No.2092 宗教・精神世界 『書き換えられた聖書』 バート・D・アーマン著、松田和也訳(ちくま学芸文庫)

2021.12.24

 今日は、クリスマス・イブですね。
 『書き換えられた聖書』バート・D・アーマン著、松田和也訳(ちくま学芸文庫)を読みました。わたしが執筆準備中の『聖典論』のための参考文献です。著者は、1955年生まれ。カンザス州に育ち、ホイートン大学を卒業後、プリンストン大学神学校でMM.div.およびPh.D.を取得する。新約聖書学、初期キリスト教史を専門とし、多数の著作がある。現在はノース・キャロライナ大学チャペルヒル校教授。

本書の帯

 本書の帯には「誤謬と改竄の歴史」と大書され、「聖典は、なぜ、いかにして書き換えられてきたか――その歴史をたどり、失われた原書の姿に肉薄する」とあります。

 カバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
「キリスト教の根幹をなす正典、新約聖書。だがそこには、意図的な改竄や偶発的なミスによって無数の書き換えが加えられてきた。『罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい』というイエスと姦通の女の有名な場面も、じつは後世に付加されたものだという。聖典は、なぜ、いかにして書き換えられてきたのか。さまざまな写本を突き合わせ、テキストを徹底的に読み解くことによって改変箇所を特定し、現存しない原初の姿を復元しようとするのが「本文批評」という学問だ。著者曰く、『本文批評の仕事は探偵に似ている』。新約聖書学の権威がその営みを魅力たっぷりに紹介した刺激的な一冊」

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「謝辞」
「はじめに」
1 キリスト教聖書の始まり
2 複製から改竄へ
3 新約聖書のテキスト
4 改竄を見抜く――その方法と発見
5 覆される解釈
6 神学的理由により改
7 社会的理由による改変
終章 聖書改竄
「註」
「訳者あとがき」
「文庫版解説」筒井賢治

 「はじめに」で、『新約聖書』について、著者は「オリジナルは神の霊感によって書かれたと主張するのはよい。だが現実には、私たちの手許にはオリジナルなんてないのである――だからオリジナルを再現することができない限り、霊感云々は言っても詮無いことなのだ。しかもその上、キリスト教会というものが出来てこの方、キリスト教徒の圧倒的大多数はオリジナルを手にすることができていないという点も、その霊感を疑わしいものにしている。むしろオリジナルどころか、そのオリジナルの直接の複製すら存在しないのである。いやそれどころかオリジナルの複製の複製すら、というかオリジナルの複製の複製の複製ですら存在しないのである」と述べています。

 続けて、著者は「私たちが手にしているのは、後になって――それも、かなり後になってから作られた複製だ。ほとんどの場合、何世紀も後に作られた複製なのだ。そしてこれらの複製たちは、数え切れないほど多くの点でお互いに異なっている。後で述べるけれど、これらの複製たちは互いにあまりにも異なっている点が多すぎて、相違点が全部でいくつあるのかすら解っちゃいないのである。だからここでは解りやすいように、別のものと比較してみよう――現存する写本同士の間に存在する相違点の数は、新約聖書に出てくるすべての単語の数より多い!」とも述べています。

 1「キリスト教聖書の始まり」では、「書物の宗教としてのユダヤ教」として、著者は「今の西洋の三大宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム)のどれかに親しんでいる現代人には想像もつかないかもしれないが、古代西洋世界の多神教では、本や経典なんてものには事実上、出る幕はなかった。これらの宗教がやっていたのは、祭礼で捧げものをして神を讃えるということだけだ。学ぶべき教義が本に書かれているということもなければ、従うべき倫理規範が本に載っているということもなかった」と述べています。

 これは何も、多神教の信者たちが神々に対する信仰や倫理規範を持っていなかったというわけではないとして、著者は「ただ、信仰だの倫理だのは――今の人にとっては奇妙に聞こえるかもしれないが――それ自体、宗教の中ではほとんど何の役割もなかったということだ。それはむしろ個人的な哲学の問題であって、そして哲学というものは、言うまでもなく書物指向になりうる。でも古代の宗教それ自体は『正統教義』だの『倫理規範』だのを必要としないので、そこでは本というものはほとんど何の出番もなかったわけだ。ユダヤ教がユニークだったのは、祖先の伝承、習慣、律法を重視し、それが聖なる書物に記されている、と明言した点だ。そこでその本は、ユダヤ教の民にとっては『聖典』ということになる」と述べます。

