No.2244 宗教・精神世界 | 心霊・スピリチュアル 『神智学とアジア』 吉永進一/岡本佳子/莊千慧編著(青弓社)

2023.06.02

『神智学とアジア』吉永進一/岡本佳子/莊千慧編著(青弓社)を読みました。「西からきた〈東洋〉」というサブタイトルがついています。カバー表紙には、「オカルティズムからニューエイジ、現代のスピリチュアリティへと続く霊的な思想の要所にあり、アジアの宗教にも影響を与え、東西にまたがる活動をおこなった神智学運動。その越境性と分野横断的な営為、人的な交流を、近代の帝国主義やメディアの発達なども踏まえて多角的に検証する」と書かれています。

 神智学は、宗教だけでなく、19世紀末から20世紀の政治や社会などにさまざまな影響を及ぼしました。欧米で誕生した神智学は、どのようにアジアに広まり、受容され、それぞれの社会にインパクトを与えたのか。本書では、創立者であるヘレナ・P・ブラヴァツキーの思想や活動を押さえながら、神智学協会の性格やその変容、ヨーロッパでの展開、植民地との関係を明らかにします。そして、南アジアのナショナリズムとの結節、近代中国での展開、日本仏教との関わりなど、アジアでの受容の実態を掘り起こします。神智学運動をテーマにした日本初の論集です。

 本書の「目次」は、以下の通りです。
「まえがき」(吉永進一)
第1部 勃興
第1章 神智学略史
――人と思想と組織(吉永進一)
1 H・P・ブラヴァツキーの生涯
2 ブラヴァツキーの思想と新しい秘教思想
第2章 二つの神智学協会
――寿命を延ばすこと、条件つきの不死、個体化された不死のモナド
(ジョン・パトリック・デヴニー[田中地恵子訳])
第3章 弟子の肉体
――十九世紀末アイルランドの神智学運動をめぐって(赤井敏夫)
1 ダブリン・ロッジの成立と  

 チャールズ・ジョンストンの軌跡

2 D・N・ダンロップと二人の導師

3 弟子の条件

4 帝国突端のハブとしてのダブリン、

 そしてささやかな挿話

コラム「バルト海からの仏教徒――カール・トゥニッソンと

    神智学(1911―16年)(井上岳彦)
第2部 接触
第4章 南アジアのスピリチュアルな
    ナショナリズム(杉本良男)
1 発見された神秘思想

2 国民会議派

3 タミル・ナショナリズム

4 スリランカ仏教と神智学協会

5 アナガーリカ・ダルマパーラの仏教ナショナリズム
第5章 近代中国の神智学運動
    (莊千慧)
1 神智学と近代中国の仏教復興運動との関わり

2 中国の神智学支部と伍廷芳

3 神智学協会の中国での活動
第6章 ウィリアム・スタージス・ビゲロウと神智学――近代オカルティズムが生んだアメリカ人仏教徒
(岡本佳子)
1 神智学と明治日本の欧米人仏教徒

  あるいは仏教の共鳴者たち

2 ビゲロウに見るオカルティズムと仏教

3 宗教経験の希求――

  日米間を往復するアメリカ人仏教徒として

4 万教帰一的宗教観への疑問
第7章 アメリカで秘教思想に出会った日本人たち(堀 まどか)
1 カリフォルニアの初期の神秘主義者たち

2 アメリカにおけるヨーガ

3 ミラーと野口米次郎の協同生活

4 ハリス教団の新井奥邃と長澤鼎

5 木村秀雄の霊的活動とアメリカ

コラム「宗教会議の時代」(岡本佳子)
第3部 波及
第8章 田岡嶺雲と神秘思想
    (穂波慶一)
1 明治中期の社会的状況

2 田岡嶺雲の「神秘哲学」

 ――1890年代を中心に

3 「学知」から「霊知」へ

 ――インド哲学研究のゆくえ
第9章 九鬼周造と輪廻転生

    ――両大戦間の知的環境に

      おける「時間論」の位置

      (稲賀繁美)
1 岡倉覚三から九鬼周造へ

2”Unité extatique”

3 業(カルマ)と涅槃(ニルヴァーナ)

4 シジフォスの神話の再解釈

5 岡倉覚三の道教再解釈

6 九鬼周造を囲繞するインドラ網

7 三島由紀夫あるいは「先回りした剽窃」

8 伊勢神宮の押韻――おわりに

年表「近代神智学運動とその時代(1875―1945年)」(莊千慧)

「あとがき」(岡本佳子)

「まえがき」で、龍谷大学世界仏教文化研究センター客員研究員(近代宗教史、秘教思想史)の吉永進一氏は、本書のような神智学の研究書がこれまで出なかった理由について、「戦前の日本では、神智学運動はオルコットの第1回来日(1889年)以降、浮かび上がっては沈んでいき、わずかな日本人と在日外国人だけのごく小規模の運動になっていった。人数で計るかぎり失敗した運動だからである。しかし、それだけで神智学の研究を放置する理由にはならない。第一に、秘教思想史という最近成立した学問領域では神智学は重要なテーマであり、西洋の伝統的秘教を前提として成立した近代オカルティズムが、そのような文化背景がない地域(日本を含むアジア地域)でどう展開したかという点はオカルティズムのグローバルな展開を考えるうえで興味深い事例になっている」と述べています。

