No.2077 芸術・芸能・映画 『黙示録 映画プロデューサー・奥山和由の天国と地獄』 聴き手・構成=春日太一(文藝春秋)

2021.10.14

 『黙示録 映画プロデューサー・奥山和由の天国と地獄』聴き手・構成=春日太一(文藝春秋)を読みました。映画作りについて勉強中のわたしにとって、本書は最高のテキストでした。また、五社英雄と勝新太郎がカツカレーの食べ方でケンカ別れしたり、深作欣二が安倍譲二のイチモツをどうしても観察したかったエピソードなど、多くの驚くべき実話が満載でした。

本書の帯

 カバー前そでには、「『最後』の映画プロデューサー、その狂騒の人生すべてを語り尽くす――」と書かれています。カバー表紙には、おそらくはロケーション撮影中の奥山和由の写真が使われ、帯には「春日太一が聞き出した映画史をくつがえす凄まじい証言!」と大書され、「◎会社に黙って撮った『丑三つの村』『GONIN』◎ショーケンの握る包丁の向こうに……◎「監督・北野武」誕生までの紆余曲折◎突然の松竹追放劇の舞台裏◎二つのバージョンで公開された『RAMPO』◎樹木希林、大林信彦――執念の最新作」と書かれています。

本書の帯の裏

 帯の裏には、「丑三つの村」(83)、「海燕ジョーの奇跡」(84)、「恋文」(859、「ハチ公物語」(87)、「その男、凶暴につき」(89)、「226」889)、「陽炎」(91)、「幕末純情伝」(91)、「外科室」(92)、「いつかギラギラする日」(92)、「ソナチネ」(93)、「RAMPO」(94)、「GONIN」(95)、「うなぎ」(97)、「地雷を踏んだらサヨウナラ」(99)、「エリカ38」(19)、「海辺の映画館」(20)……奥山和由がプロデュースした映画のタイトルが並んでいます。

 アマゾンの「内容紹介」には、「80年代、90年代、低迷する日本映画界で一人気を吐いたスタープロデューサー、奥山和由。名監督、名優たちとの秘話を語り下ろす!」として、「80年代~90年代、低迷していた日本映画界にひとりのスタープロデューサーが登場した。奥山和由だ。若くして『丑三つの村』や『海燕ジョーの奇跡』など破滅的な男の姿を描いた衝撃作で鮮烈に登場すると、一転、のちにハリウッドでリメイクされる『ハチ公物語』というハートウォーミングな大ヒット作を飛ばす。その後も快進撃は続き、五社英雄監督と組んだ大作『226』、ビートたけしを監督に抜擢した『その男、凶暴につき』、竹中直人の初監督作『無能の人』、監督と対立し、自らもメガホンをとった『RAMPO』、佐藤浩市、本木雅弘、根津甚八、竹中直人、椎名桔平が共演した男くさいバイオレンスアクション『GONIN』、今村昌平に2度目のカンヌグランプリをもたらした『うなぎ』など話題作、ヒット作を飛ばし続けた。35歳で松竹の取締役になるなどわが世の春を謳歌するが、突然のクーデターで松竹を追われ……と波乱万丈、毀誉褒貶相半ばの映画人生を送る奥山が自らの作品のすべてを語る。信じられないトラブルの数々、名監督との作品制作裏話、俳優たちの秘話などを語り下ろす。聴き手は『あかんやつら』『天才 勝新太郎』『鬼才 五社英雄の生涯』の春日太一。人並外れた熱量を武器に映画界をのし上がり、90年代の邦画をたったひとりで盛り上げ、日本に映画プロデューサーという職業を認知させた男の最初で最後の語りおろし一代記」と書かれています。

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」春日太一
 第1章 「夜ごと飛ぶ夢を見る」
      ――映画戦線への参入
   第2章 「皆様方よ、今に見ておれで御座居ますよ」
      ――狂気の現場
 第3章 「ありがとう、こんなに愛いっぱい」
      ――一躍、ヒットメーカーに
 第4章 「ハートブレイクヤクザ」
      ――既存の映画製作への疑問
 第5章 「これっきりになるような気がします」
      ――滅びの美学
 第6章 「たけしさん、暴力って何ですか?」
      ――映画監督・北野武との邂逅
 第7章 「キレたら止まらない」
      ――時代の寵児へ
 第8章 「夜の夢こそまこと」
      ――『RAMPO』を巡る狂騒劇
 第9章 「暴力と熱情」
      ――人生を変えた男・深作欣二とのすべて
第10章  「片想いの街、ニューヨーク」
        ――ロバート・デ・ニーロとの共同製作の夢
第11章    「闇にひらめく」
                     ――パルム・ドールとシネマジャパネスク
第12章     追放――ある男の告白
第13章    「いつかギラギラする日」
                     ――復帰、そしてこれからを語る
「おわりに」奥山和由
「奥山和由プロデュース作品全一覧」

 第1章「『夜ごと飛ぶ夢を見る――映画戦線への参入」の冒頭を、春日太一氏は以下のように書きだしています。
「1950年代、日本映画界は好景気に沸いていた。勢いに乗る各大手映画会社は撮影所から映画館までを自社で運営し、各社とも自社製作の作品を優先して直営・契約の劇場に流していく、独占的な配給網のブロックを形成していた。そして、これを維持するために年間100本近い映画を量産する。が、60年代になると観客動員は落ちていき、70年代に入ると大映は倒産、日活はポルノ路線に移行して縮小、東宝は製作部門を切り離して別会社にしている。それでも松竹と東映は依然としてかつてのシステムを維持、『配給網のプログラムを埋めるための映画作り』を続けていた」