 キリスト教もまた、そのとっぱじめから「書物指向」の宗教だったとして、著者は「言うまでもなくキリスト教はイエスと共に始まったものだが、このイエスという人はユダヤ教の教師で、トーラー、それにたぶん他のユダヤ教聖典の権威を認め、これらの書物に対する彼流の解釈を弟子たちに説いていた。当時のラビがみんなそうだったように、イエスもまた神の意志は聖典、とくにモーセの律法に書かれていると述べた。彼は自らこれらの聖典を読み、これらの聖典を学び、これらの聖典を解釈し、これらの聖典に固執し、これらの聖典を教えた。彼の信徒たちは最初から、伝統的な書物を何よりも重視するユダヤ人だった。そんなわけで、キリスト教の誕生の瞬間から、この新しい宗教の信者、つまりイエスの信徒たちはローマ帝国の中では特異だった。既存のユダヤ教と同じく、でもその他のすべての宗教とは違って、彼らは聖なる権威を聖なる書物に置いていた。キリスト教はまさにその揺籃期から、文字通り書物の宗教だったというわけだ」と述べるのでした。

 「初期キリスト教註解」として、著者はこう述べます。
「書物は――ローマ帝国内の他の宗教とは異なって――そもそもの初めから、キリスト教という宗教の中心にあった。書物は、キリスト教が繰り返し語り継いできたイエスと使徒たちの物語を詳しく語った。書物は、何を信じどのように生きるべきかという指導をキリスト教徒に与えた。書物は、地理的に離れた共同体同士を結びつけ、ひとつの普遍的な教会にした。書物は、追害されたキリスト教徒を支え、拷問と死に直面した信仰者のモデルを与えた。書物は、たんなる良い忠告ではなく正しい教義を提供し、他者の誤った教義に警告を発し、正統教義の受容を促した。そして書物は、さまざまな文書の真の意味、ものの考え方、礼拝のしかた、正しい振る舞いを教えた。書物は、初期キリスト教徒たちの生活の、まさに中心にあったわけだ」

 「キリスト教正典の成立」として、著者は「ある意味ではキリスト教というものは正典と共に始まった。というのも、その開祖自身がユダヤ教の教師であり、彼は律法を神から与えられた権威の聖典と考え、それに関する自分流の解釈を弟子たちに説いていたのだから。最初期のキリスト教徒は、ユダヤ教聖書の諸文書(それはまだ最終的な「正典」にはなっていなかった)を自分たちの聖書として受け入れたイエスの弟子たちだった。パウロを筆頭とする新約聖書の著者たちにとって、『聖書』と言えばユダヤ教聖書のことだった。それは神が自らの民に与えた書物の集成で、救世主であるイエスの到来を予言するものだ」と述べています。

 今日のキリスト教徒の多くはたぶん、新約聖書の正典はイエスの死後間もなく、何となく自然に決まったのだろうと考えているのかもしれません。しかし、それは全くの誤解であり、むしろ、歴史上、今の新約聖書の27篇こそが真の新約聖書である――それより多くも少なくもない――と最初に決定したキリスト教著述家はピンポイントで特定することができるとして、著者は「意外に思われるかもしれないが、このキリスト教徒が活動していたのは4世紀後半、すなわち新約聖書の諸文書それ自体が書かれてから300年近くも後のことだ。この著述家とは、有力なアレキサンドリアの司教で、名はアタナシウス。西暦367年、アタナシウスはエジプトの教区内の教会に向けて、年次司教教書を書いた。その中で彼は、どの本を正典として教会で朗読すべきかを指導したわけだ」と述べます。

 アタナシウスは現在の新約聖書に収録されているのと同じ27篇を挙げ、それ以外のすべてを排除したことを紹介し、著者は「この教書こそが、現在の27篇を新約聖書として規定した、現存する最古の資料だ。だがこのアタナシウスも、完全にこの問題を解決したわけではない。実は論争はその後も何十年、というか何世紀も続いたのだった。私たちが新約聖書と呼んでいる本が正典としてまとめられ、聖書と見なされるようになるのは、それらの本自体が最初に創られてから実に数百年後のことなのだ」と述べるのでした。

 7「社会的理由による改変」では、「論争するユダヤ人とキリスト教徒」として、著者は「初期キリスト教徒にとっての皮肉のひとつは、イエスその人がユダヤ人であり、ユダヤ教の神を崇拝し、ユダヤの慣習を守り、ユダヤの律法を解釈し、ユダヤ人の弟子を取っていたという事実だ。その弟子たちもまたイエスをユダヤ教のメシアだと考えていた。だが、イエスの死後わずか数十年のうちに、彼の信徒たちはユダヤ教と対立する宗教を創り上げてしまった。いったい、キリスト教はどうやってこれほど短期間のうちに、ユダヤ教の一宗派から反ユダヤの宗教になったのだろうか? これは生半可な問題ではない。満足な解答を提供するには、1冊の本が必要だろう」と述べています。

