No.2130 哲学・思想・科学 | 宗教・精神世界 『尊厳 その歴史と意味』 マイケル・ローゼン著、内尾太一&峯陽一訳(岩波新書)

2022.05.01

ついに、5月になりましたね。
『尊厳 その歴史と意味』マイケル・ローゼン著、内尾太一&峯陽一訳(岩波新書)を読みました。著者は、イギリス生まれの政治哲学者です。オックスフォードとフランクフルトで学び、現在、ハーバード大学政治学科教授。同名の有名な絵本作家は別人です。

本書の帯

 本書の帯には、「ハーバード大学政治学科教授の『政治理論』の実践!」と書かれ、帯の裏には「この本は、尊厳がもつそれぞれの異なる意味の背後には、西洋の歴史的伝統に位置づけられる重要で強力な異なる源泉があることを示そうとした。それらの意味の源泉は、互いに競い合っていたし、今でも競い合っている。(「日本語版への序文」より)」と書かれています。

本書の帯の裏

 カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「『尊厳』は人権言説の中心にある哲学的な難問だ。概念分析の導入として西洋古典の歴史に分け入り、カント哲学やカトリック思想などの規範的な考察の中に、実際に尊厳が問われた独仏や米国の判決などの事実を招き入れる。なぜ捕虜を辱めてはいけないのか。なぜ死者を敬うのか。尊厳と義務をめぐる現代の啓蒙書が示す道とは」

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「日本語版への序文」
「序」
第1章 「空っぽ頭の道徳家たちの合言葉」
第2章 尊厳の法制化
第3章 人間性に対する義務
「原注」
「訳者あとがき」
「索引」

 第1章「空っぽ頭の道徳家たちの合言葉」の1「たわごと?」には、「世界人権宣言の第一条の最初の文章には、『すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利において平等である』とあり、もう一方のドイツ基本法の第一条には、『人間の尊厳は不可侵である。これを敬い、保護することは、すべての国家権力の義務である。ドイツ国民は、それゆえに、侵すことのできない、かつ譲り渡すことのできない人権を、世界のあらゆる人間社会、平和および正義の基礎として認める』と記されている」と紹介されています。

 「尊厳」は、信仰にもとづく倫理的言説にしばしば登場します。それは、何らかの特定の宗教の修辞的な所有物ではありませんが、カトリックの思想において最も目立っているとして、著者は「1995年3月、教皇ヨハネ・パウロ2世が、避妊、中絶、そして現代の生殖技術の利用の問題に取り組むために出した回勅『いのちの福音(エヴァンゲリウム・ヴィータエ)』(25.iii.1995)では、この言葉が少なくとも56回使われている。プロテスタントの教義の方には単独の権威ある出典はないが、現代プロテスタントの著作物においても、尊厳は共通のテーマのひとつになっている」と述べています。

 「尊厳」という言葉の使われ方にバリエーションがあることは疑いようがありません。尊厳を、全面的に対立する道徳的立場の唱道者たちが引き合いに出すこともあるとして、著者は「たとえばヨハネ・パウロ2世は、尊厳は、受胎の瞬間からあらゆる生命機能が停止するまでにわたり、すべての人間の命の不可侵性を要求するものだと信じていた。他方、スイスの有名な非営利団体ディグニタスは、『尊厳をもって死ぬ』ことを希望する人びとの人生の幕引き役を務めることでよく知られている」と述べます。

 カトリック教会は、1人ひとりの人間の尊厳を肯定することと、「同性愛行為は本質的に異常である」という自分たちの教えは、矛盾しないと主張します。他方、ディグニティUSAは、それ自身の表現によれば、「ゲイ、レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダーのカトリック教徒が肯定され、自らの精神とセクシュアリティの統合を通じて尊厳を経験し、神に愛される者として教会と社会の生活のあらゆる面に完全に参加できるようになる。そのような時代を構想し、そのために活動する」組織であるといいます。

