No.0049 ホラー・ファンタジー 『1Q84 BOOK3』 村上春樹著(新潮社)

2010.04.17

 1Q84 BOOK 3』村上春樹著(新潮社)を読みました。

 わたしは、どんな長編小説でも全巻を一気に読むのは平気なのですが、じつは最初に読んでから時間を空けて続編を読むのが苦手です。 頭が悪いせいか前の内容がおぼろげになってしまうことも原因の一つかもしれません。

 でも、それ以上に、集中力が一度途切れたものに対して再度のめり込むことができないのです。特に小説を読むことに関しては。

 そういうわけで、世間が騒ぐほどの関心のないままに本書を読みはじめました。

 本書は、目次や章扉などを除けば11ページ目から第1章の本文がスタートします。

 最初は、なかなか物語の世界に入って行けません。

 「これはエンジンがかかるのは100ページを越えたぐらいからかな」と思いました。ちなみに、本書は602ページもあります。

 ところが、15ページ目で、わたしは一挙に物語の河の中に飛び込んで行けました。

 本文の開始から、わずか5ページ目です。ここに、これまでのストーリーのポイントが明快に書かれているのです。 物語の河にさえ入れれば、あとは流れにそって泳いでゆくだけです。

 わたしは、またしても村上春樹という稀代の作家の筆力に舌を巻きました。 単なる文学的天才というだけでなく、読者をいかに楽しませるか、いかに楽に最後まで読ませるかといったことへの配慮が徹底しています。

 つまり、村上春樹には読者へのホスピタリティがあるのですね。これは別に読者に媚びるというレベルの話ではなく、読者への愛、ひいては物語への愛というものが彼の中に宿っているのでしょう。

 *(ここから先はネタバレにならないように気をつけて書きますが、まだ本書を未読の方は一応ご注意下さい)

 第2章で、主人公の一人である青豆が登場します。BOOK2のラストで、多くの読者から失われたと思われていた青豆。 彼女がなぜ生きているかを説明する筆致には、作家の喜びが溢れています。 まんまと読者を騙せたことへの喜びが。

 これは4月1日のエイプリルフールで他人をうまくひっかけることに成功した快感に似た感覚だと思います。かのエルサレム賞受賞スピーチで、著者は「作家はウソをつくのが仕事です」と述べましたが、彼はまさにプロのウソつきでした。 わたしは大いなる敬意をもって、「村上春樹は大ウソつきだ!」と言いたいです。

 わたしは『1Q84』のBOOK1&2で、この小説は3つの顔を持っていると感じました。

 第1に純愛小説であり、第2に宗教小説であり、第3に月の小説である、と。BOOK3においても、その構造は基本的に変わりません。いや、いっそう純愛小説、宗教小説、月の小説としての色は濃くなったと言えます。

 純愛小説という面では、終盤で20年ぶりに天吾と青豆が再会を果たします。その場面は静かながらも非常に感動的です。本書のラストシーンも、まるで大河恋愛小説の大団円を思わせるほどでした。

 宗教小説という面では、いきなり「処女懐胎」のような大きなテーマが登場し、読者を驚かせます。

 また、信仰や神の問題についても随所に出てきます。

 たとえば、小学生時代の青豆は両親の言いつけによって、給食の前に大きな声で祈りの言葉を捧げなければなりませんでした。そのため、周囲のクラスメートたちから気味悪がられ、完全に無視された存在となる。そんな彼女の小学生時代を女教師が振り返って、「信仰の深さと不寛容さは、常に裏表の関係にあります」と語りますが、これはそのままオウム真理教をはじめとした多くのカルト教団に当てはまることでしょう。

 また、「もし神なんてものがこの世界に存在しなければ、私の人生はもっと明るい光に満ちて、もっと自然で豊かなものであったに違いない」と思いながらも、成長して大人になった青豆はそれでも神を信じている自分に気づきます。でも、それは両親は教団の人々が信仰して神とは違う神です。青豆は、次のように思います。

 「でもそれは彼らの神様ではない。私の神様だ。それは私が自らの人生を犠牲にし、肉を切られ皮膚を剥かれ、血を吸われ爪をはがされ、時間と希望と思い出を簒奪され、その結果身につけたものだ。姿かたちを持った神ではない。白い服も着ていないし、長い髭もはやしていない。その神は教義も持たず、経典も持たず、規範も持たない。報酬もなければ処罰もない。何も与えず何も奪わない。昇るべき天国もなければ、落ちるべき地獄もない。熱いときにも冷たいときにも、神はただそこにいる。」

 これは、『アンダーグラウンド』や『約束された場所で』においてオウム真理教と正面から向き合ってきた著者の宗教観であり、神についての思想であると思います。

 そして、本書はやはり月の小説です。「1Q84」年の世界とは、月が二つ空にある世界のことです。そして、天吾も青豆も脇役である牛河までもが夜の児童公園の滑り台に座って月を見上げる。こんなに登場人物がすべて月を見上げる小説も珍しいでしょう。

 ここでの月は、あまりにも多くのもののシンボルであり、メタファーとなっています。 まったく本書における月について考えだすと興味が尽きません。 いま、「尽き」と言いました。

 そう、月の古語「ツク」からは「尽く」という言葉が派生しています。

 「尽く」とは「果て」「極限に達する」という意味です。そして、「底を尽く」というように、その果てにすべては無になります。尽きに映し出される神秘や謎や不思議とは、私たちの魂の働きを底の底まで尽くした果ての真実に他なりません。

 人間の深層心理において、月はより原初的なものと結びつけられています。詩、夢、魔法、愛、瞑想、狂気、そして誕生と死。そのすべての神秘性を、月は常に映し続けているのです。