 続けて、春日氏は「邦画の配給は大手映画会社が独占している状況に変わりはなく、大がかりな日本映画を上映するためには大手映画会社の意向が絶対だった。でありながら、それらの映画会社内では企画アイデアが枯渇、にもかかわらず新奇性の強い企画は拒む――という状況が続く。配給網の維持に汲々とする各社は安定感ばかりを求め、観客はそうした状況に飽き飽きしていた。そこに新たに登場したのが角川映画だ」と述べます。角川映画の第1弾は、市川崑監督の「犬神家の一族」(1976年)でした。
 
 1954年生まれの奥山和由氏は、「仁義なき戦い」(1973年)の深作欣二監督に憧れていましたが、なりゆきから斎藤耕一監督の弟子となって松竹大船撮影所で働きました。しかし、どうしても憧れの深作監督に会いたいと思い、東映の京都撮影所まで行きました。そのとき、本人には会えずに手紙を書いて送ったそうです。奥山氏は、「そうしたら、ある時に深作監督から電話が来て、『京都にもう一度来ないか?』と言われて。なんと『京都で飲もうよ』と呼び出されたんです。それはもう、当時のあの深作監督ですから、直接電話が来たという事態にビックリしたし、深作監督の声が電話で聞けたというだけで感動していたんですよね」と述べています。

 そのとき、奥山氏は京都に飛んで行って、深作監督と一晩飲み明かしたそうです。奥山氏は、「深作さんはいろんな話をしてくれました。『君が映画界に子供じみた夢を求めているわけじゃないことはよく分かる。大船撮影所も行っただろうし、いろんな現実というのを知っただろう。人生駄目でもともとぐらいの気持ちがないと、君のようなヤワな人間はやっていけないよ。あんたも本当はよくわかってるはずだ。もうちょっと考えなよ』と、半分以上は諫められたそうです。

 また、深作氏はウイスキーグラスのコースターにポール・ニザンの詩を書いてくれました。「人間は完全に自由にならない限り、夜ごと飛ぶ夢をみる」という詩です。奥山氏は、「話していて、こんなに自分がオープンマインドになれた人というのがいなかった。ポケットに入れたそのコースターを大事に何度も確認しながら『生きててよかった』ぐらいの大げさな気持ちになって帰りの新幹線に乗ったんです。しばらくしてポール・ニザンを読み直して気がついたんです。原文にはない『飛ぶ』が加わっていることに……」と述べています。

 第2章「『皆様方よ、今に見ておれで御座居ますよ』――狂気の現場」では、奥山氏のキャリア初期の代表作である「丑三つの村」(1983年)のエピソードが語られます。1938年に岡山県の山あいの村で起こった連続殺人事件の「津山事件」を題材にした映画ですが、物語終盤、主人公が村八分によって常軌を逸していく様、そして村人の1人1人を殺害していく凶行――主演の古尾谷雅人が圧巻といえる狂気の芝居を見せました。特に、五月みどり、池波志乃、大場久美子といった人気女優たちが次々と血祭にあげられる姿は強烈だったとして、奥山氏は「俺は古尾谷雅人という役者が本当に好きでしたね。彼のなりきり方というのが。その役に100%なりきってしまうことで、あとは感情を現していくことで信じられない芝居をするという人が、徐々に徐々に減ってきている時代ではあったと思うんです。古尾谷というのは、その数少ない『なりきり型』の残党だったと思うんです」と述べています。

 古尾谷雅人について、奥山氏は「撮影の前に1人で『やれる』って決まった時から鷲見集落に行って、そこに住んじゃうとか、そういうことをやる俳優だったんです。その思い込み方というものにみんな引きずられていって。それがどれだけ画面に出たのかは計り知れないです。最愛のたった1人のおばあちゃんを殺し、『俺を鬼にしてくれ!』と返り血を浴びた顔で叫ぶところとかね。『残しては旅立てない』といって、斧でひと思いに殺すところがあるんです。演じた後、人目のない隅の方に行って、1人で泣くんですよ。感情移入できる激情を表現する素晴らしい役者だった。古尾谷くんは最後は自殺という悲しい結末を迎えましたけど、それが行きすぎちゃって病んでいったんだと思います。俳優としての光になるギリギリのなりきり方、狂気というものを持っている役者として、古尾谷は魅力がありました」と述べるのでした。

 「世界のミフネ」こと三船敏郎と直接かけあった奥山氏は、1984年に「海燕ジョーの奇跡」を製作します。敵対する組織のトップを殺した沖縄のやくざがフィリピンに逃れ、そこで覚せい剤の製造、取引ルートを確立していくという、佐木隆三によるハードボイルド小説が原作です。1981年に深作欣二監督・松田優作主演で東映が映画化することになっていましたが、クランクインの直前に頓挫、そこですかさず奥山氏が動き、松竹での映画化にこぎつけていったのです。主演は、時任三郎でした。ジョーがフィリピンに逃げてからの場面は、実際に現地で撮影されました。当時のフィリピンは独裁体制を敷くマルコス大統領と民主化を求めるアキノ氏とが対立するという政情不安に加え、折からの貧富の極端な格差もありスラム街が数多く生まれ、治安は大きく悪化していました。
 
 「海燕ジョーの奇跡」のクライマックスのフィリピン軍との戦闘シーンでは、実際のフィリピン国軍が撮影に協力しました。予算をはめるためには本物の軍隊とタイアップするしかなかったそうです。現地の世話人に「本当にそんな可能性ある?」と聞くと、「三船敏郎です」と言いました。「世界のミフネと会えるというと向こうはこの上ない誇りに感じて喜ぶんです」と。奥山氏は、「それですぐイメルダ大統領夫人と会ったわけです。そこから軍のトップであるラモス参謀総長を紹介された。ラモスさんの鶴の一声で、『3日間にわたって、軍隊300人出します』となった。これ全部、三船さんの名前のお陰です。三船さんとニッコリ写真撮るだけで、もう全部オッケー。ただ軍隊だから、この3日だけにしておいてくれということだけ決まっていたんです。3日も300人軍隊を出してくれるならバッチリだというので、勢い込んでクランクインしました」と述べています。
 
