No.0056 人生・仕事 『若者のための仕事論』 丹羽宇一郎著(朝日新書)

2010.04.26

 負けてたまるか!若者のための仕事論』丹羽宇一郎著(朝日新書)を読みました。

 丹羽氏は、1998年に伊藤忠商事の社長に就任され、99年に約4000億円の不良資産を一括処理しながら翌2000年度の決算で同社における史上最高利益を計上して世間を瞠目させた方です。

 本書は、全部で3章に分かれています。

 その前に序章「若者よ、小さくまとまるな!」があり、著者はさまざまな日本の危機を知らせる赤信号について告げています。すなわち、人口減少、高齢化という赤信号。

 次に、大借金国であるという赤信号。そして、国が教育にお金をかけていないという赤信号。

 それらの点滅する赤信号を乗り越えて、著者は、「良くも悪くも青臭さ、無鉄砲さが若者の特権なのです。皆さんのその特権が、日本という国の未来を照らす。私はそこに期待しています。要は『負けてたまるか!』の精神です」と、若者に訴えかけます。

 第1章「DNAのランプが点灯するまで努力せよ~人は仕事で磨かれる」では、若者に「まずはアリのように、泥にまみれて働け」と喝破します。

 それから、「君はアリになれるか。トンボになれるか。そして、人間になれるか」という言葉を紹介します。 会社に入って最初の時期、20代~30代までは、「アリ」のように地を這っていくことが大事。がむしゃらに進み、失敗を重ねていく中で迎える30代前半、そこから40代前半までは「トンボ」のように広い視野で世間を見て勉強する。会社のリーダーに近づく40代後半~50代にかけては、血の通う、温かい心を持った「人間」をめざす。

 非常にわかりやすい比喩ですが、最後は「人間」に行き着くわけです。

 著者は、次のように言います。

 「人を知ることは、マネジメントの極意でもあります。たくさんの部下を抱えるようになり、自ずと人間というものの本質を探っていく必要に迫られるのです。」

 この言葉など、まるでピーター・ドラッカーの言葉のようです。

 著者によれば、人間の能力にはほとんど差がないとか。

 人は皆、何事でもできる能力を備えているのであり、たとえ目指した分野に「適性のない人」でも、営々と努力してようやく、わずかな努力でも成し遂げられる「適性のある人」に近づくことができる。いつかは才能を開花させるときが来る。

 著者は、「私の言葉で言えば、DNAのランプがポッとつくのです。DNAのランプというのは、誰もが持っている才能をイメージした言葉で、そのランプが灯る、つまり才能が花開くかどうかは努力次第というわけで、向いているからやる、向いていないからやらない、ということではないのです」と、語ります。

 第2章「本は仕事と人生を深くする~人は読書で磨かれる」は、本書の白眉です。
 不遜ながら、わたしの読書論と共通する部分が多く、非常に興味深く読みました。著者いわく、「読書は、私たちにたくさんのことを教えてくれます。想像力、論理的思考、大きな喜びや感動、世間の常識、世の中を洞察する力、自分では得られない経験に基づく見識・・・・・」。

 いずれも人生を豊かにしてくれるわけですが、読書のポイントは「濫読」と「精読」であると、著者は述べます。 そして、わたしも拙著『あらゆる本が面白く読める方法』(三五館)で触れたショーペンハウエルの読書論を紹介します。ドイツの哲学者ショーペンハウエルは、読書について次のような二つの有名な言葉を残しました。
 一つは、「娯楽のための読書は雑草を育てているようなものだ」。 もう一つは、「読書とは他人にものを考えてもらうことである」です。

 これらの大哲学者に言葉に対して、著者は次のように堂々と反論します。

 「雑草と考えるからそういう結論になる。しかし娯楽だろうが何だろうが、濫読していく中で、それが太い幹を作るきっかけになったり、その幹を支える根っこになったりする可能性があるんじゃないかと思います。濫読で幅広いジャンルの本を読むと同時に、『これは』と思うものは精読すればいいのです。」

 著者は「人は読書で磨かれる」と思っているそうですが、読書の効用として、まず論理的思考が養われることをあげています。

 「経営とは論理と気合い」と考える著者は、多くの人間を引っ張っていくには「ついてこい」と叫ぶだけではダメで、きちんと論理的に説明して納得させなければ人は動かないといいます。話をすると、相手が本を読んでいる人間かどうか、だいたいわかると著者は述べます。

 言葉の選び方にしろ、話し方にしろ、多少乱暴であっても、自分の思いを的確に表現する言葉を選び、それを順序立てて説明できる能力があれば、言いたいことはしっかり伝わる。そして、ここが重要ですが、これは読書でしか培われません。

 さらに、論理的思考が養われれば、自らの言動も論理的にとらえることができます。

 ここからが本書で一番興味深い部分なのですが、著者によれば、人間には本来「動物の血」が流れている。 人類が誕生して以来、「動物の血」は200万年も脈々と息づいている。
 一方、神々の血、すなわち「理性の血」はたかが4000年から5000年にすぎない。 どりらが勝つかといえば、間違いなく「動物の血」です。

 著者は、読書によって「動物の血」を抑制することができると主張し、こう述べます。

 「最近では、親殺し子殺し、あるいは通り魔的殺傷事件が後を絶ちません。不満や愚痴がたまると、それを抑制できずにすぐキレてしまう。自分で自分の感情をコントロールできなくなっているのです。これは、読書をしていないことも一因ではないかと私は考えています。」

 わたしは、この文章を読んで、非常に感動しました。 著者が名古屋の書店の息子さんとして生を受けられたことは知っていましたが、ここまで本への信頼、本への愛情がある方も珍しいと思います。

 この読書によって「動物の血」を抑制するという考え方は、かの孔子にも通じます。
 わたしは、孔子とドラッカーの二人を尊敬してやまない人間です。著者も、孔子とドラッカーへの関心が高いことは知っていましたが、本書を読んで二人の思想が著者の「こころ」に深く入り込んでいることを再確認しました。

 そして、第3章「己を知り、他人を知り、人間社会を知る~人は人で磨かれる」でも、孔子とドラッカーの思想が生きています。孔子は政治、ドラッカーは経営と、それぞれの関心の対象は違いましたが、ともに社会の中での人間の幸福を追求したことは共通しています。

 そして、単に利益を追求せず、国連WFP協会の活動などを通じて、常に社会への貢献というものを主眼としている著者は、「民主主義」と「資本主義」というえてして矛盾しかねない二つのシステムについて次のように述べます。

 「民主主義社会における資本主義体制においては、次の三つ、すなわち透明性を高め、情報開示を行い、そして説明責任を果たすという原則が必要でしょう。」

 非常にわかりやすいですね。 本書の最後で、著者は「教養」について触れ、「教養というのは相手の立場に立って物事を考える力があること」として、次のように述べます。

 「どうしたら教養を身につけることができるか。もちろん読書も大事です。そしてたくさんの人と接し、人間社会で揉まれることです。自分の思い通りにならないことも多々あるでしょう。そんなとき、なぜなんだろうと立ち止まってみる。自分に非はないかと謙虚に省みる。」

 こうした経験を積んでいくことで、相手の立場に立って物事を考えるということが少しづつわかる、つまり少しづつ「教養」がついてくるわけですね。 人は、仕事で磨かれ、読書で磨かれ、人で磨かれる。 本書は、おそらく新入社員を中心とした若者向けに書かれたのでしょう。

 でも、わたしのような経営道の途上にある者にも学ぶところが大きい名著でした。ぜひ、周囲の多くの人々に本書を薦めたいと思います。

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