No.2091 プロレス・格闘技・武道 | 評伝・自伝 『ベイダータイム~皇帝戦士の真実』 ビッグバン・ベイダー著、ケニー・カサノヴァ取材&構成、松山ようこ翻訳&編集(徳間書店)

2021.12.10

 12月9日の午後、東京から北九州に戻りました。
 『ベイダータイム~皇帝戦士の真実』ビッグバン・ベイダー著、ケニー・カサノヴァ取材&構成、松山ようこ翻訳&編集(徳間書店)を紹介いたします。2018年6月18日に逝去した史上最強の外国人レスラーの自伝です。プロレスの内幕や真実もしっかりと書かれており、大変な名著でした。連日、プロレス本を紹介してきましたが、本書で一区切りといたします。

本書の帯

 本書のカバー表紙には著者の顔写真が使われ、帯には「日本独占刊行」「没後3年、初めて明かす苛烈な生と壮絶死の深層。」「猪木KOデビューの裏にあった驚愕事実。日本各団体離脱・移籍の本当の理由とは……!?」「新日本、全日本、NOAH、Uインター……日本参戦の秘話からブロディ、ハンセン、レイス、フレアー、ホーガン、ザ・ロックらとの交錯、素顔のレオン・ホワイトまで、史上最強外国人レスラーが全て明かした破格の自伝!」と書かれています。カバー前そでには、「『ベイダータイム』とは、壁を乗り越えて行くことだ。恐れに打ち勝つこと、そして目標や夢を阻むものを押しのけて突き進むことだ」とあります。

本書の帯の裏

 帯の裏には「IT′S VADER TIME!」として、「目玉が外れたハンセンとの死闘/ビッグバン・ベイダーの誕生/ブロディが見せた真の優しさ/新日本デビュー戦と観衆の暴徒化/WCWの裏側と権力争い/大男、初めてのムーンサルト/Uインターとの8日間契約/ハルク・ホーガンの狙い/WCWを去る日/アントニオ猪木との再会~最後の戦い/ビンス・マクマホンからのオファー/「モントリオール事件」の真相/全日本プロレスで頂点を目指す/ノアを去った理由/3度の両膝関節関節交換手術/息子、死、そしてプロレス愛……ほか」とあります。

 アマゾンの「内容紹介」には、「新日本プロレス、全日本プロレス、UWFインターナショナル、プロレスリングNOAH、FMW、ドラディションなど日本マットを席巻した『皇帝戦士』最初で最後の自伝、独占刊行!」「不遇だった不良グループ時代の荒廃した日々、アメフトのトップ選手としての栄光と挫折、AWAでのデビューに始まったプロレスラーとしての壮絶なる半生に徹底的に迫る」「たけしプロレス軍団の刺客として新日本のアントニオ猪木VS長州力戦に乱入、その舞台裏で何があったのか」「スタン・ハンセンとの死闘で眼球が抉り出されて目から飛び出した超絶ファイトの深層」「Uインターでの髙田延彦とのシュートファイト」「全日本参戦と分裂の現場」「ノアでの三沢光晴との交錯と夜の街で勃発した『とある事件』……など日本マットでの初出エピソードの数々」「ブルーザー・ブロディ、ハーリー・レイス、リック・フレアー、ハルク・ホーガン、ザ・ロック、ビンス・マクマホンらとの交錯」「プロレス史に残る猛者の生き様と思考の軌跡に迫る衝撃ノンフィクション」とあります。

