No.0114 歴史・文明・文化 『日本人へ 国家と歴史篇』 塩野七生著(文春新書)

2010.07.12

 日本人へ 国家と歴史篇』塩野七生著(文春新書)を読みました。

 著者の『日本人へ リーダー篇』の続編です。「文藝春秋」2006年10月号~2010年4月号に連載された巻頭言を集めた本です。帯には、執筆中とおぼしき著者の写真と一緒に「ローマの衰亡は500年 日本の衰弱は20年 ならば、どうする?」というコピーが書かれています。

 著者の本は、なんといってもスケールの壮大な歴史観に支えられたスケールの大きさが魅力です。本書の冒頭に掲載されている「後継人事について」では、いきなりその醍醐味が味わえます。なにしろ、著者は次のように書き出しているのです。

 「歴史上、最高の後継人事と私が思っているのが二つある。第一は、イエス・キリストから、キリスト教会の初代教皇となるペテロへのバトンタッチ。第二は、歴史上の順序は逆だが、ユリウス・カエサルから、ローマ帝国の初代皇帝になるアウグストゥスへのバトンタッチ」

 著者によれば、イエスもカエサルも、性格から資質から何から何まで自分とは正反対な男を後継者に選び、ゆえに成功したというのです。こんな事例を、小泉首相から安倍首相への交代について論じるために紹介しているのです。なんというスケールの大きさ! もっとも、著者は「いかに愛国者の私でも、小泉・安倍のバトンタッチを、ここに述べた世界史上の例と並べるのは大変に気がひける」とは書いていますが。

 また、「『ローマ人の物語』を書き終えて」という文章が味わい深いです。年に1巻ずつ15年間にわたって発表してきた大著『ローマ人の物語』を書き終えた瞬間は、「机の上に泣き伏すか、それともガッツポーズでもし、ヤッタ!と叫ぶか」といった事前の想像のたくましさとは裏腹に、実にあっ気なく過ぎたそうです。

 ドラマティックとは正反対で、少しずつ切れはじめていた糸が、ついにプツンと切れた感じだったというのです。これは、わたしも物書きの端くれとして、何となくわかる気がします。著者にとって、歴史とは研究する対象ではなくて、ともに生きる相手なのだそうです。著者は、次のように述べます。

 「ローマ人の歴史は、なかなかに生きがいのある相手ではあった。紀元前八世紀から紀元後の六世紀までだから、それを書く私も、実に一千三百年にわたる歳月を生きたことになる。一個人でもその生涯の十倍以上を生きられるということこそ、歴史の与える醍醐味でもあるのだけれど」

 著者は、ある人から「カエサルについてあれほども書ききった後では、その後に来る人物たちをどうやって書きつづけていくのいかね」と言われたとき、「御心配いりません。次はアウグストゥスのところへ行くだけですから」と笑いながら答えたそうです。こんな具合に男たちを次々と渡り歩くことで、著者は全15巻を書き上げたというのです。

 ネロのような困った皇帝になると、これはもう「クイーン」のフレディ・マーキュリーだと思い、ネロは生まれた時代を間違えたのだと書きながら笑い出す始末というから、すごいですね。ローマ史を彩った男たちについて、著者は次のように書いています。

 「衰亡に近づいても、そこは人間世界のすべてをやってくれたローマのこと、情けなくもだらしない男ばかりではない。亡国の悲劇とは、人材が欠乏するから起るのではなく、人材はいてもそれを使いこなすメカニズムが機能しなくなるから起るのだ、と痛感するほどにイイ男は、興隆期に比べれば数は少なくてもいることはいる。この男たちに照明を当てていくのは、歴史を科学と思っている学者には味わえない妙味かもしれない」

 著者は、最高の「こころの贅沢」をしているのですね。そして、この贅沢な経験が国家の行方を見る目というものを鍛えてゆくのでしょう。

 本書の終わりに近いページに、「拝啓 小沢一郎様」という文章があります。おそらくは、先の衆議院選挙で民主党が歴史的勝利を遂げて、念願の「政権交代」を実現する直前に書かれたものと思われます。そこで著者は、自身の作品の愛読者として知られる小沢一郎氏に対して次のように語りかけるのです。

