No.0127 哲学・思想・科学 『徳の起源』 マット・リドレー著、岸由二監修、古川奈々子訳(翔泳社)

2010.08.02

 徳の起源』マット・リドレー著、岸由二監修、古川奈々子訳(翔泳社)を読みました。「他人をおもいやる遺伝子」というサブタイトルがついています。

 著者は、オックスフォード大学で動物学を専攻し、英国「エコノミスト」誌の科学関係の記者として活躍する人物です。

 本書は、まずピョートル=クロポトキンについて紹介します。『相互扶助論』を書いたロシア人です。

 クロポトキンは、一般にはアナキストの革命家として知られていますが、ロシアでの革命家としての活動は1880年半ばで終わっている。その後、イギリスに亡命し当地で執筆し、1902年に発表したのが『相互扶助論』です。ダーウィンの進化論の影響を強く受けながらもそれの「適者生存の原則」「不断の闘争と生存競争」を批判し、生命が「進化」する条件は「相互扶助」にあることを論証した本です。この本はトーマス・ヘンリー・ハクスレーの随筆に刺激されて書かれたといいます。

 ハクスレーは、自然は利己的な生物どうしの非常な闘争の舞台であると論じました。この理論は、マルサス、ホッブス、マキアヴェッリ、そして聖アウグスティヌスからギリシャのソフィスト哲学者にまでさかのぼる古い伝統的な考え方の流れをくみます。その考え方とは、文化によって飼い慣らされなければ、人間の本性は基本的に利己的で個人主義的であるという見解です。

 それに対して、クロポトキンは、プラトンやルソーらの思想から抽出された異なる伝統を主張しました。つまり、人間は高潔で博愛の精神を持ってこの世に生まれ落ちるが、社会によって堕落させられる、という考え方です。

 平たく言えば、ハクスレーは性悪説、クロポトキンは性善説と言えるでしょう。クロポトキンによれば、きわめて長い進化の行程のあいだに、動物と人類の社会には互いに助け合うという本能が発達してきました。

 近所に火事があったとき、私たちが手桶に水を汲んでその家に駈けつけるのは、隣人しかも往々まったく見も知らない人に対する愛からではありません。わたしたちを動かすもの。それは、愛よりは漠然としているが、しかしはるかに広い、いわば「相互扶助の本能」であるというのです。

 クロポトキンは、ハクスレーが強調する「生存競争」の概念は、人間社会はもちろんのこと、自然界においても自分の観察とは一致しないと述べています。

 生きることは血生臭い乱闘ではないし、ハクスレーが彼の随筆に引用したホッブスの言葉のように「万人の万人に対する戦い」でもなく、競争よりもむしろ協力によって特徴づけられています。現に、最も繁栄している動物は、最も協力的な動物なのです。

 もし各個体が他者と戦うことによって進化していくというなら、相互利益が得られるような形にデザインされることによっても進化していくはずです。

 クロポトキンは、利己性は動物の伝統であり、道徳は文明社会に住む人間の伝統であるという説を受け入れようとはしませんでした。彼は、協力こそが太古からの動物の伝統であり、人間もまた他の動物と同様にその伝統を受け継いでいるのだと考えたのです。

 進化論で知られるダーウィンは、「社会本能説」や「道徳起源説」を唱えました。しかし、クロポトキンはダーウィンのような機械論的進化論者ではありませんでした。

 ただし彼には、相互扶助によってどうしてこのような進化の足がかりができるかを説明することはできませんでした。彼に言えたことは、社交的な種族や集団のほうが、社交的でない者たちよりも生存競争に勝てるということだけでした。

 この考え方は生存競争と自然淘汰説の一段階を飛ばしたものにすぎません。つまり、個体ではなくグループ単位で考えているのです。

 ともあれ、クロポトキンは一世紀のちに政治、経済、そして生物学の世界に大きな影響を与えることになる疑問を投げかけたのです。

 もし生きることが競争に勝つための戦いだとしたら、どこでもかしこでも協力や利他的行為が見られるのはなぜだろう。特に人間は熱心に協力しあうが、それはなぜなのか。そもそも人間は本能的に非社会的動物なのだろうか、それとも社会的動物なのだろうか。

 この人間社会のルーツをさぐってゆくと、クロポトキン説の半分は正しいが、社会のルーツは私たちが思っているよりもはるかに深いところに横たわっていることがわかります。

 社会が機能できるのは、人間が意識的に社会をつくったからではありません。社会は人間の進化した性質によってはるか昔に生み出されたものだからなのです。社会とは、文字どおり、人間の本性のなかにあるのです!

 本書の著者マット・リドレーは、「人間は、人嫌いであるくせに、人と交わらずには生きてゆけない」と述べています。

 現実的なレベルにおいても、人類が完全に独立独歩で生きてきた、つまり、仲間と生きるための技術を交換しあうことなくたった一人で生きていたと言えるのは、おそらく百万年以上前のことでしょう。

 人間の仲間に対する依存度は、他の類人猿やサルよりもはるかに大きいのです。人間はどちらかといえば、集団の奴隷として生きているアリやシロアリに近いのです。ほとんどの場合、美徳は親社会的行動とされ、悪徳は反社会的行動とされます。

 クロポトキンは、相互扶助が人間という種にとって大きな役割を果たしていると強調した点においては、まったく正しかった。しかし、そのコンセプトを他の動物種にも当てはめることができると考えたところに間違いがあり、動物を擬人化しすぎていたのでしょう。

 人類を他の動物から区別し、生態系のなかで優位な存在にしている理由の一つは、私たちが非常に高度な社会的本能を数多く持っていることだとリドレーは述べています。結局、人間はどこまでも社会を必要とするのです。

 「人間は社会的動物である」と言ったのはアリストテレスですが、近年の生物学的な証拠に照らし合わせてみると、この言葉はまったく正しかったことがわかります。人間が生物学的に成功したのは、ひとえに共同体とその協力行動のおかげです。ただしここでいう共同体とは、構成メンバーが互いに直接顔を合わせることのできる範囲、すなわち、村のことなのです。

 もともとは血縁関係を基本にして構成されてきたこのような共同体は、相互協力行動や相互利他行動、つまりは「相互扶助」の単位でもあります。村のような共同体が世界的に消えつつある今、その代用として生まれてきたもの。それがフランス発の「隣人祭り」であり、日本の「冠婚葬祭互助会」ではないでしょうか。

 「徳」の起源を探ると、他人をおもいやる遺伝子を発見するという本書のメッセージは、わたしの「天下布礼」の活動に大きな影響を与えてくれました。これから『隣人論』(仮題)の執筆に本格的に取り掛かろうと思っていたのですが、その直前に本書を再読したことは大きな収穫でした。すでに何度も読み返していますが、これからも折につけて読んでいきたい本です。

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