No.2205 プロレス・格闘技・武道 『燃える闘魂 ラストスタンド』 アントニオ猪木 病床からのメッセージ製作委員会 代表 鈴木健三著(主婦の友社)

2023.01.16

『燃える闘魂 ラストスタンド』アントニオ猪木 病床からのメッセージ製作委員会 代表 鈴木健三著(主婦の友社)を読みました。2021年11月27日にNHK・BSプレミアムで放送(その後、NHK総合でも放送)された番組『燃える闘魂 ラストスタンド~アントニオ猪木 病床からのメッセージ』の内容を書籍化したもので、2022年8月に出版されました。元になった番組については、ブログ「燃える闘魂 ラストスタンド」で詳しく紹介しました。本書の帯

 本書のカバー表紙には、リング上で赤い闘魂タオルを首に巻いたアントニオ猪木の後ろ姿の写真が使われ、帯には「追悼」「NHK総合・BSプレミアムで放送され、大きな反響を呼んだ番組を書籍化。未放送シーンや関係者インタビュー完全版も収録」「闘病中だったアントニオ猪木が伝えようとした『裸の言葉』に刮目せよ」とあります。本書の帯の裏

 帯の裏には、「本当はこういう映像は見せたくなかったんですけど、これもひとつの、強いイメージばっかりじゃなくて、こんなにもろい、弱い、どうとるかは知りませんよ、見た人たちが。そういうひとりの人間として弱い面があってもいいかなと。あえて見てもらって」という猪木の言葉が紹介されています。

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
第1章 なぜ『燃える闘魂 ラストスタンド』
            が製作できたのか?
第2章 第1回密着取材(2021年3月24日)
INTERVIEW 丹野雅彦
第3章第 2回密着取材(2021年7月27日)
第4章第 3回密着取材(2021年8月18日)
INTERVIEW 藤原喜明
           馳浩
           藤波辰爾・伽織
           古館伊知郎
第5章 第4回密着取材(2021年8月23日)
INTERVIEW 柴田惚一
           棚橋弘至
           富家孝
第6章 第5回密着取材(2021年9月2日)
INTERVIEW 丹野智宙
           武元誠
           村松友視
           原悦生
           宮戸優光
第7章 最後の密着取材
    (2021年9月11日、12日)
INTERVIEW 萩俊一
            岩橋智美
            松永真一
「おわりに」

 「はじめに」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
「本書はNHK総合・BSプレミアアムで放送された番組『燃える闘魂 ラストスタンド』の内容に大幅な加筆をしたものです。私は番組を制作した共同テレビのプロデューサーの鈴木健三です。ご存知の方もいるかと思いますが、かつて新日本プロレスに入団し、今もプロレスラーとして活動を続けている現役プロレスラーでもあります。アントニオ猪木会長(以下、ふだん私は会長と呼ばせていただいているので、この表記で統一します)は現在、全身性アミロイドーシスという数万人にひとりの確率で発症する難病と闘っています。会長の闘病生活に9ヵ月密着取材したのがこの番組です」

 番組を企画するそもそもの発端は、猪木のYouTubeだったそうです。2020年2月に開設された公式チャンネル『アントニオ猪木「最後の闘魂」』は、猪木の日々の暮らしぶりが垣間見えることもあって、再生数が1000万回に迫る動画もあるなど話題を呼びました。でも、著者は「YouTube発信のアントニオ猪木は見たくない」と思ったそうです。これは1人の猪木ファンとしての意見で、テレビマンとしての著者はさらに辛辣で、正直「見ていられない」と思ったといいます。そこに著者の明治大学の先輩である小川直也から「会長のこと、YouTube的なものじゃなくて、ちゃんとしたテレビ番組としてどうにかならんかな」と相談され、共同テレビとして異例のNHKへの企画提案になったとか。

 本書には、「INTERVIEW」として、プロレスラーをはじめとして、さまざまな人物の証言が紹介されています。最初に登場するのは、猪木の異種格闘技戦など重要な試合のセコンドを務めたり、海外遠征に同行した藤原喜明です。「アリ戦の前にはトレーニングにつきっきりだとうかがいました」という言葉に対して、藤原は「いろんな人が真剣勝負って簡単に言いますけど、真剣勝負ってのは死ぬか生きるかですからね。あれはまさしく昭和最後の真剣勝負。33歳で凄いなと思う反面、バカだなと思うけど。でも、やっぱり凄いことですよ。ずっとついていたんですけれど、精神状態が上がったり下がったり、もの凄く激しかったですよね」と語っています。

