No.2014 哲学・思想・科学 『禍いの科学』 ポール・A・オフィット著、関谷冬華訳、大沢基保日本語版監修(日経ナショナルジオグラフィック社)

2021.03.05

 日本でも新型コロナウイルスのワクチン接種が始まりましたが、副作用を心配する声も多いようです。そこで、世界的なワクチン学の権威が書いた本を読みました。『禍いの科学』ポール・A・オフィット著、関谷冬華訳、大沢基保日本語版監修(日経ナショナルジオグラフィック社)です。「正義が愚行に変わるとき」というサブタイトルがついています。著者は1951年生まれ。米国の医学研究者かつ臨床医で、ペンシルベニア大学医学部の教授(ワクチン学および小児科学)。フィラデルフィア小児病院のワクチン教育センターの所長。ロタウイルスワクチンの共同開発者であり、ワクチン研究分野では著名な研究者・臨床医。米国の疾病対策センター(CDC)の予防接種諮問委員会委員であり、自閉症科学財団の設立メンバーの一員でもある。『恐ろしい感染症からたくさんの命を救った現代ワクチンの父の物語』(南山堂)、『反ワクチン運動の真実:死に至る選択』(地人書館)、『代替医療の光と闇 ― 魔法を信じるかい?』(地人書館)など著書多数。

本書の帯

 本書の帯には「救世主だったはずなのに いったいどこで間違えたのか?」と大書され、「アヘン」「トランス脂肪酸」「窒素肥料」「優生学」「ロボトミー手術」「DDT禁止」「メガビタミン療法」という単語が並んでいます。

本書の帯の裏

 帯の裏には「SEVEN STORIES OF SCIENCE GONE WRONG」として、「これから7つの発明を紹介するが、それぞれについてどのようにすれば悲惨な結果を回避できた可能性があるかを分析していく。発明が誕生する段階で科学の進歩と科学が引き起こす悲劇を見分けられるのかどうか、あるいは再びパンドラの箱を開くのかを見ていく。そこから導き出される結論は、間違いなく読者を驚かせることだろう。(『はじめに』より)」と書かれています。

 また、カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「科学の革新は常に進歩を意味するわけではない。パンドラが伝説の箱を開けたときに放たれた凶悪な禍いのように、時に致命的な害悪をもたらすこともあるのだ。科学者であり医師でもある著者ポール・オフィットは、人類に破滅的な禍いをもたらした7つの発明について語る。私たちの社会が将来このような過ちを避けるためには、どうすればよいか。これらの物語から教訓を導き出し、今日注目を集めている健康問題(ワクチン接種、電子タバコ、がん検診プログラム、遺伝子組み換え作物)についての主張を検証し、科学が人間の健康と進歩に本当に貢献するための視点を提示する」

 さらに、アマゾンの「出版社からのコメント」には、以下のように書かれています。「かつて優生学やロボトミーのようなものが、なぜ熱狂的に受け入れられたのか。後から考えれば不思議で仕方がないが、当時を振り返ればそうなる土壌があったのだ。先導していた科学者にも、普及させた人たちにも悪意があったわけではない。むしろ彼らは良いことをしているつもりだった。ただ、独善的な正義感やわずかな功名心が先走り、判断を狂わせ、結果的に人類史に残る悲劇を招くこととなった。本書は緻密な調査に基づき、科学者たちがどのように新たな発明を生み出し、途中で道を踏み外し、人類を惨禍に陥れていったのかを丹念にたどっていく。医学研究者かつ臨床医である著者は、優れた筆力でぐいぐいと物語の中に私たちを引き込んでいく。そして読み終わったとき、私たちはふと我が身を振り返る。いま私たちが当たり前のように受け入れている様々な新しいものも、もしかしたら禍いの種なのかもしれない。過ちは今まさに繰り返されているのではないか、と」

 本書の「目次」は、以下の通りです。
「はじめに」
第1章 神の薬 アヘン
第2章 マーガリンの大誤算
第3章 化学肥料から始まった悲劇
第4章 人権を蹂躙した優生学
第5章 心を壊すロボトミー手術
第6章 『沈黙の春』の功罪
第7章 ノーベル賞受賞者の蹉跌
第8章 過去に学ぶ教訓
「エピローグ」
「参考文献」
「索引」

 「はじめに」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
「フィラデルフィアのフランクリン研究所には、ベンジャミン・フランクリン国立記念碑がある。1824年に設立されたこの研究所は、米国で最古の科学教育機関の1つに数えられる。2014年に、ここで『世界を変えた101の発明(101 Inventions That Changed the World)』という企画展が開かれた。サイエンス・ライターの息子と一緒にこの企画展を訪れ、私たちはどんな発明が紹介されているかを予想してみた。予想の多くは当たっていたが、なかには驚くような発明も入っていた」