 2「キケロとそれ以降」では、尊厳における地位という側面は、この言葉の歴史を紡いできた基礎的な要素のひとつですが、古代ローマにさかのぼる尊厳の意味には、また別の側面があったこともここで紹介しておく必要があるとして、著者は「この側面は、ずっと後の時代になって、はじめて政治的な重要性を帯びていくことになる。ディグニタスという言葉は、ラテン語においては、芸術とりわけ修辞学に関連する批評的な語彙の一部として機能していた」と述べています。

 ディグニタスとその関連語であるグラビタスは、(とりわけキケロの『弁論家について』において)重々しく荘厳な演説を特徴づけるものとして使われていたとして、著者は「それは、軽くて可愛げのある言説(グラティアスやヴェヌストゥスといった言葉が使われる)とは対照的なものであった。そして、(私たち自身の現代的な使い方がそうであるように)この言葉は、演説の作法だけでなく、話者である彼――常に『彼』である――自身を指すものとしても使われた。尊厳の観念と『威厳ある』態度とのつながりのルーツが、ここにある」と述べます。

 キケロは、特定の社会における個人の立場から、より広い現実の秩序の内部において人間が占める場所の問題へと、尊厳を拡張しました。この拡張の動きはルネサンスの時代にふたたび取り上げられることになると指摘し、著者は「最も有名なのは、『人間の尊厳について(デ・ディグニターテ・ホミニス)』として知られるピコ・デッラ・ミランドラの弁論草稿であろう(「として知られる」と書いたのは、このタイトルはピコの死後につけられたことが今ではわかっているからである)。この弁論において、ピコは人間の本質を説明しているが、それはいろいろな意味で、現代世界における人間の自己理解に大きな影響を与えていくことになった」と述べています。

 ピコによれば、人間の独自性は、人はあらかじめ定められた役割を果たすだけではないところにあります。それどころか、人間は自らの運命を選びとるとして、著者は「というのも、神は人間に対して、一連の可能性に従って自分自身を形づくっていく能力を与えており、そのような可能性は他の被造物には与えられていないからである。ピコの弁論は、やがて現代の人権文書に見いだされる尊厳の使われ方につながっていくような、比較的明快な道を拓いたように見えるかもしれない。『尊厳』は、特定の社会において少数の人びとが占める高い地位にかかわる事柄から始まって、自己決定の能力と密接に関連しているような、人間一般の特徴を示すものに変化するのである。しかし、実のところ、これも尊厳の考え方の発展における要素のひとつであるにすぎない。今日の尊厳という言葉の使われ方(およびその下に横たわる不一致の源泉)を理解しようとするなら、より複雑な物語が語られる必要がある」と述べます。

 17世紀になると、ラテン語と同じように英語でも、「尊厳」が価値判断にかかわる言葉としてより広く使われているのが見られます。ミルトンは、1644年の『離婚の教理と規律』の序文において、結婚の価値は男性と女性の社会的関係の性格のなかにあると主張しており、「神は、最初に結婚を定めたとき、どのような目的をもってそれを定めたのかを私たちに教えた。人を孤独な生活の不幸から守り、慰め、元気づけるための男女の適切かつ快活な会話が目的であるということを、はっきりと示唆する言葉づかいであった。子づくりという目的に関しては、必要性についてはともかく、尊厳においては二次的な目的でしかないとして、後になるまで言及されなかった」と書いています。著者は、「ミルトンは尊厳を、人間ではなく、結婚そのものでもなく、結婚が奉仕する意図に属するものとみなしている」と述べます。

 1659年、ボシュエ司教が「教会における貧しい人びとの卓越した尊厳について」という説教を行いました。著者は「ボシュエ司教はフランス国王ルイ14世の宮廷説教師であり、当然ながら、社会的平等の擁護者ではなかった。ボシュエ司教は、貧しい人びとに『卓越した尊厳』を与えることによって、貧しい人びとに貴族と同等(またはそれ以上)の地位を与えるのではなく、むしろ適切に秩序づけられたヒエラルキーの内部において、貧しい人びとは独自の特徴的な価値を有すると主張しようとしていた。それぞれがともに尊厳をもつが、尊厳の内実はそれぞれに異なるというわけである」と述べています。

