No.2002 文芸研究 『幻島はるかなり』 紀田順一郎著(松籟社)

2021.02.09

 2ヵ月ぶりに感染者数が300人以下となった東京に来ました。まさか、このまま東京五輪に向かって突き進むのでしょうか? それが一番怖いことですね。
 わたしは、「東京五輪はるかなり」と思っています。
 『幻島はるかなり』紀田順一郎著(松籟社)を紹介します。「推理・幻想文学の七十年」というサブタイトルがついています。著者は評論家、作家。1935年、横浜市生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。専攻の書誌学、メディア論を専門とし、評論活動を行うほか、創作も手がける。詳しい略歴は一条真也の読書館『幻想と怪奇の時代』で紹介していますが、その『幻想と怪奇の時代』(松籟社)により、2008年度日本推理作家協会賞および神奈川文化賞(文学)を受賞。  

本書の帯

 本書の帯には「めずらかなる書物とともに」と大書され、「戦中戦後の欠乏の時代、必死に本の形をしたものを求め続けた少年の前に、稀(まれ)ものたちの棲まうもう一つの世界が、その姿を現す――」「戦後日本ミステリの隆盛に併走し、幻想怪奇文学の発掘と紹介に心血を注いだ著者による、七十余年のクロニクル」と書かれています。

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。
 なお、章題は日夏耿之介の詩句に因んでいます。
Ⅰ  奥深い闇を手探る
Ⅱ  日の光、雲間を遁れ出て
Ⅲ  げに春の最中であった
Ⅳ  山麓に人あり
Ⅴ  忘れ川の流れを見出す
Ⅵ  われらいま種蒔く人
Ⅶ  夢より夢を往来して
「推理小説、幻想文学の世界 思い出の人々」
「あとがき」

 Ⅰ 「奥深い闇を手探る」では、著者の少年時代の読書が以下のように回想されています。
「何遍も繰り返し読んだのは芥川龍之介の『蜘蛛の糸』『杜子春』『魔術』の幻想3作品であった。とくに『魔術』である。語り手はインド人の魔術師から「欲心を出さないこと」という条件付きで秘法を伝授してもらおうとするが、禁を破って一攫千金をもくろんだため、あっさり拒絶されてしまう。芥川の他の童話と同じ教訓臭がつきまとうが、魔術がどうのこうのというよりも、この話全体が一瞬の夢であったという個所がひどく気にいった。私が怪奇幻想的な物語に惹かれたのはこれが最初である。余談だが、唐の李公佐の『南柯太守伝』にしても、日本の浦島太郎伝説にしても、さらには江戸時代の黄表紙『金々先生栄華夢』や『見徳一炊夢』にしても、私にはすべての営為が、結局は儚く空しい一場の夢にすぎないという思想に共鳴してしまう傾向がある」

 少年時代の著者は「少年倶楽部」を愛読し、特に江戸川乱歩の『怪人二十面相』をはじめとする「少年探偵団シリーズ」に夢中になったそうです。著者は、「元来子ども相手の創作には全く関心がなかった乱歩が、戦時中の不本意な環境にあることを知った同誌編集部の要請により、しぶしぶ腰をあげたものだが、いざ蓋を開けてみると読者からの『毎号むさぼるようにして読みます。これを読んでいると自然に力こぶが入って手に汗がにじみます』『特別に面白い小説です。小林少年はどうなるのでしょう。僕のおばあさんも『怪人二十面相』が一番面白いといっています』といった反響がひきもきらないので、一気に乱歩カラーを強めたことが想像される」と述べています。

 また、Ⅱ 「日の光、雲間を遁れ出て」では、江戸川乱歩と並んで、戦後復活作家の中でひときわ強烈な印象を残した海野十三について、著者は「その代表作の1つ『謎の透明世界』(1947)は、敗戦直後『四次元漂流』の題名で「子供の科学」に連載された作品だが、海野の再起を賭けた力作である。人間が四次元空間に入りこんだらどうなるかということは、大いに作家の想像力を刺激すると見え、たとえば怪奇小説ではブラックウッドの『とびら』(原題”Entrance and Exit”)という短編は四次元世界をたくみに描いたことで知られている。しかし、海野のこの長編も、対象は少年読者だが、その怪奇ミステリ的な構想力において、ひけを取らないと思われる。私は小学校6年生のときに読んで異常な感銘を受けたが、これは私だけでなかったようで、日本の初期SF界を牽引した小松左京をはじめとする作家たちの多くは、本作品を読んでSF界を志したという」と述べています。