 「世界を変えた101の発明」のトップ3を占めたのは、低温殺菌、紙、そして人の手によって起こされた火でした。そして、発明のリストは帆船、エアコン、GPS(全地球測位システム)で締めくくられていました。他にリスト入りしたのは、電話、クローン技術、アルファベット、ペニシリン、糸車、予防接種、トランジスタラジオ、電子メール、アスピリンなどだったとして、著者は「私も息子もまったく予想していなかったのは、火薬(20位)と原子爆弾(30位)の2つだった。これらの発明はどちらも、利益よりはるかに大きな害悪をもたらしたことは間違いない。これをヒントに、私は『世界を悪い方向に変えた101の発明』というリストを作れるのではないかと思いついた」と述べています。

 第1章「神の薬アヘン」の冒頭を、著者は「最初の薬は、最初の文明から生まれた」と書きだし、続けて「およそ6000年前、旧約聖書に登場するアブラハムの時代に、シュメール人がペルシア(現在のイラン)からチグリス川とユーフラテス川の間に移り住んできた。彼らは楔形文字を発明して40万枚以上の粘土板に書きつけ、農業を発明して大麦、小麦、ナツメヤシ、リンゴ、プラム、ブドウを栽培した。さらに、彼らはある植物を発見した。歴史上で、これほど多くの喜びと、多くの苦しみをもたらした植物は他にない。彼らはこの植物をフル・ギル、「喜びをもたらす植物」と呼んだ。18世紀のスウェーデンの植物学者、カール・リンネはこの植物にPapaver somniferumという学名をつけた。これはケシのことだが、アヘンが採れるものはアヘンケシ(opium poppy)と呼ばれている」と述べます。

 ケシの実からとれるアヘンは非常に効力が強く、古代文明においては神から与えられたものだと考えられていたとして、著者は「シュメール人は、これを太陽神ラーの頭痛を癒すために女神イシスが与えた贈り物だと信じていた。17世紀のイギリスの医師・トーマス・シデナムは、『全能の神が苦しみを和らげるために人間に与えた治療薬のなかでも、アヘンほど万能で効き目のあるものはない』と言った。アヘンを神からの贈り物だとする考え方は、20世紀まで続いた。1900年代の初めに、当時最も高名な医師にしてジョンズ・ホプキンス病院の創設者でもあったウィリアム・オスラーは、アヘンを『神の薬』と呼んだ」と述べています。

 ギリシャ人もローマ人も、アヘンで商売することはありませんでした。アヘンの取引は、アラブ商人たちの領分でした。彼らが中国に持ち込んだアヘンは、国中を虜にします。「中国での大流行」として、著者は「アヘンが中国に入ってきたのは紀元7世紀頃で、主に薬として使われていたが、菓子類に加えられることもあった。最初のうち、アヘンは気晴らしのような娯楽の一種だった。だが、ポルトガル人が中国に喫煙パイプを持ち込むと、様子は一変し、中国でアヘンは大流行した。このため、庶民が入手できるアヘンが不足した」と述べます。

 19世紀にはモルヒネが発明されました。
「モルヒネの登場」として、著者は「アヘンは個人に中毒を、社会に破滅をもたらすことが明らかになっているが、優れた鎮静効果があることも確かだ。これに匹敵する薬物は他にない。科学者たちは、アヘンの中毒性をなくし、鎮静効果だけを残す方法を懸命に模索した。最初にそれを試みたのは、1800年代初めのドイツの若き薬剤師だった。1803年、20才の薬剤師見習いだったフリードリヒ・ゼルチュルナーは、アヘンに最も多く含まれ、最も作用が強い成分の単離に成功した。ゼルチュルナーは、ギリシャ神話に登場する夢の神モルフェウスにちなんでこの成分にモルフィウムという名前をつけた。のちに、モルフィウムはモルヒネと名前を改めた」と述べるのでした。

 第3章「化学肥料から始まった悲劇」では、ドイツ出身の物理化学者、電気化学者であるフリッツ・ハーバーが取り上げられます。1918年にノーベル化学賞を受賞した彼は、空気中の窒素からアンモニアを合成するハーバー・ボッシュ法で知られます。第1次世界大戦時に塩素を始めとする各種毒ガス使用の指導的立場にあったことから「化学兵器の父」と呼ばれることもあります。著者は、フリッツ・ハーバーは、戦争の恐怖をあおる方法を見つけた。その事実は、連合軍の司令官に伝わっていた。『このときの卑劣で忌まわしい害毒のせいで我々の間に広がった恐怖と戦慄を実感としてわかってもらうことは不可能だ』とあるカナダの将校は語った。この事件を『華々しい』と表現したハーバーは、自らが作り出した兵器のおかげでドイツ軍が技術面のみならず、心理面でも優位に立ったことを知っていた」と述べています。