 三「カント」では、尊厳を歴史的に説明しようとすれば、必ず、カントの尊厳の思想をその中心に据えることになると指摘する著者は、「なぜならそれは、後の時代の人びとに非常に大きなインスピレーションを――正しかろうと誤っていようと――与えることになったからである。とはいえ、カントの倫理学の思想において尊厳が果たす役割は、それほど単純なものではない(というか、残念なことに、容易に説明できるものではない)」と述べています。

 英語やラテン語と同じ(ただし、やや曖昧な)やり方でドイツ語のヴュルデが使われている事例は、現代ドイツの散文に至高の影響を与えたマルティン・ルターの文献に見いだされるといいます。ルターは『キリスト者の自由について』のなかで、真のキリスト者の霊的条件を特徴づけるために尊厳という言葉を用いて、「私はすべてのことを自分の救済に役立てることができる。十字架と死でさえも、私に仕え、私の救済のために協力し合うことを余儀なくされるのだ。これは、高尚で卓越した尊厳であり、正しい全能な支配であり、霊的な王国である。私が信じてさえいれば、どれほど善きものであれ、どれほど悪しきものであれ、協力し合って私に利益を与えないものはない」と述べています。

 カントの尊厳のとらえ方では、人間は人間以外の被造物とは異なる例外的存在ということになります。著者は、「道徳性だけが尊厳を有するのであり、人間だけが自らの内部に道徳法(moral law)を保持しているのだから、河川、木々、犬たちと同じような意味で人間が自然の世界の一部だと考えるのは、誤りだということになる。しかし、カントの尊厳のとらえ方は、同時に深く平等主義的でもある。尊厳はすべての人間が共通して有するものである。私たちは皆(つまり、「理性の時代」に到達した者は皆、という意味だが)、社会のなかでどのような場所を占めるかにかかわりなく、尊厳が命じるところに支配されるのであり、そのことによって私たちは譲り渡すことのできない内的な価値を与えれられるのである」と述べます。

 4「優美と尊厳」では、シラーが登場します。シラーにとって、優美と尊厳は、行動あるいは態度にみられる特徴です。優美と尊厳は人間の主体性をどう説明するかに関係していると指摘し、著者は「そこでは人間の自然な性格と欲求――カントの用語では私たちの『傾き』――と、理性的で道徳的な意志に由来する道徳性の要請とが(カントがそうしたように)対比されるのである。シラーは、カントの道徳哲学の明らかな帰結に悩まされた最初の読者の1人であった(けっして最後の読者ではない!)」と述べます。

 続けて、著者は「カントによれば、よい行動をしようとする自発的で反省に欠ける気質には、いかなる道徳的価値もない(実際、それは道徳的な観点からは、望ましくないとさえみなせるかもしれない)。これに対して、シラーは『優美』の観念を持ち出す。優美な人とは、ただ正しいことをするだけでなく、内的葛藤や苦しい選択の過程なしにそれを行う人のことである。私たちの性格と、道徳性が求めるものとが自然発生的に調和しているならば、私たちは、内なる抵抗を克服する必要もなく、善なのである」と述べています。

 シラーによる尊厳の斬新な再解釈は、道徳性と美学を結びつけ、両者に道徳心理学的な共通の基礎を与えると指摘する著者は、「優美と尊厳は、主体性の表現として立ち現れる美的性質である。しかし、それらはけっして道徳と切り離されたものではない。優美と尊厳は、カント的な観点からすれば私たちの道徳状況の中心的な特徴だと思われるものに結びついている。つまり、私たちの義務と私たちの傾きは、永遠に対立する可能性があるのだ」と述べます。

 そういうわけで、シラーによる尊厳のとらえ方は、カント的な道徳哲学と密接に結びつきながらも、この言葉に新たな意味を与えるとして、著者は「優美と尊厳は、ふたつの基本的な美徳を特徴づける表現である。すなわち、自発的に立派に行動できる能力(優美)と、自らの自然な傾きの抵抗にもかかわらず立派に行動できる能力(尊厳)である。そうすると人は、基本的な人間性を失わないままで、多かれ少なかれシラー的な尊厳を有しているということかもしれない」と述べるのでした。