 ちなみに本書には、人間の深層心理を追求した果てに「集合的無意識」を発見したカール・ユングの名前も出てきます。

 本書には多くの文学や映画のタイトルも登場します。たとえば、シェイクスピアの『マクベス』やプルーストの『失われた時を求めて』やアイザック・ディネーセンの『アフリカの日々』。あるいはSF映画「渚にて」。

 こういった具体的な作品名をあげて物語の小道具とするのは著者の得意とするところですが、本書においてその最たるものは文学でも映画でもなく音楽です。

 そう、ヤナーチェックの「シンフォニエッタ」ですね。

 BOOK1からずっと、この曲こそは『1Q84』のテーマ曲のごとく、物語の各所に登場してきます。まるで本書から「シンフォニエッタ」のメロディが聴こえてくるかのようです。

 また、本書にはもうひとつ印象に残る曲が登場します。坂本九の「見上げてごらん夜の星を」です。登場人物の一人である牛河は異様な風貌を持つ中年男ですが、本書には彼の深い孤独が痛いほどに描かれています。

 寒々しいアパートの一室で、クラッカーや皮つきのリンゴを齧り、たまに蕎麦屋で食べる天ぷらそばが唯一の温かい食事です。そのうち親子丼と日本酒の熱燗を味わいたいと願っています。彼は、美少女ふかえりに心を奪われます。

 そして、あろうことか彼女と「魂の交流」をしていると思い込むのです。冷たい食事をして、美少女に憧れる孤独な醜い中年男。舌には苔がびっしりと生え、寝袋に入って眠る中年男。その最期もまた孤独。

 かつて、これほどまでに孤独な中年男がいたでしょうか。 家族とも離れ、友人や隣人もおらず、まさに「無縁社会」に生きる者、それが牛河です。

 いつの日か、「中年小説」や「孤独小説」といった視点で文学研究がなされるような場合、この牛河は興味深い対象になるのではないでしょうか。

 そんな牛河が夜の児童公園で空を見上げたとき、この歌が心に浮かんだのです。さて、具体的な作品名ではないですが、本書には具体的な企業名や組織名がいくつか登場します。

 その中でBOOK1以来、わたしが気にしているのはホテル・オークラとNHKです。ホテル・オークラは、教団教祖の殺人の舞台となりました。

 具体的な名前を出されて、さぞホテル・オークラとしても困惑したのではないでしょうか。 ふつうは架空のホテルの名前を使うと思うのですが、著者は何かオークラに恨みでもあったのでしょうかね? それ以上に、イメージダウンを免れないのはNHKですね。

 NHKの集金人の描写は、実際にこの仕事に携わっている方々への偏見が生じるのではないかと心配になるぐらいです。 宗教団体の勧誘もそうですが、NHKの集金業務という仕事には根本的に非人間的な要素があると、著者は批判しているのでしょうか。

 経営者の端くれとしては、大ベストセラー『1Q84』における企業名の扱い、そして職業描写について大きな関心を持たずにはいらいられません もし『1Q84』で著者がノーベル文学賞を受賞し、この作品が各国で翻訳出版されたら、オークラもNHKも世界的に有名になるでしょうね。

 そして、わたしがBOOK3で一番関心を持ったのは、葬儀の場面です。亡くなった天吾の父親は、生前NHKの集金人をしていました。

 そして、棺に入るときにはその制服を着せてほしいと遺言します。天吾は、とまどいながらも、父の希望をかなえてあげます。父親の葬儀は通夜も告別式もない、そのまま火葬場へ直行する「直葬」です。 火葬に立ち会う人間も、息子である彼一人だけ。そこへ、病床の父を介護した若い看護婦である安達クミが付き添ってくれます。

 これで父を送る「おくりびと」は二人になりました。

 「一緒に来てくれてありがとう」と礼を述べる天吾に対して、安達クミは、「一人だとやっぱりきついからね。誰かがそばにいた方がいい。そういうものだよ」と答える。

 「そういうものかもしれないな」と認めた天吾に、安達クミは次のように言うのです。

 「人が一人死ぬというのは、どんな事情があるにせよ大変なことなんだよ。この世界に穴がひとつぽっかり開いてしまうわけだから。それに対して私たちは正しく敬意を払わなくちゃならない。そうしないと穴はうまく塞がらなくなってしまう」

 この言葉は、わたしがつねづね言っていることだったので、本当にびっくりしました。

 それどころか、この『1Q84』BOOK3が発売された同日、わたしの新刊『葬式は必要!』(双葉新書)の見本を手にしたのですが、その内容はまさに安達クミの言葉そのものだったのです!

 世界にぽっかりと開いた穴に落ちないための方法、それこそが「葬式」と呼ばれるものなのです。人類は、気の遠くなるほど長い時間をかけて、この「葬式」という穴に落ちないための方法を守ってきました。

 また『葬式は必要!』では、『1Q84』BOOK3と同様に月が重要な役割を果たします。 発売は22日ですが、『1Q84』BOOK3と同時期に全国の書店に並ぶことになります。

 わたしは、とてもラッキーだと思っています。なぜなら、今年最大の話題の書を求めて、多くの人が書店を訪れるであろうからです。 当然ながら、そこで『葬式は必要!』に目をとめる人もいるかもしれません。

 『1Q84』BOOK3の発売日に同書の見本が出たのは、まったくの偶然です。

 でも、いつも「純愛」と「宗教」と「月」のことを考え続けているわたしの魂が『1Q84』の世界とシンクロすることは大いにありえると思います。

 本書にも登場するカール・ユング的には大いに意味があるのでしょう。おそらく。

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