 第二に、近代の芸術、教育、政治、宗教などへの神智学の広範囲の影響があるとして、吉永氏は「例えば、抽象絵画のワシリー・カンディンスキー、モンテッソーリ教育やシュタイナー教育、インドの独立運動、そしてニューエイジ以降の代替的な宗教への影響など、神智学の存在は無視できない。それは間接的には日本近代全般に関わる」と述べます。第三には、欧米におけるアジアの宗教や文化の理解者には、神智学もしくは近代オカルティズムの信奉者が多いということであるとして、「そしてこれは同時に、アジア側から自らを戦略的に表象する回路にもなった。単なる一方的な回路ではなく、相互の戦略が渦巻く場がアジアと西洋の間に誕生したのは、神智学などの近代オカルティズムの功績だろう」と述べます。そして第四には、神智学協会員の外に神智学(あるいは神智学につながる近代オカルティズム)への共感者やそれらに霊感を得た層があるからだといいます。

 第1部「勃興」の第1章「神智学略史――人と思想と組織」の「はじめに」では、吉永氏は「神智学は20世紀の政治、宗教、社会などに様々な影響を残している。列挙してみると、インドでは国民会議派の結成に貢献し、スリランカ、ビルマ(現・ミャンマー)、日本では仏教の復興と近代化を刺激している。モンテッソーリ教育や神智学から分派したルドルフ・シュタイナーの教育などの新教育普及の原動力になり、ワシリー・カンディンスキーの抽象画などへ影響を及ぼしている。もちろん、オカルティズムからニューエイジ、スピリチュアリティと続く、宗教ではないが霊的な思想の流れが誕生したのは神智学の功績である」と説明しています。

 2「ブラヴァツキーの思想と新しい秘教思想」の「スウェーデンボルグ主義とメスメリズム」では、18世紀ヨーロッパでは大陸を中心として啓蒙主義と並行して、様々な霊的思想、神秘主義、オカルト結社が流行していたことが紹介。その中でも19世紀以降も重要な影響を与えたものは、スウェーデンボルグ主義とメスメリズムです。前者はスウェーデンの科学者だったスウェーデンボルグの神秘経験をもとにした神学・哲学で、天界や霊界の様子を具体的に伝えただけでなく、神と人間の照応関係を強調して人間の内的神性を唱えました。後者は元来、シュヴァーベン(現・ドイツ)生まれの医師フランツ・アントン・メスマーが「発見」し、フランスを中心に広まった治療法です。

 メスメリズムは、最初は手かざしによって動物磁気という不可視の流体を患者に伝えて、磁気の調和(健康)を回復するという、物理的な理論に基づく療法でした。この時点では、磁気治療に伴う催眠現象は無視されていました。両者は有神論と無神論という違いはあるものの、いずれも生気論の側面を有し、スウェーデンボルグ主義では現実界は超越界と照応し、神からの不断の流入(influx)が働くとされ、メスメリズムでは生物、無生物を問わず万物に動物磁気が作用しています。つまり、「両者とも、宇宙の不可視の次元の存在や、生物、無生物のなか、あるいはそれらの間を動くある種の精妙なエネルギーの存在を肯定していた」という共通点がありました。

「近代オカルティズムの展開」では、19世紀に入ると、広い意味での近代オカルティズムの歴史は、ヨーロッパ(特にフランスとイギリス)とアメリカの間のキャッチボールのように動いていったことが紹介されます。ドイツ・ロマン派はイギリスを経由して超絶主義に影響を及ぼし、スウェーデンボルグ主義の伝道組織は18世紀末にイギリスで結成され、19世紀にはアメリカにも教会が誕生しただけでなく、ラルフ・ウォルドー・エマソンをはじめ、スウェーデンボルグの影響は大きいと言えます。1834年にはフランス人メスメリスト、シャルル・ボワイヤンがアメリカを訪れ、ニューソートの祖とされるP・P・クインビーにメスメリズムを伝授し、多くの催眠術師を養成。

 クインビーが多くの催眠術師を養成したことは、同時に透視能力者の出現も促した。その1人がアンドリュー・ジャクソン・デイヴィスです。彼は1843年に催眠術の被験者になり、以降、透視能力を発揮して治療家になり、さらにトランス状態で講演を行いました。スウェーデンボルグとガレノスの霊に出会ってから、哲学的な啓示を受け取るようになります。その口述をまとめたものが47年に発表された『自然の諸原理、その神聖な啓示、人類への声』です。その後、彼は多数の著作を出版していますが、スウェーデンボルグと同様の霊界実見記だけでなく、フーリエに影響され、宗教、政治、経済など、様々な改革案を含んでいて、その思想を「調和主義」(harmonialism)と呼んでいます。