 ハーバーは「あらゆる新兵器は戦争に勝利する力となる」と振り返り、「すべての戦争は、兵隊の肉体ではなく、精神との戦いなのだ。新たな兵器は、経験したことがない未知のものであるがゆえに、兵隊はそれを恐れ、士気がくじかれる。大砲が大きく士気に影響することはないが、ガスの匂いには誰もが動揺する」と語りました。著者は、「すべてのドイツ人が手放しでこの事件を称賛したわけではなかった。あるドイツの司令官は次のように書いている。『文明が発展するほどに、人間は卑劣になる』。このときの攻撃は、のちのナチスドイツの人を人とも思わない姿勢に重ねて『消毒作戦』という名で呼ばれた」と書いています。

 「戦争をチェスに変える」として、著者は述べます。
「フリッツ・ハーバーは、妻がなぜ化学兵器に反対したのか、理解できなかった。それだけでなく、他のノーベル賞受賞者たち数人がそろって自分の受賞スピーチをボイコットした理由もわからなかった。ハーバーにとって、死んだ兵士は死んだ兵士だった。死に方は重要ではないはずだ。肝心なのは、彼らが死んだという事実だけだ。毒ガスは技術が高度に発展した社会の都合に役立つならば、ドイツがそれを利用することのどこに問題があるというのか? 『騎士(ナイト)は銃を持つ人間を否定するが、銃を撃つ兵隊が化学兵器を否定するのも同じことではないのか』とハーバーは言った」

 ハーバーが目指したのは、戦争を科学者たちの勝負に変えることだったとして、著者は「より強力な毒ガスを作り、より効率的に毒ガスをまき、ガスマスクなど最高の性能を備えた防護具を作ったものが勝者となる。『毒ガスを兵器とする攻防は、戦争をチェスに変える』と彼は淡々と語った。第二次世界大戦で原爆の投下が正当化されたときと同じ理屈で、ハーバーは化学兵器が奪った人命より多くの人命を救ったと主張した。実際のところ、フリッツ・ハーバーは自分の行為をこの上なく誇りに思っていた。科学が、銃弾や大砲の打ち合いをはるかに超える壊滅的な打撃を与えられることに彼は満足していた。ハーバーにとって化学兵器とは、『隊長の指示に従う剣を持った兵隊を、動けない人間の山に変える』道具だった」と述べています。

 イギリスとフランスも化学兵器を使用しましたが、最初に使い始めたのはドイツであり、目覚ましい戦果を挙げました。また、砲弾に毒ガスを入れて、敵に向かって打ち込む作戦を始めたのもドイツでした。1918年には、ドイツの砲弾のおよそ3分の1に毒ガスが仕込まれていました。戦争が終結するまでに、フリッツ・ハーバーの化学兵器によって100万人以上が被害にあい、2万6000人が死亡しました。ハーバーはユダヤ人でしたが、洗礼を受けユダヤ教からプロテスタントに改宗しました。ハーバーとは違い、ドイツの多くのユダヤ人科学者たちはキリスト教に改宗しようとはしませんでした。「ユダヤ人を辞めさせろ」というヒトラーの主張には誰もがうんざりしていたのです。

 ハーバーと同じく第1次世界大戦中に国のために尽くし、やはり後にノーベル賞を受賞した科学者にジェイムス・フランクがいます。物理学者のフランクは、ユダヤ人が憎まれ、ひどい扱いを受ける土地で生活していくことを拒否し、フランクはゲッティンゲン大学の教授職を辞しました。その前に、彼はフリッツ・ハーバーに「私は学生の前に立って、この件が自分にとってたいしたことではないかのようにふるまうことはできない」「そして、かつて戦争でドイツのために戦ったユダヤ人にドイツ政府が放ってよこした骨にかじりつくことも、私にはできない。皆が地位を手放したくない気持ちはわかるし、尊重するが、私のような人間もいる。だから、君を敬愛するこのジェイムス・フランクを、どうか責めないでほしい」と書いた手紙を送りました。後に、フランクは米国に移住し、ロバート・オッペンハイマーと一緒に原爆の開発に携わりました。

 第4章「人権を蹂躙した優生学」では、2016年に米国大統領になったドナルド・トランプが、選挙戦を有利に進めるためにメキシコからの移民を攻撃したと指摘され、著者は「政治家たちは、米国の歴史で一貫して問題となってきたテーマを利用した。それが、移民に対する不安だ。1930年代と40年代に東欧からの移民(主にユダヤ人)を拒否したことや、現在でもカナダをはじめとする諸外国と比較してシリア難民の受け入れ率が著しく低いことを見てもわかるように、米国は門戸の開放に慎重な姿勢を見せることが多かった。しかし、ほとんどの米国人は、このような最悪の偏見への訴えかけが成功した理由の根源が、1世紀前に発表された1冊の科学専門書にあったことを知らない。本の著者は、ニューヨーク市の環境保護活動家、マディソン・グラントだ」と述べます。同書の書名は『偉大な人種の消滅(The passing of the great race)』。優生学が注目されるきっかけになりました。

