No.2001 文芸研究 『幻想怪奇譚の世界』 紀田順一郎著(松籟社)

2021.02.07

 『幻想怪奇譚の世界』紀田順一郎著(松籟社)を紹介します。著者は評論家、作家。1935年、横浜市生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。専攻の書誌学、メディア論を専門とし、評論活動を行うほか、創作も手がける。詳しい略歴は一条真也の読書館『幻想と怪奇の時代』で紹介していますが、その『幻想と怪奇の時代』(松籟社)により、2008年度日本推理作家協会賞および神奈川文化賞(文学)を受賞。 

本書の帯

 本書の帯には『不思議の国のアリス』のアリスの首が伸びたジョン・テニエルのイラストが使われ、帯には「異世界への誘い」と大書され、「小泉八雲、泉鏡花、夢野久作、ラヴクラフト、マッケン、ブラックウッド……妖しき魅力に満ちた『もうひとつの世界』の扉が開く――」と書かれています。

 本書の「目次」は、以下の通りです。
第Ⅰ部  幻想小説の境界
小泉八雲ーー怪談の背景
泉鏡花ーー魔界かな、いや現実だ
“異端の作家”の復権─『夢野久作全集』全七巻の刊行に寄せて
江戸川乱歩--知的多面体としてのエッセイスト
海野十三の怪奇長編
小栗虫太郎の世界
平井呈一『真夜中の檻』解説
中井英夫--三次元の迷宮
百物語の盛衰
第Ⅱ部  虚実の皮膜
覗き小屋の二つの窓
ゴシックの文学空間と環境
反世界とその圏域ーーキャロルとチェスタトン
H・G・ウェルズの『宇宙戦争』
 ーーホラー的趣向にひそむ怨念
ガストン・ルルー『オペラ座の怪人』解説
 ーー怪奇ロマンスの実在性
ブラックウッド『妖怪博士ジョン・サイレンス』解説
アーサー・マッケン『夢の丘』解説
サマセット・モーム『魔術師』解説
 ーーアレイスター・クロウリーの影響力
プロビデンスの薄暮─ラヴクラフト受容小史
ルーファス・キング『青髯の妻』と
 フリッツ・ラング『扉の影の秘密』
 --心理ミステリとニューロティック映画
第Ⅲ部  飛花落葉(翻訳)
フリードリヒ・フーケ「ウンディーネ」
アルジャノン・ブラックウッド「とびら」
ウォルター・デ・ラ・メア「なぞ」

 第Ⅰ部「幻想小説の境界」の「小泉八雲――怪談の背景」の「1、八雲が描いた、もう1つの日本像」で、著者は「小泉八雲(1850~1904)から、私たちは古き日本のよき伝統というものを教えられる。『日本瞥見記』(1894)、『東の国より』(1895)、『心』(1896)ほかの研究的随筆が、今日の民俗学的な知見からは物足りない要素があるとしても、明治期に来日した他の外国人たちとは明らかに異質の視点を評価すべきであろう」と述べます。

 また、八雲について、著者は「豊かな洞察力をもって明治日本の内面を探求し続けた八雲は、来日6年目に日本に帰化し、帝国大学総長外山正一の憩請により英文学史を講じるようになるが、外山の没後にその地位を追われ、1904年(明治37)に世を去った。生前から日本を美化しすぎているという批判はあったが、本質は詩的感受性をもってとらえた《もう1つの日本像》というべく、現代の私たちにも独自の感銘を与えずにはおかないものがある」とも述べます。

 さて、ここまでは誰でも知っていることですが、ここからが重要で、「2、永遠の薄明のなかに」では、八雲の青春期は幻想怪奇小説の開花期で、前時代のゴシック文学を受け、リットン、レ・ファニュ、ディケンズ、コリンズほかの大型作家が輩出したことが紹介されます。社会人として新聞記者、寄稿家としての生活を送る頃には、ワイルド、マッケン、ストーカー、ヘンリー・ジェイムズ、スティーブンスンらが同時代作家として活躍していました。著者は、「生来神秘主義的なもの、霊的な感性に鋭敏であった八雲がこのような風潮に影響を受け、やがては自ら同傾向の作家群に伍して、独自の世界を開拓するようになったのは、ごく自然な流れといえる」と述べています。

 しかし、八雲の霊的感性を刺激し、創作に結びつけたものは、あくまでも日本の伝統ないしは前近代性を背景とした怪異談でした。来日という機会がなければ、八雲は独自性を備えた怪談作家として知られる機会はなかったであろうとして、著者は「いったい、八雲が日本に憧れたのは、両親の離婚による苛酷な生い立ちや、慣習の壁や性格の不一致に破れた結婚生活という体験から、ピエール・ロティの『お菊さん』(1887)が描く、西欧文化に汚染される前の文化環境に、増幅された期待感を抱いたということのようである」と述べます。