 本書の「目次」は、以下の通りです。  
  CHAPTER0 目玉が外れたハンセンとの死闘
  CHAPTER1 生まれ育った街コンプトン
  CHAPTER2 アメフトのキャリア
  CHAPTER3 プロレスラーになる
  CHAPTER4 AWA
  CHAPTER5 AWAでの日々
  CHAPTER6 CWA時代
  CHAPTER7 ビッグバン・ベイダーの誕生
  CHAPTER8    世界中に遠征する日々
  CHAPTER9 アメリカへ
CHAPTER10    スティングとハーリー
CHAPTER11 ロン・シモンズ
CHAPTER12 WCWの裏側と権力争い
CHAPTER13 シッド・ビシャスと
                           アーン・アンダーソンの刺傷事件
CHAPTER14 UWFインターナショナル
CHAPTER15 ミック・フォーリー
CHAPTER16    ポール・オーンドーフとの”一戦”
CHAPTER17 エリック・ビショフとその”親友”
CHAPTER18    アントニオ猪木との再会 最後の戦い
CHAPTER19 WWE
CHAPTER20    ショーン・マイケルズ、ザ・ロック、
                           アンダー・テイカーとのクウェート遠征
CHAPTER21    ヨコズナとの思い出、
                            ケン・シャムロックとFMW参戦
CHAPTER22    モントリオール事件
CHAPTER23    ケインとレンチ
CHAPTER24    全日本プロレスとノア
CHAPTER25    ゲスト参戦と和解
CHAPTER26    悪癖、病、ケガ、昏睡、手術、復活
CHAPTER27    息子、死、そしてプロレス愛
「ジェシー・ホワイトよるエピローグ」

 CHAPTER3「プロレスラーになる」では、著者は自身のプロレス・デビューについて、以下のように述べています。
「夜のショーでチケットはソールドアウト。俺は大盛り上がりの大観衆の前でレスリングを披露した。観客のエネルギーが俺を奮い立たせる。ついにプロレスラーになれたのだ。とはいえ、酷いデビュー戦でもあった。俺のデビュー戦の相手は、何とあのブルーザー・ブロディだったのだ。実のところ、試合の記憶はほとんどない(そのほうが良かったのかもしれないが)。デビュー戦をほとんど覚えていないのは、気を失いそうになるほどひどくボコボコにされたせいなのか、実際のところはわからない。ハッキリとわかっているのは試合後、死ぬほど身体中が痛かったということだ」

 バーン・ガニアが率いるAWAでデビューした著者は、まずデビュー戦の相手であるブロディに師事します。その後、ジェリー・ブラックウェルにも指示した後、仕上げはスタン・ハンセンの”ハンセン道場”でした。CHAPTER4「AWA」で、著者は「スタンもまた強烈な打撃をするタイプで知られていたが、本人は弱視のせいにしていた。遠近感が取れないため、正しくあるべき距離でパンチを打てないのだという。強烈すぎる打撃を放った後、スタンは決まって相手に謝った。その一方で、本当に弱視なのか? 分厚い眼鏡も面倒を避けるためのダミーじゃないのか?――と疑う人は多かった。結局のところ、強烈に殴るほど、ファンにもウケる。それにプロモーターの覚えもめでたくなるというものだ」と述べます。

 また、著者はハンセンについて、「スタンはギミックも見事だった。喧嘩っ早いカウボーイを完璧に演じるのだ。カウボーイハットにレザーのベストを身につけ、噛みタバコをくちゃくちゃさせながら、ブルロープをぶん回す。インタビューも巧く、イメージ戦略も抜群だった。AWAのレスラーたちの誰もが、ベテランのスタンをリスペクトしていた。日本マットで最も成功し、人気を博した外国人レスラーの1人だ。もしかすると、スタンはアメリカよりも日本でのほうが愛されていたかもしれない」とも述べます。

 その後、著者は米マットから欧州マットに転戦します。CHPTER6「CWA時代」では、「オットー・ワンツと共に欧州へ」として、著者は「”ビッグ”オットー・ワンツと戦うようになったのは、俺がもう頭角を現していた時期と重なる。だが、当時のオットーは、すでに輝かしいキャリアを持つスターだった。オットーのプロレスデビューは1978年、それ以前から、多くの最強の男を決める大会で優勝し、『電話帳破り選手権』では世界記録を達成している。ドイツ国内だけでなく、海外でも人気を集める大男だった。最も有名な対外試合は、アントニオ猪木、アンドレ・ザ・ジャイアントとの対決だ。また、アーノルド・シュワルツェネッガーが、自身のキャリアを築くのに、オットー・ワンツの影響をかなり受けていると公言している」と述べています。