 米国で主に発展した優生学は、やがて世界的な現象になりました。1912年、最初の国際優生学会議がロンドンで開催され、アレクサンダー・グラハム・ベルが名誉会長を務めました。会議には、米国、ベルギー、イギリス、フランス、イタリア、日本、スペイン、ノルウェー、ドイツの研究者たちが参加。9年後に、第2回の国際優生学会議がニューヨーク市で開かれました。米国の有名な優生学者、ヘンリー・フェアフィールド・オズボーンが基調講演を行い、「病気の予防と拡大においては科学が政府に道を示してきた」「同様に、社会にとって無用な人々の拡大と増加を防ぐことにおいても政府に道を示す必要がある」と述べました。会議で発表された53報の研究発表のうち、42報が米国の研究者によるものでした。国際性をアピールしていたにもかかわらず、優生学は米国の学問だったのです。

 1917年、ハリウッド映画「黒いコウノトリ」が公開され、大衆文化にも優生学が登場しました。「優生学のラブストーリー」と宣伝されたこの映画では、「欠陥」児が葬り去られるまでの過程を描いています。著者は、「この映画が伝えようとしているメッセージ、宣伝しようとしていた内容は、はっきりしている。欠陥のある者を抹殺し、国を救おうということだ。映画は熱狂的なファンを相手に10年以上にわたって上映された。『黒いコウノトリ』のヒットと法律を作る権限を持った議員たちの支援のおかげで、米国が次の段階に進む準備は整った」と述べています。

 続けて、著者は「次にやるべきことは、強制不妊手術の合法化だ。これらの手術は医学界や科学界だけでなく、最終的には連邦最高裁判所の承認も得た。優生学者たちは、国家が人口の10%に不妊手術を施し、遺伝子プールから不純な血筋が除かれるまでその劣等10%の不妊手術を継続する必要があると主張した。当面の目標は、1400万人の米国人を対象に不妊手術を行うことだ。第一段階として、米国の32州に居住する6万5370人の貧困者、梅毒患者、知的障害者、精神障害者、アルコール中毒者、奇形の者、犯罪者、てんかん患者の不妊手術が行われた」と述べます。

 『偉大な人種の消滅』を書く前のマディソン・グラントは、米国で唯一無二の影響力を持った自然保護活動家でした。彼はブロンクス動物園を作り、クイーンズ、プロスペクトパーク、セントラルパークなどの動物園とニューヨーク水族館を設計した野生生物保護学会を設立しました。さらに、「グラントは独力でアメリカバイソンを絶滅の危機から救い、アラスカのデナリ、フロリダのエバーグレーズ、ワシントンのオリンピック、モンタナのグレイシャーなどの国立公園の設立において重要な役割を果たした。また、クジラやハクトウワシ、プロングホーンの保護活動にも力を注いだ」と書かれています。

 グラントの『偉大な人種の消滅』には多くの反対意見が生まれましたが、おそらく最も鋭く反対意見を書き連ねたのは、イギリスの作家で詩人のG・K・チェスタトンだろうとして、著者は「審議中の移民法に関して、チェスタトンはグレゴール・メンデルの科学と、マディソン・グラントの疑似科学の間にくさびを打ち込んだ。『多発していた魔女狩りに反論するために霊的世界を否定する必要がない以上に、そのような法案に反撃するために遺伝を否定する必要はない』。残念ながら、モーガンやボルチやメンケンやチャスタトンがあげた声は、マディソン・グラントと彼の理論を支持する声にかき消されてしまった」と述べています。

 「アドルフ・ヒトラー」として、著者は「1925年、マディソン・グラントの『偉大な人種の消滅』はドイツ語に翻訳された。その少し前にドイツ南部のバイエルン政府への反乱を起こそうとして逮捕され、刑務所に送られていた不満を抱えた伍長アドルフ・ヒトラーもこの本を手に取った。読み終わった後で、この36才の革命家はグラントにファンレターを送った。『この本は、私にとっての聖書だ』とヒトラーは書いた。刑務所にいた9ヵ月間、ヒトラーは米国の優生学者が書いた本を何冊も読み、刑務所で過ごした時間を『大学』と呼んだ」と書いています。

 ヒトラーはランツベルク刑務所にいる間、自伝的要素を取り入れ、政治的世界観を披露した著作『我が闘争』の執筆に取り組みました。第1巻は1925年に出版され、続いて1926年に第2巻が出版されました。著者は、「マディソン・グラントの『偉大な人種の消滅』がアドルフ・ヒトラーの『我が闘争』に影響を与えたというのは、過小評価だ。いくつかの箇所で、ヒトラーはグラントの本をほとんどそっくりそのまま引用している」と述べています。

