No.0103 社会・コミュニティ 『団地と孤独死』 中沢卓実・淑徳大学孤独死研究会 共編(中央法規)

2010.06.29

 団地と孤独死』中沢卓実・淑徳大学孤独死研究会 共編(中央法規)を読みました。

 大学の研究会が共編者というだけあって、中沢氏の著書『孤独死ゼロ作戦』よりも資料的要素が強くなっています。

 本書は2部構成になっており、第1部が「孤独死の実態から学ぶ」、第2部が「孤独死の実体を整理する」です。

 わたしは、特に第1部の第3章「孤独死の防止に本人の力を」が興味深かったです。淑徳大学国際コミュニケーション学部准教授の山口光治氏が執筆しています。山口氏は、まず孤独死の「孤独」の意味について考えるのです。参考にしたのは三木清の『人生論ノート』で、そこには次のように書かれています。

 「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の『間』にあるのである。孤独は『間』にあるものとして空間の如きものである」

 また、哲学者の谷口龍雄が『出会いの哲学』に書いた、次の言葉も参考にします。

 「孤独は、人間が事実的共在の内にありながら、しかも心の通い合いによる共在を欠いているところに存する人間のあり方である」

 ここでいう「共在」とは、心の通い合いによって他者と一体的に共にあるということです。人間の本来のあり方は一人ではありません。人間とは、心の通い合いによって他者と共にある存在なのです。この考え方は、和辻哲郎の名著『人間の学としての倫理学』にも通じると思いました。

 また、山口氏は「孤独死の何が問題か」において、3つの問題点をあげています。

 第1は、一人で死ぬことの問題。
 第2は、世話や介護、治療が必要でも、それが受けられない問題。

 この二つは、孤独死した本人への同情が強く感じられます。

 第3の問題点とは、孤独死した後の家族や親族、近隣等への影響の問題でした。

 「自分らしく生き、死亡後も本人の意思にのっとって葬儀の執行、財産や所有物などの整理が行われるということは大切なことです」とした上で、山口氏は自らの「死」を事前に準備しておく人の少なさを問題として、次のように述べます。

 「そのように『もしこんな状態になったら、こうして欲しい』と事前に準備しておく人は、孤独死をした事例のなかでは見受けられませんでした。むしろ、ゴミを捨てに行くこともせずにゴミのなかで暮らし、近隣との付き合いもなく、家族とのつながりもない事例が目に止まりました。自分がどう生きたいのかという意思が、さまざまな挫折や喪失体験などを経るなかで薄れてしまっているように感じます。そうしたなかで最期が訪れ、息を引き取ってから発見されるまで長い時間が経ち、腐敗した肉体から放たれる悪臭や汚れは室内のみならず室外へも不快感をもたらすと共に、その後の処理に多大な迷惑をかける結果となります。」

 この山口氏の指摘を「冷たい」と感じる人もいるかもしれません。しかし、次のように「多大な迷惑」を具体的に知れば、どうでしょうか。

 「団地やマンションで孤独死が起こることにより、ほかの住民はもとより管理者や入居希望者に与える影響も少なくありません。さらに、身元が明らかになって遺体を引き取るように急に呼び出される親族にあっては、戸惑いが大きく、さまざまなことの処理に時間と費用が費やされる結果となります。『人の世話にならないと言っている人に限って、最期に大きな迷惑をかける』とある方が話していましたが、まさにさまざまな問題を後に残します。」

 これは、孤独死の「リアル」です。孤独死を防止するために、みんなで孤独死予備軍の人をサポートしようと呼びかけることも大事ですが、本人の自己責任力を問う視点も同じように大事ではないでしょうか。

 「孤独死の防止に本人の力を」という山口氏の文章を読んで、わたしは上杉鷹山のことを連想しました。鷹山は、財政危機の米沢藩にあって、身体障害者、病人、妊婦、赤子、老人といった社会的に弱い立場の人々を助けに助けたハートフル・リーダーでした。しかし、その福祉のすべてを藩財政で負担することは不可能であり、次の3つの「助」を打ち出しました。

 1. 自助。すなわち、自ら助ける。
 2. 扶助。藩政府が手を伸ばす。
 3. 互助。互いに近隣社会が助け合う。

 これら3つの「助」による三位一体で、米沢藩の福祉政策は奇跡の成功を収めました。社会的存在である人間にとって、一番大切なものは「思いやり」です。それを形にする具体的な方法論として、自助・扶助・互助の三位一体を考える必要があります。もちろん、孤独死防止という問題においても通用することだと思います。

 本書の終章「孤独死は、生き方の問題」で、中沢氏は淑徳大学の長谷川匡俊学長と対談しています。そこで、中沢氏は次のように語っています。

 「私が孤独死問題から何を学んだかというと、人間が本来もっている原点に立ち返れ、ということなのです。人間というものは、みな関わりをもって生きている。それなのに原点を忘れている。人間という言葉をみても、人という文字は支えあうという意味を形で表していて、そして『間』はコミュニケーションということでしょう。人との関わりのなかで自分は生かされていると、そういうことが文字にも表れているわけですね。」