 八雲は、西洋人でありながら、日本人の「こころ」を理解した人でした。彼は直感的な怪異感覚というフィルターを通して、神道を理解しようとしました。著者は、「これは19世紀の西洋人の目から見た宗教観であるが、このフィルターそのものに道徳的な価値観が含まれているところに大きな特徴がある。つまり、八雲は日本の神の異質性を説くにあたって、非命に斃れた人物、尊崇に価する人物までも神として祀る風習のあることを例にかかげている(とりわけ後者の例として1854年(安政元年)の安政南海地震津波に際し、身を挺して村人を救った浜口五兵衛(正しくは濱口儀兵衛)の感動的な事績を紹介する。戦前国定教科書に掲載された『稲むらの火』の原話である)」と述べています。

 「3、夢と現実のあわいから」では、八雲の怪談は、江戸時代の草双紙、あるいは口碑伝説などに材をとっているがゆえに「再話小説」と呼ばれることがあることを紹介しつつも、じつは独自の文学観、理論に基づいて、その特異な感受性を動員したという意味で純然たる芸術的創作と見るべきであるとして、著者は「恐怖への想像力を重視した八雲は、威圧的な武人の前におびえる盲目の法師になりきって、入魂の描写を引き出している」と述べます。タグもの娘である小泉節子の『思い出の記』によれば、ランプもともさず執筆中の夫に対し、セツ夫人が襖の外から「芳一、芳一」と呼んでみると、八雲は「はい、私は盲目です、あなたはどなたでございますか」といったきり、黙り込んでいたそうです。

 「泉鏡花ーー魔界かな、いや現実だ」では、著者は「じつは、わたしは若いころ、鏡花の魅力に不感症であった」と告白し、「理由を話せば長くなるが、たとえば幻想といい恐怖といい、それが作者の内部で客体化されていず、自分勝手に魔界と交渉を遂げてしまっているので、読む側としては体質的に合致しなければ作品宇宙への参入が非常に困難であるように思われる。要するに小説作法が知的でないということで、この疑問はいまでも『草迷宮』のような作品に対しては多少残っているような気もするが、だいぶ面白味が理解できるようになってきた。そのきっかけをつくってくれたのが、『歌行燈』で発見した”知的構成”なのである」と述べています。

 また、著者は鏡花の映画好きに言及し、「鏡花が非常な映画好きで、そこから多くの影響を受けていたという事実は、比較的最近になって注目されはじめたように思える。このように大切なことが死後半世紀近くにもなってようやく明らかにされるというのは、それだけ鏡花の小説が一面的にしかとらえられていないことの証左であろうが、わたしは映画の影響そのものを問題にしているのではない。サイレント時代の映画は技法的に幼稚で、すばやい場面転換を示すカットバックがようやく出現したのも、1924年のグリフィス作品『国民の創生』からであって、これは『眉かくしの霊』発表の年にあたる。『歌行燈』はその14年もまえの作品であるから、むしろ鏡花が時代にさきがけているということがいえよう。今日でいうところの映像的技法を編みだした、鏡花という天才の鮮鋭な”時代感覚”に注目したいのである」と述べます。「鏡花と映画」というのは非常に興味深いテーマですので、誰かがもっと深く研究してほしいものです。

 そして著者は、以下のように非常に興味深い鏡花の「謎」を指摘するのでした。
「ありふれた日常から物語の筆を起こしつつ、彼は自分で自分を徐々に魔界へ拉致していく。徐々に濃密な没入感を醸し出していく。『高野聖』の書き出しになぜ参謀本部の地図などが出てくるのだろうか。現在国土地理院に継承されている5万分の1の地図は、当時の修行僧にとって歩き慣れない山野を跋渉するための日常的なツールにほかならなかった。折本に仕立ててあるところが憎いではないか。それはこの異様な物語において、唯一の現実性を帯びた小道具であると同時に、魔界との境界を示す記号でもあった。「山吹」における鯉の死骸にしてもまったく同様なことがいえるのであって、ここに鏡花理解の鍵があるように思う」

 「”異端の作家”の復権─『夢野久作全集』全七巻の刊行に寄せて」では、江戸川乱歩が、久作の処女作「あやかしの鼓」を評して「少しも準備のない出たとこ勝負」で、「ちょっとばかり達者な鍛帳芝居」と評したことを紹介し、著者は「『ドグラ・マグラ』などはこうした見方からすれば『出たとこ勝負』も極まれりの感があろう。しかし、今回の全集(月報)で明らかにされた日記の一部によっても、この1千枚をこえる大作は執筆開始の昭和初年から完成まで5年を費し、さらに刊行までの5年間にも推敲が行なわれていたと見られる。文字通りのライフワークで、『出たとこ勝負』でも狂人狂語でもありえない。久作の全資性と文学観を賭けた作品であり、他の数十編と代置しうる存在というべきであろう」と述べています。