 第3章「『ありがとう、こんなに愛いっぱい』――一躍、ヒットメーカーに」では、「カポネ大いに泣く」(1985年)が紹介されます。「ツィゴイネルワイゼン」などの難解でアバンギャルドな作風で知られる鈴木清順が監督した、風変わりなギャング映画です。カポネ役に人気タレントだったチャック・ウィルソンが配され、さらにかつてグループサウンズで人気を二分していた萩原健一と沢田研二、そして後に沢田と結婚する田中裕子が顔を揃えました。しかし、興行成績は大失敗に終わりました。奥山氏は、「結局は映画というのはトラブルがなければ――というか、もめるぐらい熱いものがなければ駄目だということです。(中略)清順さんには、俺、さすがに『鈴木さん、これってエンターテインメントですか?』ってつい失礼なことを言ってしまったんです。『これがエンターテインメントじゃなくて何がエンターテインメントなんだ』と怒鳴られたことは鮮明に覚えてます。タバコを持つ手が震えるほど激怒されました」と回想しています。

 「カポネ大いに泣く」主演の萩原健一と奥山氏は、数多くの作品を共にすることになります。奥山氏にとって萩原は、映画界に入る前から大きな存在だったそうで、「彼が最初に俳優として出てきた頃の『約束』という映画を観た時に驚いたんです。こんなに時代の空気をまるっと体に吸い込んでしまうような俳優がいるんだって。岸惠子という超一流の女優と何の臆面もなく共演して、拮抗どころか、食っちゃうような感じでね。その圧倒的なパワーに引かれたんだと思うんです。あの人と同じ空気を吸ってみたいと。あんなにやんちゃで、あんなに非インテリの男ですよね。近づきゃ危険なんだろうなというのを感じる男だったのに、一刻も早くあの人と仕事をしたいみたいな感覚があったんです。斎藤耕一を訪ねるというのも、やっぱりその向こうに萩原健一を見ていたんだと思うんですね。『約束』の監督が斎藤耕一さんでしたから」と述べています。
 
 「南へ走れ、海の道を!」(1986年)は沖縄を舞台にアウトローの世界に生きる若者たちの群像劇を描いた青春バイオレンスです。「海燕ジョーの奇跡」に続き、直木賞作家・佐木隆三による原作の映画化で、海と太陽の輝く沖縄を舞台にぎりぎりのところで命を燃やすハードボイルドアクション作品です。「哀しみを絆として、男と女は運命を共にする――。一触即発!ハードアクションエンターテインメント」という触れ込みでした。主演に岩城滉一、その恋人役に安田成美が配され、当時まだピンク出身の若手の1人だった和泉聖治が監督を務めています。岩城滉一が豹のように精悍なボディとルックスで明日なきヒーローを演じきり、当時19歳の安田成美も見事にヒロインを好演しました。

 「南へ走れ、海の道を!」について、奥山氏は「そういえば、萩原健一さんにも特別出演を頼んだんですよ。映画の終盤、クライマックスになだれ込むのに主人公の背中を押す暴力団幹部という重要な役で、強烈な印象を求められる役だったんです。で、ふと思いつきでお願いしてみたら、あっさり『いいよ、やるよ、俺でよきゃやるよ』と。で、当日、沖縄の現場に到着した彼を見て驚きました。なんと迫力を出すためか、自分のアイデアで眉毛を全部剃ってきていたんです。思わず笑ってしまって。それが気にくわなかったのか、ショーケンは不機嫌になっちゃって、その迫力ある人相でいきなりギャラの話をし出したんです。本人がギャラについてプロデューサーと、しかも現場で直接話すことなどあり得なかったのに……」と回想しています。

 「海燕ジョーの奇跡」がヒットしたので、松竹は記者会見を開きましたが、そのとき、ちょっとした事件がありました。奥山氏は、「その半年前だったかに『南極物語』が公開されたんです。で、その『海燕』の記者会見の場で記者に「奥山さん、『南極物語』の数字がいくらか知ってるか?」と言われ。『海燕』が興行収入7億とすれば、確か『南極物語』というのは100億超えるぐらい行ってました。まさにフジテレビのスポット洪水の中で、完全な圧勝。つまり、『そのくらいの数字を見せて初めてヒットプロデューサーであり、その程度の数字で一部のファンが動いたぐらいでヒットとは言えないよ』みたいなことを言われたんです」と回想します。それで、奥山氏は「そうか、犬で当てて勝ったというんだったら、こっちも犬で当ててやるわ」と考えました。犬で当てて、「どうせ犬だろ」とは言わせないぞ――というリベンジの思いが、奥山氏の中に芽生えてしまったのです。
 
 それで、奥山氏は「犬だ、犬だ。犬の話を探せ」と思いながら、ちょうど渋谷の道玄坂を下りてきたそうです。「その日、早慶戦があって慶應が勝って、みんな酔っぱらって大騒ぎしているんです。『うるせえな』と思いながら、そのまま彼らの波にもまれながら駅のほうに行ったんです。そうしたら、何人かの学生がハチ公の銅像の上にまたがってワーワーやり出したんです。それで警官が『ハチ公の上に乗っかるな!』とか言ってるわけ。俺はそれを見た時、『そうだ、ハチ公だ。国民映画だ!』と思ったの。これだ、と。その時慶應の学生が、『ハチ公は国民のものであってあんたのものじゃないぞ!』とか言っていて、『そうだ、ハチ公だ』と」と回想していますが、まるでマンガの『包丁人・味平』で味平が新しい料理を思い付いたときみたいなエピソードですね。(笑)いずれにせよ、このとき、大ヒット映画「ハチ公物語」(1987年)のアイデアが生まれたのでした。