 オカルティズムの特徴をまとめると、世界は1つの全体をなし(有機体や霊魂)、そのなかの諸物は見えない次元で連続しているとされるとして、吉永氏は「この点ではスピリチュアリズムやメスメリズムとも共通するが、その知識の典拠をカバラ、占星術、ヘルメス主義、新プラトン主義、自然魔術などのテキストに求める点は異なる。そして、それらの淵源はルネサンス期に『古代神学』と呼ばれた賢者の系譜、つまりヘルメス・トリスメギストゥス、ゾロアスター、モーゼ、ピタゴラス、オルフェウスなどで、19世紀のオカルティズムでは、さらにブッダなどが加わり、それらの共通性が強調される。実践面では、フランスの魔術的メスメリズムの影響が強く、単なる護符や呪文の操作だけでなく、術者本人の訓練と意志力が重視され、ときには薬物の利用もある」と述べています。

 1878年5月、神智学の創始者であるヘレナ・P・ブラヴァツキーは盟友のヘンリー・S・オルコットの手を借りて、神智学協会の目的をまとめた文書を作成しています。そこには、「人間は、それゆえ、潜在力を涵養する方法を学び、可視だろうと不可視だろうと、磁気、電気、そしてそのほかすべての宇宙の諸力について、自らを啓発すべきである。本協会は、その会員に以下のように教え期待する。最も高い道徳と宗教的向上心の見本になること。科学の物質主義と、教条主義的神学、とりわけ本協会の指導者たちが有害と考えるキリスト教のそれに対して反対すること」と書かれています。

 また、神智学協会の目的には「東洋宗教の哲学、倫理、歴史、秘教、シンボリズムについての長らく抑圧されてきた知識を西洋国家に知らしめること……ヴェーダ、ゴータマ・ブッダ、ゾロアスター、孔子などの哲学に映し出された古代の純粋な秘教的思想体系の至高の教理に関する知識を広めること……そして最後に最も重要なことは、あらゆる人種のすべての善良で純粋な人間が、1つの創造されざる、宇宙的で無限で永遠の原因から(この惑星に対して)もたらされた等しい結果であるとしてお互いを認め合うような、人類愛が創立されることを援助すること」とも書かれています。

 第2章「二つの神智学協会――寿命を延ばすこと、条件つきの不死、個体化された不死のモナド」では、シカゴ大学宗教学科でミルチャ・エリアーデのもとで修士号を取得した弁護士のジョン・パトリック・デヴニーが「驚くべきことに、初期神智学協会の実践的で隠秘学的な側面を事実上、継承したのは、神智学協会そのものではなく、アメリカの〈ニューソート運動〉、というよりはむしろ、1890年代から欧米のオカルティズム世界(特にアメリカにおいて)を支配し始めた『魔術的で隠秘学的な神智学やスピリチュアリズムの混じり合った〈ニューソート〉混合体』であると考えられる(田中地恵子訳)」「実践的な初期神智学協会の祖先を求めて過去にさかのぼるなら、われわれはいや応なく、インドではなく、〈薔薇十字主義者〉に、特に18世紀イタリアのカリオストロにたどり着くだろう。カリオストロは、条件つき不死を克服するために系統立てた実践体系をヨーロッパ中に広めたのである(同訳)」と述べています。

 第2部「接触」の第4章「南アジアのスピリチュアルなナショナリズム」の「はじめに」では、国立民族学博物館名誉教授の杉本良男氏が、「南アジアは、西欧的な意味での神秘(秘教)思想そのものが直接花開いた地域ではない。逆に、この地域のヒンドゥー思想と仏教思想は、神秘思想の重要な源泉であった」と述べています。その意味で、西欧世界で再発見、再評価されたオリエンタリズムの産物としての〈東洋思想〉の花園なのですが、それが再び南アジアに戻り、そこである種の正統化を経て正統東洋思想としてさらに西欧世界を巡るという往還を繰り返しました。例えば、有名な聖者であるサイババやオショーなどは、そのような往還の結果、広く世界的に知られる存在になった。こうした現象を「環流」と呼びますが、南アジアではそれがナショナリズムと深く結び付いていました。杉本氏は、「植民地化された南アジア世界には、近代の物質文明では敗北したが、古代の叡智による精神文明では勝利していた、という抜きがたい過去へのプライドがある。そこで、この地域のナショナリズムは、過去の栄光を取り戻すために、宗教ナショナリズムの形態をとった。それも、分断された社会を統合するための普遍宗教への志向が強く見られた。この古代の叡智、普遍宗教というイデオロギーに秘教思想が非常にうまく適合したのである」と述べます。

 1「発見された神秘思想」では、インドの神秘思想は、神との合一によって解脱の境地に達することを意味していて、その解脱を得るために、古典時代から様々な方法が提示されてきたことが紹介されます。最も古い聖典として『ヴェーダ』があり、さらにその註釈、奥義としてのヴェーダーンタ、ウパニシャッドが伝えられてきました。そうした知識はブラーマン(婆羅門)・カーストの間に口承で維持されてきましたが、19世紀初頭以後、西欧世界に翻訳を通じて紹介されるようになりました。さらに、ドイツ観念論哲学者、特にショーペンハウエルなどによって西欧キリスト教哲学のアナロジーとしてインド哲学というジャンルが設定され、ヴェーダーンタ、ウパニシャッドがその精髄として高い評価を受けるようになったのです。