 「江戸川乱歩――知的多面体としてのエッセイスト」では、著者は「江戸川乱歩はエッセイストである」と言います。といっても、「心理試験」や「陰獣」「屋根裏の散歩者」などの創作を軽視するのではなく、「人形」や「群衆の中のロビンソン」をはじめとする随筆、あるいは正続『幻影城』や『探偵小説四十年』に代表される評論が、創作と同等かそれ以上に、強い印象を残すという意味だとか。このことは、フィクション偏重の読書界からは、つい忘れられがちであるとも指摘します。また、著者は「乱歩随筆の多面的な面白さは、ほとんど百科全書派的な豊かさに通じる。厳密にいえば乱歩の好む主題はエキセントリックで限られたものだが、その懐が深く、探求の方法そのものに合理性と普遍性が感じられるために、興味の異なる読者をも惹きつけることができるのである。このような風格を有する随筆評論は、今日ほとんど跡を絶ってしまったのではないだろうか」と述べるのでした。

 「海野十三の怪奇長編」では、海野十三は昭和初期から戦後にかけて活躍した作家であり、日本SFの父ともいうべき存在であるとして、海野の代表作の1つである『深夜の市長』を取り上げ、著者は「地下書斎をもつ主人公が登場するが、彼には地下室趣味とでもいうべきものがあって、防空壕もその延長にあるとも考えられるが、人一倍空襲に対する恐怖感が存在したことも否定できない。すでに昭和7年の『空襲葬送曲』には、パニックを起こした避難民が我先に逃げまどい、あとには肋骨が折れたり眼の飛びでた死骸がゴロゴロ転がっていたという凄惨な描写がふくまれている。米英など仮想敵国への畏怖というよりも、もっと別の原因があるような気がする。彼には不思議な固定観念があった。それは未来のある時期に地球が宇宙人に襲われる可能性があるということで、それに対処するため全地球防衛網を設置しなければならないという、SF少年的な考えである」と述べています。

 海野十三はあるとき「麻雀は運と腕と、どんな比率になるか」ときかれ、「運の十さ」と答えたのが、ペンネームの由来だといいます。米軍機による一夜で10万人の死者を出した東京猛爆と、ぎりぎりに思いつめた一家心中との再度にわたって、死中に活を求めることを得た強運の彼にとって、最後にして最大の悲運は結核でした。昭和24年(1949)5月17日、彼は世田谷の家で没します。享年52歳でした。著者は、「1950年代の半ばには本格的なSFブームが興っているが、この時期に輩出した小松左京、筒井康隆、眉村卓ほかの作家たちが、一様に少年時代における海野の影響を告白していたのも記憶に新しい」と述べています。

 「小栗虫太郎の世界」では、その冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「小栗虫太郎は、生涯みずからの豊穣な反世界を夢み、それをおのれの流儀で視覚化することに熱中した。反世界は彼の住処であり、常住の臥床であった。おのれの体液によって糸を紡ぎだす蜘蛛のように、彼はみずからのすでに構築されている世界を具象化するだけで事足りた。この場合、スタイルや構成への配慮さえもが、不要であるばかりか桎梏であった。絵が幻想になるのでなく、幻想が絵になったのである。モチーフも文体も、彼独自の文法があった。およそ文学的経験の埒外で、奔放な夢に自足し、異端の真理とリアリティをそなえた王城を建造することが、彼の任務であり宿命なのであった。その意味では、彼は自分ののぞんだことを十分に実現しえないで死んだというべきだろう。江戸川乱歩は『黒死館殺人事件』を評して『猟奇耽異博物館』と言った」

 小栗虫太郎は『人外魔境』などの魔境小説で人気を集めましたが、著者は「昭和14年から16年にいたる魔境小説ののち、時局の圧迫もあって作風に停滞が現われる。16年11月、陸軍報道部員としてクアラルンプールへ派遣された彼は、病弱の身体を危ぶまれたが、占領後の現地で破格の待遇をうけ、仕事もせずにフリーメーソンの事績などを探索していたおかげで、丸々と肥って17年12月帰還した。いかにも虫太郎らしい挿話で、この超絶の魔神に対しては死神も三舎を避けたかに見える」と述べています。興味深いエピソードですね。

