No.0048 芸術・芸能・映画 『ぼくの映画をみる尺度』 三島由起夫著(潮出版社)

2010.04.16

『澁澤龍彦 映画論集成』を読んだら、どうしても今度は三島由紀夫の映画論が読みたくなりました。

『ぼくの映画をみる尺度―全映画論』三島由起夫著(潮出版社)です。

「澁澤はこう言った、では三島はどうか」というのが、わたしの思考回路に組み込まれているのかもしれません。本書の「忘我」というエッセイが好きで、もう数えきれないぐらい読みました。

次のような出だしで始まります。

「どうしても心の憂悶の晴れぬときは、むかしから酒にたよらずに映画を見るたちの私は、自分の周囲の現実をしばしが間、完全に除去してくれるという作用を、映画のもっとも大きな作用と考えてきた。大スクリーンで立体音響なら申し分がないがそれは形式上のこと、それで退屈な映画では何にもならぬ。テレビとちがってわれわれを闇の中に置き、一定時間否応なしに第二の現実へ引きずり込む映画であれば、沢山の約束事の黙認の上に成立つ演劇などは、どんな文学的傑作でも、その足許にも寄ることはできぬ。これを一概に『娯楽』という名で呼ぶのは当を得ていない。私の映画に求めているのは『忘我』であって、娯楽という名で括られるのは不本意である。私はただの一度も、映画で『目ざめさせて』もらった経験もなく、また目ざめさせてもらうために、映画館の闇の中へ入ってゆくという、ばからしい欲求を持ったこともないのである。」

三島に限らず、映画について書かれたあらゆる文章の中で一番好きなものです。

そう、映画とは「娯楽」でなくて、「忘我」。

三島と違って、憂悶の晴れぬときはもちろん、別に憂悶に縁のないときでも酒をよく飲むわたしでさえ、映画で周囲の現実を完全に除去される至福を何度も味わってきました。

三島はまた、本書の巻頭にある「ぼくの映画をみる尺度~シネマスコープと演劇」というエッセイで、「私がいい映画だと思うのは、首尾一貫した映画である。当り前のことである。しかしこれがなかなかない。各部分が均質で、主題がよく納得され、均整美をもち、その上、力と風格が加われば申し分がない。それは映画以外の芸術作品に対する要請と同じものである。」

それでは、三島のいう「忘我」を与えてくれる映画とは、そして「首尾一貫した」いい映画とは、どういう映画か。 三島由紀夫は、具体的な映画のタイトルでその問いに答えます。

それは、まず、「裏窓」などの一連のヒッチコックの映画であり、「天上桟敷の人々」や「エデンの東」や「マーティ」などです。

一方、三島が「いい映画」ではない、あるいは「いい映画」になりそこねた作品と見たのは、「足ながおじさん」であり、「青銅の基督」であり、「恐怖の報酬」や「重役室」などでした。本書で三島が取り上げる映画は、基本的に彼が認める「いい映画」です。

たとえば、ヴィヴィアン・リー主演の「シーザーとクレオパトラ」、オリヴィア・デ・ハヴィランド主演の「女相続人」、オードリー・ヘップバーン主演の「麗しのサブリナ」、マリリン・モンロー主演の「紳士は金髪がお好き」、デボラ・カー主演の「情事の終わり」など。

こうやってみると、三島由紀夫は美人女優が好きだったようですね。特に三島が絶賛している映画は、ジャン・コクトーの「双頭の鷲」、ヴィスコンティの「地獄に堕ちた勇者ども」、それにクロード・オータン=ララの「肉体の悪魔」やマルセル・カミュの「黒いオルフェ」などの名前があがっています。これらの作品の内容は、三島文学にも通じるものが大いにあると思います。

わたしは学生時代に本書を読んだのですが、レンタルビデオ・ショップが流行しはじめたこともあり、本書をガイドブックとして、三島おススメの映画をビデオで片っ端から観た思い出があります。

三島おススメの映画はどれも面白く、わたしは敬愛する三島と自分の好みが一致していることを心から喜んだものでした。なお、さらなる三島の映画についての考えを知りたい方には、『三島由紀夫 映画論集成』平岡威一郎&藤井浩明監修、山内由紀人編(ワイズ出版)があります。

こちらは、三島の映画について書いたすべての文章に加えて、インタビューや対談の類まで、映画についての全発言を網羅したものです。全部で696ページもある大冊で、価格も5700円と高めですが、やはり三島ファンには必携の書でしょう。

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