 CHPTER7「ビッグバン・ベイダーの誕生」では、1987年1227日、新日本プロレスの大会「イヤーエンド・イン国技館」でついにビッグバン・ベイダーがデビューされた様子が書かれています。著者が対戦相手であるアントニオ猪木の控室に行くと、猪木は笑顔を見せた後、真剣な表情になって「今夜行くぞ。お前は乱入してきて、俺の顔を目いっぱいぶん殴れ。ノックアウトはしないでもらいたいが、俺の鼻面を打ちのめして、唇がカットするぐらいにボコれ。何でもありだ。お前は怪物なんだからな」と言ったそうです。著者は、「猪木と最後に話してから数時間が過ぎていたが、ついに時は来たのだ。ベイダータイムの開幕だ」と述べます。

 また、著者は「猪木は怪物に打ちのめされることを望んでいるのだ。俺は頷いた。『最初が肝心だ。お前がリングでどれほど危険かを示してくれ』『わかりました』俺は力強く頷いて返事をした。その日、猪木は長州力との試合も組まれていた。猪木は長州戦に勝利。まだ息があがっている状態だったが、俺は猪木と戦うべく気持ちを高めていく。リングでは、俺の日本での新しいマネージャーとなったタレントのビートたけしが、『たけしプロレス軍団の皇帝戦士』として俺を紹介していた。観客が息を呑むのがわかった」とも述べています。

 ビッグバン・ベイダーといえば、甲冑がトレードマークでした。「甲冑の儀式」として、著者は「試合前には、この甲冑で儀式を行った。自分の頭からこれを外すと、観客に見えるように置く。今からリングで激しく戦うことを暗示させるのだ。それからガラガラ蛇のような音を鳴らす。シャカシャカシャカシャカ……よくホラー映画などで死にそうになると聞こえる気味の悪い音だ。ほぼ大抵、儀式は予定通りに行えた。まず俺がリングに甲冑を据え置き、始まりのパフォーマンスを披露。戦いのチャントを唱え、場内を盛り上げる。儀式を一通り見ることで、ファンも俺に続いて声を上げるようになる。最後にスモークが噴射されて、観客も驚き大興奮するといった具合だ」と述べます。

 猪木が著者を皇帝戦士に選んだ決め手は、著者の身体能力とスタミナを評価してのことでした。著者が400ポンド近く(約180キロ)の体重を誇る巨体でも、スピードが売りの選手とも渡り合えるうえに、蝶野正洋や藤波と戦っても彼らの方が先にバテルることがあったそうです。著者は、「蝶野、グレート・ムタ(武藤敬司)、佐々木健介、馳浩といった素晴らしい選手と仕事をするのは本当に楽しかった。だが、俺が日本に行ったばかりの頃、橋本真也はあまり見かけなかった。見かけた時、たいてい彼は不健康でタバコを何本も吸っていた。猪木が俺に橋本の解雇をほのめかしたこともある。マメに連絡を取り合う仲ではなかったが、それから橋本が心を入れ替えて努力したことを俺は知っている。俺とも戦うようになり、90年代は日本有数の人気レスラーになったが、2005年に亡くなってしまった」と述べます。

 CHPTER8「世界中に遠征する日々」では、1990年2月10日、東京ドームで開催された「`90スーパーファイトin闘強導夢」で実現したハンセンvsベイダーの全日本VS新日本最強外国人対決に言及しています。著者は、「俺はリングにたどり着く前にロープにつながれたカウベルで鼻面をぶん殴られた。あまりに激しい強打だったので、両耳からは何かの液体が流れだし、耳鳴りが止まらない。俺はあの一打でハンセンに鼻を潰されていたのだ。プロレスがフェイクだと嘲笑う人は、少しでもいいから考えてみてほしいことがある。例えば試合中、フットボール選手はケガをしようが試合は続けるのだ。試合中に猛烈な強打を食らうと、まるで外界から遮断された”小部屋”に放り込まれたような感覚になる。すべてが静かになるのだ。7万人近い観客の姿は見えているのに、歓声は耳に入ってこない。水の中に潜ったようにくぐもって響く」と述べます。

