No.1983 プロレス・格闘技・武道 『証言 UWF×プライド』 髙田延彦+田村潔司+榊原信行+中邑真輔+アントニオ猪木ほか著(宝島社)

2020.12.19

 『証言 UWF×プライド』髙田延彦+田村潔司+榊原信行+中邑真輔+アントニオ猪木ほか著(宝島社)を紹介します。「総合格闘技に挑んだプロレスラーたちの死闘秘話」というサブタイトルがついています。ルビコン川を渡った男たちが味わった「非幻想」の世界を語った本です。PRIDEは1997年に始まって2007年に終わった格闘技イベントであり、ちょうど10年間続いたことになります。

本書の帯

 本書のカバー表紙には、PRIDEのリング上に座っている髙田延彦の写真が使われ、帯には「ルビコン川を渡った男たちが味わった『非幻想』の世界とは?」「虚と実をすべて語る!」「『泣き虫』では未公開! 髙田vsコールマン戦の真相」と書かれています。また、カバー裏表紙では髙田の入場シーンの写真が使われています。カバー前そでには、「選ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり――ヴェルレエヌ」と書かれています。

本書の帯の裏

 アマゾンには、以下の内容紹介があります。
「『証言UWF』シリーズのスピンオフ企画。1996年のUWFインターナショナル崩壊後、U戦士たちが向かった舞台は総合格闘技のリングだった。プロレスと格闘技の間で漂流し続けた男たちが踏み込んだ、引き返し不能地点。彼らが”ガチンコ”のリングで見たものは何だったのか。プロレスラーたちが見た総合格闘技の全舞台裏。髙田延彦、田村潔司らが語る総合のリングの虚と実のすべて!」

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」ターザン山本
第1章 「UWF」を背負った男たち
髙田延彦
コールマン戦は与えられた仕事を全力でまっとうしただけ
田村潔司
サクとの試合を‟大人の事情”でやりたくはなかった
第2章 「プロレスvsPRIDE」至近距離の目撃者
アントニオ猪木
髙田vsヒクソン戦は、観る前から勝負はわかっていた
榊原信行(元DSE代表)
髙田さんんも、田村潔司も、桜庭和志も交渉が簡単な人ではなかった
第3章 「ライオンマーク」を背負った男たち
中邑真輔
イグナショフとの再戦は、負けたらやめる覚悟だった
藤田和之
ケアー戦の勝利は‟受けてなんぼ”のプロレスのおかげ
第4章 「PRIDEインサイド」の男たち
佐藤大輔(PRIDE「煽りV」制作者)
PRIDEの清原プロデュサーはプロレスがすっごい嫌いだった
川﨑浩市(元PRIDEブッカー)
ヒクソンに見破られた「PRIDE・1」でのケーフェイ
島田裕二(元PRIDEレフェリー)
× ターザン山本
グレイシー側に「殺すぞ! 帰れ!」って言われて(島田)
(コメント付)プロレスラー「PRIDE参戦」年表 

 本書の「はじめに」は、このシリーズでも最高水準の素晴らしさなのですが、ターザン山本が冒頭を「『PRIDEは総合格闘技ではない』と私は考える。その正体は新日本プロレス、UWFが進化したものと考えるのが正しい。その証拠に初期のPRIDEの会場には『絶対的強さ=真剣勝負幻想』を求めるプロレスファンの左派が雪崩れ込んでいた。純粋な協議としての総合格闘技は、金網、オクタゴン(八角形)のUFCのことを指す。プロレスと類似したリングで行われたPRIDEは、風景論としても明らかにプロレスだった。だから「プロレス対PRIDE」という対立概念は、厳密に言うと矛盾している」と書きだしています。じつに、素晴らしい考察です!

 また、ターザンは「PRIDEに登場した外国人のスター選手は、かつて力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木と闘った強豪外国人レスラーの生まれ変わりである。彼らはプロレス経験のないファイターたち。ということはプロレスラーとPRIDEの選手との激突は、形を変えたプロレス対異種格闘技戦だった。今度はホームグラウンドが逆転し、プロレスラーがPRIDEという‟アウェイ”のリングに上がっていたのだ。ここに真実のすべてがある。闘い方、ルール、ジャッジ。レスラーにとってはアウェイ的ハンディとなってしまった。それはもう初めからプロレスラーに勝ち目はない。達磨と同じ。手も足も出ない。とにかく負け続けた。それが現実だった」と述べます。やはり、素晴らしい考察です! 