 「平井呈一『真夜中の檻』解説」は、小泉八雲の全作品や『吸血鬼ドラキュラ』などを翻訳し、海外怪奇小説紹介の先駆者として知られる平井呈一の創作全二篇に、英米の怪奇作家とその作品、さらには幽霊実話を造詣深く語るエッセイを併録した本の解説ですが、著者は「平井呈一の怪奇小説への志向が、いつごろから生じたのかは不明である。最も親しんだアーサー・マッケンについては「『イエロー・ブック』のどの巻かで、はじめてマッケンの『パンの大神』を読んだ時の感激を、今でも忘れることができない。まだ20代のことで、あの短篇を2日か3日かかって読み終った夜の12時過ぎ、巻を閉じても読後の興奮でそのまま床へはいる気になれず、毎度の癖だが、夜なか日本橋浜町の家をそっと抜けだして、大川端を歩いてみたがまだ興奮がおさまらず、足の向くまま新大橋を渡って真夜の深川・本所をむちゃくちゃに歩き、なんどか交番で咎められながら、どこをどう歩いたか上野の森を抜けて、たしか不忍池で夜が明けたと憶えている」などと縷々記しています。

 「H・G・ウェルズの『宇宙戦争』―─ホラー的趣向にひそむ怨念」の「1、侵略テーマの元祖」では、著者は「H・G・ウェルズはSFの元祖であるが、幻想怪奇小説やミステリ系統の作品として『蛾』『ブリシャー氏の宝』『ポロ族の呪術師』『不案内な幽霊』『水晶の卵』などが思い浮かぶほか、そもそも19世紀作家の例にもれず、空想科学畑の作品にも『タイムマシン』や『透明人間』『モロー博士の島』などに例を見るように、何らかの程度において怪奇幻想色の濃い作品が多い。そのような系列のなかに『宇宙戦争』(1898)を含めることには異論があるかもしれない。しかし、中心となる地球外生物(火星人)の侵略と、当時の科学を総動員しての地球軍の防衛戦というアイディアこそ科学小説の枠内にあるものの、読者を引っぱる技巧、醜悪な火星人の際限なき破壊行為から生じる恐怖感は、現代ではホラーやサスペンスに属するものといえよう」と述べています」と述べています。

 また、「2、冷戦時代の映画化」では、『宇宙戦争』が1953年(ジョージ・パル製作、バイロン・ハスキン監督)と2005年(スピルバーグ)の再度にわたって映画化されたことが紹介されます。しかし、それよりも有名なのはオーソン・ウェルズ翻案のラジオ・ドラマ『火星人襲来』です。1938年10月30日にアメリカCBSから放送されたこのドラマは、舞台を現代のアメリカに変え、臨時ニュースや住民の目撃談を軸とした巧妙な作劇術によって、本物のニュースと誤解され、少なくとも600万の視聴者をパニックに陥れました。社会心理学者ハードレイ・キャントリルによる詳細な分析レポート『火星からの侵入』(1940)には、この放送を聴いてパニックに陥ったのは、教育程度や資産の額、あるいは社会経験や職業による相違がなく、要するにラジオを聴いたすべての人びとであったという、驚くべき事実が明らかにされました。

 同書には、「この放送が終了するずっと以前から、合衆国中の人びとは、狂ったように祈ったり、泣きさけんだり、火星人から逃れようと逃げまどったりしていた。ある者は愛するものを救おうと駆けだし、ある人びとは電話で別れを告げたり、危険を知らせたりしていた。近所の人びとに知らせたり、新聞社や放送局から情報を得ようとしたり、救急車や警察のクルマを呼んだりしていた人びともあった」(斎藤耕二・菊池章夫訳)と書かれています。

 「3、≪SFの父≫海野十三の半面」では、SF作家の海野十三が日米開戦の11ヶ月も前の1941年1月、世田谷区の自宅庭に、陸軍関係者の縁故によって入手した、深さ3メートルのヒノキ材とアスファルト製のシェルター(防空壕)を設置していることが明かされます。著者は、「一般の人々が防空壕設置に狂奔するようになるのは、現実に空襲の発生した1944年ごろであるから、海野がいかに空襲に敏感だったかがわかる」と述べています。

 「あとがき」では、著者は「本書『幻想怪奇譚の世界』は、幻想怪奇小説と推理小説、さらにはSFとの境界に位置する作家と作品についての論考を多く収録した。幻想怪奇小説と推理小説の深い関連性については、いまさら述べるまでもないだろう。文学史的に見れば、ほんらいゴシック文学と同根のもので、近代的な小説形式の創造者ポーによって2つのジャンルの確立と分岐が同時に行われたということができる。つまり、ポーは1人で幻想怪奇作家と推理作家を兼ねており、その著作の題名に含まれている『ミステリー』ということばは、2つの分野に共通するものとして選ばれ、けっして区分するためのものではなかった」と述べています。前作『幻想と怪奇の時代』と併せて読めば、さらにこの妖しくも魅惑的な世界が輝きを増すように思います。

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