 高校時代の後半、著者は、文学全集ブームに乗せられ、『赤と黒』、『戦争と平和』、『カラマーゾフの兄弟』、『魔の山』などを1日150ページ以上読み、3、4日から1週間で読破するという無茶なことをやったそうですが、「つくづく集中力の未だ衰えていなかった年代であったと思う。あとから考えれば、『緑のハインリヒ』や『ジャン・クリストフ』や『美しき惑いの年』などは、典型的な教養主義の雰囲気と進歩幻想の中にまどろんでいなければ読めないようなものだが、このような読書が可能な物理的条件というものがあって、それは雑念に妨げられない年齢ということに尽きるだろう。したがって終わるのも早く、大学3年のころには著しくペースダウンした記憶があるが、教養主義の時代が大衆社会の前にあえなく崩壊していく土壇場にあって、旧文化の粋を堪能し得たことは幸運だったし、ページ数が多くて固い内容の書目を、ためらわずに選ぶ習慣がついたことだけでも収穫だったといってよい」と回想しています。

 高校3年生のとき、著者は北海道に修学旅行に出掛けます。旅行が終わると、その帰りがけに書店に駆け込みましたが、好みの翻訳文学の平台に近づいた瞬間、目が釘付けとなりました。著者は、「それまでの垢抜けしない探偵小説本とは似ても似つかない、瀟洒な装丁の新書版、というよりもアメリカのポケット・ブックの日本版ともいうべきものが、一挙に6点も並べられていたではないか」と述べています。スピレイン『大いなる殺人』、同『裁くのは俺だ』、ハメット『赤い収穫』、ウールリッチ『黒衣の花嫁』、ウォーリス『飾窓の女』、メースン『矢の家』……そう、日本に海外ミステリーのブームを起こした「ハヤカワ・ポケット・ミステリー」が創刊されたのです。もちろん、夢中になりました。

 大学時代の著者は「ミステリー研究会」に所属し、ミステリーを読み漁りましたが、「大学時代に読んだミステリの中で、印象が強かった、あるいは何らかの影響を受けたものを何点か挙げると、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』、夢野久作『ドグラ・マグラ』、蒼井雄『船富家の惨劇』、山本禾太郎『小笛事件』、松本清張『点と線』、カー『火刑法廷』、クリスティー『そして誰もいなくなった』、デ・ラ・トア『消えたエリザベス』、短編ではチェスタートン、ビアス、ルヴェル、ダールらの名が思い浮かぶ。何らかの意味で、推理小説の究極を目ざすか、その枠を超えようとしている作品に惹かれたといってよいだろう」と述べます。 

 会社員時代もミステリーを読んだそうですが、社会派推理作家としての松本清張の登場には大きなインパクトを受けました。著者は、「私が推理小説に求めてきたものは、本質的には逃避文学で、それには多少なりとも現実の埒外に連れ出してくれるロマンチシズムの作品を好んだといえようが、社会派松本清張の登場はその意識を徐々に変える契機となった。その作品は自分の属している社会的現実(企業社会)へと連れ戻すリアリズムを備えていた。内容がつまらなければ別だが、私はそこに全く新しい緊張感に満ちた読書の素材を見出した。相変わらず日本的な暗さ――覆い被さるような因習や自立できない無抵抗の個人――を描きながら、その原理を告発するだけの用意や創作上の技巧が存在し、そこに息をのむような緊迫感が生じていた。私がサラリーマン1年生として、そうした社会的矛盾を感じ始めていた時期と、タイミングが合っていたせいもある。残念ながらこの緊張感は作品の量産化によって薄められ、勢いは減衰したが、いまでも『清張以前』、『清張以後』という概念は、日本の推理小説史の展開の上で、決定的な分水嶺であることを強く意識せずにはいられない」と述べています。