 インドの神秘思想は19世紀以降に西欧世界で再発見され、西欧経由でそれを自らのものにしたエリート的宗教者によって、インドの伝統として再定義されました。インドのナショナリズムはこのように再発見された伝統を基軸として自らのプライドを取り戻そうとしたと指摘し、杉本氏は「それは古代の精神文化では優位にありながら、当時の物質文化では西欧世界に劣っている状況をくつがえし、さらには統合原理としての宗教の威力を発動させようとするものだった。こうしたインド哲学の伝統の再発見に、神智学運動が果たした役割は決定的なものがあった。毀誉褒貶はあるものの、ナショナリズムと結び付いたスピリチュアリズム、オカルティズムが最も効果を上げた例だといえるだろう。1960年代からの欧米を席巻したカウンター・カルチュアのなかで、近代合理主義への批判として、東洋的精神への関心が高まったが、その源泉をたどれば神智学協会のマダム・ブラヴァツキーに行き着く。マダムはいわゆるニューエイジ運動の遠祖として、ニューエイジの母あるいはゴッドマザーなどと称されている」と述べます。

 かのビートルズが、その流れをくむマハリシ・マヘーシュ・ヨーギに傾倒していたことは有名です。マヘーシュは50年代からアメリカに道場を開いて成功し、ジッドゥ・クリシュナムルティ、ゲオルギイ・グルジェフとともに世界三大グルの一人に数えられました。その流れのなかで、プッタパルティのサティヤ・サイババやラジニーシ(オショー)などが世界的な注目を集め、それがめぐりめぐってインドでの関心にもつながっていきました。そこでの関心は主に「瞑想」を通じた神との合一です。これはキリスト教神秘主義との親和性が高く、いわば東西融合した神秘思想の典型であると指摘し、杉本氏は「このように、インドの神秘思想、秘教思想は、いずれもなんらかのかたちで西欧世界を経由したうえで再評価された結果である。もともとインドにあった神秘主義、秘教主義は、西欧経由の再評価と、インドのエリート・ナショナリストによる再定義によって、国内外で大きな影響力をもつようになった。その際に、神智学協会が果たした役割は、きわめて大きなものがある」と述べています。

 2「国民会議派」では、ブラヴァツキーの後継者ともいうべき神智学者アニー・ベサントの後を襲ったのがマハートマ・ガンディーであったことが紹介されます。このガンディーも強く神智学協会の影響を受けているとして、杉本氏は「18歳でイギリス留学を果たしたガンディーは、菜食主義者の母親との約束で肉食を断っていた。ロンドンで菜食レストランを探し回ったすえに、菜食主義の協会員あるいは改革主義者と交流をもつようになった。最初に協会員のバートラムとアーチボルドのキートリー叔父・甥の二人に勧められて、インドの古典『バガヴァッド・ギーター』のエドウィン・アーノルドによる英訳に目覚め、『聖書』の「山上の垂訓」とともにその思想の根幹をかたちづくるようになる。また、南アフリカでは数人のユダヤ人の神智学徒がガンディーの活動を物心両面から支えた」と述べるのでした。

 第5章「近代中国の神智学運動」の「はじめに」の冒頭を、神戸女子大学文学部准教授(近代日中比較文化)の莊千慧氏は「インド・スリランカ・日本では、神智学に関心をもっていた人々の交流によって、自国の伝統文化や思想体系の再編成や再評価がおこなわれた。一方、日本の隣国である中国での神智学協会の受容についてはいまだに不明な点が多い。比較的知られているのは、民国期の中国仏教復興団体のリーダー的存在である太虚大師が、海外宣教のときによく訪問地の神智学支部を訪れたことだろう。近代中国の仏教の海外布教で、神智学協会は実は重要な仲介役を果たし、中国仏教を海外へ発信することに一役買った」と書きだしています。

 同じく仏教界との関わりから見ると、例えば楊文会という、近代中国の仏教復興運動の嚆矢とされる金陵刻経処を設立した人物は、神智学協会の創立者の一人であるヘンリー・オルコットの活躍を評価したといいます。清末の革命家・譚嗣同の著書『仁学』にも、「美士阿爾格特は嘗て同志を集めて仏学会をインドに創立した。数年たたないうちに、欧米各国に支部が成立され、凡そ四十余ヶ所あり、特にフランスでの信者が最も多い」という一文があるといいます。莊氏は、「当時の清末民初の中国仏教改革団体や仏教に関心をもった知識人が神智学協会を欧米の仏教団体として認識し、その流行を把握していたことがうかがえるだろう」と述べています。

「おわりに」では、19世紀末の東アジアは、支配体制の揺らぎ、外圧と植民地化への危機という共通課題を抱えていたことが指摘されます。この時局のなかで、古今の西洋と東洋の神秘思想や宗教を巧みに融合した宗教的思想体系である神智学が生まれ、神智学協会が世界中に広まり、多元的に東西の交流を促すことに貢献しました。莊氏は、「神智学を中国に紹介した点で最も重要な人物である伍廷芳は、神智学の言説という枠組みのなかにある、儒・道家をはじめとする中国の伝統思想の融合から彼の独創的思想体系を作り出した。伍廷芳は、東洋的要素を内包し、平和的に各宗教・哲学を論究する神智学に引かれていた」と述べています。