 その後、アリ戦の前の練習後に冷えたビールを猪木に「お疲れ様でした」と言って渡したところ、猪木はニコッと笑って、「1杯だけだぞ、ありがとう」と言って、うまそうにゴクゴクと飲んだそうです。藤原は、「そりゃつらいですよ。33歳で何十億円もの借金をして。(試合で)万が一にも負けたら、プロレス界から干されるし、客は誰も来ないだろうしね。考えようによっては、向こうだってそうだからね。ボクシングの世界チャンピオンが負けたとなったらもう仕事はないわね。1試合何十億でしたからね。これは本当の真剣勝負ですよね。死ぬか生きるかっていう」と語るのでした。本当に、その通りですね。

 その猪木・アリ戦のときに中学生で、世紀の一戦をテレビ観戦するために、試合の当日、カバンを抱えて走って家に帰った少年がいました。彼は、ずっとテレビの前に正座して観戦したそうです。この少年こそ、現在は石川県知事の馳浩です。「現在、闘病している猪木さんの姿を見て何を想いますか?」という問いに対して、馳は「YouTubeのチャンネルで、病床で闘っている姿が出ているけれども、私にとっては中学校の時に見た猪木さんと病床でヨレヨレになっている猪木さんは同じなんですね。やっぱり何か得体のしれないものと闘っているところに人としてのロマンを感じます。(中略)最近も水プラズマとかしゃべっていますが、『まだそんな夢みたいなことを思っているんですか!?』と私は思いながらも、『世界はどうあるべきだ』『俺に何かできることはないかな』と考え続けている猪木さんにはロマンがあります」と語ります。

 猪木は、2019年8月27日に田鶴子(通称ズッコ)夫人を亡くしています。そのグリーフは深く、猪木の体調を悪化させました。藤波辰爾の伽織夫人は、「(奥さまが亡くなられて)おひとりになられてから小さなパーティーがあって。その時に会長が私のところに来て、『あのね、朝ね、ダイニングテーブルから冷蔵庫に納豆とりにいくのが遠いんだよ』っておっしゃって。『今までだったら、テーブルに座っていたら(ズッコさんが)納豆を置いてくれたのに、今は自分でとりにいかなきゃいけない。それが凄く遠いんだ』って、ちょっと悲しそうに、ちょっと面白おかしく話していました。私にささやいていったから、『じゃあ今度お手伝いにいきますよ』って言ったら『来てくれよ』って言っていましたけど」と語っています。

 1977年から1987年3月まで、『ワールドプロレスリング』(テレビ朝日系)の実況担当アナウンサーを務めた古館伊知郎氏は、猪木からの影響について、「前田日明さんが書物に、『猪木という病に一度かかると生涯つきまとう』って。たとえば、モハメド・アリやウィレム・ルスカたちとの格闘技路線などは、のちの希代のレスラーに影響を与えていくわけじゃないですか。猪木さんの中の反骨は普通じゃないですよ。命懸けでやっているものに、もっと市民権とかお墨付きをくれてもいいんじゃないかという」と述べています。

 また、「長年、猪木さんを見てきた古館さんから見て、ファンを魅了する要因はあとどんなことがあげられますか?」という質問に対しては、古館氏は「猪木さんの場合、間を置くんです。ちらっと見やってからバッと入ってくる。(リング上でコールをされる時)ひもをとって、シュッとやって、闘魂タオルをキュッキュッってやって。そして、また間があるんです。この強弱、メリハリが緩急よろしきを得るという。このへんから見せ場があって、試合がもう始まっちゃっている。というか、猪木さんの世界をみんなにステージングするっていう。特殊な感受性があって、負けの美学を見せるとか、徹底的に受け切るプロレスとか。そういうものを多彩に見せることでファンを翻弄してきたんじゃないかなと思っています」と語ります。