 それなのに、孤独死する人々はその人間の原点を忘れてしまったのです。

 中沢氏が孤独死をずっと見ていると、現代社会に生きる人々は「ないないづくし」で暮らしていることがよくわかり、その実態は本当に恐ろしいそうです。孤独死予備軍の「ないないづくし」とは何か。それは次の10点に集約されます。

  1.配偶者がいない。
  2.友だちがいない。
  3.会話がない。
  4.身内と連絡しない。
  5.あいさつをしない。
  6.近隣関係がない。
  7.自治会や地区社協の催しに参加しない。
  8.人のことはあまり考えない。
  9・社会参加をしない。
 10.何事にも関心をもたない。

 中沢氏によれば、「孤独死は行政がなんとかしてくれる」という、あなた任せになる危険性があるといいます。そうではなく、自分たちの生活習慣を改めて、地域の幸せを皆でつくるという発想が大事なのです。そこで出てくるキーワードが「あいさつ」でした。中沢氏は、次のように述べます。

 「そこで私たちが結構腐心するのは、言ってみれば、おじいちゃん、おばあちゃんから、若い人たちまで共通して理解されるものは何かということです。そうして行き着いたのが『あいさつ』することでした。誰でも参加できる、納得できる、それは『あいさつ』をすること。地域でこの運動を高めていこう。あいさつは孤独死ゼロの第一歩なのですよ」

 たしかに、「孤独死」は人間という『間』からドロップアウトする部分があるわけで、そうならないためには、もう一度『間』に戻る必要があります。そのためには、『間』に入る魔法の呪文としての「あいさつ」が重要になるわけです。まさに、「あいさつ」という「礼」の力こそが人間の幸福に直結していることを、中沢氏は孤独死の中から学んだのです。

 近隣との「ないないづくし」の関係を、あいさつすることによって、「あるあるづくし」に変えていけるのです。これは「天下布礼」の旗を掲げて「人間尊重」思想の普及を願うわたしにとって、本当に心に沁みるような思いがしました。

 さて、長谷川学長も、「三声」という非常に興味深い考え方を示しています。「三声」とは、高度経済成長以前の村落共同体が存在していたときの地域コミュニケーションのあり方です。

 どういう三声かというと、一つ目は、地域にある神社や寺などの祭礼行事で、祝詞やお経、あるいは鉦や太鼓というような祭礼行事に集まる人々のさまざまな声。

 二つ目は、年齢が異なる集団の子どもたちの声。昔あった「子ども組」のような、歳の異なる子どもたちが遊びを通して社会性なり社会力を身につけていくときの、活気あふれる声。

 そして三つ目は、かつて近隣や一村の中でお互いに協力し合いながら田植え、稲刈り、道普請をやったり、漁村や山村であればそれぞれの地域の生業に即して協力する、そのときの労働の唄声、民謡などが典型です。

 このように「地に三声あり」を唱える長谷川学長は、次のように述べます。

 「しかしいつの間にか、地域から祭礼行事等の鉦や太鼓、集まる人たちの声が消え、それから子どもたちの声も消えていき、かつ労働の唄声も消えてしまっている。このような三声をどうやって再生ないし新生させるか、地域再生の課題です。常盤平団地では毎年夏の盆踊りの折に多くの方々が集まってくるそうですね。つまり、地域の活力としての結衆、人と人との関わりがあってこそ、声が聞こえてくるわけで、それが大切だと感じます。」

 この「三声」という考え方に、わたしは多くのヒントを貰いました。同じ職場で働くという「職縁」意識を強くするには、労働唄というのとは少し違うかもしれませんが、社歌というものも重要です。

 わが社では、第一社歌「愛の輪」、第二社歌「永遠からの贈り物」という二つの社歌を式典や総合朝礼などで全社員で唱和しています。また、「三声」は孤独死の防止に直接つながる地縁再生のための大きな可能性も秘めていると思います。わが社がサポートさせていただいている「隣人祭り」においても、さまざまな祭礼や年中行事にあわせての開催を企画しています。

 結局は、孤独死どうのこうのということより、地域の人々がみな「幸せ」にならなければなりません。中沢氏によれば、福祉というのは「福」も「祉」も、語源は全部「幸せ」という言葉であり、「福祉」とは「幸せづくり」という意味なのです。ですから、中沢氏は「地域福祉と言った場合に、地域の幸せをどうやってつくっていくか。そうすると、人々の喜びをもってわが喜びとできるというか、ということに関わってくるのです」と述べています。

 最後に、中沢卓実氏が孤独死の対応の中から学んだこととは何か。それは、人間どう死ぬかということは、「どう生きるか」ということにつながっていると再発見したことだそうです。中沢氏の次の言葉がすべてを語っているでしょう。

 「人間の死亡率は100%だということを、わかっていたようだけれども、あらためて気づかされました。つまり、人間は死ぬことを自分では選べない、ところが人生とか生き方は選べる。だからよりよい方向に自分を選択する。悪い生活習慣を改めるということも含めてですね。生きることの喜びをみんなで共有していきたいと、このことを強く感じました。」

 『ひとり誰にも看取られず』『孤独死ゼロ作戦』『団地と孤独死』・・・これで、中沢卓実氏に関する書籍を3冊続けて再読しました。

 わたし自身、孤独死に対する関心が非常に強くなりました。

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