No.2111 芸術・芸能・映画 | 評伝・自伝 『私は女優』 浅丘ルリ子著(日本経済新聞出版社)

2022.03.07

 『私は女優』浅丘ルリ子著(日本経済新聞出版社)を読みました。昭和を代表する女優の1人である著者は1940年生まれで、現在81歳。1954年、映画デビュー。日活映画の小林旭「渡り鳥シリーズ」や石原裕次郎アクションシリーズで活躍し、松竹映画「男はつらいよ」ではマドンナ役の「リリー」が大人気。1980年代以降は舞台を中心に活躍中。2002年紫綬褒章、2011年旭日小綬章受章。「日本経済新聞」連載の「私の履歴書」の記事をもとに2016年7月15日に初版が出ました。

本書の帯

 表紙カバーには著者の顔写真が使われ、帯には「知られざる生い立ちから76歳の現在まで、自ら言葉を選びぬいて綴った自伝決定版!」「日活映画の美しきヒロイン、寅さんのマドンナ『リリー』、舞台では烈しい女性を体当たりで……彼女の放つオーラに名だたる監督・演出家・俳優が魅せられ、銀幕の恋から私生活まで、誰もがあこがれた”スター”がここにいる」「華麗に、しとやかに、情熱的に、いまも『女優』を生きつづける」

本書の帯の裏

 アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
「戦後の名女優となると、田中絹代、高峰秀子、原節子……しかし、若者の風俗にまで多大な影響を与えたアイドルであり大スターとなると、やはり浅丘ルリ子、だろう。日活映画で小林旭、石原裕次郎の相手役ヒロインとして一世を風靡し、その後は国民映画・寅さんのマドンナとして人気を集め、蜷川幸雄演出の舞台で激しく生きた女を演じきる。中学時代にデビューし、華麗な男性遍歴も含め実生活でも『女優』を生きてきた浅丘さんには、自らの意志でその生い立ちからプライベートを綴った著書はこれまでない」

 続けて、こうも書かれています。
「本書の元となった新聞連載では、ストーリーをつくることなく、巡り会った人たちとの思い出を読み切りスタイルにし、断片を断片として編んでいったことで、『女優を生きる』浅丘さんにとっては自らの半生を『演じる』ことに成功した。家族、中原淳一、蔵原惟繕、美空ひばり、赤木圭一郎、勝新太郎、加山雄三、山本薩夫、石坂浩二、森光子、鶴橋康夫、倉本聰、蜷川幸雄、市川崑、高倉健、大原麗子、菅野美穂・堺雅人、松山ケンイチ……断片的には過去のインタビューで語られていたことも、そのときの思いまで言葉にすることで、連載中にたびたび週刊誌が記事にした。スキャンダラスな告白も飛び出したが、その爽やかとも言える言葉は大物女優の存在感をあらためて示すものとなった」

 さらには、以下のように書かれるのでした。
「それに加えて本書では、女優・浅丘ルリ子の素顔を3人の男たちが語るロングインタビューと対談を収録。対するのは、寅さんのマドンナ『リリー』の生みの親の山田洋次監督、日活時代の弟分・高橋英樹氏、舞台女優となっての盟友・近藤正臣氏。男たちに自らの魅力を語る言葉を引き出す話術は読み応えたっぷり。いや話術というよりも、あの大きな瞳で見つめられたら……読んでますますミステリアスな異色の自伝である」

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。
Ⅰ 私の履歴書
Ⅱ 私にとっての女優・浅丘ルリ子
映画監督 山田洋次が語る女優・浅丘ルリ子
対談 高橋英樹×浅丘ルリ子
対談 近藤正臣×浅丘ルリ子
「浅丘ルリ子出演作品」

 Ⅰ「私の履歴書」の「心の故郷・神田」では、著者が少女時代を過ごした故郷の東京・神田の神保町にあった映画館街に言及し、妹たちを連れて東映の時代劇などを観ていたという著者は、「松竹映画の『君の名は』にも夢中になった。主演の岸惠子さんに会いたくて、『追っかけ』や『出待ち』をしたこともある。美空ひばりさん、若尾文子さん、北原三枝さん……。好きな女優を挙げたら、もう切りがない」と書いています。