 イエスをメシアと呼ぶことは、ほとんどのユダヤ人にとって、これ以上もないほど滑稽なことだっただろうと推測し、著者は「イエスはユダヤ人の力強い指導者ではない。弱く無力な、取るに足りない人間に過ぎない――そして現実の権力者であるローマ人が考え出した、最も屈辱的かつ苦痛の大きい方法で処刑された。なのにキリスト教徒は、イエスがメシアであったと言う。彼の死は誤審ではなく、また予期し得なかった出来事でもなく、神の摂理なのであり、それによって彼は世界に救済をもたらしたのだと」と述べます。

 また、「イエスに関する自分たちの見解をユダヤ人に説こうとしても全く相手にされないという現実を前に、キリスト教徒はどうしたか?」という問いを掲げ、著者は「言うまでもなく、間違っているのは自分たちの方だなどと認めることはできない。では、自分たちは間違っていないとしたら、誰が間違っているのか? ユダヤ人だ。ひじょうに早い段階から、キリスト教徒たちは次のような主張をし始めた――キリスト教徒のメッセージを拒絶したユダヤ人は頑迷固陋で無知蒙昧な民族であり、イエスに関するメッセージを拒絶することによって、ユダヤ教の神自身が彼らに与えた救済をも拒絶したのだ、と。このような主張は、最古のキリスト教著述家である使徒パウロその人も行なっていることだ」と述べます。

 まとめると、現存する写本の中の多くの条が、初期キリスト教徒の護教的な関心の的となったらしいとして、著者は「とくに、開祖であるイエスその人に関する部分はそうだった。初期教会内部の神学論争、女性の役割の問題、そしてユダヤ人との論争などと同様、キリスト教徒と、教養ある異教の論敵との論争もまたそうだったのだ。これらの論争はいずれも、現在の新約聖書に収録されることになる諸書に影響を及ぼした。なぜならこれらの書物は、2、3世紀の素人書記によって複製されたのであり、当時のコンテクストに従って改竄されることがあったからだ」と述べるのでした。

 終章「聖書改竄」では、場合によっては、テキスト問題をどう解くかによって、テキストの意味自体が180度変わってしまうことだってあるとして、著者は「イエスは怒りっぽい人だったのか? 死を前にして錯乱したのか? 毒を飲んでも平気だなんて弟子たちに言ったのか? 優しく忠告しただけで、姦通の女を放してやったのか? 三位一体の教義は新約聖書の中にはっきり書かれているのか? そもそも新約聖書にイエスが『唯一神』だなんて書いてあるのか? 新約聖書には、神の子自身ですら終末がいつ来るのか知らないと書いてあるのか? 疑問は挙げ始めればきりがない。そしてそのすべては、今日に伝わる写本伝承の中の問題をどう解くかに関わっているのだ」と述べています。

 私は新約聖書というものをきわめて人間的な書物だと見なすようになった。私たちが実際に手にしている新約聖書なるものは、人間の手で、つまりそれを伝承した書記たちの手で造られたものなのだった。それから私は、たんに書記たちが複製したテキストだけでなく、オリジナルのテキストそのものもまたきわめて人間的な書物だと考えるようになった。

 著者は「新約聖書の著者たちだって、後代にそれを伝えた書記たちと同じだ」と考えるようになったそうで、「著者たちだってやはり人間であり、自分なりの欲求、信仰、世界観、意見、愛と憎しみ、熱望、欲望、立場、問題などを抱えている――そして間違いなく、それらは彼らが書く内容に影響を及ぼしている。さらにまた、もっと明白な点で、これらの著者たちは後の書記たちと同じだ。つまり彼らもまたキリスト教徒であり、イエスとその教えに関する伝承を受け継ぎ、キリスト教の救済のメッセージを学び、福音の真実を信ずるようになり――そして彼らもまた、文書の中の伝統を後の世に伝えた」と述べています。

 ひとたび、これらの著者たちもまたそれぞれの信仰や世界観や立場等々のある当たり前の人間なんだということに気がつけば、すべての著者が、自分の受け継いだ伝統を異なる言葉で後代に伝えているということが解るとして、著者は「マタイは実際にはマルコと全く同じではないし、マルコはルカと同じではない。ルカはヨハネとは違うし、ヨハネはパウロとは違う。そしてパウロはヤコブではない。書記たちがこれらの言葉を『別の言い方』で言い換えることによって伝承する言葉を改変したように、新約聖書自体の著者たちは、その物語を語り、指導を与え、思い出を書き綴る際に、(人から聞いた言葉ではなくて)自分自身の言葉を使ったのだ。その言葉は、彼らがそれを書いている時、書いている場所の聴衆にとって、最も適切な言葉なのだ」と述べます。