 アニー・ベサントがインドの自治運動や人種差別のために声を上げたことも、伍廷芳が神智学協会を支持した理由の1つでした。そして同時代の中国の新聞・雑誌でも、ベサントは人権主義者や反植民地主義者として紹介されました。これは、帝国主義の侵略に直面した民国期中国という時代背景ならではの神智学受容であると指摘し、莊氏は、「清末から民国期の中国仏教団体と神智学協会との交流には、隣国日本の明治20年代(1887-96年)までに見られた神智学受容との類似性がみられる。ただし、戦前の中国が近代化による伝統的価値の再評価や帝国主義との戦いなどの課題を抱えていたなかで、ベサントの主張がその時代的課題と合致したため、伍廷芳は神智学を取り入れようとした。これは中国の神智学受容と日本のそれとの相違点だった」と述べるのでした。

 第6章「ウィリアム・スタージス・ビゲロウと神智学――近代オカルティズムが生んだアメリカ人仏教徒」の「はじめに」を、国際基督教大学アジア文化研究所研究員(近代日本思想史、アジア文化交流史)の 岡本佳子氏は、「仏教が断片的にでも西洋世界に知られるようになってからの歴史は長いが、仏教を単なる異教ではなく、学ぶべきところがある宗教思想として欧米人が注目し始めたのは、19世紀半ばからである。科学と進化論の脅威に直面したキリスト教の危機という精神状況だけでなく、多様な宗教間交流のはじまりや、世界的な活字媒体の流通と人的ネットワークの広がりなどが、仏教を含めた東洋の宗教の伝播を促した。国際化が始まった明治日本でも、少数ながらも欧米出身者で仏教に帰依する者や傾倒する者が現れた。近年では、近代における仏教の世界的伝播を、アジアからの発信、あるいは欧米からのオリエンタリズム的な興味という一方向的な動きではなく、いくつもの方向の越境と往還を伴う複雑なグローバル化として捉える研究が進んでいる」と書きだしています。

 1「神智学と明治日本の欧米人仏教徒あるいは仏教の共鳴者たち」では、明治日本に在住した欧米人の仏教徒もしくは仏教の共鳴者としてビゲロウ、アーネスト・F・フェノロサ、ラフカディオ・ハーン、チャールズ・フォンデス(ファウンズ)、ジェイムズ・トゥループ、そして比較的短い滞在ながらサー・エドウィン・アーノルドなどが知られているとして、岡本氏は「明治期の雑誌には、こうした著名な人々のほかにも仏教に心酔した滞日欧米人に関する記事が散見される。ハーンのように仏教思想に深く傾倒しながらも仏教徒を自称することを避けていた例や、フェノロサの後妻メアリーのように、夫に勧められて受戒したものの儀式に感激した異文化体験だけに終わった例もあり、その姿勢は様々だった。ビゲロウとフェノロサは出家していないが、現在知られているかぎりでは、公式に日本仏教に改宗した欧米人の最も早い例であり、社会の耳目を集めていた」と述べています。

 4「万教帰一的宗教観への疑問」では、神智学や東洋の宗教への注目の高まりに伴った重要な現象として、普遍宗教の標榜があることが指摘されます。神智学協会は宗教団体と自己規定していませんでしたが、「真理にまさる宗教はない」という立場で、あらゆる宗教を超えた普遍的「真理」の追究を自らの立場としていました。他にも、19世紀後半アメリカのユニテリアン急進派や超絶主義、インドのブラフマ・サマージ、ラーマクリシュナとその弟子スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ、日本の平井金三、松村介石、成瀬仁蔵などは、すべての宗教が信仰形態の相違にかかわらず根源的に同一の真理に基づいているという万教帰一の立場を共有している。これらは合理主義的な宗教リベラリズムから、霊的思想による超越的宇宙観まで、それぞれ基盤にした思想が違います。

 また、万教帰一思想には何をもって「普遍的真理」とするかという点の相違や、自宗派中心の包括主義の場合があるなどの問題も含んでいました。しかし、1893年のシカゴ万国宗教会議を機に宗教間対話や比較宗教学が進展したことによって、この四海同胞的傾向に対する賛同はさらに世界の知識層に広がりました。岡本氏は、「キリスト教にさほどの反発を覚えないまま仏教に帰依したビゲロウは、こうしたリベラルな動向に関心を向けそうに思えるが、彼は同調しなかった。むしろ、キリスト教の権威に対する問題意識が希薄だったからこそ、旧来の宗教の制度的束縛を疑問に思わず、普遍宗教の自由さを必要としなかった様子である。神智学がキリスト教を超えて切り開こうとした『真理』を、ビグロウはもっぱら仏教という枠組みのなかに求めた」と述べています。