 また、著者は洋画も大好きだったそうで、「『巴里のアメリカ人』『ナイアガラ』『グレン・ミラー物語』『ショウほど素敵な商売はない』など様々な作品を手当たり次第に鑑賞していた。だから毎日が楽しくて仕方がない。こうした経験は、芸能活動を続けるうえでいまも欠かせない自分の財産になっている」とも書いています。かなりの映画少女だったようですね。

 「女優デビュー」では、著者14歳でのデビュー作にして、初のカラー映画出演となる「緑はるかに」(1955年)に言及します。作品は科学者だった主人公の父が残した秘密のオルゴールを巡る冒険劇。スパイ団に追い掛けられるルリ子や孤児院から抜け出した少年たちが活躍します。映画「オズの魔法使」を参考にして歌や踊りをふんだんに取り入れたミュージカル仕立てでしたが、著者は「作品が公開されると、私はすぐに中学の先生や同級生らと一緒に神田日活まで見に行くことになった」と述べます。

 また、著者は「普段から慣れ親しんだ映画館のスクリーンで自分の姿を見るのはとても不思議な気分。恥ずかしかったが、「私はあの憧れの銀幕に出ているんだ」と思うと、なんだか誇らしい気持ちになった。私の芸名は主人公の「ルリ子」をそのまま生かし、本名の「浅井」から一文字取ることにした。名付け親は井上梅次監督。新人女優「浅丘ルリ子」はこうして誕生した」とも書いています。

 「ファーストキス」では、デビュー2年目となる15歳のときに「愛情」という青春映画で初めてのラブシーンを演じたことが語られます。相手役は長門裕之でしたが、著者は「映画では実年齢よりもませた役を演じることが多かったので、演技のよい勉強にもなった。登場人物の心理描写や時代背景など、私は映画の台本を通じて学校の授業の代わりに様々なことを学んだのだ(後で分かったことだが、後に人気スターになる坂本九さんや岩下志麻さんがこのころ、私にファンレターを送ってくれたらしい。大切に保管しておけばよかったが、当時からファンレターは大量にあったのでどうしようもない。残念なことだ)」と書かれています。坂本久や岩下志麻が著者のファンだったとは知りませんでした。これは日本映画史を振り返る上で貴重なエピソードですね。

 「職場恋愛」では、「1958年。日活で『運命の人』と出会う。児童劇団の子役から人気スターにまで一気に登り詰めた小林旭さん。私よりも2つ年上。シャープな顔立ちに筋肉質の体。ヤンチャで武骨で危険な香りが漂っている。一目会ったときから私は恋に落ちていた」と書かれています。小林旭は著者のことを本名の「信子」にちなんだ愛称で「ぶう」と呼んだそうです。

 小林旭は「俺さ。ぶうのことが好きになっちゃったみたい……」と、少しはにかみながら、本気とも冗談とも取れるような口ぶりで著者の気持ちに探りを入れてきたそうです。著者は、「『嫌ね。もう。恥ずかしいわ』。こう答えながらも私はうれしかった。共演2作目の『絶唱』ではもう有頂天。お互いの恋心が画面ににじみ出ていて、演技をする必要がまったくなかった」と述べます。

 しかしながら、著者は「ただ断っておくが、私は男性と同棲したり、外泊したりしたことはこれまで一度もない。両親が厳しかったので、そんなことをしたらおそらく勘当されていただろう。交際で男性に二股かけた経験もない。その辺りは意外に古風なのだ。『渡り鳥』シリーズは地方ロケが多かった。函館、宮崎、佐渡、会津、釧路など観光地を巡業のように飛び回る。すると、撮影のたびに見物人が押し寄せてすごい騒ぎになった」とも書いています。