 ヒトラーが政権を握ってから3年後の1936年、ナチ党はマディソン・グラントの『偉大な人種の消滅』を必読書のリストに入れたことを紹介し、著者は「フランシス・ゴルトン、チャールズ・ダベンポート、ハリー・ラフリン、マディソン・グラント、そしてアドルフ・ヒトラーには、いくつかの共通点がある。彼らの定義するところによれば、全員が北方人種であり、全員が北方人種は自由に子孫を残すべきだが、それ以外の人種が子孫を残すことは阻止すべきだと信じており、そして誰にも子供がいなかった」

 「ドイツの安楽死計画」として、政権を手にした1933年、アドルフ・ヒトラーは遺伝性疾患子孫防止法を成立させたことを紹介し、著者は「やがて、ヒトラーは強制不妊手術だけでなく、殺人にも手を染めるようになった。障害を持って生まれた子供たちは食事を与えられず餓死したり、致死性薬物を注射されたり、あるいは――古代スパルタのやり方にならって――寒空の下に放り出されたりした。最初のうち、殺されるのはひどい奇形を持った新生児だけだった。やがて、殺される対象となる不適格者の年齢が3才まで引き上げられ、そのうちに8才、12才、16才と段階的に引き上げらえていった。「障害児」の定義も広がり、不治の病にかかっている子供や学習障害の子供も含まれるようになった。慢性の夜尿症までがやり玉に挙がった。ヒトラーの主治医だったカール・ブラントの指揮下で、ドイツの安楽死計画はすぐに高齢者、虚弱者、精神障害者、不治の病の患者に広げられた。7万人以上の成人のドイツ人が殺された」と述べています。 

 1935年、アドルフ・ヒトラーはユダヤ人の市民権をはく奪し、ユダヤ人とアーリア人の性的関係や結婚を禁止したニュルンベルク法を成立させました。米国の優生記録所は、ニュルンベルク法を健全な科学的手段として称賛しました。最終的に、ユダヤ人はゲットー(ユダヤ人隔離地区)に隔離され、ヒトラーがいうところの「最終的解決」のために強制収容所に送られました。「我々が健全な状態を取り戻すにはユダヤ人を完全に排除するしかない」というヒトラーの発言を紹介し、著者は「少なくとも600万人のユダヤ人、スラブ人、ロマ人、同性愛者、『精神障害者』が殺された。北方人種が劣等人種によって劣化させられていくのではないかとマディソン・グラントが恐れた『人種の自滅』は、民族大虐殺(ジェノサイド)に発展した。ヒトラー政権下で副総統を務めたルドルフ・ヘスは、『国家社会主義は生物学の応用に過ぎない』と言った」と述べるのでした。

 第5章「心を壊すロボトミー手術」では、かつて、精神外科の名のもとに爆発性精神病質などの診断を受けた患者に対し、情動緊張や興奮などの精神障害を除去する目的で前頭葉白質を切除する手術(ロボトミー)が実施されていたことが紹介されます。発案者であるエガス・モニスが考案した術両側頭部に穴をあけ、ロボトームという長いメスで前頭葉を切る「モニス術式」が有名ですが、著者は「モニスが考えていたのは、2ヵ所の前頭葉を完全に除去する前頭葉切除術ではなかった。彼が思い描いていたのは、脳から前頭葉の白質だけを切り離す(切断)手術だった。白質は神経線維が多く白く見えることからこのような名前で呼ばれるが、のちにモニスは、ギリシャ語で白を意味する『leuko』と、ナイフを意味する『tome』にちなんで、この手術をロイコトミー(leucotomy)と命名した。モニスの手術は大西洋を渡って米国に伝わり、ロボトミーという名前で呼ばれるようになった」と説明します。

 手術の考案者としての権利を主張するため、モニスは20人の患者についての248ページの主題論文を発表しました。7人が治癒し、7人は症状が大幅に改善され、6人には変化が見られませんでした。著者は、「こうして、精神外科という新たな医療分野が誕生した。これは『大きな前進』だとモニスは述べたもはや患者は、情緒不安や不安発作、幻覚や妄想、躁やうつの状態に悩まされることがなくなるのだ。1930年代後半に入ると、ロボトミーはキューバ、ブラジル、イタリア、ルーマニア、米国で行われるようになった。しかし、ポルトガルではロボトミー手術は禁止された。最初にモニスとリマに患者を紹介していた精神科医は、それ以上の患者の紹介を断った。まもなく、ポルトガルの他の精神科医も患者をよこさなくなった。手術が招く結果を誰もが恐れていた」と述べています。