 そして、「体調をくずした猪木さんを古館さんはどんな思いで見ていますか?」という問いに対しては、古館氏は「やはり、猪木さんって、自分にもエネルギー注入するんですよね。強いですね。人にエネルギー注入してきたし、自分ができないことをやって、ファンは魅了されてきた。ファンたちが、自分がしたいことを猪木さんがリング上でかわりにやってくれて。それで、どんどんファンの要望は残酷にもエスカレートしていった。負けっぷりにしても、すさまじい技を受けたり仕かけたりして、体に負担がかかることをファンサービスの一環で、究極のホスピタリティとしてやるわけじゃないですか。おもてなしで。今は肉体に負担がかかってボロボロになりながらも、またぐっと上がってくる。これは自分にもエネルギー注入してるとしか思えないですよね」と語るのでした。

 現在の新日本を支えるエースの1人である棚橋弘至は、著者の鈴木健三と同期入門で、ずっと合宿所の同部屋にいたそうです。その棚橋は、「改めて猪木さんの凄さを教えてください」という発言に対して、「運動神経がいいとか、筋肉がどうとかを超えた得体の知れないカリスマ性を持っていますよね。あと、やはり時代背景もあると思いますね。猪木さんが異種格闘技戦とかを闘っている姿に、当時のプロレスファンとかは『よし、猪木が頑張っているから俺も頑張ろう』って感じる。プロレスから日常にエネルギーを還元していっている。だからこそ、みんな無意識のうちに猪木さんに恩を感じているんです。これは本当で、今のレスラーでは到達できない。いくら頑張っても。『猪木さんが頑張っているから俺も頑張れた』と感じさせる。そこに関してはアントニオ猪木に追いつけるレスラーは、これからひとりも現れないでしょうね」と語ります。

「棚橋さんが台頭した2000年代は新日本プロレスの冬の時代と評されることが多いです。その時期、猪木さんはPRIDEなど総合格闘技のほうに向いていました」との発言に対して、棚橋は「あの時は『なんでだよ』って思ったんですけど。今となっては凄く気持ちがわかるんです。猪木さんが総合格闘技のプロデューサーというか、一番上に行くことによってプロレスというジャンルを逆に守ったんじゃないかなと思います。猪木さんはあえてそっちに行くことで、プロレスという大きい枠の、猪木さんがただひとりで総合格闘技っていうのにマウンティングかましていたんですかね。『俺がひとりで抑え付けている!』みたいな。そういう気合があったんじゃないかな。その当時は『猪木さんはこっち(プロレス)にいて欲しかった』って怒った自分・棚橋がいたわけです。けれど、今となっては、猪木さんはひとりであそこに乗り込むことによってプロレスを守ろうとしていたんじゃないかと思います」と語ります。この発言には、目から鱗が落ちる思いでした。

「現在の闘病生活で思うことはなんですか?」という問いには、棚橋は「猪木さんの体調がよくないと聞いて、ニュースでも見て。髪の毛も真っ白になっていて心配していたんですけど、退院してすぐにYouTubeに登場した猪木さんが髪の毛を黒く染め直していたんですよ。『あー、これだな!』と思って。猪木さんが戻ってきた。失礼な言い方かもしれないですけど、ヨボヨボのおじいちゃんだったんですよ。それがちゃんと髪の毛を染め直してYouTubeに登場した猪木さんは、やっぱりアントニオ猪木だったんですよね。そこに何か凄い生命力を感じました。本当にプロ意識のかたまりだなって」と語るのでした。

 新日本プロレスリングドクターを40年以上務め、巡業にも同行し、間近でリングを目撃し続けてきた富家孝氏は、猪木について、「私は約40年前からお世話になって、巡業にもときどき同行していましたから、懐かしい話がたくさん出てきて。また、各選手をよく見ていらっしゃったなと改めて感心しました。そして、興行師としてのセンスは誰よりも抜きん出ていて間違いなくトップ、ダントツです。私が尊敬していた力道山先生よりも上です。こんな方はもう出てこないなあと確信しました。それから、入場の場面、誰と比べても猪木さんが一番カッコいいなと改めて思いながら話していました」と述べます。