 「渡り鳥」シリーズの地方ロケの盛り上がりぶりは凄かったようで、著者は「私たちの乗ったクルマにファンが群がったり、特急を途中の駅で臨時停車させたり。おまわりさんが『ロケのせいで町中の家が空っぽになってしまった』と驚いたくらい。海外ロケとなった『波濤を越える渡り鳥』は思い出深い作品。香港のビクトリア・ピーク、タイのエメラルド寺院やアユタヤ遺跡……。撮影の合間を縫って旭さんとつかの間のデートを楽しんだ。青春真っ盛り。若い2人はほとばしる情熱を抑えきれずにいた」と書いています。

 「結ばれぬ恋」では、結局、人気スター同士の2人は別れたことが書かれています。当時の日活の堀久作社長は「裕次郎には恋をさせろ」「旭には恋をさせるな」と社内に厳命を下していたといいます。著者は、「後日談だが、旭さんから衝撃的な事実を知らされた。実は父に『信子さんをお嫁にください』と直訴したことがあるというのだ。共演していた『渡り鳥』シリーズが徐々に終わりかけたころ。1962年前後のことだったという。『残念ながら、うちの娘はまだ嫁にはやれません』父ははっきり断ったという。当時の私は22歳で女優としてはまだ成長途上。身を固めるのには時期尚早と考えたのだろう。私の将来を考えたうえでの父の判断だった。でもそのことが旭さんの心を深く傷付けてしまったみたい」と書いています。

 著者は、その後の人生でも「もし旭さんと結婚していたらどうなったかしら?」と考えることがあったとして、「それもひとつの人生に違いない。でも旭さんは「結婚したら女性は家庭を守るもの」という封建的な考え方が強いから、今の女優としての人生はおそらくなかったはず。そう考えると、旭さんとは結婚しなくて、やはり良かったんだと思うことにしている。父に求婚を拒絶されたことが影響したのだろうか。私と旭さんとの関係は徐々に疎遠になっていく。旭さんが美空ひばりさんと急速に仲良くなるのはその後のことだ。ひばりさんが楽屋で旭さんにお弁当を差し入れているのを見ていたので『へえ、2人は付き合っているんだ…』とうすうす感付いていた。だから私とは自然消滅。ひばりさんが私から無理やり旭さんを奪ったわけではない」と書くのでした。

「ひばりさん」では、美空ひばりと著者との親交について書かれています。ひばりと著者がプライベートで親しくなったのは東京・成城の石原裕次郎の自宅でのパーティーでした。「ひばりさんと旭さんの結婚祝いをしよう」と裕次郎が仲間に声を掛けて企画したのです。著者は、「私の姿を見るなり、ひばりさんは明るい笑顔を見せながら、手を差し出して陽気に声をかけてくれた。『ねえ、音楽に合わせて一緒に踊りましょう』2人はバンドが演奏する軽快な洋楽に合わせてチークダンスを踊った。肌と肌を合わせて濃厚に……。私の肩に回したひばりさんの手は柔らかくて温かだった。私と旭さんが恋人同士だったということを、ひばりさんはもちろん知っているはずだ。だから私に気を遣ってくれたんだと思う。そんな2人の様子を旭さんは遠くから静かに見守っていた。以来、互いにすっかり打ち解けて、『のぶちゃん』『ひばりさん』と呼び合う仲になる。ひばりさんは私より3つ年上。その後も末永く、私を妹のようにかわいがってくれた」と書いています。とても良い話ですね。

 美空ひばりは周囲に気配りできる繊細な人だったようです。著者は、「ある晩、赤坂のナイトクラブ『ニューラテンクォーター』でお酒を飲んでいたときのこと。そのとき一緒にいたメンバーは私、ひばりさん、裕ちゃん、勝新太郎さんたち。だが驚いたことに、ひばりさんはその間、皿に山盛りの巨峰の皮をずっとむき続けているのだ。ご丁寧に種まで全部取って……。男たちが食べやすいようにという配慮からだった。(あの天下の歌姫、美空ひばりがナイトクラブの片隅でブドウの皮むきに専念しているなんて……)私はあぜんとしていたが、ただボサッと見ているわけにもいかず、ひばりさんの隣でブドウの皮むきをせっせと手伝うことになった」と書いています。これも良い話ですね。わたしは、美空ひばりという人への見方が変わりました。