 「人間の脳の勇敢なる探索者」として、「手術による悪影響はない」と豪語したモニスが最初にロボトミー手術を行った患者たちの予後は彼の主張とはかけ離れていたことを紹介し、著者は「彼らは、嘔吐や下痢、失禁、眼振(眼球が規則的に勝手に揺れ動く状態)、眼瞼下垂(上まぶたが垂れ下がって来る症状)、盗癖、異常な食欲、今がいつで自分がどこにいるのかわからなくなる見当識障害などに悩まされることが多かった。最初の頃にモニスとリマに患者を送っていたポルトガルの精神科医たちは、のちに手術を『純然たる大脳神話』と呼んだ。しかし、スウェーデンのノーベル賞委員会の選考委員たちは、これらの問題を気にしなかったか、問題に気づいていなかったようだ。1949年、委員会は『精神疾患の外科的治療法を発明した』としてエガス・モニスに賞を贈ることを決定した」と述べています。

 こうして、ロボトミー手術は主流になりました。皮肉なことに、ホロコーストに続いて明るみに出た、残虐かつ非倫理的な実験を医師たちが行うことを防ぐため作成されたニュルンベルク綱領に違反するとして、ドイツはロボトミー手術を一切受け入れなかったとして、著者は「ノーベル賞委員会の発表からの40年間で、世界中で4万件のロボトミー手術が行われ、その半分以上は米国で実施された。米国でこれほどロボトミー手術の人気が高まった裏には、1人の男の固執と狂信的なまでの熱意があった。精神病治療のパンドラの箱を開けたのは、この男だ」と述べます。1942年には、少なくとも7万5000人の精神病患者(ほとんとが精神分裂病だった)が何らかのショック療法を受けていたといいます。

 「ローズマリー・ケネディ」として、著者は「アイスピック・ロボトミー手術を発明したとき、ウォルター・フリーマンが目指していたのは、州立病院に重くのしかかっていた貧困者の治療費という財政的な負担を軽くすることだった。だが、フリーマンは富裕層や有名人にもロボトミー手術を施した。劇作家のテネシー・ウィリアムズが書いた戯曲『ガラスの動物園』や『去年の夏突然に』は彼の姉ローズをモデルにしているが、彼女もロボトミー手術を受けている。ビートニク詩人アレン・ギンズバーグの母親もそうだ。だが、フリーマンの手術を受けた患者のなかでも一番の有名人は、ローズマリー・ケネディだろう。ジョセフ・ケネディとローズ・ケネディの間に生まれ、兄はジョン・F・ケネディ米大統領、弟はロバート・F・ケネディ司法長官とテッド・ケネディ上院議員という家柄の女性だ」と述べます。そんな彼女が父親の命令で前頭葉白質を切除する手術を受けたところ後遺症を負うなど、のちに前頭葉切截術(ロボトミー)の問題点が明らかとなりました。

 20世紀半ばまでに、ロボトミー手術は米国の文化においても非常に重要な位置を占めるようになりました。例えば、ロバート・ペン・ウォーレンの小説『すべての王の臣』(1946年)、テネシー・ウィリアムズの戯曲『去年の夏突然に』(1958年)、映画では「素晴らしき男」(1966年)、「猿の惑星」(1968年)、「時計じかけのオレンジ」(1971年)、「電子頭脳人間」(1974年)、「カッコーの巣の上で」(1975年)、「女優フランシス」(1982年)、「レポマン」(1984年)、「ホールインワン(日本未公開)」(2004年)、「アサイラム 狂気の密室病棟」(2008年)、音楽ではラモーンズの「ティーンエイジ・ロボトミー」(1977年)などにロボトミー手術が登場します。

 2000年代の初めには、ロボトミー手術はもはや病院が患者をコントロールするための道具として描かれることはなくなり、ホラー映画に登場するようになりました。2008年の「アサイラム 狂気の密室病棟」では、改装されたばかりの学生寮にやってきた6人の大学の新入生が、この建物が以前は精神病院だったことを知ります。回想シーンには、ベッドに縛りつけられた少年、有刺鉄線でできた拘束服を着せられた少女、眼窩からアイスピックが突き出した少年、小型のハンマーを手にした高圧的な背の高い男などが登場します。著者は、「この最後の人物が登場する場面が、おそらくは一番恐ろしい。なぜなら、この身の毛のよだつような恐ろしい場面は、現実に起こったことだからだ。そのような経験をした少年、ハワード・ダリーは、のちに自らの経験を本に書いた。ダリーのロボトミー手術を行ったのは、ウォルター・フリーマンだった。『アサイラム 狂気の密室病棟』のような映画は、ある評論家に言わせれば、『外科医をホラー映画の登場人物にするには、私たちが彼らに抱く信頼をちょっと変化させるだけでいい』ことを示している」と述べています。