「すべての宗教が同じ目的を共有しているのなら、なぜ特定の宗教を選んで学んだり受戒したりするのか」という素朴な疑問にビグロウが自分自身で答えたと思われる記述が、岡倉覚三(天心)が英訳した『天台小止観』に寄せた序文に見られます。すなわち、各教派(church)には「それ自身の広大な潜在意識」があり、信者たちは儀式を経て「その教派の開祖の潜在意識をも含めた成員の集合的潜在意識」と結び付き、「信仰、観念、希求といった共通の基盤を形成する」というのです。ビゲロウはこの序文の中で、瞑想状態を普遍的「宇宙」と同一の意識の広がりとして描写する一方で、各信仰集団の意識下の共同体がすべての宗教に共通の「潜在意識」へとつながる道を想定していません。

 それに対してウィリアム・ジェイムズは『宗教的経験の諸相』のなかで、「制度的宗教の分派」や「いろいろな神学や哲学や教会組織」といった「第二次的」な次元にとらわれずに個々人の宗教経験――根本的な「個人的宗教」――の多様性を提示したと同時に、それらがより大きな潜在意識の領域を経由して生じてくると主張していました。岡本氏によれば、ビゲロウの宗教意識の説明は、心理学用語を用いながらも、似た魂が死後の世界で集い合うというスウェーデンボルグの霊界論を思わせるところがあるとか。

 第7章「アメリカで秘教思想に出会った日本人たち」の「はじめに――ロンドン経由で渡米した日本人」の冒頭を、大阪公立大学文学部教授(国際日本学、比較文学)の堀まどか氏は「幕末、1865年。薩摩藩の命によって、英学を学ぶ森有礼ら若者たちが視察のためイギリスに密航した。この薩摩藩第一次イギリス留学生たちの一部が、その2年後、神秘主義者トマス・レイク・ハリスを追ってさらにアメリカに渡っていく。トマス・レイク・ハリスは、アメリカの神秘主義者・宗教家かつ詩人で、一八四四年に普遍救済論者教会の牧師をしていたころ、アンドリュー・ジャクソン・デイヴィスを通してエマヌエル・スウェーデンボルグに心酔した」と書きだしています。

 またトマス・レイク・ハリスは、ロバート・オウエンやシャルル・フーリエなどの協同組合社会を説く空想社会主義思想にも感化された人物であるとして、堀氏は「ハリスの教理は、ヘレナ・ブラヴァツキーやその組織である神智学協会にも影響を与えたとされる。ハリスの『達人の叡智、人類史の秘教の科学(The Wisdom of the Adepts,Esoteric Science in Human History)』(1884年)はブラヴァツキーの『シークレット・ドクトリン(The Secret Doctrine)』(1888年)のテーマに示唆を与えている」と述べます。

 19世紀初めには、アメリカにもスウェーデンボルグの信奉者たちの教会組織がいくつかできて、その思想を詩人ラルフ・ウォルドー・エマソンが高く評価したことも追い風になって、1850年代のアメリカで大いに広がりました。スウェーデンボルグ思想は19世紀アメリカの近代スピリチュアリズムやニューソート(New Thought)運動の源流であり、この潮流のなかに出現した神秘主義者の一人がハリスでした。堀氏は、「19世紀は、宗教と科学、そして社会改革の思想が神秘主義とともに混然一体に志向された時代である。1850年代の心霊主義ブームのロンドンでは、アメリカからやってきた霊媒師や神秘主義者たちが珍しくなく、52年にヘイデン夫人、53年にロバーツ夫人、55年にダニエル・D・ホームがロンドンに現れて、交霊会をおこなって人気を博していた」と述べています。

 R・オウエンやジョン・ラスキンも、ホームの交霊会を訪問したメンバーでした。また、カール・マルクスがドイツからロンドンに亡命してくるのは49年のことで、ロンドンはオカルティズムと同時に社会主義理念や社会改革の意識が渦巻く場所でした。1959年、ハリスもロンドンに渡り、スウェーデンボルグ思想について独自の説教をし、また詩や著作物を書いて、神秘主義に関心を示す知識人らの心をつかんだといいます。ロンドンで一定の支持者を得たハリスは、61年、ニューヨーク州に新しい宗教的共同体・新生同胞団(Brotherhood of the New Life)を創立したのでした。

 1「カリフォルニアの初期の神秘主義者たち」では、17世紀初めにアメリカ大陸に入植したピューリタンたちにとって、アメリカ大陸の原始的な自然は、神の創造したままの無垢なる楽園に見えたと指摘し、堀氏は「西部開拓とは自然を征服していく事業だったが、一方で自然愛や人間性を尊ぶ自由精神が培われて、アメリカ独自の精神となっていた。特にアメリカ西海岸の中心であるカリフォルニアが、19世紀末から神秘なる地として注目されていく。神智学協会を設立したブラヴァツキーやそのリーダーたちが、カリフォルニア西部の神秘的な大地を、人間性を再発見し回復させる場と捉えて注目していたためである」と述べています。

 ブラヴァツキーは生前、南カリフォルニア各地の大自然の神秘性について高い関心を示していました。神智学協会は1891年のブラヴァツキー没後に分裂を繰り返していきますが、大きく2派に分かれます。1つがアニー・ベサントが率いるインド、ヨーロッパの派閥のアディヤール派(インドのマドラス近郊アディヤールに本部を置き、アイルランドやインドの独立運動や教育推進運動にも関係した組織)で、もう一方が、ウィリアム・クアン・ジャッジが率いたアメリカの派閥のポイントロマ派です。