 ハチ公ゆかりの渋谷は、東急グループの本拠地です。その東急グループの総帥・五島昇は入院中でしたが、東映の岡田茂や東急百貨店の三浦守の紹介で、奥山氏は会いに行きます。「だけど五島さん、横たわっているわ薄暗いわでやっぱりすごい迫力があるわけですよ。それで、『君、いくつだ?』と言うんですよね。『もうすぐ30になります』『いいな。私は巨万の富があるんだよ。でも、その金を全部払って、君の若さをもらえるとしたら私はその交渉に応じるな』って。『いや、そういう交渉に来たんじゃありません。私がお世話になるというのは映画作りです』と。『なんだ』と言うから、『「ハチ公物語」をやりたいんです』と言ったら、『ちょうどよかった。間に合うかな。東急文化村の名前を変えさせよう。ハチ公ビルにしよう』と言って。それは確かにそう言って、三浦さんが呼ばれて、その言葉を伝えに行ったんだけど、もう間に合わなかったんですよ。もう東急で発表しているから駄目だと言われて。内心、ほっとしました。(笑)」と述べています。わたしは、東急グループの東急エージェンシーの出身ですので、このエピソードは興味深かったです。
 
 第4章「『ハートブレイクヤクザ――既存の映画製作への疑問』では、奥山氏は「『ハチ公』をやる時に、みんなに『これは絶対に当たる』という話をしている時なんかも常々言っていたのは『企画というものの中には、誰がやったって当たるコロンブスの卵みたいな企画ってものがある』ということです。その条件というのは『誰しもが知っているもの』、その次に『誰しもが知っていながらそこに謎が残っているもの』、そして『その謎が解明されていないもの』。最後に『そこにその時代だけに特有の強制的道徳が入っていたもの 』。それは時代を超えるとひっくり返すことができるから、新鮮な面白みがあるわけです。『ハチ公』だったら、「忠義」がもてはやされた時代で、ひたすら飼い主が帰ってくるのを待っている忠犬ですよね。だけど、ハチ公が亡くなった後に解剖したら、焼鳥屋の串が山のように出てきたと。結局は主人を待っていたんじゃなくて焼鳥屋に通っていたんじゃないか、というような話がある。もちろん、そういうところはちゃんと覆い隠してしまうことも多々あるわけですけど」と述べています。ハチ公の名誉のために言っておくと、彼の身体から出てきた焼鳥の串は4本で、「山のように」というのは大袈裟です。
 
 ハチ公の他にも、みんなが知っていて不思議だなと思っているのは野口英世だそうです。これは「遠き落日」(1992年)で映画にできました。そして、もう1つは2・26事件だったわけです。奥山氏は、「この3つは必ずやろうというふうに思いながら、一方では『2・26だけは触るな』という話があっちからもこっちからも来るんです」と述べます。第5章「『これっきりになるような気がします』――滅びの美学」では、「226」(1989年)が取り上げられます。1936年2月26日に実際に起きた陸軍青年将校たちによるクーデター、それが「2・26事件」です。映画「226」はこの事件を群像劇として描いた作品。奥山氏にとって、悲願の企画でもありました。
 
 「2・26事件」について、奥山氏はこう語ります。
「2・26事件は、自分の人生を侵食するぐらいの想いが積もっていました。北一輝というのは体制内改革を一番目指した思想家であり、俺自身が映画界に対して目指していたのがやっぱり体制内改革だったし。そして、2・26の将校の話というのは個人個人のエピソードを読めば読むほど、純粋に『これは日本のためのクーデターだ』『これは成功する』という彼らの想い、『やらなきゃいかん、自分たちがやらずして誰がやる』という想いが伝わってくるというのがあって。この純度の高さというのを正面から描くことができたら、映画としては全世界に行ける素材だと思ったんです。当時、日本国内という限られたマーケットだけで勝負する苦しさというものを感じ始めていました。回収シミュレーションというものを作る時、その市場の狭さというハンディキャップとどう戦わなきゃいけないのか考えるわけです」

 春日氏は、「今回のインタビューはQ&Aというよりは、こちらが何かテーマを提示すると奥山が一気に話す――という形式で行われたが、中でも2・26について語る際の奥山はその想いがほとばしっており、どれだけ熱情を込めたテーマだったかが伝わってきた」と述べています。奥山氏は、「『226』は自分自身の手で、ある種の刹那的感覚を自分の体に植え付けてしまった――滅びの美学に傾倒していってしまったきっかけでもあると思うんです。そういう意味では大きな境目だったですよね。自分がある想いを持って惹かれていくというのは、みんな最後に主人公がある種の刹那の淵に落ちていくという話であって、そのプロセスが美しく描かれているものが好きになっていった。それは今でもそうです。いまだに自分の人生というものの全部が『226』に支配されていると思っているところがあって」と語るのでした。
 
 第6章「『たけしさん、暴力って何ですか?』――映画監督・北野武との邂逅」の冒頭を、春日氏は「ヒットメーカーとなり、巨匠たちとも仕事をするようになった奥山が次に試みたのは、異業種にいる才能を映画界に引っ張り込むことであった。その最初となったのが、当時お笑い芸人として人気絶頂にあったビートたけしである。今でこそ『北野武』は世界的な監督として認められているが、『お笑い芸人・ビートたけし』を『映画監督・北野武』に変身させたのが奥山だった。そして、製作されたのが「その男・凶暴につき」(1989年)でした。春日氏は、「北野武の演出スタイルは監督第一作から早くも炸裂する。静かなタッチの中で繰り広げられる、リアルで生々しい暴力、冷たい空気感、そしてその映像を切り取っていくスタイリッシュな編集。当時の日本映画では、全てが斬新で鮮烈だった」とも述べます。