 第6章「『沈黙の春』の功罪」では、「環境運動の女神」的な存在であるレイチェル・カーソンが取り上げられます。1962年、カーソンは『沈黙の春』を発表しました。彼女は、激しい怒りを抱え、殺虫剤――特にDDT(訳注 代表的な有機塩素系殺虫剤)と呼ばれていた農薬――を徹底的に阻止しようと立ち向かう論客となっていたとして、著者は「E・B・ホワイト(訳注 児童文学で人気の米国作家)を引用した最初のページから、『沈黙の春』が曖昧な表現を使おうとしていないことがはっきりと伝わってくる。『私は人間について悲観している』とホワイトは書いている。『なぜなら、人間は自分たちのために知恵を働かせすぎるからだ。私たちのやり方は、自然を力づくで従わせようとしている。私たちの方がこの惑星に合わせて生活し、懐疑的になったり、横暴にふるまう代わりに、自然の良さを認めていけば、私たちが生き延びられるチャンスは広がるはずだ』」と述べています。

 「絶対的な女神」として、著者は「ハリエット・ビーチャー・ストウの『アンクル・トムの小屋』は奴隷制廃止の法制化を、アプトン・シンクレアの『ジャングル』は食品医薬品法の成立を、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』は環境法の整備を実現させた」としながらも、カーソンがDDTの禁止を謳ったことについて、「蚊が媒介する病気はマラリアばかりではない。DDTにより、黄熱やデング熱の発生も大幅に減少した。さらにDDTは、ネズミに寄生して発疹熱を媒介したり、プレーリードッグやジリスに寄生してペストを媒介したりするノミにも効果があった。これらすべての病気が多くの国で事実上根絶できたことを踏まえて、米国科学アカデミーが1970年に行った試算によれば、DDTは5億人の命を救ったと推定された。DDTは、歴史上のどんな化学薬品よりもたくさんの命を救ったといっても過言ではないだろう」と述べます。

 また、「最も恥ずべき出来事」として、環境保護活動家たちは「DDTの禁止は究極のジレンマだ」と主張することを紹介し、著者は「DDTが禁止されれば、マラリアで死ぬ人が増える。しかし、DDTが禁止されなければ、白血病や各種のがんをはじめとする様々な病気にかかり、死ぬ人が出るだろう。この論法には、1つの誤りがある。『沈黙の春』でカーソンが警告したにもかかわらず、ヨーロッパ、カナダ、米国の研究により、DDTは肝臓病や早産、先天性異常、白血病、あるいは彼女の主張にあった他の病気の原因にはならないことが示された。DDTの使用期間中に増加した唯一のがんは肺がんだったが、これは喫煙が原因だった。何といっても、DDTはそれまでに発明されたなかでは最も安全な害虫対策だった。他の多くの殺虫剤に比べれば、はるかに安全性が高かった」と述べています。

 さらに「政治的判断」として、いろいろな意味でレイチェル・カーソンは重要な警鐘を鳴らしたことを指摘し、著者は「人間はもっと自分たちが環境に与える影響を注視する必要があると言ったのは、彼女が初めてだった。(実際に、気候変動は人為的な活動が直接的に招いた結果だ。)DDTが環境に蓄積される可能性を最初に警告したのも彼女だった。(DDTの散布が中止された後でも、DDTとその副産物は生態系全般に残り続けた。)そして、生物学的なやり方で虫を駆除することはトータルで考えれば益になるのではないかという彼女の予想は正しかった」と述べます。

 『沈黙の春』の出版から何十年も経ってから、バチルス・チューリンゲンシス(Bacillus thuringiensis israelensis)という蚊の幼虫を殺す細菌がマラリア根絶計画で使用されるようになったことを紹介し、著者は「残念ながら、レイチェル・カーソンは少々やり過ぎた。DDTは小児白血病などの病気を引き起こす、少し前まで元気だった子供が数時間後には死ぬこともあると主張したことで、彼女は人々をひどくおびえさせてしまった。レイチェル・カーソンは科学者だと自称していたが、結局のところ、そうではなかった。彼女は自分の偏った意見に合うように真実を捻じ曲げる論客だった」と断罪するのでした。

 第7章「ノーベル賞受賞者の蹉跌」では、20世紀における最も重要な化学者の1人であるライナス・ポーリングが取り上げられます。彼は量子力学を化学に応用した先駆者であり、化学結合の本性を記述した業績により1954年にノーベル化学賞を受賞しました。また、結晶構造決定やタンパク質構造決定に重要な業績を残し、分子生物学の草分けの1人とも考えられています。ワトソンとクリックが1953年にDNAの生体内構造である「二重らせん構造」を発表する前に、ポーリングはほぼそれに近い「三重らせん構造」を提唱していました。多方面に渡る研究者としても非常に有名であり、無機化学、有機化学、金属学、免疫学、麻酔学、心理学、弁論術、放射性崩壊、核戦争のもたらす影響などの分野でも多大な貢献がありました。