 6「ヒエラルキー」では、今日のカトリック教会は、社会的平等の観点から、世俗的な人間の尊厳のとらえ方と闘おうとしているとして、著者は「そういうわけで、ヨハネ・パウロ2世は、『いのちの福音』(1995年)において、「人種、国籍、宗教、政治的意見、社会階級にかかわらず、個々人が人間として有する価値と尊厳により敏感であるような道徳的な感受性がグローバルな規模で育ってきていることを示すような、人権をめぐる様々な宣言と、それらの宣言が鼓舞する多くのイニシアチブ」(18)と、自由民主主義社会において、まだ生まれていない者や長期の植物状態にある者にも平等な権利を与えることが(彼の理解によれば)不当にも否定されていることとの間には、矛盾があると主張したのである」と述べます。

 また、著者は以下のようにも述べるのでした。
「同じように、ヨハネ・パウロ2世は、彼の使徒的書簡『女性の尊厳(ムリエリス・ディグニタテム)』(1988年)において、女性は男性に従属すべきだという考え方を否定する。彼は(レオ13世とはまったく対照的に)、それは女性の権利に反すると述べる。しかし彼は同時に、男女の「明確な相違と個人の独自性」にかかわる尊厳が維持されなければならないとも強く主張する」

 第2章「尊厳の法制化」の3「カント的な背景――人間性の定式」では、尊厳は人格性の不可侵の特徴だというドイツ連邦共和国基本法の原理は、カントにまでさかのぼることができるといいます。『道徳の形而上学』で、カントは「人間性はそれ自体が尊厳である。なぜなら、人間は誰によっても(他者によっても、または自分自身によってさえも)単なる手段として用いられてはならず、常に、同時に、目的として用いられなければならないからである。そしてそこに、まさに人間の尊厳(人格性)が存するのであり、それによって人間は、世界において、人間ではなくて用いられることができるすべての存在、すなわちすべてのものの上にあるのである」と書いています。

 4「カトリックの思想とドイツ連邦共和国基本法」では、19世紀のカトリックの倫理思想、社会思想において、「尊厳」は人権に代わるものとして重要な役割を担っていたとして、著者は「それは、民主的で平等主義的な様々な考え方に反対し、社会や家族というものは神によって定められた(とされる)下降していく権威のヒエラルキーを体現しているという見方を支持するために、(たと えばローマ教皇レオ13世によって)利用されていた」と述べています。

 19世紀末から20世紀初頭にかけて、カトリック教会は、人民主権という民主的な考え方に人びとが固執し続けた結果として、社会主義という有害なものが生まれたととらえていました。カトリック教会が民主的平等主義に反対したことで、様々な急進的右翼――ファシストやファランジスト――の運動に対する批判が削がれることとなり、このことが(控えめに言って)国家社会主義に対抗する力を損なわせることになったのです。著者は、「素直に言ってしまえば、19世紀のカトリック的な尊厳の観念は、フランス革命の諸原理に対抗するカトリック教会の長い闘いの一部なのであった」と述べます。

 8「主意主義」では、重い病は人間の自制の力を脅かすとして、「尊厳死」というスローガンは、そのような意味での尊厳が消えてしまう前に、人間には、自律によって、そうした状態から逃れることを選択する権利が与えられるべきだ、という要請を表現するものであると述べられます。著者は、「死の間際にある者が尊厳をもって扱われる資格を有すること(つまり、適切な敬意をもって扱われること――尊厳の意味の第4の要素である)については、カトリックもリベラル派も同意するだろう。しかしカトリックは、(人間の内在的な価値という意味での)人間の尊厳が人びとに生死を選択する資格を与えるという主張については否定する。カトリック教会の公教要理が明確に示しているところによれば、カトリックの見解では、人間には自らの生命を終わらせることを選択する権利は与えられていない」とも述べています。

 第3章「人間性に対する義務」の1「人間主義」では、著者は以下のように述べています。
「誰かの尊厳に敬意を払おうとすれば、その人を『尊厳をもって』扱わなければならない――それは、その人を貶めたり、侮辱したり、軽蔑を表明したりしてはならないということである。しかし、敬意をもって扱われるに値すると私たちが考えるのは、生きている人間だけではない。私たちは、昔から定められた儀礼によって、人間の遺体を処理することが求められている。そうした儀礼の正確な内容は非常に多様である――埋められるべきか、焼かれるべきか、それともハゲタカの餌となるにまかせるべきか――しかし、遺体の存在感と、それらがもつように見える象徴的な力は、驚くほど共通している」