ルイ・ヴァックスの『幻想の美学』

 Ⅴ 「忘れ川の流れを見出す」では、著者が大伴昌司らと恐怖文学セミナーを立ち上げ、同人誌「THE HORROR」を創刊した1963年(昭和38)の頃が語られます。この年は、わたしが生まれた年でもあるのですが、著者は「エンターテインメントの種類は増えつつあったが、1つだけ抜けていたものがあった。のちに幻想怪奇小説という名で一括される分野である。本邦ではじめてボルヘスを紹介したルイ・ヴァックスの論考『幻想の美学』(白水社「文庫クセジュ」1961)は別として、読書界にはまだそのような分野の到来を予感させるものはほとんどなかった」と述べています。

『現代人の読書――本のある生活』 

 著書の多い著者ですが、最初の本は三一書房の三一新書から出ました。三一新書は当時五味川純平のベストセラー『人間の條件』で大当たりをとっていました。版元の三一書房は終戦直後京都で創立されましたが、1957年東京に進出、神田駿河台の池坊学園付近に自社ビルを構えていました。編集者に会ったとき、著者は「だれでも本は3冊書けます。1冊は自伝、2冊は仕事の話、3冊目は趣味の話です。次は何にしますか」と言われたそうです。最初の著書は『現代人の読書――本のある生活』と名づけられました。著者は、「類書に乏しかったためか、何度か版を重ね、初期文筆生活の基礎となったものだが、反面会う人ごとに『読書論なんか書く人だから、もっと年寄りかと思った』といわれるのには参った。無理もないが、新時代には新時代なりの読書論、書物論があって然るべきだと考えたのである。当時感銘をうけていたヘンリー・ミラーの読書論から多くを引用したのも、そのためだった」と述べています。

中島河太郎の「探偵小説名作五十選」を引用

 この『現代人の読書――本のある生活』は、一条真也の読書館『知的生活の方法』で紹介した渡部昇一先生のロングセラーと並んで、わたしの中学時代の愛読書でした。「理想の蔵書」という章では、多様なジャンルの「必読書リスト」のようなものが紹介されていて重宝しましたが、著者は「必読書の選び方の1つにも、新世代のニーズが反映されるべきだと考え、内外の古典・純文学リストと並んで『エンターテインメント』という項目を立て、まず推理小説については『幻影城』所収の江戸川乱歩選『ポーより現代までの路標的名作90冊』と、『国民百科事典』掲載の中島河太郎選『探偵小説名作50選』を引用し、不足する現代のタイトルについては厚木淳(東京創元社編集部)に依頼し、新たに『現代ミステリ』30冊として選び出した」と述べています。

福島正実の「世界SF傑作選」も引用

 同様に、SFに対しては福島正実(早川書房編集部)に『世界SF傑作選』として40冊を選んでもらったそうです。著者は、「福島正実選のSFにはヴェルヌ『月世界旅行』からはじまり、チャペック『R・U・R』、オーウェル『1984年』を経て、アシモフ『我はロボット』、ブラッドベリ『火星年代記』、ハインライン『夏への扉』、安部公房『第四間氷期』、小松左京『地には平和を』にいたる40冊がリストアップされている。このような必読書リストはあまり例がなかったので、『重宝しますよ』といってくれる人もあった」と述べていますが、わたしは本当に重宝して、高校時代にほぼこのリストに沿ってSFの名作を読んだ思い出があります。

 また、「荒俣宏との出会い」として、著者は「たしか1969年の初夏であった。未知の若者から1通の手紙をもらった。内容は怪奇幻想文学を愛する慶應義塾大学の学生であること、一度是非会って欲しいということなどであった。正直いって大伴との別れ以後、私のホラー熱も冷めかけていたのだが、この手紙に記されたホラーへの情熱には、大いに惹かれるものがあった。次の週に、神田神保町の老舗喫茶『ラドリオ』で会うことにした。三省堂の近くの裏通りに位置するラドリオは、そのころ直木賞候補者の待機場所として知られていたが、私などは静かな、控えめな証明のもと、赤いレザーの座席に落ち着いて、買ったばかりの本の包装を開くのを無上の楽しみとしていたものだ」と述べています。