 そして、ターザンは「世界を見渡しても日本にしか存在しない『ストロングスタイル』という言葉。『UWFスタイル』もそうだ。この”スタイル”は、真剣勝負だけが前提の格闘技サイドからすると意味がない。『ストロングに見える』あるいは『UWF論』な”スタイル”なんて必要がないもの。その意味で、PRIDEと絡んで勝てなくなった『ストロングスタイル』『UWFスタイル』は、ついにそこで終焉を迎えてしまったのだ。‟プロレス最強幻想”が崩れ去り、『エンタメ路線』に帰っていくしかない。‟強さ”という部分のプロレスの死でもあった」と述べるのでした。うーん、素晴らしい! 本書の「はじめに」は、ターザン山本の最高傑作ではないかと思います。

 第1章「『UWF』を背負った男たち」の「証言 髙田延彦」では、冒頭に「すべては『プロレス最強』を背負った宿命であったのだろう。1997年10月11日、東京ドーム。『PRIDE・1』のメインイベントで、髙田延彦は‟400戦無敗”のグレイシー柔術最強の男、ヒクソン・グレイシーと対戦した。この試合は、これまでのプロレス界のどんなビッグマッチとも違う重要な意味を持っていた。‟プロレス内異種格闘技戦”ではなく、正真正銘のリアルファイトであり、ほぼノールールのバーリ・トゥードに、日本人トップレスラーが市場初めて臨む一戦だったからだ」と書かれています。 

 結果は髙田の惨敗でした。マスコミは「プロレス幻想崩壊」「髙田はA級戦犯」と書き立てました。ファンからは罵声を浴びせられ、同業のプロレスラーや関係者からも、髙田を非難する声が相次ぎました。特に、髙田の師匠にあたるアントニオ猪木の談話は強烈で、「よりによって、いちばん弱いヤツが出ていった」と語りました。かつて死ぬほど憧れた師によるこの言葉について、髙田は「あの一言は、寂しかったし、哀しかった。言葉の真意をもっと深堀すればいろんな意味が込められたのかもしれないし、もしかしたら俺に対する厳しいエールだったのかもしれない。でも、響きとしてあの言葉をそのまま受け止めれば、俺にとっては傷口に塩を塗られるようなものだからね。『そう来たか……』って感じ。何も『なぐさめて欲しい』とかなんて思っちゃいないよ。ただ、俺が若い頃から見てきたあの人だったら、他のレスラーに対してさ、『てめえら、このまま引き下がってるのか! 行ってこい!』って言うイメージがあったんだけど。それとは真逆の言葉だったことに、ガッカリだね」と語っています。

 さて、本書の最大のセールスポイントは、真剣勝負が基本のPRIDEで今も八百長説が根強いマーク・コールマンとの一戦を当事者の髙田が語るところです。1999年4月29日の「PRIDE・5」で(コールマン戦について、髙田は「私は常に与えられた仕事、オファーが来た仕事を全力でまっとうしてきた。それはヒクソンの時もそうだし、マーク・ケアーのときも、イゴール(・ボブチャンチン)のときも、ホイスの時もそうだし、ミルコ(・クロコップ)やコールマンの時も、それだけだよ」と語っています。「与えられた仕事、オファーが来た仕事を全力でまっとうしてきた」とは、プロレスラー丸出しの言葉のように思えます。 

 では、プロレスラーの仕事とは何か?
 本書には、「レスラーはマッチメーカー、プロモーターの要求に最大限応え、観客を満足させる闘いに全力を尽くすことだ。髙田もコールマンもそれぞれプロモーターのオファーを承諾し、仕事をまっとうした。髙田は、続く『PRIDE・6』(同年7月4日)では、マーク・ケアーと対戦した。ケアーは身長185センチ、体重119キロの巨体を誇り、レスリングで『NCAAディヴィジョン1』優勝。総合格闘技転向後は『UFC14』『UFC15』のすべての試合を1ラウンド勝利で飾りぶっちぎりの強さで優勝した。まさに‟霊長類ヒト科最強”と呼ぶにふさわしい男だった。当時多くのファイターが対戦を避けたとされるこの競合に髙田は真っ向勝負を挑んだが、1ラウンド、アームロックで敗れた」と書かれています。 