 著者は、「1954年、化学結合とたんぱく質の構造に関する研究が認められ、ライナス・ポーリングはノーベル化学賞を受賞した。ポーリングは研究以外の活動にも精力的に取り組んでいた。1950年代から1960年代にかけて、ライナス・ポーリングは世界で最もよく知られた平和活動家の1人に数えられるまでになった。彼は原子爆弾の製造に反対し、政府の高官に原子核から放出される放射線が人間のDNAを傷つけることを認めさせた。彼の努力は、初めての核実験禁止条約という形で報われた。さらに、彼は2つ目のノーベル賞となる、ノーベル平和賞を受賞した。ライナス・ポーリングは、異なる分野で2つのノーベル賞を受賞した最初の(そして現時点では唯一の)人物となった。1961年、ポーリングは史上最も偉大な科学者の1人として『タイム』誌の表紙を飾った。しかし、1960年代半ばに、ライナス・ポーリングの転落が始まった」と説明します。ポーリングはメガビタミン療法を誤解したことによって、がんと心臓病のリスクを高めたのでした。

 第8章「過去に学ぶ教訓」では、6「用心することにも用心が必要。」として、ダートマス大学医学部のギルバート・ウェルチは、私たちが直面するジレンマを的確に表すたとえを持ち出していることを紹介します。納屋と動物のたとえです。鳥、カメ、ウサギの3匹の動物が納屋にいて、逃げ出す機会をうかがっている。納屋の扉を開けると、3匹は三者三様の速度で逃げ出そうとします。扉を閉める間もなく飛び去ってしまう鳥は、どれほど手を尽くしても患者の命を奪っていくがんに例えられます。そのようながんに早期発見は役に立たず、いずれはその病で命を失うことになります。とにかく進行が早く、悪性度が高い、動きが遅く、どうやっても実際に逃げ出すことはできないカメは、進行がゆっくりで悪性度が低く、命にかかわることのないがんに例えられるとして、著者は「ほぼ間違いなく、患者はがんで死ぬよりも先に、他の理由で人生を終えることになる。これは、死ぬようながんではなく、死ぬまで共存しながら生きていけるようながんだ」と述べます。

 扉をすばやく閉めれば捕まえることができるウサギは、発見する意味があるがんに例えられるとして、著者は「このようながんの発見が遅れれば、命にかかわる。しかし、早期に発見できれば、検診があなたの命を救うことになる。がん検診はウサギを見つけ出す場合に限って意味がある。見つかるのがカメや鳥ばかりでは、命を救う効果は期待できない。子宮頸がんを見つけるためのパップテスト(細胞診)や大腸がんを見つけるための大腸内視鏡検査のような一部の検診は、命を救うことにつながる。どちらの検査でも、見つかる病気の多くはウサギだからだ。一方、甲状腺がん、前立腺がん、乳がんについては、早期に検診を受ける重要性がはっきりしていない」と述べ、一条真也の読書館『死すべき定め』で紹介した本の著者であるジョンズ・ホプキンス大学医学部の外科医アトゥール・ガワンデの「私たちは今、医療業界という金のかかる巨大産業をカメの発見と対応にせっせと取り組ませている」という発言は、この状況を見事に言い得ているといいます。

 また、7「カーテンの後ろにいる小男に注意しろ。」として、映画「オズの魔法使」で最後に登場するカーテンの後ろに隠れていた小男オズのエピソードを紹介した後、著者は「1998年イギリスのアンドリュー・ウェイクフィールドという医師が、麻しん・おたふくかぜ・風しんの混合ワクチン(MMRワクチン)が自閉症の原因になると言い出した。イギリスや米国ではMMRワクチンの接種を控える親が続出し、結果として数百人の子供に入院が必要になり、少なくとも4人が麻疹により死亡した。公衆衛生関連団体や学術界も反応し、12件以上の研究が行われて、はっきりとした結果が出た。結果には一貫性と再現性があった。MMRワクチンが自閉症の原因になることはない。アンドリュー・ウェイクフィールドは間違っていたのだ」と述べています。

 そして、最後に著者は、数学者で疑似科学の誤りを論破するノーマン・レビットの「ガリレオが権威に逆らったからといって、権威に逆らうものが必ずしもガリレオではない」という言葉を紹介し、「彼らがどれほど一生懸命に自分たちがガリレオだと信じ込ませようとしたとしても」と付け加えるのでした。いずれ新型コロナウイルスのワクチンを接種するであろうわたしは、本書を読んで少々複雑な気分になりましたが、「用心することにも用心が必要。」という著者の教えを噛みしめたいと思います。蛇足ながら、本書は読み物としても非常に面白かったです。夢中になって、一晩で読破しました。

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