 奥山氏は、北野監督が描く暴力の「間」のリアルさにひたすら感心したそうです。「勉強になるというものじゃなくて、俺たちにはできないものを持ってくるわけです。彼じゃなきゃできない空間というのができあがっていくわけです」と述べています。奥山氏は、北野映画の2作目である「3-4×10月」(1990年)の宣伝コピーに「野放しの巨匠」という言葉を使いました。さらに奥山氏は、「それでも俺はやっぱり『その男、凶暴につき』が傑作だったのは、たけしさんにある種のコルセットがはまっていたがゆえに彼の暴発するエネルギーというものが非常にきれいにまとまったからだとも思うんです。でも、たけしさん本人にしてみると、たぶん最も納得のいかない映画なんですよ。自分が十分に表現できなかったという意味でのね。セルフプロデュースのテーマから言うと最も外れた映画だった」と述べています。
 
 北野監督の3作目が「ソナチネ」(1993年)でした。石垣島に逃れたやくざたちの日常が描かれる作品で、突然やってくる静謐な暴力と死など、「北野武の演出」が完成された作品だとされています。「ソナチネ」は、カンヌ国際映画祭「ある視点」部門やロンドン映画祭に招待され、海外でも高い評価を獲得しました。奥山氏は、「プロデューサー不要の監督というのが何年かに一度生まれるんですよ。それは、セルフプロデュースも含めて、アート――世界共通語の映画を作るのにはこうすればできるんだというギアを、ハイギアでアクセルを踏み続けることができる人間というのが何年かに一度生まれる。そのうちの1人は黒澤明だったんだと思う」と述べています。
 
 では、「たけしは第二の黒澤明になるか?」と問われれば、当時の奥山氏は「そう思ってる」と答えたそうです。だから、たけしさんと黒澤明との対談をNHKに働きかけカンヌで用意したそうで、奥山氏は「結局映画としてはカンヌの出品には引っかからなかったけれども、彼にカンヌにどうしても行ってくれと頼んだのは、黒澤明との対談をしてほしいということだったんです。そこで黒澤さんと関係性ができて、黒澤さんもたけしの映画を見て面白いということになり、映画のクオリティにどんどん自信を持っていったんだと思います」と述べています。非常に興味深いエピソードですね。
 
 第7章「『キレたら止まらない』――時代の寵児へ」では、続々と映画をヒットさせ、30代後半で松竹の取締役にまでなった奥山氏が「周りから見たら自己顕示欲が前面に出て、やりたい放題に見えた時代でもあるわけですよね。そういう作品群をどんどん作っていく中で、並走するようにというか、いつも鏡のように映り込んでいたのが角川春樹さんでした。角川さんも折に触れて食事をしようと声をかけてくれたりして、そのことが自分の中でも視野の広がりになっていきました。角川さんはメジャーを外から攻める側だったということもあって、外から見た時の視界というものがクリアに自分にも染みわたってくるところがあって。角川さんが東宝、東映、松竹を手玉に取って転がしているという状況の、痛快な、颯爽とした爽快感とまで言えるようなスピーディな展開があった。それで角川さんとはかなり接近していったんです」と述べます。
 
 そして、その向こうには東映のドンである岡田茂という大きな存在が見えていたそうです。奥山氏は、「岡田茂、角川春樹、そして自分――その三角形というのが、俺のなかでより明確に見えてくるんです。岡田さんは角川春樹を認めているわけです。ただ、本屋のお坊ちゃんであり、実権を握っているのは創業オーナーの一族だから当たり前。そこに、父親がいても親子ともにサラリーマンである奥山和由というのがいて。そして、岡田茂さんというのはサラリーマン社長のはずなんだけど、いつの間にか業界そのもののオーナーのようになっていました。そういうそれぞれの立ち位置での会話というのは、少しずつお互いがお互いの見えないところを補填するかたちで面白かったんです」と回想。日本映画史を振り返る上で貴重な証言ですね。

 そして岡田茂や角川春樹とは何となく違う角度から時々登場するのが徳間書店のオーナーであった徳間康快でした。「スタジオジブリをつくった男」と呼ばれた人物です。奥山氏は、「徳間さんは中国オンリーみたいな感じで、『敦煌』など中国で巨大な映画をやることに特化して、あとは宮崎駿さんのアニメの話。あの人は世界の宮崎になると予言していました。豪快なビッグマウスの極みでした。この3人に徳間さんが入ろうものなら、『プロデューサー協会を早く解散させろ。あそこにいるのは全部プロデューサーじゃない。我々だけで本物のプロデューサー協会をまず4人から作ろう』みたいな話をする」と回想します。
 
 奥山氏と角川氏は「REX 恐竜物語」(1993年)で初めてタッグを組みますが、映画が公開され、その宣伝展開のど真ん中で角川氏がコカイン所持疑惑で逮捕されてしまいました。そのときの様子を、奥山氏は「それで連行されて行く車もカメラは追いかけていましたけど、それを見ていて凄く切ない感じがした。切ないし、空しいし。それは角川さんが正しいとか悪いとかじゃないんです。その後は角川春樹に対してマスコミはもう袋叩きもいいところ。もう終わった角川春樹――と言われている状況に対して、その手のひらの返し方、それから彼がやってきた実績というものを踏みにじるような言い方というのに対して、俺は反論のキャンペーンをメチャクチャ張っていました」と回想します。

 角川春樹の逮捕騒動について、奥山氏は「それは、いずれ自分がそこに陥るであろうという予感みたいなものも手伝ったのかもしれない。どれだけプロデューサーというのが自分を捨てて頑張らなきゃいけないかということ。目的地に向かって一本の真っすぐな道を作って、孤独でも辛くてもそこをまっすぐ歩かなきゃいけないんだ。いろんな横やりが入ったとしても、それを振り払って前に行かなきゃいけない。その想いを持っている角川さんの背中というのは、すごく分かる感じがして、痛々しく思う時があったんです」とも述べています。確かに、角川氏と奥山氏の2人にしかわからない世界かもしれません。
 
