No.0034 評伝・自伝 『さとしわかるか』 福島令子著(朝日新聞出版)

2010.03.29

 素晴らしい本を読みました。 言葉では言い表せないほど感動しました。

 『さとしわかるか』福島令子著(朝日新聞出版)です。

 著者は、東京大学教授の福島智氏の母親です。

 福島智教授は9歳で失明し、18歳で失聴した方です。 いわゆる「盲ろう者」と呼ばれる障害者です。

 あのヘレン・ケラーと同じです。

 ふつう、「盲ろう者」になったら絶望するのではないかと思いますが、福島教授はそうではありませんでした。点字でたくさんの本を読み、勉強し、ついには東大教授になりました。そして、その傍らには、いつも母がいました。

 本書の冒頭に、2007年4月の東大の入学式で福島教授が祝辞を述べたエピソードが出てきます。福島教授は、9歳のときに天体望遠鏡を両親から買ってもらう約束だったのに失明したので星を見ることがかなわなくなったという話をしたのです。

 それを壇上で聞いていた東大の岡村定矩副学長は、後に著者にこう語ったそうです。

 「祝辞の内容から、天体がお好きで宇宙に関する御造詣も深い方なのだと分かりました。同じ壇上に上がっていた私は感激で泣けて困りました。実は私も天体の研究者なのです。」

 この言葉には著者も胸を打たれたそうですが、福島教授は今でも宇宙に関心を持っており、祝辞の最後のほうでは次のように述べています。

 「私は先ほど、『宇宙人に会うのが夢だ』と申し上げました。その夢は今も変わりませんが、実は既にその夢の一部は実現しています。なぜなら私たち全員は地球上にあって、太陽の周りを回りながら、そして天の川銀河の回転の乗りながら、大宇宙を共に旅する存在であり、まさに宇宙を共に生きている『宇宙人』同士だからです。」

 本書を読むと、まず医療の問題について考えさせられます。

 福島教授は、おそらくは数々の誤診、あるいは医師同士の人間関係による遠慮や縄張り争いから、適切な手術や治療が受けられなかった可能性が高いからです。

 約40年前の日本には、現在のようなインフォームド・コンセントなどありえませんでしたし、大学病院の偉い先生の診断には、誰も異論をはさむことができませんでした。

 いま、患者を中傷するような非常識な医師のブログが問題になっていますね。智少年は、非常識な医師たちの下らない人間関係の犠牲となって、視覚や聴覚を失ったかもしれないのです。

 本書を読んで、わたしはセカンド・オピニオンの重要性を痛感しました。

 「正しい治療を受けていたら智の目も耳も大丈夫だったかもしれない」と考える母親の苦しみは想像を絶します。

 しかし、著者は強い母親でした。もっとも苦境にあったときに知人に充てた手紙に次のような覚悟を書いています。

「行くところまで行ったらどうにかなるだろうと、それこそ運を天に任して腹を括らねばと我が身に言い聞かせる毎日です。」

 「命に関わる病で苦しむ人の多い中で、智は、幸せなぶるいなのかもしれないと思えるようになりました。」

 「強いこころの母でなくてはなりません。頼りない母ですが、この点だけは、負けてはいけないのです。これからの私の生涯は智と共にあると思います。」

 「この子の幸せだけを願う母となりましょう。それには私自身が、精神的に豊かな人間にならなければ、この子への影響が大きいと思います。なかなか厳しい前途が、私たち親子の前に立ちふさがっているように思えます。心を静かに持たねばと自分自身に言い聞かせているこのごろです。」

 そんな母子に一筋の希望を与えてくれたものは点字でした。盲学校の入学式で歌った校歌には次のような歌詞が出てきます。

 「月さえ 日さえ照らさぬも さやかに照らす 六つの星」 著者は、「六つの星」とは六つの点の点字のことだなあと気がついて、ぐっと胸に迫るものがあったそうです。

 点字は、たった6つの点の組み合わせでできているのです。

 現在世界中で主に使われている6点の点字は、フランスの盲人ルイ・ブライユの考案です。それまでの盲人は、文字を表すことに苦労をしていましたが、今や世界中に点字が広まりました。

 ブライユは盲人たちにコミュニケーションの手段を与えたわけですが、智少年の場合は点字だけでは足りませんでした。なぜなら、彼は視覚だけでなく、聴覚をも失ってしまったからです。

 著者は、盲ろう者である息子のために、ある日、途方もない方法を考えつきました。まず、6つの点に対応させて、智少年の指をポンポンと叩きます。智少年の左手の人差し指、中指、薬指、右手の人差し指、中指、薬指。それを点字の1の点から6の点に見立てたのです。

 その後、著者はゆっくり、はっきりと智少年の指に点字の組み合わせでタッチしました。

 「さ と し わ か る か」 智少年は、「ああ分かるで」と答えました。

 著者は、「通じた!声を使わなくても言葉が智に通じた!私は有頂天になった」と書いています。

 かのヘレン・ケラーがサリヴァン先生との出会いによって「ウォーター」という言葉を手の平で学ぶ感動的な場面はよく知られています。著者と智少年が指で会話した瞬間は、ヘレン・ケラーの「ウォーター」に匹敵する重要な瞬間でした。まさに、「世界初」の指点字が交わされた瞬間だからです! こんな物凄い発明までも可能にしてしまう母の愛! ヒトの赤ちゃんというのは自然界で最も弱い存在です。すべてを母親がケアしてあげなければ死んでしまう。2年間もの世話を必要とするほどの生命力の弱い生き物は他に見当たりません。

 わたしは、ずっと不思議に思っていました。

 「なぜ、こんな弱い生命種が滅亡せずに、残ってきたのだろうか?」と。あるとき、その謎が解明しました。それは、ヒトの母親が子どもを死なせないように必死になって育ててきたからです。

 自然界において、ヒトの赤ちゃんが「最弱」なら、ヒトの母親は「最強」なのではないでしょうか。そのことを、わたしは本書で再確認しました。

 盲ろう者である福島智は、大いなる母の愛によって、東大教授にまで上りつめ、多くの人々に勇気を与えたのです。

 偉大なり、福島令子! 本書の「あとがき」で、著者は次のように書いています。

 「人生にはときに思いもかけないことが起きることがあります。でも、どんなときも明るい発想ができたらいい。そのほうがまわりも元気になり、希望が持てます。幸いなことに、智は、すべての事柄を肯定的にとらえ、善意に解釈できる人間に育ってくれました。それが母としてももっともうれしいことです。」

 わたしは、この文章を読んだとき、涙が出て仕方がありませんでした。世の中には、本当に素晴らしい方がいるものです。

 わが社では、「何事も陽にとらえる」を今年のテーマにしています。「何事も陽にとらえる」すなわち「すべての事柄を肯定的にとらえる」とは、生きるうえでの最高の技術であり知恵なのかもしれません。

 わたしは、本書をすべての母親、すべての子どもに読んでほしいと心から思います。

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