No.0139 死生観 『墜落遺体/墜落現場』 飯塚訓著(講談社+α文庫)

2010.08.13

 25年前の日航機墜落事故の現場の状況がよくわかる名著があります。当時、遺体の身元確認の責任者を務めた群馬・高崎署の元刑事官である飯塚訓氏の著書『墜落遺体』『墜落現場 遺された人たち』(ともに講談社+α文庫)の2冊です。

 それらを読むと、その惨状の様子とともに、極限状態において、自衛官、警察官、医師、看護婦、葬儀社社員、ボランティアスタッフたちの「こころ」が一つに統合されていった経緯がよくわかります。

 看護婦たちは、想像を絶するすさまじい遺体を前にして「これが人間であったのか」と思いながらも、黙々と清拭、縫合、包帯巻きといった作業を徹夜でやりました。そして、腕一本、足一本、さらには指一本しかない遺体を元にして包帯で人型を作りました。その中身のほとんどは新聞紙や綿でした。それでも、絶望の底にある遺族たちは、その人型に抱きすがりました。その人型が柩に入れられ、荼毘に付されました。

 どうしても遺体を回収し、普通の葬式をあげてあげたかったという遺族の方々の想いが伝わってくるエピソードです。

 人間にとって、葬式とはどうしても必要なものなのです。そして、葬式をあげるにはどうしても遺体が必要でした。

 儒教の影響もあって日本人は遺体や遺骨に固執するなどと言われますが、やはり亡骸を前にして哀悼の意を表したい、永遠のお別れをしたいというのは人間としての自然な人情ではないでしょうか。

 飛行機の墜落事故も、テロも、地震も、人間の人情にそった葬式をあげさせてくれなかったのです。さらに考えるなら、戦争状態においては、人間はまともな葬式をあげることができません。

 先の太平洋戦争においても、南方戦線で戦死した兵士たち、神風特攻隊で消えていった少年兵たち、ひめゆり部隊の乙女たち、広島や長崎で被爆した多くの市民たち、戦後もシベリア抑留で囚われた人々・・・・彼らは、まったく遺族の人情にそった、遺体を前にしての「まともな葬式」をあげてもらうことができませんでした。逆に言えば、まともな葬式があげられるということは、平和であるということなのです。

 わたしはよく「結婚は最高の平和である」と語るのですが、葬式というものも「平和」に深く関わった営みなのです。

 また、わたしは、つねづね、「死は最大の平等である」と語っています。すべての死者は平等に弔われなければなりません。

 価格が高いとか、祭壇の豪華さとか、そんなものはまったく関係ありません。問題は金額ではなく、葬式そのものをあげることなのです。葬式とは人間の「こころ」に関係するものであり、もともと金銭の問題ではないからです。

 わたしは、『沈まぬ太陽』『墜落遺体』『墜落現場 遺された人たち』をはじめ、御巣鷹山の日航機墜落事故の遺族の文集である『茜雲 総集編』(本の文化社)も含めて多くの資料を読みました。そのとき考えたことは拙著『葬式は必要!』(双葉新書)にも書きましたが、あらためて冠婚葬祭とは「人間尊重」の実践であるという思いを強くしました。

 さらに、ヒトは葬儀をされることによって初めて「人間」になるのではないでしょうか。

 ヒトは生物です。人間は社会的な存在です。葬儀に自分のゆかりのある人々が参列してくれて、その人たちから送ってもらう――それで初めて、故人は「人間」としてこの世から旅立っていけるのではないでしょうか。葬儀とは、人生の送別会でもあるのです。

 いつの日か、520名の犠牲者が昇天した”霊山”であり、4名の奇跡の生存者を守った”聖山”でもある御巣鷹山に登ってみたいと思いました。

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