 それにしても、「アイ・アム・プロレスラー」とまで言っていた髙田をヒクソン戦という決闘の場に向かわせた要因は何だったのか。インタビューの最後に、髙田は「ヒクソン戦を決断した時というのは、Uインターや自分自身がゴタゴタしていて、ある種、捨て鉢的な思いもたしかにあったけれども、仮にあの時期に順風満帆であっても、最終的にはヒクソン戦というものをチョイスしていたんじゃないかと思うね。それだけ俺には強さへの憧憬があったし、プロレスラーとしての誇りもあった。それをファン時代から見せてくれていた猪木さんに引っ張られて、俺はこの世界に入ったわけだから。そのDNAていうのは、拭っても拭い切れなかった。言い換えれば、あの若手時代に‟ライオンマーク”を背負った宿命だったんじゃないか、そんなふうに思うね」と答えるのでした。 

 「PRIDE・1」での髙田vsヒクソン戦のあと、新日本プロレス、UWFを通じて髙田の兄貴分で、やはり猪木の遺伝子を受け継ぐリングスの総帥・前田日明が「打倒ヒクソン」を正式に表明しました。本書には、「対戦交渉に乗り出したが、リングス側がヒクソンに提示したのは3試合契約だったという。これは、あくまで1試合契約にこだわるヒクソン側が固辞し実現しなかったが、3試合契約にすることで、前田の頭の中には、『もし自分が敗れたとしても田村や高坂剛といったリングス・ジャパン勢にチャンスを与えることが出来る』という構想があったといわれている」と書かれています。 

 そのリングスで前田引退後にエースとして活躍したのが、Uインター出身の田村潔司です。その後、2002年2月24日の「PRIDE・19」でヴァンダレイ・シウバと対戦します。「証言 田村潔司」では、「PRIDEでの闘いは常に体重のハンデを背負った」として、田村は「今振り返ると、シウバ戦も含めて、PRIDEでの試合は体重差のほうが問題になることが多かった。あの頃、PRIDEは93キロ以上と以下の2階級しかなかったので、本来ベスト体重が85~86キロの俺からすると、常に体重のハンデを背負った試合になっていたから。だってシウバなんか、試合前日に93キロまで減量しても、当日は100キロ近くあるわけだからね。それはナチュラルに90キロ弱だった俺や桜庭は降りですよ」と語っています。 

 本書には、「このシウバ戦で田村は、グラウンドでの打撃で徹底的に削られ、最後は2ラウンド2分28秒、右ストレートをまともにもらいKO負け。まさにPRIDEの洗礼を受けることとなったのだ。続く第2戦は、同年6月23日の「PRIDE・21」で、なんとボブ・サップと対戦。この時、サップは総合2戦目だったが、70キロ以上の体重差はあまりにも大きく、田村はわずか11秒でKO負け」と書かれています。その後、総合での勝利を経験した田村は同年11月24日の「PRIDE・23」で髙田延彦の引退試合の相手を務め、見事にかつての師である髙田を介錯したのでした。 

 第2章「『プロレスvsPRIDE』至近距離の目撃者」の「証言 アントニオ猪木」では、「猪木の師が柔道王に仕掛けた‟力道山vs木村政彦”」として、猪木は「やっぱり誰がいちばん強いんだっていうのは格闘技の永遠のテーマなんでしょう。相撲取りとボクサーだったらどっちが強いとか。力道山vs木村政彦だってそうでしょう」と語っています。1954年12月22日に蔵前国技館で行われ、‟昭和の巌流島決戦”と語り継がれる決闘ですが、猪木の師・力道山が事前の取り決めを破って柔道王の木村にシュートを仕掛けたとされています。一条真也の読書館『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』で紹介したで紹介したベストセラー本をはじめ、その真相に関しては諸説紛々としています。 

 力道山vs木村政彦戦について、猪木は「あの試合があった時、俺はブラジルにいたから見てないんですよ。あとになってビデオでは観たことがありますけど、まあ、あんなもんでしょう。柔道側から言わせれば『あんなことはとんでもない、力道山が約束を破った』とかね。そんなことよりもあの空手チョップ一発で相手はどうしようもなくなくなってしまった。力道山も闘ってみたら『こんなに弱いのか……』と思ったんじゃないの。柔道家からすればね、いろいろと言いたいこともあるんだろうけど。ただまあ大々的に異種格闘技戦というのを打ち出したとすれば、自分で言うのもなんですが、(ウィリエム・)ルスカ戦が最初じゃないですかね」と語っています。 