 小林旭と別れた著者は、映画監督の蔵原惟繕と恋愛します。蔵原作品である「憎いあンちくしょう」(1962年)は、著者が出演した映画158本の中でも一番好きな作品だそうです。共演は石原裕次郎でした。「蔵原監督」の中で、著者は「私は女優として、魂をぶつけるくらいの覚悟で心も体も仕事にささげることができるようになっていた。いまでも忘れられないのがロケ先の波止場で思い出。車の中で休んでいたら、蔵原さんがスタッフを大勢引き連れて颯爽と歩いている。『なんて格好いいのかしら』。そのとき、私の胸の奥から熱い恋愛感情がこみ上げてきたのを鮮明に覚えている」と書いています。

 蔵原監督はフランスの映画運動ヌーベルバーグの名監督たちを敬愛していました。ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロルなどです。著者は、「なにかのインタビューで蔵原さんが『僕がゴダール監督なら、浅丘さんはさしずめ女優アンナ・カリーナかな』と話していたと聞いて、私はうれしくて小躍りした。ゴダールとアンナは芸術を作り上げようとした『同志』であり、情熱と絆で固く結ばれていた『恋人』だったから……」と書いています。

 「合宿所」では、日活の調布撮影所で起こった悲劇について言及されます。赤木圭一郎の事故死です。著者は、「1961年2月14日昼過ぎ。ドーンという不吉な低い轟音が鳴り響いた。趣味のゴーカートを試乗していた赤木圭一郎さんが運転操作を誤って倉庫の鉄扉にそのまま激突し、頭を強打して瀕死の重傷を負ってしまったのだ。赤木さんは直ちに病院に搬送。撮影所にいた私たちもすぐに病院に向かった。でも赤木さんはなかなか意識を戻さない。そして1週間後。残念ながら、21歳の若さで非業の最期を遂げてしまった」と書いています。 赤木圭一郎は石原裕次郎や小林旭に続く「第三の男」として期待された日活の「希望の星」でした。ファンや関係者の衝撃は計り知れませんでした。著者は、「私も突然の死が信じられなかった。『拳銃無頼帖』シリーズなどで何度も共演した赤木さん。『あんなに元気で優しかったのに・・・・・・』。『白昼の悪夢』はいまでも私の網膜に生々しく焼き付いている」と書いています。

 赤木圭一郎の事故死は、日本映画史に残る悲劇でした。「石坂さん」では、結婚した石坂浩二のことが語られます。ある日、著者と仲良しだった加賀まりこから「あのね。私の知り合いがルリ子さんに会いたがっているの……」と電話が入りました。「私の知り合い」とは石坂浩二のこと。かつて2人は恋人同士でしたが、このときにはすでに交際は終わっていたのです。著者は即座に「え、石坂浩二? 嫌よ。だって別にタイプじゃないもん……」と答えたそうです。そして、「私はどちらかというと石原裕次郎さんのような体育会系が好み。石坂さん青白い文学青年みたいであまり好きなタイプではなかった。だからそのまま放置していたら、どういうわけかテレビドラマの夫婦役で共演することになってしまったのだ」と書いています。

 「リリー」では、1973年公開の松竹映画「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」で初めてマドンナ役を演じた三流歌手のリリー松岡について語られます。ただの美人や平凡な女性ではつまらない。どこか崩れて擦れた感じの役の方が好きなのだという著者は、「寅さんとリリーの共演には全国のお客さんから大きな反響があったようだ。おかげでシリーズ全48作のうち計4回もリリー役として出演させてもらった。芸能生活でリリーと出会えたのは最もうれしかったことの1つ。女優としての芸域もこの作品を機に大きく広がった。リリー役として寅さんシリーズに初めて登場したこの年。私は石原プロモーションを離れて独立する。33歳になっていた。『男はつらいよ 寅次郎忘れな草』は、当時の私に必要だった勇気や自信や夢を与えてくれた大きな記念碑のような作品になった」と書いています。