 「危機を打開するには、何をどうやるか、よりも、何をどう一貫してやりつづけるか、のほうが重要です。打開策の効果はすぐには現われないもので、その間に巻き起ってくる不安や抗議には耳も貸さずにただひたすらやりつづけるしかないからです。それには堅固で持続する意志しかありません。
 そして、不安や抗議の声にもびくともしないでやりつづけるには、足許がおびやかされていてはできない。つまり、危機に対処するには何よりも、政局の安定が不可欠ということになります」

 ここで、著者は、「次の選挙で民主党が勝つことで政権が代わり、それで安定する」と小沢氏が言うだろうと推測した上で、次のように述べます。

 「でも、どうしてそう言えるのでしょう。仮りに衆院選挙で民主党が第一党になったとしても、単独で過半数を制せるのか、という問題がまずある。第二に、もしも単独過半数を獲得できたとしても、参院では民主党は、単独過半数を持っていません。社民とか何かを加えて、ようやく参院を制しているにすぎない。こうなると、衆院で勝ったとしても、民主党は常に、衆院のみでなく参院でも、連立しないと統治はできないということになる」

 著者は「それで、『連立内閣』ですが、これが実は魔物なんですね」と言い、イタリアの連立内閣によって、イタリアの有権者がいかに政治に絶望したかを具体的に述べます。

 そして、次のように日本の政局を語るのです。

 「日本では、次の総選挙では民主党が勝つでしょう。しかし、参院でも連立を組まないと過半数に達しないのに加え、衆院でもおそらく、社民や国民新党と連立を組まないとやっていけないことになるでしょう。
 そうすればまず、社民がキャンキャンわめき始める。化石みたいな国民新党も黙ってはいないにちがいない。そしてこれに、民主党内の郷愁派というか守旧派が、浮き足立ってくる。結果は、選挙で多く支持された大政党が、ひとにぎりの票しか得なかった小政党に引きずられるという、有権者の意向の反映しない政治に向ってしまうことになる。
 こうなっては、日本人は政治を見離します。そして、有権者から見離された政府では何をやっても、危機の打開は成功しないでしょう」

 おそろしいほど著者の予言は的中しています。なぜ、ローマに住んでいて、日本の政局がわかるのか。まさに、著者にはローマから日本が見えるのか。そして、著者はズバリ、次のような提言をします。

 「こうなると、大手術をするしかないのではないでしょうか。自民党と民主党の、今すぐの大連立です。
 この二党が連立を組めば、いかに両党とも内部にいる郷愁派が脱退で脅しても、議決には影響しない票数には達せる。つまり、浮足立つ人を計算に入れないでも大丈夫という数を有しないかぎり、日本の政局の安定は実現できないということですが。
 そしてそれをやれるのは、小沢様、あなた御一人です。なぜなら、形勢不利な側が手を差し出した場合の握手は成功しないものですが、有利な側が手を差し出した場合は成功するからです」

 著者は、今や政局不安定の国は世界で日本一国だけになってしまったと嘆きます。そして、以上のような提言を小沢氏に投げかけたわけです。いまだ民主党の最大のフィクサーであることに変わりはないにせよ、残念ながら現在の小沢氏は衆院選挙前の小沢氏とは立場が違います。

 あの政権交代を実現させた衆院選の前に自民党と民主党の大連立が成っていたとしたら、今頃、日本はどうなっていたでしょうか。最後に以下の文章で、著者は小沢氏への手紙を終えます。

 「あなたも、私の作品を読んでくださる御一人と聴きました。ならばおわかりでしょう。古代のローマ人が、『勝って歩み寄る』名人であったことを。あなたも、政局屋ではなくて政治家として、名を残したいとは思われませんか?」

 ローマ史から学んだ智慧を駆使して、現代の日本を考える。壮大な塩野七生ワールドは、ここに極まった感があります。なんだか、わたしには著者がかつての司馬遼太郎、いや安岡正篤のごとくに見えてきたのですが、これは気のせいでしょうか?

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