 書記たちによる聖書の改変は、新約聖書の著者たちに比べれば、過激さという点では遥かにおとなしいものだったことを指摘し、著者は「ルカが自らの福音書を書こうと準備し、その資料として『マルコ』を使ったとき、彼はたんに後代のために『マルコ』を複製しようと考えたわけではない。彼は、自分が見た、聞いたイエスに関する伝承に照らして、『マルコ』を改良しようとしたのだ。一方、現存する写本を作った後代の書記たちは、基本的には目の前にあるテキストを複製することしか頭になかった。ほとんどの場合、自分が新しい本を書いている著者だという考えはなかった」と述べます。

 彼らは、古い本を書写する書記なのだったと指摘し、著者は「彼らが行なった改変は――少なくとも、意図的なそれは――間違いなく、テキストの修正と見なされていた。たぶん彼らは、自分たちは昔の写字生が間違えて改変してしまったテキストの言葉を正しく校訂しているのだ、と考えていたのかもしれない。ほとんどの場合、彼らは伝承の改変ではなく、保守を意図していたのだから。だが、現実には彼らはそれを改変した。時には偶発的に、そして時には意図的に。多くの箇所で、書記たちは自分たちが受け継いだ伝承を改変した。そして場合によっては、それはテキストに対する現行の理解を補強するためだった」と述べています。

 そうしてテキストを他の言葉で言い換えるとは、すなわち言葉を改変するということだと指摘する著者は、「何かを読むと、それを避けて通ることはできない。テキストを読むとき、それをしないですますことはできないのだ。テキストを理解するための唯一の方法は、それを読むことだ。そしてそれを読む唯一の方法は、それを他の言葉で言い換えることだ。そしてそれを他の言葉で言い換える唯一の方法は、それと置き換えることのできる他の言葉を知ることだ。そしてそれと置き換えることのできる他の言葉を知る唯一の方法は、人生を持つことだ。そして人生を持つ唯一の方法は、欲望、憧れ、欲求、希望、信仰、観点、世界観、意見、好悪――そしてそれ以外の、人間を人間たらしめるすべての要素を持つことだ。つまり、テキストを読むということは、必然的に、テキストを改変するということなのだ」と述べます。

 さらに、著者は「新約聖書の書記たちがやっていたのは、そういうことだ。彼らは手に入るテキストを読み、それを他の言葉で言い換えた。だが、ときおり、文字通り他の言葉に移し替えてしまうこともあった」と述べています。しかし、最も基本的な意味では、彼らの聖書改変は、私たちがそれを読むたびにやっているのと同じことでもあるとして、著者は「なぜなら彼らは、私たちと同様、著者の書いたことを理解しようと努めながら、一方では著者のテキストの言葉が自分自身にとってどんな意味を持つのか、自分自身の状況と自分自身の人生を理解するのにどのように役に立つのかを見極めようとしていたのだから」と述べるのでした。

 「訳者あとがき」で、訳者の松田和也氏は「著者アーマンは第一級の聖書学者。現在はノース・キャロライナ大学宗教学部の特別教授を務め、新約聖書、原始キリスト教会、イエス伝の専門家です。多くの立派な学術論文を発表している他、一般向けの書物の執筆にも意欲的で、すでに30冊以上の著書を出版しています」と紹介しています。そして、「かつて著者アーマン自身がそうであったように、保守的なキリスト教徒の中には、今もなお聖書を『一字一句の間違いもない神の言葉』として理解している人がたくさんいます」と述べています。

 しかし冷静に考えてみれば、印刷技術が発明される以前の世界では、書物というものは人間が一冊一冊、一字一字手で転写することによって製作されていたわけで、神ならぬ人間のやることである以上、そこには必ず何らかの間違いや改竄が生ずるものであるという松田氏は、「その間違いや改竄は年を経るごとに幾何級数的に累積し、現在ではもはや、オリジナルな聖書の言葉というものはどこにも存在しない、と言っても過言ではないという状況になっています。『本文批評』とは、現存する写本を丹念に比較考量することによって、本来の聖書原文を再現しようとする学問です。300年の長きにわたって連綿と続けられる本文批評家たちの苦闘と、それによって徐々に明らかになりつつある聖書の真の姿、それこそが本書の主題です」と述べるのでした。最後のこの松田氏の言葉には静かな感銘を受けました。

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