 「心の恋人」では、石原裕次郎の死について語られます。著者は、「1987年7月17日。ついに悲報が届いた。闘病生活を続けていた石原裕次郎さんが52歳で逝去したのだ。動脈瘤の摘出手術を受けて奇跡的に回復したが、病状が悪化して帰らぬ人となってしまった。好きなお酒やたばこを控えていたというから、再起への思いの強さがうかがえる。病床で『がんばって』と励まされ、それに答えるように何度かうなずいた後、眠るように静かに息を引き取ったという」と書いています。

 著者は、裕次郎との思い出を以下のように語っています。
「初めて会った日活撮影所の食堂前、夕暮れの甲板でのキスシーン、東京から熊本までジャガーを走らせたロードムービー、アフリカで苦労した海外ロケ…。様々な思い出が走馬灯のように脳裏を駆け巡ってゆく。裕ちゃんとの関係をどう表現したらいいのだろう? 適切な言葉がなかなか見当たらない。日活の黄金期をともに支えてきた『同志』であり、私にとっては頼りがいのある『お兄さん』であり、『心の恋人』でもあった。血よりも濃い絆で結ばれた不思議な関係だった。裕ちゃんはいつも温かく、優しかった。ロケ先の神戸で街の灯が輝く夜景を見ながらロマンチックなデートを楽しんだこともある。休暇先のハワイの海辺では裕ちゃんの肩に抱かれて赤い夕日が落ちるのをずっと眺めていたこともある。どれもこれも生涯忘れられない思い出だ」

 仕事で裕次郎の葬儀に参列できなかった著者が、後日、裕次郎宅に焼香しに行ったときのこと。裕次郎の未亡人である北原美枝と著者は祭壇を離れ、隣の部屋に移りました。そのとき、不思議な現象が起きます。部屋のドアが音もなくスッと開いたのです。まったく風もないのに……。美枝夫人は「あ、いま、裕さんが入ってきた。会いに来たんだと思うわ」と驚いたようにつぶやいたといいます。著者は、「天国にいる裕ちゃんが私に会いに来てくれたのだという。きっと独りぼっちで寂しかったに違いない。そう思うとうれしくなって、私の目から再び熱い涙がポタポタとこぼれ落ちた」と書いています。

 「三姉妹」では、著者は「美空ひばりさんは、裕ちゃんとともに長年、親密にお付き合いしてきた私の尊敬する先輩である。日本の歌謡界を代表するスターなのに、少しも威張り散らしたりしない。私より3つ年上のお姉さんみたいな女性だった。私の妹分の大原麗子さんと3人でよく遊んだ。言ってみれば、芸能界の”三人姉妹”みたいなものだ」と書いています。その三姉妹の長女が亡くなりました。「不死鳥」で、著者は「享年52歳――。裕ちゃんが亡くなったのもくしくも同じ52歳。裕ちゃんが天国に旅立った2年後にひばりさんも後を追う形になった。ともに芸能界を引っ張ってきた昭和のスーパースター。私にとっては芸能界のかけがえのない”兄姉”だった。まだ若くして亡くなってしまったのが残念でならない」と述べます。

 著者は、ひばりから贈られてきた数々の指輪を、花かごのようなブローチに作りかえることにしました。ダイヤ、ルビー、エメラルド、サファイア……。すべての指輪を一度に身に付けることができるように、指輪から宝石だけをとって、花束のように飾り付けし直したのです。著者は、「これならいつもひばりさんの贈り物を身に付けていることができる。赤、白、緑、黄……。様々な光が反射するすてきな宝石の花かごになった。うれしいとき、悲しいとき、苦しいとき。私は思い出したようにこのブローチを取り出し、天国にいるひばりさんと心のなかで言葉を交わしている」と述べています。

 そして、三姉妹の三女だった大原麗子も亡くなります。彼女は正月も誕生日も親戚の結婚式も、著者の家族にとっては欠かせない存在でした。著者よりも6つ年下。一番下の妹が4つ下ですから、言ってみれば著者の家の”5番目の娘”ということになります。「麗子」で、著者は「女優の内面は難しいものだ。いくら元気づけても自信を取り戻してくれなかった。神経疾患『ギラン・バレー症候群』を患い、その症状がもう出ていたのかもしれない。

