No.0035 コミュニケーション 『生きるって人とつながることだ!』 福島智著(素朴社)

2010.03.29

 『生きるって人とつながることだ!』福島智著(素朴社)を読みました。
 盲ろうの東大教授からの現代人へのメッセージです。

 『さとしわかるか』はお母さんの書いた本ですが、本書は本人の著者です。

 1994年に「徹子の部屋」に出演したとき、著者は黒柳徹子さんの「あなたのような盲ろうの方は、日本にどのくらいいらっしゃいますか?」という質問に次のように答えます。

 「推計2万人。でも、そのほとんどがひっそりと家に閉じこもっておられると思います。ヘレン・ケラーは有名ですが、みなさんの身近にも盲ろう者がいることを、ぜひ知っていただきたいですね」

 なんと、日本に2万人もの目も耳も不自由な方々がいたとは! わたしは、まったく知りませんでした。

 そんな光も音も存在しない世界をどう生きるのか。

 著者は、なんと自分はSFの世界を生きているといいます。そして、ある研究会で次のように語るのです。

 「私はSFが大好きなんですよ。盲ろうというのは、いわば、SF的状態なんですね。光も音もないという世界に、どうやって対処していくか。これは、非日常的な状況の中で、あらゆる可能性を追求し、想像力をぎりぎりまで働かせていくというSF的発想が役立つんです。盲ろうになった私が生きていくうえで、SFはすごく役に立ちましたね。一番好きな作家は、小松左京です」

 著者は大の本好きで、いろんな本を点字で読みます。かつて盲ろうとなって落ち込んでいた彼に、いろいろな人が元気づけようと障害者関係の本を紹介してくれたりしたそうです。そうした本の多くは、「見えなくなったけど、僕はがんばったのだ!」とか「重い障害を克服して、私は人生を切り開いたのよ!」といった内容のものでした。

 それらの本には実体験の重みがあり、感動的でもあるのですが、落ち込んでいる著者にしてみれば、こうした本を読んでも少しも元気が出なかったそうです。 一方、小松左京の『日本沈没』などのパニックSFに見られる、極限状況における人間の生きざまが、”盲ろう”という一種の極限状況のもとで生きる著者にとって、不思議なエネルギーを与えてくれたのでした。

 『日本沈没』『復活の日』『さよならジュピター』『首都消失』・・・小松左京は、これでもかこれでもかというくらい、極限状況下の人間を描きました。それらは、すべて著者の「こころ」のエネルギーになっていったのです。 でも、著者が一番好きな小松作品は、『果てしなき流れの果てに』だそうです。

 本当に、人間の幸福とか文明について考えさせてくれるからというのです。

 著者が小松左京の大ファンだと知って、ある小松左京の知人が著者を本人に会わせてくれます。憧れの作家に会った著者は緊張しながらも、自分がいかに小松作品によって救われてきたかを伝えたそうです。二人は大いに意気投合しました。その後、しばらくして二人は再会します。酔っぱらった小松左京は、次のように言い出します。

 「僕はこれまでいろいろ書いてきたけど、福島くんのような人が点字で僕の作品を読んでくれているとは思わなかったなあ。前に会ったとき、僕の作品が『生きる上での力になった』って言ってくれたよね。僕はあのあと一人になってから、涙が出てきて仕方がなかった・・・・・」

 それに対して、著者は答えます。

 「ええ、目が見えず、耳が聞こえないっていう盲ろうの状態自体が、言わば、”SF的世界”ですからね。でも、いったんそう考えてしまうと、何だか楽しくて、明るい気分になってきますし、不思議に生きる勇気や力がわいてくるんです。どんな状況におかれても、SFのように、きっと何か新しい可能性が見つかるはずだっていうふうに・・・・・。小松先生の作品には、人類の文明や社会のあり方を問い直すというテーマと同時に、圧倒的な逆境に立ち向かう人間の姿の素晴らしさ、そして、人の人生や幸福というものの意味を考えさせられるモチーフが裏にあると感じました。『復活の日』、『地には平和を』、『こちらニッポン・・・』、『継ぐのは誰か?』、そして『果てしなき流れの果てに』。みんな、そうですね」