 約束の時間ピッタリに、ドアから入ってきたのは、びっくりするほど長身の、キチンと学生服を身につけた青年でした。「荒俣宏です」。初対面の挨拶もそこそこに、”師匠”の平井呈一から著者を紹介されたこと、中学3年生のときに風邪で寝込んださい、ふと「世界大ロマン全集」中の『怪奇小説傑作集』を手にしたのがきっかけで、ホラーに熱中していること、個人誌に翻訳を掲載していることなどを矢継ぎ早に語りながら、重そうな紙の手提袋から個人誌の実物を数冊取り出しました。著者は、「見ると『団精二』の筆名でダンセイニやラヴクラフトなどの翻訳も精力的に試みているらしい。話をしているうちに、私は大伴と立ち上げた雑誌『THE HORROR』の数少ない会員の中に、『荒俣』の名があったことをぼんやりと思い出した。してみると、あの頼りない同人誌も無駄ではなかったのだ」と回想しています。平井呈一、紀田順一郎、大伴昌司、荒俣宏……まことに縁は異なものですね。怪奇幻想文学ブームの種が今まさに蒔かれようとしていました。

わが書斎の『怪奇幻想の文学』

 Ⅵ 「われらいま種蒔く人」では、著者と荒俣宏が企画した『怪奇幻想の文学』が新人物往来社から刊行された経緯が紹介され、「『怪奇幻想の文学』刊行中には、他社から類似企画の打診が少なからずあったが、大手の学習雑誌の「児童向けの話を抄訳で連載したい」というようなものを別にすると、創土社の『ブックス・メタモルファス』シリーズや、月刊ペン社の『妖精文庫』などが、読者層の開拓につながった企画といえるだろう。詩人でテレビドラマ誌の編集者から独立して創土社を立ち上げた井田一衛は、怪奇幻想文学に理解のあった人で、ラブクラフト『暗黒の秘儀』(仁賀克雄訳)、『サキ選集』(中村能三訳)、『ホフマン全集』全10巻(深田甫訳、第10巻未刊)ほか多数の基本的な書目を刊行していた。荒俣宏もこの社からデビュー訳書として『ぺガーナの神々』、ついで『ダンセイニ幻想小説集』を刊行している。私は『ブラックウッド著作集』と『M・R・ジェイムズ全集』上下巻を出してもらった」と述べています。

わが書斎の『妖精文庫』

 月刊ペン社からは、『妖精文庫』が刊行されました。これは荒俣宏の編纂になるファンタジー文学の集成で、全34巻・別巻3という構成でしたが、版元の倒産により3冊が未刊となった。わたしは、刊行分の本はすべて持っています。マクドナルドやイエイツ、マクラウドほか幻想ジャンルのコアな作家を真正面から紹介した功績は大きいとされる『妖精文庫』ですが、別巻の『別世界通信』(1977)は、荒俣宏の記念すべき第一評論集です。その後、三崎書房の林宗宏社長から「幻想小説専門をやってみないか」という呼びかけがあり、著者と荒俣宏は専門誌の創刊に奔走することになります。著者は、「準備期間3ヶ月で、編集責任者は荒俣宏と私、それに初期は鏡明と瀬戸川猛の参加を得た。創刊号の執筆者には山下武、安田均、鏡明、瀬戸川猛資、小宮卓、桂千穂、種村季弘、権田萬治というメンバーのほか、『ファンタスティック・ギャラリー』という絵画セクションを設け、麻原雄に依頼した。資料的記事としての荒俣宏編『世界幻想文学作家名鑑』は、後に『世界幻想作家事典』(国書刊行会、1979)として1本にまとまった労作である」と述べています。

わが書斎の「幻想と怪奇」全冊

 新しい雑誌は「幻想と怪奇」と名づけられ、「魔女特集」と銘うった創刊号が出たのは、1973年4月(隔月刊)でした。「雑誌『幻想と怪奇』の思い出」として、著者は「初期の編集は毎号『ラヴクラフト・クトゥルー神話特集』『メルヘン宇宙の幻想』など、意欲的なものを並べることができた。ほとんどは荒俣宏の企画になるものだった。当時はすでに大学を卒業、水産会社に就職していたが、出向した銀行のコンピュータ関連部門の要員として、夜討ち朝駆けの勤務の傍ら、翻訳や評論に精力的な活動を行っていた」と述べています。