 2「アメリカにおけるヨーガ」では、神智学者や神秘主義者たちは「ヨーガ」に関心をもっていましたが、カリフォルニアには心霊家として活動し始めたピエール・アーノルド・バーナードがいました。アメリカにハタ・ヨーガ、呼吸法や座禅を重視する生理的修行法としての実用的ヨーガを最初に広めた人物です。バーナードはタントラロッジの共同体組織を作ろうとしましたが、1902年4月に薬物違法で逮捕されています。1906年からは、彼のタントラ集団がサンフランシスコから追放措置になり、1909年にはシアトルで、1911年、1918年にはニューヨーク市でも2度の追放の憂き目に遭いました。

 現在でこそ、身体エクササイズとしての「ヨーガ」は、健康的な生活習慣としての市民権を得て、すべての社会階層に広く普及して、文化ファッションにもビジネスにもなって定着していますが、バーナードが活動していた初期、ハタ・ヨーガは、非文明の異教の「有害なカルト集団」と見なされていました。堀氏は、「ヨーガ修行者たちは、いかさま師とか女たらしのスキャンダラスな誘惑者という目で見られ、メディアやキリスト教系の聖職者らや、政府からさえも戦いを挑まれた。ヨーガ(特にハタ・ヨーガ)や異教的活動に対しては、数十年にもわたる激しい反発が起こったのである」と述べています。

 5「木村秀雄の霊的活動とアメリカ」では、心霊家の木村秀雄・駒子夫妻が取り上げられています。木村秀雄は1906年に故郷の熊本で日本心霊研究会を起こしました。1909年には上京して、霊術治療を謳った観自在宗を開設。そのとき木村秀雄は28歳、妻の駒子は23歳でした。彼らは「観自在」という言葉を使いました。それは「イマジネーション」――それは、ウィリアム・ブレイクが「地獄の箴言(Proverbs of Hell)」で語った「想像の人の目には自然は想像それ自身である」といった「強い意味」での想像であり、インドの思想からきているもの、真言密教にも近いものであると説明された言葉の訳語です。木村は、エマソンを愛読していて、エマソンの哲学と王陽明のそれを同一視して自らの宗教認識を説明しました。

「おわりに――霊性思想とモダニズム」では、明治末から大正、昭和にかけて、同時代のアメリカ霊性思想が日本社会のあちらこちらに混入し、また日本からもアメリカに向けて禅や仏教の布教が行われて、現地の文化と当世の思想にそぐうように順応させられていたと指摘し、堀氏は「それは詩人や舞踊家たちの活動や同時代評価ともつながっている。心霊や霊的世界を研究することは、人間の精神内部に潜む〈宇宙〉の根元や〈神〉と一体化するエネルギーを掘り起こそうとすることだった。超自然的存在、霊的体験、宇宙と個人の交感を探求する欲求と関心は、近現代的な文化思想潮流の源泉であり、モダニズム諸芸術と結び付いた」と述べています。

 それだけでなく、教育理論、社会改革思想、人権思想やフェミニズムが、この時代の神秘主義や心霊趣味の隆盛と関係し、僧侶も大学の宗教学者たちも、秘教や心霊主義に結び付けられていると指摘し、堀氏は「これが同時代の社会思想の創出・再編とも密接に関わって、大英帝国などの中央(帝国)と対比される、地域ナショナリズム(そこにはアメリカの地方ナショナリズムも含む)の展開に無関係でなかった事実もみえてくる。また、人種問題や民族問題を超えた思想の形成と流布にも関わっている」と述べます。

 コラム「宗教会議の時代」では、岡本佳子氏が「1893年のシカゴ・コロンビア万国博覧会を機に開催された万国宗教会議(TheWorld’sParliamentofReligions)は、宗教の調和と人類の同胞愛という理念を掲げて9月11日から27日の17日間、開催された。この企画は、世界の多くの宗派や教団の代表者が一堂に会する前代未聞の機会として、近代の宗教間交流の一大画期となった。事業を推進したのは、万博世界大会幹部のチャールズ・C・ポニー(スウェーデンボルグ派教会信徒)と、ジョン・H・バロウズ(シカゴの第一長老派教会牧師)をトップに据えた準備委員会だった」と書きます。

 また、岡本氏は「委員会メンバーだったシカゴのユニテリアン牧師ジェンキン・L・ジョーンズと、彼の後ろ盾である自由宗教協会(FRA)が陰の立役者だったとも言われる。普遍宗教を志向するFRAには、ユニテリアン急進派を含むプロテスタントのリベラリスト、改革派ユダヤ教、インドのブラフマ・サマージなどから会員が集まっていた。FRA、そして神智学協会やその論敵マックス・ミュラーのような東洋学者も重視していた比較宗教学の発展が、東洋の宗教に対する関心の高まりと同時に進行し、会議企画の重要な背景になっていた。キリスト教だけが宗教的真理を独占する時代がもはや終焉を迎えつつあるという認識は、決して欧米で主流となっていたわけではないが、アメリカのリベラルな知識層の間では徐々に受け入れられつつあったのである」と述べます。