 その後、なんとハンセンの反則攻撃で、著者の目玉が外れます。著者は、「断言してもいい。スタンほど強烈なパンチを打つヤツはいない、だが、この日の彼は明らかに面食らっていた。もしかしたら、AWAの時にブロディやスタンが教育した新人時代の俺のイメージが、この時の俺にはどこにも見当たらなかったからなのかもしれない。真相はわからない。俺がさらに前に出ると、スタンはレフェリーのタイガー服部を押しのけた。なおも俺と組み合おうとしているのだと思った。だが、スタンがしようとしていたことは、自分の親指を俺の目の中に押し込むことだった。親指を使ってスプーンのように俺の右目を取り出そうとしたのだ。その時点では、まだ右目は大丈夫だった。だが一度、ガッと右目の端に差し込まれた後、目が見えなくなった。目をナイフで刺されたようだった。眼前のぼやけた世界にうっすらとスタンがいて、星が爆発したように赤や青が弾けていた。耳鳴りがデカくなり、血まみれの鼻水が垂れてくる。俺は立ちすくむ。あの”小部屋”に引き戻されたのだ」と述べています。

 いまだに「スタン・ハンセンをどう思うか?」と聞かれると言う著者は、「信じられないかもしれないが、俺たちには何の遺恨もない。滑稽かもしれないが、あの後、スタンは俺に許しを請い、俺は彼を許した。何せあの一戦のおかげで、俺たちは世界的に注目度が上がったのだ。俺たちは共にこの不運を幸運に変えることを誓うと、プロモーターが俺たちを一緒にブッキングして、また稼ぎにもつながった。2016年にスタンがWWEの殿堂入りを果たした時、俺が彼の発表と表彰を行うインダクターを担うことができたのも嬉しかった。そこで俺は、ついでに目玉が1つぶら下がっている伊達めがねをかけて登場したんだ」と述べるのでした。いやあ、凄い話ですね!

 CHPTER9「アメリカへ」では、1991年の「G1CLIMAX」で実現した武藤敬司との一戦について言及し、著者は「この武藤との一戦は、俺の生涯のベストバウトの1つだ。最高のストーリーが紡がれ、武藤を最後に勝利へと押し上げたことは歓びですらある。ファンも俺も大興奮だった。今も日本のファンが『信じられないような試合だった』と語り草にしてくれている。試合が終わった時のことは、何より思い出深い。立ち上がって見渡すと、誰もが大喜びだった。勝ち目がないと予想されていた武藤が、俺のような大男を打ちのめしたのだ」と述べています。

 CHPTER14「UWFインターナショナル」では、新日本からUインターへと戦いの舞台を変えた著者が、裁判沙汰になった新日本のリーダーである猪木についての想いを語ります。著者は、「猪木は今も大切な友人のままだ。彼はこの裁判に関係していない。俺たちは互いに支え合ってきて、そうした関係は変わっていない。それが仕事のあり方だろうと思う。友人関係になったなら、互いに支え合うものだ。おそらく、猪木の後を引き継いだ人たちは、俺がライバル団体と仕事をすることで裏切られたと感じたのだろう。そう見られたのなら申し訳ないと思う。だが、アントニオ猪木との関係は、何1つ変わっていない」と述べます。