わが書斎の日本幻想文学コーナー 

 また、日本作家の特集を実現できたことも収穫でした。現役作家の書下ろしは無理とわかっていたため、古典的作品の発掘に重点を置いたとして、「明治初期の怪談作家である石川鴻齋の『夜窻鬼談』の紹介をはじめ、村山槐多『悪魔の舌』、松永延造『哀れな者』、平山蘆江『悪行地獄』、藤沢衛彦『妖術者の群』、森銑三『仕舞扇』などを並べ、比較的新しい作品として三橋一夫『夢』、香山滋『妖蝶記』などを採り、現役作家は中井英夫『薔薇の獄』、半村良『簞笥』、平井呈一『エイプリル・フール』、都筑道夫『壁の影』、立原えりか『かもめ』を配し、未発表の異色作品として桂千穂『鬼火の館』、山下武『幽霊たちは〈実在〉を夢見る』(抄)を掲載、評論は草森紳一の久生十蘭論『虚在の城』、大内茂男『日本怪奇小説の系譜』、落合清彦の『日本怪奇劇の展開』の書き下ろし3本立てとした」と書かれています。

わが書斎の『世界幻想文学大系』

 そして、紀田&荒俣コンビは、幻想文学ブームを決定づけた『世界幻想文学大系』を国書刊行会から出すことになります。著者は、「版元からは、やはり一度に数十冊を予告するのは冒険だし、訳者対策もあるので、第1期15冊というあたりからスタートしたいという要望があった。時間的な問題で、既訳を含めることとし、最終的に次のラインナップをきめた」と述べ、以下に紹介しています。
(1)J・カゾット『悪魔の恋』(渡辺一夫・平岡昇)、(2)M・G・ルイス『マンク』(井上一夫)、(3)C・B・ブラウン『ウィーランド』(志村正雄)、(4)A・フォン・アルニム『エジプトのイザベラ』(深田甫)、(5)C・R・マチューリン『放浪者メルモス』(富山太佳夫)、(6)H・ド・バルザック『セラフィタ』(沢崎浩平)、(7)T・ゴーチエ『ミイラ物語』(田辺貞之助)、(8)J・バルベー・ドールヴィイ『魔性の女たち』(秋山和夫)、(9)W・S・モーム『魔術師』(田中西二郎)、(10)W・デ・ラ・メア『魔女の箒』(脇明子)、(11)G・ベルナノス『悪魔の陽の下に』(木村太郎)、(12)G・K・チェスタトン『詩人と狂人達』(福田恆存)、(13)G・マイリンク他『現代ドイツ幻想短篇集』(前川道介)、(14)C・ウィリアムズ『万霊節の夜』(蜂谷明雄)、(15)J・L・ボルヘス『創造者』(鼓直)。

 『世界幻想文学大系』の完結は1986年7月、最終回配本は世紀末ウィーン作家レオ・ペルッツの『第三の魔弾』でした。著者は、「足かけ11年におよび、全45巻(55冊)という、この種のジャンルとしては異例の大叢書に育てることができた。版元も感慨ひとしおだったようで、『心労厭わず企画から翻訳・デザイン等に携わって下さった先生方、大変な努力をして販売に協力して下さった書店様、そして額に汗して造本に日夜奮闘して下さった印刷・製本所の方々』に『深謝』するという、異例の新聞広告を出している」と回想しています。

わが書斎の『ドラキュラ叢書』

 同時期の企画として、国書刊行会から『ドラキュラ叢書』第1期10冊(1976~77)が出ました。これは『世界幻想文学大系』の守備範囲から漏れたエンターテインメント系を集成しようと試みたもので、たとえばアーカム系を代表するホジスンの『幽霊狩人カーナッキ』やホワイトヘッドの『ジャンビー』などといった傑作は、異端文学を売りものとする出版社からもまだ出ていませんでした。著者は、「やはり私たちがやるほかあるまいと立案したのであるが、意外にも版元側からは挿絵入りの普及版とすることを提案された。私たちは廉価は賛成だが、装幀まで安っぽいのは困るとして、画家に手直しを求めた。結果はあまり改善されたようにも思えず、中途半端なものとなってしまった」と述べます。