 6「カント」では、プラトンとカントという二大哲学者の思想が対比されます。著者は、「プラトンにとって、内在的に善きものに対する適切な態度というのは、認知的なもの――それを知ろうと努力すること――である。結局のところ、正しい行動はそれ自体、ある種の知識の表現なのである。カントにとって、内在的に善きものは、それが内在的な善さ――尊厳――をもつという事実に敬意を払うようなやり方で扱われなければならない」と述べています。

 また、著者は「ここでいう『敬意』は、遵守としての敬い(私たちが速度制限を守るようなやり方で善きものを敬うこと)ではなく、私たちはそれに対して敬意を払う態度をとり、この態度を表現するような形で行動しなければならない、ということを意味する。カントの倫理学は義務の倫理学であるが、それはまた、敬意の倫理学、名誉の倫理学、あるいは畏敬の倫理学とさえ呼んでもいいかもしれない。その指針となる思考は、私たちには、敬意を込めて、かつ敬意を受けるに値するようなやり方で、行動する義務がある、ということである」とも述べます。

 18世紀から19世紀にかけて、道徳哲学に巨大な革命が起きました。この時代、創造主である神に言及することなしに、包括的な道徳の体系が発展したのです。著者は、「神の意志に関する主張を行うことで直接的に、または、神による創造において明らかになった(とされる)目的に言及することで間接的に、神に言及するようなことは、なされなくなった。そのような体系の提唱者たちが誰も神を信じていなかったわけではない。かれらはただ、道徳性を宗教から分離しようとしていたのである。今日私たちが知っているこの種のアプローチの主要なものには、明らかに、功利主義がある」と述べています。

 もうひとつ、カント主義も一般にそのようなものだと考えられているとして、「確かにカントは、道徳を神の信仰や目的論的な自然観から独立させている。しかし、ここで示した解釈に従うとすれば、カントの道徳哲学は、人間性の『不可侵の神聖さ』と、私たちの人格のなかの人間性に対する敬意(カントのアハトゥング(Achtung)という言葉は、普通はrespect(敬意)と訳されるが、reverence(畏敬)とした方がよいかもしれない)を強調するものとして、けっして完全に世俗的だとはいえないものであることが明らかになる」と述べます。

 7「プラトン主義なき義務」では、ジョナサン・グラバーが素晴らしい著作『人間性――20世紀の道徳の歴史』のなかで記録しているように、20世紀の最も暴力的で破壊的な行為の多くを特徴づけるもののひとつが、犠牲者への侮辱であり、象徴的な貶めであるとして、著者は「グラバーが指摘する事実のひとつに、拷問者がしばしば、グラバーが『冷酷なジョーク』と呼ぶものを用いるということがある――たとえば、かれらの犯罪の道具や文脈に、皮肉にも無害なニックネームがつけられる(「鉄の処女(アイアン・メイデン)」や「幼児の遊び部屋(ロンパー・ルーム)」を考えてみよ)。これは確かに、かつてジョージ・オーウェルが描いた世界につながっている。ユーモアが『画びょうの上に座る尊厳』だとすれば、冷酷なジョークは、尊厳を象徴的に掘り崩すきわめて効果的な方法である。そして、そのような尊厳の否定は、悪へと向かう心理的な道を開くものである」と述べています。

 尊厳にかかわる危害はまた、物質的な性格をもつかもしれないとして、著者は「人間の尊厳を侵害する主要な方法のひとつは、威厳をもつやり方で振る舞うのを妨害することである。威厳を傷つけられるような扱いを受けている人びと――たとえば、自分の身体を洗えなかったり、きちんとしたトイレを使えなかったりする囚人――は、そうした品位を貶められるような状況にもかかわらず、理性と自己決定の力を維持することによって、シラー的な意味での偉大な尊厳を示すことになるかもしれない。それは確かなことである。それでも、結びつきは残っている。すなわち、人を貶める扱いの要点のひとつは、ただ単に侮蔑を表現するのではなく、そうすることでその被害者の尊厳への能力を掘り崩すことにあるのである。このような扱いが目的に反して失敗することもあるが、それは、被害者のもつ自制心――したがって、尊厳――の程度が並外れて大きいことを示している」と述べます。