 1995年には「GONIN」を製作しました。春日氏は、「ヒットメーカーとなって以来、奥山は『自分らしい企画』を封印してきたかのように映る。だが、そのなかで奥山らしさが光る作品がある。それが『GONIN』だ。それぞれに事情を抱えて大金が必要になった5人の男たちがやくざの事務所を襲撃、金をせしめる。やくざは報復のために殺し屋を雇い、彼らを1人1人殺していく。石井隆監督のスタイリッシュな映像と、佐藤浩市、本木雅弘、根津甚八、竹中直人、椎名桔平の『5人』、そしてオートバイ事故から復帰したてのビートたけし演じる殺し屋――それぞれの狂気が炸裂するバイオレンス映画となった」と書いています。
 
 「GONIN」について、奥山氏は「石井隆監督の才能には度肝を抜かれました。骨太な娯楽アクションでありながら、人間心理の奥の奥まで表現し切る映像作りの天才です。安川さんの音楽もはまりまくってドキドキ感を盛り上げ、全ての役者の生々しいエネルギーが美しく見える傑作が完成しました。後にこの『GONIN』にはタランティーノも夢中になり、彼がお気に入りの監督に石井隆をあげるぐらい、またスティーブン・ソダーバーグ監督が『GONIN』のリメイクを熱望し、それが叶わず、その構想は別の作品のリメイク案とつながり『オーシャンズ11』になったらしいです。そのくらい、全世界にファンのいる映画になったんです」と述べています。すごいですね!
 
 第8章「『夜の夢こそまこと』――『RAMPO』を巡る狂騒劇」の冒頭を、春日氏は「1990年代前半、奥山はプロデューサーとして絶頂期にあった。『RAMPO』はその象徴ともいえる。監督を降板させて自らが監督をする事態に、世間は奥山の力の大きさを感じた。江戸川乱歩の生誕100年を記念して企画された作品で、名探偵・明智小五郎とヒロインの恋模様を描いているうちに乱歩自身がヒロインに恋心を抱いてしまい、自らが創作したはずの明智に嫉妬を抱いていくという内容になっている。NHKエンタープライズが共同製作に入り、同社所属の演出家・黛りんたろうが監督を務めた」と書きだしています。

 この「RAMPO」の監督降板劇はNHK側が告訴したこともあって一大スキャンダルとなり、主演の羽田美智子が奥山氏の愛人であったとマスコミは騒ぎ立てました。奥山氏は、「羽田美智子さんという人はしっかり普通の生活ができる人なんです。ただ、『RAMPO』の限定された時期だけ、この空気感がそうさせたのかもしれません。トラブルだなんだかんだと言われながら同じ『RAMPO』なのに2本の映画が生まれ、その2本の両方にヒロインとして出るわけでしょう。新人でありながら、その前代未聞の異常事態というものに追い込まれて、あの時は羽田さんの人生でも特別な時間だったと思うんです。
 
 「RAMPO」撮影時の羽田美智子について、奥山氏は「たぶん普通の実生活はなかったと思うんです。良くも悪くも世間の注目を浴びる映画制作の激流に呑み込まれていたから。そういう激流の中で『女優』というものがギリギリ生まれてくるんだと思います。やっぱり映画って魅力的な女優がいなければ。映画の華は女優だと思う。そして華のある女優を生み出せるのは映画の神業だと思う。ひょっとしたら、それが『映画に恋愛をする』という感覚に重なっているのかも。映画という媒体そのものに惚れ込んで40年以上やっているというのは、振り返ってみれば、ずっと惚れていたと思うんですよね」と述べています。うーん、なかなか意味深な発言ですね。

 さらに、奧山版「RAMPO」について、奥山氏は「映画という生命体に愛情をもってメスを入れていくとこうも変わっていくのかと知ると、それはもう魅力的でしょうがないんです。違うスタッフで撮影し編集を変え、また千住明さんと音楽を変えていくことによって、こんなに映画の世界観が変わるんだと。そして一方で『RAMPO』は、現実的な達成感にも繋がっていったんです。日本での興行成績は25億円以上をあげ大ヒット。全米公開での興行成績も当時の日本映画としては好成績を収め、『バラエティ』や『ハリウッドリポート』の批評も信じがたい高評価でした」と述べています。
 
 ちょうどその頃、奥山氏はスクリーンインターナショナル誌の100周年記念号で世界の映画人100人に日本人では唯一選ばれたりもしました。また、日本アカデミー賞の優秀監督賞、脚本賞を含め多くの受賞をしています。当時を振り返って、奥山氏は「絶望の淵を歩いているような複雑な心境の中、別次元の妙な自信も生まれていました。でも、達成感というのは自分の側の言い方であって。会社からの追放を考えていた人からすると俺を追放するためのネタは転がり始めていたと今、振り返ると思います」と述べるのでした。
 
 第9章「『暴力と熱情』――人生を変えた男・深作欣二とのすべて」では、奥山氏は「俺はやっぱり深作欣二で始まって深作欣二で終わっているようなところがある。高校の時に『仁義なき戦い』を見て、初めて邦画を面白いと思った人間ですから。学校の授業をさぼっては映画館の暗闇に行って見ていたのは『仁義なき戦い』だったんですよ。そこの空間に身を置いていると気持ちが落ち着くというか、同化していける何かがあったんです。それだけに、深作さん自身というのは憧れすぎて逆に近づいてはいけない遠い存在だった。大学の時に初めて会うまでの間にかなり神格化された存在だったんです。それはなぜかというと、『生きる』ということを感じられたから。神格化するというのは、それに触れることによって自分が生きていられるという安心感を得られるものだと思うんですよ。自分が普通に呼吸をできる空間を作れる深作欣二というのは、自分にとって神だったんです」と述べています。