 多くの人に愛された大原麗子でしたが、次第に周囲に当たり散らすようになり、独りでふさぎ込む時間が増えていったといいます。著者とも何度も言い争いになり、多くの知人からも次第に敬遠されるようになっていきました。彼女の告別式で、著者は「私の妹、麗子へ。あなたがどんなに私のことを拒否しても、姉としてあなたの心をきちんと受け止めてあげるべきだった……。本当にごめんね、麗子。こうしてあなたに話しかけている私にはもうなんのわだかまりもありません」と弔辞を読み終えました。そして、静かに祈りを捧げるとと、遺影の端正な顔が一瞬クシャクシャにゆがんで泣きじゃくっているように見えたそうです。

 「挑戦」には、以下のように書かれています。
「2016年7月2日。私は76歳を迎えた。私には夢がある。80歳になったら高齢の姉妹が主役の映画『八月の鯨』に出てみたい。これは1987年公開(日本公開は88年)の米国映画。大女優のリリアン・ギッシュとベティ・デイビスが共演した傑作である。『ルリ子さんと倍賞千恵子さんで日本版やったらおもしろいな……』山田洋次監督からこう言っていただいた。晩年を迎えた老姉妹の人生の哀歓を描いた名作だけに、80歳の自分にしか演じられない深い味わいが出せたらどんなに素晴らしいことだろう。今からとても楽しみにしている」

 そして、著者は「生涯現役――。『女優』として人生を最後まで全うできたらこれ以上の幸せはない。人々の心を癒やし、多くの楽しみを送り届けたい。幼いころに感じた原点を忘れず、最後の瞬間まで全速力で走り抜け、いつまでも輝いていたい。それが自分の使命だという気がする」と述べるのでした。

 Ⅱ「私にとっての女優・浅丘ルリ子」では、俳優の近藤正臣と著者の対談が面白いです。憧れの役者についての話題となり、著者は「私は憧れというと、原節子さんみたいな女優さんになるのが夢だったな」と言います。司会者が「先日、お亡くなりになりましたね(2015年9月5日没、95歳)」と言うと、著者は「女優としてのイメージを壊さないように身を引かれたんです。絶対に私生活は見せないようになさっていた。立派な生き方だったと思うわ。私もできればそんな生き方をしてみたかった。でも私生活をメディアにずっと報道されてきたから結局、無理だったわね……。原さんはテレビでも雑誌でも絶対にご自分の素顔をお見せにならなかったでしょう」と語っています。近藤正臣も「身を引いた後のあの見事な生きざまですね」と言っています。

 また、「浅丘さんにとって、憧れの女優さんは原さんのほかにもいますか」という司会者の質問に対して、著者は「いっぱいいるわ。岸惠子さん、若尾文子さん、有馬稲子さん、岡田茉莉子さん、北原三枝さん……。みんな憧れの大スターばかり。なかでも岸惠子さんが一番好きだった。日劇で岸さんの『出待ち』をしたこともあったわ。なんと言っても、佐田啓二さんと一緒に『君の名は』(53年公開)に出てるんだからすごいわ」と語ります。

 「浅丘さんは岸さんと共演したことはありますか」という問いに対しては、「アガサ・クリスティー原作のテレビドラマ『大女優殺人事件』(2007年放映)で初めて岸さんと共演することができたの。そのときはうれしかったわ。岸さんはいつでもかくしゃくとしていらして、頭も良くて、語学もおできになるでしょう。文才もあって本も何冊もお書きになっているから、私にとってはいつまでも憧れの女優さんなんです」と語るのでした。

 一条真也の読書館『岸惠子自伝』一条真也の読書館『美しく、狂おしく 岩下志麻の女優道』にも書いたように、わたしは岸惠子と岩下志麻の大ファンなのですが、本書『私は女優』を読んで、著者は岸惠子のファンで、岩下志麻は著者のファンだったことを初めて知りました。なんと、岸惠子→浅丘ルリ子→岩下志麻という大女優の系譜が存在したのです!

Archives