 その猪木の入場シーンのカッコよさにも裏付けがあったとして、富家氏は「入場テーマ極『INOKI BOM-BA-YE』(炎のファイター)での入場を(当時の妻の)倍賞美津子さんにだいぶ指導されたと僕にはおっしゃってたけど……。ガウンの脱ぎ方とかね。賠償さんなんかは人から見られる仕事やから、もの凄い研究なさってるからね。それを、『女房に指導されて』とかおっしゃってたのは本当です」と語ります。また、富家氏の息子さんが青山学院の小学校に行ったら、同級生に山下達郎の娘さんがいたそうです。父兄会で話したところ、達郎は猪木ファンで、「芸能界にもあんだけ濃度の濃い人っていませんよ」と言ったそうです。ちなみに、1学年下にはサザンオールスターズの桑田佳祐の息子さんもいたそうですが、桑田も大の猪木ファンだったのでした。

「リアルタイムで40年以上前のプロレスを見てきた世代の多くは、『猪木と馬場』という対立構造をイメージします。富家さんはどう思います?」という問いに対しては、富家氏は「馬場さんとは互いにリスペクトしていたと思うよ。ツーカーやったと思います。それぞれの存在を認めて……。だから、どっちもあってよかったと思います。馬場さんみたいな保守本道みたいな生き方と、猪木さんみたいになんでも仕かけていくっていう生き方、非常に対照的な。猪木さんも馬場さんに会ったからよかった」と答えています。一般社団法人慈恵会の理事長を務める丹野智宙氏は、猪木がときどき馬場の話をするというエピソードを披露します。丹野氏が「なんで馬場さんの話をするんですか?」と尋ねたら、猪木は「誰も話さなかったら、みんな忘れちゃうじゃん」と言ったそうです。

 猪木は、師匠である力道山の話もよくしたそうです。丹野氏は、「猪木さんは『力道山の大ファンだ』という話をよくしていて。あの人の口から力道山の悪口は1回も聞いたことがなかったですね。本当は殺したいぐらい憎かったらしいですけどね。私が力道山を子どもの頃に好きだったという話をするから、猪木さんは力道山のいい話ばかりしてくれるんですよ。でもあとで他の人から聞いたら、力道山を刺そうと思ったこともあったようです。力道山の話をした時、猪木さんが、『今、力道山があのままの現役でいたら、PRIDEもへったくれもない』『みんあ、5分で倒されちゃう』と言っていました。『ホントに強いんだ、力道山って人は』『特に、ケンカさせたらあんな強い人はいない』と言っていましたからね」と語っています。力道山のリアルな強さについての猪木の貴重な証言と言えます。

『私、プロレスの見方です』を書いて新日本プロレス・ブームの立役者となった直木賞作家の村松友視氏は、「アントニオ猪木、猪木寛至の魅力をひと言で表すとどうなりますか?」という問いに対して、「永遠の未確認飛行物体なんですよ。猪木さんが立ち上げたUFOと言う団体が昔あったけれど、メデはとらえられない、でも『ない』ともいえない。そういう架空に近い存在だと思うんです。そんな感触を僕なんかに与えてくれた。僕はあまり夢みたいなものを見ないタイプなのに、猪木さんは夢のような世界を見せてくれた珍しい存在だと思います。逃げ水(風がなく晴れた暑い日に道路などで遠くに水があるように見える現象)の幻想と未確認飛行物体が合わさったような存在かな」と語っていますが、さすが直木賞作家、猪木の本質を見事に表現していますね!

 さまざまな人の猪木に対する発言を紹介してきましたが、猪木自身の言葉も紹介しましょう。著者の「今回の会長の闘いはシングルマッチなのかタッグマッチなのですか?」という問いに対して、猪木は「シングルでしょうね、誰かに助けを求めるわけにもいかないんだから」として、「みんながこう『頑張ってください』と言うけど、そういう問題とはまったく違う。ひとつの人間の生命というか。あんまり俺も本読んでるほうじゃないからわかんないだけど、そこに『死』という字というもの。その中の一番みんなが絶対に避けて通れない『死』というものが、もうあいさつするにも、同じこと答えるのも面倒くせえな。『頑張ってください』って言われるけど。まあひとつ『丸』という字を書くと、丸が大きいのか。小さいのか。どうせ同じ丸ならデカいほうがいいだろう」と語るのでした。アントニオ猪木=猪木寛至氏は今年10月1日に逝去されました。心より御冥福をお祈りいたします。合掌。

Archives