 また、奥山氏は「深作さんは戦争中、東京大空襲で死体を処理するために駆り出されて、何人もの遺体を運んだ。その中で『人間なんかいずれ死ぬものだ』というふうに思った。まだ若いのに変に人生に対する絶望感みたいなものが出来上がったんだと思うんです。どうせ命果てるのであれば、今、生きているうちにエネルギーをトップギアで燃やすという反動もあったと思う。エリートというのを目指せる環境にいながら、どんどん逆のベクトルに行く。『軍旗はためく下に』とかを見ていると、死生観の中に破滅を受け入れる刹那的な思いというものが、堕ちていく快楽みたいなものをあの人はどこかに持っているんだと思ったんです。深作さんは『善も悪もない。行けるところまで行くだけ』『幸もない不幸もない。正しいも間違ってるもない。行けるところまで行くだけだ』ということが死生観の大きな軸になっていて、それってたぶん自分にも当てはまるというか。奥山という人間はそういうふうにしてしか生きていけないんだろうなというのが、人生の方針として定まっちゃったというのがあって」と述べます。
 
 ようやく奥山氏が憧れの深作監督との仕事となったのが、「いつかギラギラする日」(1992年)です。この作品について、春日氏は「当時の深作はかつてのようなアクション映画はなりをひそめ、『火宅の人』『蒲田行進曲』『華の乱』といった文芸路線にシフトしていた。そこを奥山が久しぶりにアクションに引き戻す形になった作品である。銀行強盗たちが大暴れしながら仲間割れしていく展開で、萩原健一、木村一八、原田芳雄、千葉真一、そして荻野目慶子が顔を揃えた」と書いています。奥山氏は、「自分が松竹という会社の中で閉塞感を感じていることが、深作欣二と映画づくりの話をすることによって解放されていたし、脚本づくりのために、和可菜っていう神楽坂の旅館にこもっているときに、幸福というものは感じました。なぜ幸福だったかというと、『誰も止められない映画づくり』というものをそこで確立できているように思ったんですね。そこに萩原健一が加わるということも含めて」と述べています。
 
 深作との2作目は、ぶっ飛んだ時代劇映画「忠臣蔵外伝 四谷怪談」(1994年)でした。この作品について、春日氏は「四谷怪談の民谷伊右衛門が赤穂の浪人だったということに着想を得た作品で、赤穂浪士の討ち入りと四谷怪談の騒動とが同時進行で進み、最後はお岩の霊力が討ち入りを助けるというSFXが駆使されたアクションが展開される。伊右衛門を佐藤浩市、お岩を高岡早紀、大石内蔵助を津川雅彦、伊右衛門を籠絡するお梅を荻野目慶子が演じた」と書いています。わたしも映画館で鑑賞しうましたが、とても面白かったことを記憶しています。
 
 その後、深作監督は超問題作となった「バトル・ロワイヤル」(2000年)を世に送り出しました。奥山氏は、「深作さんは常に『油断するな、油断するな。気を付けろ』と言いながら『よーい、スタート』をかけるんだけれども、いつも『油断するな、気を付けろ』というのは、隅々のエキストラまでエネルギーが行き渡ってないとダメだということなんですよね。だから、『カット。もう1回』という時に、『そこのエキストラのお前、何やってるんだ!』『ほら、助監督、油断するな!』みたいなことをしょっちゅう言うわけですよ。あの気合いのすごさというのが映画にそのまま反映していく。映画というものに携わる特別な幸福感を与えてくれる演出力というのは天才だった。今はもう時代の趨勢で、映画ではないコンテンツという世の中になっているわけだから言うだけ野暮だけど、あの映画の幸福感というのはもう今やどこにも見当たらないのかもしれないと思うんですよね」と述べています。
 
 第10章「『片想いの街、ニューヨーク』――ロバート・デ・ニーロとの共同製作の夢」では、映画に捧げた人生について、奥山氏は「映画に埋没していくというのは悪女を好きになるのと同じだと言うけれども、まさにたちの悪い女で。この女を捨てては行けないという感じだったんです。それは、ある種の快楽だったんですよ。映画のためにいくら苦労しても、『いつかギラギラする日』や『女殺油地獄』も、そして『銃』や『海辺の映画館』も……日本映画をアメリカで生活しながらは作れないわけですよ。映画というのは最終的にアイデンティティで、そこを切り捨てるということは不可能なんだという。それが、あれだけのバッシングを受けながらでも、日本に残ったという本能だったんだと思うんです」と述べています。非常に説得力のある発言だと思います。
 
 第12章「追放――ある男の告白」の冒頭、「雪の役員会」として、春日氏は「1998年1月19日、松竹の奥山融社長と和由専務は役員会によって解任を決議される。「独断専横」がその理由だった。時代の寵児だったはずの奥山和由はアッという間に引きずりおろされ、そしてマスコミの大バッシングに晒されることになる」と書いています。奥山氏は、「いずれ来ると思っていた。それは2・26での銃殺のようなものなのかなと思っていて、だから雪が降るごとにそれは何となく感じていたんです。後からこじつけたことでも何でもないんだけど、雪というとやっぱり2・26を思い出す。そして、あの日のことを思い出す」と述べています。
 
 第13章「『いつかギラギラする日』――復帰、そしてこれからを語る」では、奥山氏のプロデューサー復帰第1作となったのが、なんとも皮肉なタイトルですが、「地雷を踏んだらサヨウナラ」(1999年)でした。カンボジアで取材中に銃殺されたカメラマン・一ノ瀬泰造の生涯を描いた作品です。監督を五十嵐匠が務め、一ノ瀬役を浅野忠信が演じました。奥山氏にとって初となる、松竹外での配給作品でした。奥山氏は、「泰造さんが行方不明になった当時、ワイドショーで行方不明になっている一ノ瀬泰造の足跡を追って探してみよう、みたいな企画があったらしいんですよ。当時は前もってリサーチしての打ち合せ、なんていうことは全くなく、本当にリアルタイムでいきなりぶっつけで探していくわけです。ご両親がついていって、ヤラセ全くなしのワイドショーで現地の人が『あの辺で銃殺されて、あの辺で埋められたと思う』みたいなことを言って、みんなで掘り始めるんですよね。掘っているうちに、白骨があがってくるんです。
 