 そのとき、小松左京は絶句して、全盲の通訳者によれば、やっと次の言葉を絞り出したといいます。

 「僕は・・・・・、こういうふうに僕の作品を読んでくれている人が、たった一人でもいた、とわかっただけで、これまでSFを書いてきた甲斐があったよ・・・・・、僕は・・・・・」

 そこで声は途切れました。小松左京は泣いていたのです。

 こんなに著者として嬉しいことはなかったと思います。わたしも、時々、「一条さんの本で救われました」と読者の方に言われることがありますが、このときの小松左京氏の胸の内を想像すると、こちらの胸まで熱くなってきます。

 この会話は、史上もっとも感動的な著者と読者との「こころ」の交流ではないでしょうか。

 小松左京氏の他にも、著者は多くの人々と知り合い、縁を深めていきます。

 本当に著者ほど人間関係が豊かな人はいないのではないかと思うほど、たくさんの人が著者の周りに集まってきます。

 フランスの作家サン=テグジュぺリは、「真の贅沢とは人間関係の贅沢である」という言葉を残していますが、まさに著者は「人間関係の贅沢」を満喫している人です。

 もちろん、盲ろう者であるとか東大教授であることが影響しているでしょうが、それよりも、わたしは著者がユーモアに富んだ人であることが最大の原因だと思います。

 本書の至るところにも、ダジャレを含めて著者のユーモアが満ち溢れています。そして、究極の人間関係が夫婦であるとするなら、著者は良き伴侶を得ました。

 奥さんは、もともとボランティア関係の仕事をしていましたが、盲ろう者である著者と結婚するにあたり、心配する両親や親族を根気強く説得して、見事に愛を実らせました。

 人生の前半を母親に支えられ、現在は妻に支えられている著者は、こう述べます。

 「私が住むこのコンディションの悪い『ホームグラウンド』での一緒のプレー(人生)を、あなたがエンジョイしてくれていることは、いつもさりげなく伝わってきます。少なくとも私にとっては、それがどれほど嬉しいことかわかりません。」

 「人生の幸福や夫婦の豊かな時間の共有にとって、障害の種類や程度、そして有無が、何ら本質的なものではないことをあなたの存在をとおして、より確かに、より深く確信することができました。」

 いま、お互いに対する思いやりを忘れている、すべての夫婦に読んでほしい文章です。

 最後に、著者は「学術博士」の学位を授与された自身の論文について触れています。論文名は、「福島智における視覚・聴覚の喪失と『指点字』を用いたコミュニケーション再構築の過程に関する研究」です。

 A4判で462ページにもなるというこの論文を書くことによって、著者は二つのことがわかったと述べます。

 一つは、視覚・聴覚などから得られる感覚的情報は、ただばらばらに与えられ認識されるものではなく、感覚的情報にも一定の「文脈」があるのではないかということ。

 もう一つは、盲ろう者になった前後の著者の内面をつきつめることで、人の存在が深い孤独に根ざしながらも、同時に他者により支えられているという認識にったどりついたことです。著者は次のように述べます。

 「つまり、一方で生存に伴う根元的な孤独の深さがあり、他方でそれと同じくらい強く他者の存在を『憧れる』というダイナミックな関係性がそこにはある。そして、孤独の生を生き抜くためには、他者の存在とそれを確信するためのコミュニケーションが不可欠と結論づけた。」

 わたしは、いま、隣人についての本を書く準備を進めているのですが、本書から非常に多くのヒントを与えられました。

 そう、生きるって人とつながることなんですね! 著者は、”盲ろう”という世界の様子をわたしたちにリアル・レポートするとともに、人間にとって他者の存在が不可欠であるという真理を教えてくれます。

 福島智という人は、間違いなく人類社会における重大なミッションを担っています。

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