 Uインターに移った著者は、1993年12月5日、神宮球場でついにUインターのエース・高田と闘います。「高田延彦とのシュートファイト」として、著者は「高田は最高の男で並外れたライバルだった。俺たちは事前に少し話をして、ここまでたどり着いたのだから、互いに持てるものをすべて出して戦うことを誓った。試合は序盤から猛烈な打ち合いになった。互いに猛烈な打撃を繰り出して、一歩も引かない姿勢を見せた。最後の30秒まで、完全にシュートのファイトだ。もしどちらかに会心の一撃が入っていたら、試合は終わっていただろう。この試合を見た人なら、高田のキックはリアルだとすぐにわかるはずだ。あれ以上、強烈なキックはない。高田のキックは、ベースボールのバットでぶん殴られるよりも強烈だった。バットで殴られたことはコンプトンで育った時にも経験しているから、よくわかっている。彼のキックは、間違いなく俺が経験した中で最強のものだった」と述べるのでした。

 CHPTER20「ショーン・マイケルズ、ザ・ロック、アンダーテイカーとのクウェート遠征」では、「ザ・ロックを指導する」として、高い人気を誇ったザ・ロックの教育係になったことが明かされます。著者は、「ザ・ロックは、WWE史上最高のレスラーであり、プロレス史上最高の興行成績を収めた成功者だ。錚々たるスーパースターからもそう呼ばれ、ハルク・ホーガンはザ・ロックのことを『プロレス史上最高のスーパースター』と称し、ジョン・シナは『WWEの歴史上類をみないスーパースター』かつ『WWE史上最も成功したスーパースター』と絶賛する。そんな彼を指導することができたのは光栄だ」と述べています。

 CHPTER24「全日本プロレスとノア」では、ジャイアント馬場の率いる全日本プロレスに参戦したことが書かれています。馬場はまず、1998年の終わりに開催された「世界最強タッグ決定リーグ戦」で、著者とスタン・ハンセンにタッグを組ませました。まさかの組み合わせに、ファンは「信じられない!」と大いに話題になりますが、翌1999年1月に馬場が死去します。著者は、「悲しみの中でも、これまで通りに興行は続けなければならない、馬場の後継は、三沢が引き継いだ。ストーリーラインが進展する。俺は小橋に勝利したことで、三冠統一王座に挑戦するナンバー1コンテンダーとして名乗りを上げた。1999年3月6日、全日は馬場のブッキングの遺志を尊重してくれた。ついに俺が田上に勝利し、三冠統一ヘビー級王座に就いたのだ」と述べます。

 その後、ノア、FMWと渡り歩いた著者は、藤波辰爾が率いるドラデションのリングの上で昏倒します。アントニオ猪木がリングインしてマイク・パフォーマンスを繰り広げてもまったく起きることができず、その場にいた藤波・長州・前田らも心配したほどでした。2017年4月20日のことでした。その前年の2016年11月に居眠り運転が原因で、著者の車が横転して吹っ飛ぶほどの大事故に遭い、全身を打撲。その後、自身のツイッターでうっ血性心不全により医師から余命2年の宣告を受けたと公表していました。「ジェシー・ホワイトによるエピローグ」では、著者の息子であるホワイトが「2018年6月18日、父が死んだ。2016年に父を診断した医師たちは『余命2年』と宣告した。父はツイッターでこのことを公表したが、およそ19ヵ月で逝ってしまった。2年には5ヵ月足りない」と述べています。

 父親の死について、ジェシー・ホワイトは「死ぬ時というのは、素晴らしいものなのかもしれない。父と僕にとっては……素晴らしい時間でもあったからだ。父と過ごした最期の日は、神様からの贈り物だ。僕たちは言いたかったことを何もかも言えたし、別れの挨拶もしている。父とそうした時間を過ごせて本当に幸運だし、これからもあの時間をずっと大切にしていこうと思う。世の中には、愛する人とそうした時間を持つことなく別れを経験する人がいるのだ。僕は父と過ごせた時間を心から感謝している」と述べるのでした。大好きなプロレスの本ということで読み始めた本書ですが、最後はグリーフケアの言葉にしんみりとなってしまいました。”皇帝戦士”ビッグバン・ベイダーことレオン・ホワイトの魂が安らかでありますように……。

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