読みたかった『続・黒魔団』は別の形で出版

 それでも桂千穂と著者の共訳による『妖怪博士ジョン・サイレンス』や荒俣宏編訳『ク・リトル・リトル神話集』、R・E・ハワードの『スカル・フェイス』(鏡明訳)などが実現し、内容的には新鮮味もありましたが、版元が期待したほどには売れず、第2期以降は実現しませんでした。著者は、「予定していた書目のうち、レ・ファニュ『ワイルダーの手』、ホイートリ『続黒魔団』、ジャン・レイ『幽霊の書』、ベンスン『怪奇小説集』などはその後別の形で刊行されたが、T・P・プレスト『吸血鬼ヴァーニイ』やフラメンベルク『妖術師(ネクロマンサー)』、C・ウィリアムズ『多次元』、ベン・ヘクト『悪魔の殿堂』など、いまだに陽の目を見ない重要作品があるのは残念でならない」と述べています。『ドラキュラ叢書』の第1期10冊を貪るように読んだわたしも、第2期が刊行されなかったことは、まことに残念でした」

 Ⅶ 「夢より夢を往来して」では、「円環を閉じる」として、著者や荒俣宏の後継者として、東雅夫の名前が挙げられます。1958年生まれの東は、7歳のころ大伴昌司監修『世界怪物怪獣大全集』(1967)をボロボロになるまで愛読し、10歳のころ岩波文庫版のカフカ『変身』を購入し、店員から変な顔をされたそうです。22歳のときに幻想文学研究誌『金羊毛』を創刊、これを専門季刊誌『幻想文学』に発展させ、21年間の長きにわたって持続、その成果の一部を『幻想文学講義』および石堂藍との共編になる『日本幻想作家事典』という、それぞれ大著をまとめました。幻想文学体系化の努力としては、『日本怪奇小説傑作集』全3巻(東京創元社)をはじめ、近代作家の怪奇的作品を集成した『文豪怪談傑作選』(ちくま文庫)や泉鏡花と柳田国男の交流関係に着目した『柳花叢書』(同)など、多くのアンソロジーがある他、時評などでも精力的に新作の紹介を行っています。現在は日本初の怪談専門誌「幽」の編集長でもありますが、早稲田大学幻想文学会でのわたしの先輩です。

 著者には、幻想文学における海外古典の鉱脈がいまだ掘り尽くされていないという思いが長くあったようですが、このような渇を癒やす労作が、2014年になって出現しました。荒俣宏の編纂にかかる『怪奇文学大山脈 西洋近代名作選』全3巻(東京創元社)です。ドイツロマン派の影響下にあるビュルガー、ゲーテ、ティークあたりから始まるヨーロッパ幻想怪奇文学の流れから、ヒチェンズ、マッケン、デ・ラ・メアら20世紀の作家を経て、ラヴクラフトほかパルプ作家の系列にいたる約50編の未訳作品をもって鳥瞰するという形式ですが、著者は「その序説(まえがき)では全作品のほとんどを初出誌に遡り、発表時点の作家の地位、読書界、出版界、文化界の情況を考察することで、幻想文学史に再照明をあてるという構想を示している。初出誌の発掘に想像を超える時間と手間を費やした上、半世紀以上にわたる研究を凝縮した点、余人の及ばない境地に達している」と絶賛します。

「めずらかなる書物」に囲まれて……

 「あとがき」では、著者は「本書は私が物心ついたころより現在までの約70年間、ミステリや幻想怪奇文学に親しんだ回想録である。読者として親しみ、研究者や作家としての立場から関わった時間の総和が、数十年の長きに及んだということで、無論回り道も多かったが、たまたま戦中戦後というすこぶる起伏に富んだ時代を背景にしたために、客観的にも書きのこす意味があるように思えたことが、執筆の動機である」と述べています。中学時代に著者の処女作である『現代人の読書』を何度も読み、高校時代は『世界幻想文学大系』や『ドラキュラ叢書』を読み耽ったわたしは、おかげで読書の愉しみというものを骨の髄まで知りました。これも著者のおかげと思うと、感謝の念が湧いてきます。現在も、わたしの書斎は著者の影響で購入してきた「めずらかなる書物」に囲まれています。

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