No.0130 論語・儒教 『孔子伝』 白川静(中公文庫)

2010.08.06

 孔子伝』白川静(中公文庫)を再読しました。

 もう何度も読み返している、わたしの座右の書のひとつです。本書の冒頭で、著者は次のように書いています。

 「聖人孔子を語る人は多い。また『論語』の深遠な哲理を説く人も少なくはない。しかしもし、それがキリストを語り、聖書を説くように説かれるとすれば、それは孔子の志ではないように思う。孔子自身は、神秘主義者たることを欲しなかった人である。みずから光背を負うことを欲しなかった人である。」

 この一文は、日本における従来の孔子観を打ち砕くものであり、新しい孔子観が生まれることの宣言でもありました。そして、著者はなぜ孔子が「聖人」と呼ばれるのかについて、次のように書いています。

 「孔子は偉大な人格であった。中国では、人の理想態を聖人という。聖とは、字の原義において、神の声を聞きうる人の意である。孔子を思想家というのは、必ずしも正しくない。孔子はソクラテスと同じように、何の著作も残さなかった。しかしともに、神の声を聞きうる人であった。その思想は、その言動を伝える弟子たちの文章によって知るほかはない。人の思想がその行動によってのみ示されるとき、その人は哲人とよぶのがふさわしいであろう」

 わたしは『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)という本を書きましたが、その八大聖人の中には、孔子もソクラテスも含まれています。また、日本人が考案したと考えられる「四大聖人」の中にも二人は入っています。

 なぜ、一般に思想家とか哲学者ととらえられている孔子とソクラテスが「聖人」なのかを白川静は見事に説明してくれています。そう、「聖人」とは「神の声を聞きうる人」のことなのです!

 そもそも、日本において、孔子が開いた儒教は宗教と見られてはいませんでした。 しかし、今日、そのような見方は否定されています。本書『孔子伝』の功績です。著者は、「孔子は孤児であった。父母の名も知られず、母はおそらく巫女であろう」と書いています。孔子は巫女の庶生子だったというのです。いわば、神の申し子です。

 当時の巫女は、雨乞いと葬送儀礼にたずさわっていました。父の名も知らないぐらいで、その暮らしは非常に貧しかったと想像されます。著者は、孔子の生い立ちについて次のように書いています。

 「貧賤こそ、偉大な精神を生む土壌であった。孔子はおそらく巫祝者の中に身をおいて、お供えごとの『徂豆』の遊びなどをして育ったのであろう。そして長じては、諸般の喪礼などに傭われて、葬祝のことなどを覚えていったことと思われる。葬儀に関する孔子の知識の該博さは、驚嘆すべきものがある。」

 孔子から200年ほど後に登場する孟子の母親は、孟子が子どもの頃に葬式遊びをするのを嫌って家を三回替えた、いわゆる「孟母三遷」でよく知られています。

 孟子の「こころの師」である孔子も、子ども時代にはよく葬式遊びをしたようです。私生児であり、かつ父親を早く亡くしたため、貧困と苦難のうちに母と二人暮らしをした孔子の少年時代。今でいう母子家庭です。

 葬儀の仕事をやりながら、孔子を育てた母。そんな母親とその仕事を孔子はどのように見たのでしょうか。おそらく、深い感謝の念と尊敬の念を抱いたのではないでしょうか。孔子は母親の影響のもと、「葬礼ほど人間の尊厳を重んじた価値ある行為はない」と考えていたとしか思えません。そうでないと、孔子が生んだ儒教がこれほどまでに葬礼に価値を置く理由がまったくわからなくなります。

 いかにして、孔子は儒教を成立させ、その思想体系は日本を含む東アジア全域に多大な影響を及ぼしたのか。

 孔子の教団に属する人々は「儒」と呼ばれました。彼らに先立って、古代儒教グループともいえる「原儒」の存在がありました。著者は、『孔子伝』に次のように書いています。

 「儒はもともと巫祝を意味する語であった。かれらは古い呪的な儀礼や、喪礼などのことに従う下層の人たちであった。孔子はおそらくその階層に生まれた人であろう。しかし無類の好学の人であった孔子は、そのような儀礼の本来の意味を求めて、古典を学んだ。『書』や『詩』を学び、これを伝承する史や師についても、ひろく知見を求めた。そしておよそ先王の礼楽として伝えられるすべてのものを、ほとんど修め尽くすことができた。儒学のもつ知識的な面は、これですでに用意を終えているのである。これをどのように現実の社会に適用してゆくか。それが次の問題であった。」

 そして、孔子が成立させた儒教は中国において、あるいは日本において、思想的伝統にまでなりました。著者は次のように述べます。

 「儒教は孔子によって組織された。そしてそののち、二千数百年の久しきにわたって、中国における思想の伝統を形成した。伝統とは、民族の歴史の場において、つねに普遍性をもつものでなければならない。政治も道徳も、その他の人間的な生きかたのあらゆる領域に、規範的な意味においてはたらくもの、それが伝統というべきものである。孔子は、その伝統を確立した人である。先秦の思想家たちによって、多くの思想が生み出されたが、儒教のような意味での伝統を樹立しえたものはない。」

 卑賤な生まれでありながら、中国で最大の思想的伝統を打ち立てた孔子。その父親は山東省の下級軍人貴族であったとされています。当時の孔子は父の名も知らず、その墓所など知る由もありませんでした。

 しかし、孔子一門の間に記録された葬礼の問題を多く集めた文献である『礼記』の「檀弓篇」には、孔子がその母を魯の城内に仮埋葬したとき、墓守の老婆に教えられて父の墓所を知り、合葬したと書かれています。墓所は改葬しないのが普通だが、孔子はあえてその父母を合葬したというのです。父母の合葬という行為には、孔子の想いが滲み出ているように思います。

 両親に対する親愛の情はもちろん、「深く愛し合いながらも生前は夫婦になれなかった二人を、せめて死後において一緒にしてやりたい」という切ない願いが込められているように見えるのです。孔子が大切にした葬礼とは、「愛」と「死」をみつめて、人間の真の幸福を問う行為だったのです。このような孔子は巫女の私生児であったがゆえに、神の子であったのだと思います。

 わたしが「知の巨人」白川静に初めて出会ったのは、本書『孔子伝』でした。

 当時30代の初めだったわたしは著作活動を中止して、家業である冠婚葬祭業を営んでいました。そのとき、たまたま読んだ同書で、孔子が葬祭業としての原始儒教グループの出身であり、葬儀という仕事を形而上的に高めたところから、儒教が生まれたことを知りました。その後、儒教は「人間尊重」思想としての「礼」を発展させてきました。

 わたしは本書を読んで、冠婚葬祭という自分の仕事に心からの誇りを抱くことができました。いま、わたしは、この仕事を天職であると思っています。本書は、わたしにとって、生き方と使命を教えてくれた大いなる「恩書」なのです。

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