 続けて、奥山氏は「それでお父さんが『掘り当てた時のビデオなんです』といって見せてくれたんだけど、お母さんが泥だらけで掘り起こされた頭蓋骨をずっと見ていて、『あ、泰造だ』って言うんです。『間違いないですか?』と言われたら、『歯を見て分かる』と言うんです。その白骨を持ってご両親が一緒にメコン川で泥を落としてきれいにしているところのロングショットなんかがあるんだけど、すごくきれいなんですよね。まるで赤ちゃんを産湯で洗っているようで。自分自身を一ノ瀬泰造に重ねることで、すごく気持ちが楽になった。ああいうふうに、想いを果たすために行って――親不孝をしたんだとは思うんだけど――それでも残した親にもあれだけの愛情を注がれながら大事にされて」と述べます。
 
 一ノ瀬泰造の両親が住む佐賀県の武雄市には映画館がなかったため、奥山氏はVHSのテープに「地雷を踏んだらサヨウナラ」を録画して実家に持参しました。両親は、いつも座っている椅子をどかして、きちんと正座して映画を最初から最後まで微動だにせず見ていたそうです。奥山氏は、「全部が終わったところで、お母さんとお父さんが正座したままゆっくり振り返って、『久しぶりに泰造に会わせてもらえました。ありがとうございました』と言われた時に、よかった、ただそれだけでよかったと思いました。自分にとっても、それから俺の映画を見てくれる人にとっても、『地雷を踏んだらサヨウナラ』というのは本当に大きな区切りの道しるべになっていて。つねに一ノ瀬泰造の残像を感じることで孤独と不安を乗り越えたような気がします」と述べます。このくだりには、わたしも泣けました。
 
 樹木希林の遺作となった2019年6月公開の「エリカ38」にも言及しています。樹木希林は、奥山作品には「RAMPO」をはじめ数多く出演してきました。「エリカ38」は樹木希林自身も企画として名前を連ねています。本当は60歳を過ぎていながら38歳と偽って詐欺をはたらいた実話が題材で、詐欺師役を浅田美代子が演じました。奥山氏は、夕日が沈む時間のホテルのBARで樹木希林と会ったそうですが、「希林さん、何ですか、企画って」「あのさ、60幾つでさ、30幾つって言っていた女いるじゃない? あれ、どう?」「いや、希林さん、30幾つに見えないな」「そうでしょう? だからね、私はね、企画でいいの」「いや、希林さんが出てなければ、希林さんが企画やったって意味ないじゃないですか。そもそも、じゃあ、誰がやったらっていうイメージはあるんですか?」「浅田美代子よ」という会話が交わされたそうです。
 
 「おわりに」では、奥山氏は1999年の「山口県光市母子殺害事件」を取り上げ、妻子を理不尽に殺害された本村洋氏について、「当時、彼がひとりで戦ってる姿をニュースで何度も何度も見てて、俺はこの姿、亡くなった奥さんと娘さんのために自分を捨てて、それもたったひとりで戦っている彼の姿を忘れたくない、忘れるべきではないと思ったんです。そして『天国からのラブレター』という映画の企画をしました」と書いています。
 
 奥山氏は、「本村さん、笑顔で街を歩けます? 辛くないですか? もし、弥生さんがここにいたら、あなたの笑顔をもっともっと見たいと思う。もしあの世があるならば、弥生さんは天国から、もう十分だから、せっかく生きてるんだから若いんだから、私たちのために戦うよりも笑って過ごせる人生を送って欲しいと言うんじゃないかな」と書いた後、「でも本村さんはこう言うんです。『起こった事実は永遠に消えません。亡くなったふたりはもう戻らないんです。死んだ子の歳を数えるという言葉は無駄なことをする比喩として言うじゃないですか。でも僕は数えてしまいます。そうしてあげないと……多分、永遠に』。本村さんはこの事件をひとときも忘れないように毎週末、事件現場のもう閉ざされているドアの前に立ってそのドアノブを握ってるというんです。『本村さん、俺、何が何でも映画を作ります』。内心、この映画を区切りにごく普通の明るい人生に踏み出して欲しい。出来うることなら、その区切りになるようにと」と述べます。
 
 もうひとつ、奥山氏がたったひとりのために作った映画があります。「TAIZO」です。奥山市は、「『地雷を踏んだらサヨウナラ』の上映が終わる頃、泰造さんのお父様は亡くなり、お母様ひとりになっていました。武雄市に一ノ瀬信子さんを訪ねた時、『寂しくなりますね』と。その時、俺がこれからもずっと泰造さんの写真を見ながら語る相手になれたらと思いました。でも自分にはスタートしたばかりの会社とスタッフがいる。何かしたいと思っても無理かなと思ってる時に、一ノ瀬泰造に深い興味を持ち、泰造さんの足跡を追ってカンボジアや武雄まで行き取材していたキャスターの中島多圭子さんに出会ったんです。そしてドキュメンタリー映画を作ることを相談したんです」と述べるのでした。本村洋氏についての「天国からのラブレター」にしろ、一ノ瀬泰造についての「TAIZO」にしろ、現在の奥山氏の映画作りには「グリーフケア」の視点があります。若い頃に奥山氏が手掛けた多くの映画を観てきたわたしですが、ぜひ一度お会いして、グリーフケア映画について意見交換したいです。

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