 そして、著者は以下のように述べるのでした。
「シラーが認識していたように、人間性に対する敬意は、私たちが動物的な存在であるという紛れもない物質的な事実を避けることができない場合においてさえ――死や苦しみといった文脈においてさえ――(あるいは、実際、そのような場合においてこそ)、私たちに人間の価値を際立たせることを求める。そこで、私がとても感動した(そして勇気づけられた)カントについての有名な話でこの本を締めくくりたい。それは彼の死の9日前のことだった。その偉大な男は年老いて、絶望的に衰弱していた。にもかかわらず、彼は客人(彼の医者)が先に席に着くまで、自分が座ることを拒んだ。最終的に座るよう説得されたとき、カントはこう言ったという。『人間性の感覚はまだ私を見捨てていない』、と」

 「訳者あとがき」には、「この本が出版される年は、2011年の東日本大震災から10年目にあたる。時間が経過しても、人びとは繰り返し犠牲者に対する敬意を示すことで、死者の尊厳を保っている。当時を思い起こせば、避難所で食べ物を受け取る際に、整然と列をなしていた被災者の姿にも、人間の尊厳としか形容できないものがあった、そして今、多数の人びとの命を奪った海を見ながら、私たちは、自然の尊厳と呼ぶべきものがありはしないかと感じることもある。こうしたすべての思いを整理できないまま、私たちは尊厳について語り続けている」と書かれています。

 また、「2020年、新型コロナウイルス感染症が拡大するにつれて、世界の多くの国々で、多くの死者が適切な葬儀もなく埋葬されていった。国内においても家族が、友人が、離ればなれに生きることを強いられた。夜の繁華街で騒がないといった威厳ある行動が求められる反面で、仕事を奪われ、誇りを奪われる人びとが相次ぎ、ドメスティック・バイオレンス(DV)が増加し、自殺者も増えた。コロナとともに生きる日常において『取り残された人びと』の尊厳が、厳しく問われている」と書かれています。

 尊厳の概念は、さらに多くの領域で語られているとして、「たとえば、人間の生命に対する人為的な操作(人工妊娠中絶、ヒト胚ゲノム編集)、自分の人生の終わらせ方(いわゆる尊厳死、終末期医療、エンディングノート)、そしてジェンダー問題、マイノリティへの差別や迫害、老人と若者それぞれが抱える問題と世代間の対立、技術革新の影響(AIと雇用、ロボットと介護、身体の一部の機械化)など、これらすべての議論において人間の尊厳の概念が援用されている」と書かれています。

 ローゼンによれば、尊厳には3つ(ないし4つ)の構成要素があるといいます。それらの要素はねじれて結びつき、時代とともに摩擦を起こしたり、強固な束となったりするなかで、人びとの思考に影響を与え続けてきました。尊厳は、単独で成立する規範ではなく、いくつかの規範が結びついた複合的な規範なのです。その3つとは、第1は「地位としての尊厳」。第2は「本質としての尊厳」。第3は「態度としての尊厳」です。

 そして、「訳者あとがき」」には、「死せる者に敬意を表する具体的な方法は、その社会に属する人びとの相互的な関係性に依存する。したがって、その方法は地球上の場所に応じて実に多様であるけれども、死者を敬う態度それ自体は人類の社会に共通するはずである。尊厳と敬意の表明にかかわるこのようなアプローチをふまえて、本書が、哲学と人類学、美学と倫理学、そして人文学と科学といった人類の知の体系の対話――さらには宗教の対話――を促していくことを期待したい」と書かれています。この「死者を敬う態度それ自体は人類の社会に共通するはずである」という考え方は、拙著『唯葬論』(三五館、サンガ文庫)で展開した主張にも通じます。「死者の尊厳」とは「人間の尊厳」そのものなのです。

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