆やエッセイで『私』という一人称で書く部分は事実であり、しかも『私』の〈告白〉に類するような文章は著者自身の地声だという大前提があります。しかし、寺山は前後撞着(とうちゃく)ももかまわず、平然と身の上話にまで虚言を塗り重ね、しかも自分で《極端に「告白する」ことをきらい、「私の内実を表出する」ために書くのではなく、むしろ「私の内実をかくすため」に書くのだ》とか、《「贋金つくり」の愉しみが、私にとっての文学の目ざめだった》とか誇らしげに立言するのだから、いかがわしい贋者と悪評されても仕方がないでしょう。たしかにかれは、正札付きの嘘つきなのです」

 さらに、オリジナリティの問題がありました。短歌で颯爽とデビューした頃から、寺山の作品には「剽窃」とか「盗作」といった非難がつきまとっていました。しかし、著者は次のように述べます。

 「かれはおそらく世界文学史上にも稀有なほど特別な才能の持ち主であって、そんな誹(そし)りにめげることなく、積極的に先行作品から表現を引用し、たちまち自分自身のなかに吸収して自作と化したのでした。たとえていえば、B型の寺山修司は確信犯として大胆に、ひるむことなく略奪行為を働いたのです」

 その確信犯ぶりは、作品のタイトルからもよくわかります。寺山の主な作品名は、ほとんどが何かの転用です。

 小説の『あヽ、荒野』はユージン・オニールの戯曲の題名、『書を捨てよ、町へ出よう』はアンドレ・ジッドの言葉、「時には母のない子のように」は黒人霊歌、〈天井桟敷〉という劇団名は同名のフランス映画から、「毛皮のマリー」はシャンソンから、「邪宗門」は北原白秋あるいは高橋和巳から、演劇のタイトルでいえば「阿片戦争」「血の起源」「盲人書簡」「疫病流行記」「阿呆船」「奴婢訓」「百年の孤独」など、すべて他の作品の引用や潤色です。ついに著者は、次のように述べます。

 「斬れば作者の生身の血が出る渾身の作、というきわめて日本的な褒め言葉がありますが、かれの場合は、どこを斬っても他人の台詞や文章や映像があふれ出てきます。旧世代の藝術家たちにとって、もっとも重要視されるオリジナリティとか、たったひとりの個性としての藝術表現とかいうものと、寺山修司の創作方法は本質的に背馳(はいち)しているのです」

 あらゆるジャンルの芸術活動に関わり、特に劇団〈天井桟敷〉が海外で高く評価された寺山修司ですが、彼の最高傑作とは何だったのでしょうか。じつは、それは彼自身の葬儀であったという声が多いそうです。

 寺山修司の葬儀は、1983年(昭和58年)5月9日、東京都港区の青山葬儀所で行われました。Tシャツと黒ズボンの〈天井桟敷〉の若い座員たちが「レミング」の主題歌を全員で合唱し、歌い終わっては順番に姿を消してゆきました。「葬儀が傑作だった」と述べた一人に、この葬儀に参列した作家の山口瞳がいます。彼は、寺山の葬儀について次のように書いています。

 「最後の公演だった『レミング』の歌を、天井桟敷の劇団員が歌う。揃いのTシャツを着た劇団員が、ばらばらと任意のように祭壇の前に集まってくる。
  みんなが行ってしまったら
  わたしは一人で手紙を書こう(中略)
 泣きながら歌っている少年がいる。歌い終わっても号泣のやまぬ少年がいる。その少年たちを放り出すようにして、二人、三人と連れだって自分の席に戻ってくる。そのタイミングが実によかった。
 隣に坐っていた息子が赤い目で、
 『寺山さんの芝居は全部見ているけれど、寺山さんの演出で、これが一番良かった』
 と言った。死んだ寺山が自分の葬儀で演出できるわけがないが、私もそんな気がした」

 この葬儀は、白い菊の花を手にした告別の行列が尽きませんでした。その斎場の庭で著者は作家の中井英夫と話していたそうです。中井英夫が「いい葬式だったね」と言い、「ええ、いい作品でしたね」と著者が応えます。「ほんとうだ」と中井がほほ笑み、「寺山の傑作かもしれないよ」と言う。「ええ、もしかしたら、いちばんの傑作かもね」と著者も同調します。さらに著者は、次のように書いています。

 「寺山修司は生涯をかけてテラヤマになろうとこころざし、無数の作品を作ったのだが、そのもっとも傑れた成果のひとつが、この葬式だったのではないか。肯きあってふたりが笑い、頭上を見上げると、そこには五月の青い空があります」

 葬儀とは、死者が旅立ってゆくことをドラマとして見せる演劇に他なりません。文化人類学的には、葬儀の本質は世界創造神話を演劇化したものと言われます。宇宙の創造の観念を持っている民族においては、その宗教は神話、儀礼、社会組織の三者が相互に作用し合っているとされています。

 死は、宇宙の神的な秩序をかき乱し、社会に不幸をこうむらせます。この混乱状態を終わらせるためには、葬儀を催して秩序を回復し、かつ創造を象徴的に繰り返さなくてはなりません。すなわち、死によって破壊された「宇宙の秩序」を新たにするという葬儀の任務は、創造神話を演出することによって達成されるのです。

 誰よりも演劇というものを愛した寺山が、自らの葬儀を見えない姿で演出したとしても何ら不思議はないでしょう。なにしろ彼は、あの「あしたのジョー」で力石徹が死んだとき、実際に力石の葬儀を出して世間を驚かせた張本人なのです。

 最近、「自分の葬式はしなくていい」との遺言を残して某演劇人が亡くなりましたが、この人物は葬儀こそ最大の演劇であることを知らなかったようです。彼と違って、自身の葬儀を「最高傑作」とまで参列者に言わしめた寺山修司は本物の演劇人だったと思います。

 オランダの文化史家ホイジンガは、名著『ホモ・ルーデンス』で「遊びは文化よりも古い」と述べましたが、わたしは拙著『ロマンティック・デス』に「葬儀は遊びよりも古い」と書きました。いわば、葬儀が遊戯や文化を生んだと言ってもいいと思います。

 寺山修司。本書のタイトルにあるように、たしかに彼は大いなる「遊戯の人」でした。

 それにしても、稀代のトリックスターだった寺山の死亡年齢が47歳であったことに、今さらながら愕然とします。ちょうど、わたしの今の年齢と同じです。45歳で自ら散った三島由紀夫の例もありますが、彼らのなんと老成していたことでしょうか。

 三島や寺山が経験することのなかった48歳、49歳、そして50代という未知の世界が、わたしには待っています。そのことを考えると、身が引き締まる思いがします。

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