 その後、2回目の万国宗教会議開催を目指す動きがデリーやパリなどで見られ、日本でもその掛け声が上がりました。真宗本願寺派系の団体・反省会が発行する「反省雑誌」の社説は、日清戦争後の勢いを背景に、日本仏教徒こそが次なる万国宗教会議を主催し、日本の大乗仏教の価値を海外に伝播すべきであるというナショナリズムをあらわにしていたのでした。この提案が実現に至らなかった中、1902年、美術史家の岡倉覚三(天心)と真宗大谷派の僧侶・織田得能がインド渡航をきっかけに日本での宗教会議を企画。ヴィヴェーカーナンダに会って触発された二人は彼を日本に招聘する案を立て、やがてインド、中国、その他アジア諸国から複数の宗教者を招いて「印度教と仏教との研究会」を開く構想へと発展させました。この会議は「般若波羅蜜多会」と名付けられ、1903年春に大阪で予定されていた第5回内国勧業博覧会の時期に開催すると決定されましたが、実現することはありませんでした。

 第3部「波及」の第9章「九鬼周造と輪廻転生――両大戦間の知的環境における『時間論』の位置」の「はじめに」を、京都精華大学教授(比較文学比較文化、文化交流史)の稲賀繁美氏は、「長期に及んだヨーロッパ滞在からの帰途に先立ち、九鬼周造は1928年、ブルゴーニュ地方・ポンティニーでの哲学者の集いで、2つの講演をおこなった。その1つは『東洋』の時間概念をめぐる考察。だがフランス語によるこの論考の意義が、哲学研究者の間でしかと認識されるようになったのは、日本ではつい最近のこと。この講演で扱われた『輪廻転生』palingenesis(希)が、非合理な妄想であり、西洋哲学にはなじまないと見なされたことも、本講演が不人気だったことの一因だろう。しかし、その「転生」transmigratio(羅)は、およそ1890年代から1930年代にかけての知性史で、決して荒唐無稽な概念ではなかった」と書きだしています。

 6「九鬼周造を囲繞するインドラ網」では、岡倉覚三(天心)がボストンでポール・ケイラス訳『道徳経』を参照していたころ、鈴木貞太郎、将来の鈴木大拙は、すでに10年前からケイラスのもとで助手として働いていたことが紹介されます。1896年にシカゴに到着した貞太郎は、1909年まで北米にとどまることになります。稲賀氏は、「北米渡航以前に、貞太郎はケイラスのTheGospelofBuddha(OpenCourt,1894)を日本語に訳出し、翌1895年に出版していた。その傍ら『大乗起信論』の英訳も手掛け、ケイラスのオープン・コートから1900年に出版している。ケイラス訳の『道徳経』も、原文に照らした下訳は貞太郎の手になる仕事である」と述べています。

 また、稲賀氏は「貞太郎と覚三とに直接の接触があったか否かはつまびらかにしない。だが近年の研究は、その周辺の人的関係の再構成を進めてきた。ドイツ出身のケイラス(ドイツ読みならば、カールス)は哲学者のウィリアム・ジェイムズや記号学者として知られることになるチャールズ・サンダース・パースらとも親交があり、伊藤邦武の研究によれば、ウィリアム・ジェイムズの新ピタゴラス主義や複数世界論は、九鬼周造の輪廻転生に関する思索と注目すべき並行性を示している。視野をさらに広げれば、神智学は北米ではエマソンらに淵源をもつ超絶主義とも親和性を発揮しているが、ビアトリス・レイン経由でこの神智学に接近したのが貞太郎だった。岡倉の『茶の本』の『道徳経』解釈も、これらの知的環境と無縁ではなく、その延長上にいわば思想的に『輪廻転生』を果たした論考が、九鬼周造の『時間論』だった」と述べるのでした。

「あとがき」で、岡本佳子氏は「近代の精神世界は、科学信仰や合理主義への抵抗と順応、通信・出版・移動手段の発達、知識のグローバル化、帝国主義、ナショナリズムといった現み合いながら複雑に変化していた。ひと昔前なら『まがいもの』として軽視され学術研究の対象とされなかった神智学運動は、実は東西にまたがるこうした歴史状況を動的に捉える有効な切り口になる」と述べています。

 2022年3月31日、吉永進一氏が永眠されました(享年65歳)。本書の吉永氏担当の第1章「神智学略史――人と思想と組織」は2021年3月24日、「まえがき」は同年4月22日の脱稿だそうですが、岡本氏は「ご闘病のなか体力と気力をふり絞って原稿を書き下ろしてくださってからおよそ1年後、先生は旅立たれた。できあがった本書を手にしていただけないことが残念でならない」と述べています。わたしも神智学にずっと興味をもち続けてきた者ですが、密度の濃い本書のような論考集は今後の神智学研究に大いに役立つものと思います。最後に、本書が吉永氏への最大の供養となることを信じ、心より故人の御冥福をお祈りいたします。合掌。

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