 世界の柔道王・ルスカ戦の後に、猪木はプロボクシング世界ヘビー級王者のモハメド・アリと闘いました。猪木vsアリ戦以降、猪木以外のレスラーたちも異種格闘技戦でプロレスの強さを表現していきます。しかし、プロレスと格闘技の歴史を変えたとされるのが「PRIDE・1」での髙田延彦vsヒクソン・グレイシー戦でした。髙田惨敗の報を伝えられた猪木は、「よりによっていちばん弱いヤツが出ていった。そして負けた」と突き放す発言をしています。猪木は、「あの試合は観てないんだよね。観たくなかった。観る前から、どういう勝負になるかはわかっていたんで。 

 弱いヤツっていう表現はちょっとアレかもしれないけど、ズバリ彼は関節技を知らないでしょ。藤原(喜明)に聞いてみりゃいいじゃん。前田(日明)も含めてそうなんだけど、関節技が好きかどうか?っていう。寝技ってのは好きじゃない連中は触りたくもないんです。技術的な技、ネバネバしたものが好きなのかっていう。俺はどっちかといえばネバネバ系なんだけど、俺がいちばん苦手なのは立ち技系、ボクシングだからね。髙田は何が得意なのかは知らないけどね、蹴りなのか、関節なのか。まあ寝技ではないのかなという」と語っています。 

 猪木があそこまで髙田に厳しい言葉を投げつけたのは、もちろんプロレス界を守るという意味合いがありましたが、それとともに髙田には恨みがあったとされています。猪木が再出馬した95年の参議院選挙に髙田も「さわやか新党」から初めて立候補したのです。そのとき、髙田は猪木の選挙妨害をしたようなのです。猪木は、「俺の反対に回って政治するのかよ、と、(髙田の)渋谷の街宣演説を聞いたことがないでしょ? (道の)向こうにいてね、俺の演説を打ち消すようにボリュームを上げてね。そんなことは絶対に俺はやりません」と述べます。 

 また猪木は、「政治に出るのはしょうがないけどね、日本の礼儀のなかでいちばん大事なのは先輩、後輩の間柄。それが敵に回っても邪魔はしませんよ。彼はどういうふうに考えたのか知りませんけど、あんなマネは聞いたこともない」と怒り心頭です。これは猪木が100%正しいと思います。髙田は明らかに「礼」を欠いています。しかも、髙田にとって猪木は単なる先輩ではなく、師匠ではないですか。先輩といえば大変世話になった兄貴分の前田日明とも絶交状態になっているところなど、髙田の生き方には「礼」の欠片も感じません。こんな人間は、絶対に成功できないと思います。ちなみに、このときの選挙は猪木、髙田ともに落選しました。

 髙田のみならず、多くのプロレスラーが真剣勝負に挑戦しました。本書には、「猪木方面および新日本からは、小川直也、藤田和之、永田裕志、石澤常光、中西学らがプロレスラーの看板を背負って真剣勝負の場に打って出た」と書かれています。猪木は、「小川に関していえば、あれだけの体格と柔道の経験、それぬあとは関節技を知ってるとは思うんだけど、それ以上に細かい関節技というかモノを着ないでやれる、柔道着を使っての絞めはあるけれど、なしでやれるようなことをね。まあ、橋本真也が(総合格闘技に)出なかったのは、自分の素質を知ってたんじゃないかな。自分のキャラクターをどう売るかっていうね」と語っています。 

 また猪木は、「(中西学の試合は)あまり見たことがないね。素質はあったと思うんだけどね。永田なんかにしても誰とやった時かな。なんで同じ構えをするんだと。結局、相手は待ってましたっていうことで蹴られてしまってね。藤田の場合は、たまたまヒザがアクシデントのようになっちゃったけど(01年、ミルコ・クロコップ戦)。相手からすれば蹴りたいけど蹴れない位置というのがあるんだけど、蹴りを喰わないための体のすぼめ方がわかってない」と語ります。 

 さらに猪木は、「お互いにキックの試合でもあるまいし、永田がこうやって構えていたら一発バチンと喰らってね。永田とはそこまで話をしたことはないけど、まあ頑張ったんじゃないですか。彼にとっては、俺に言われるのは重荷でしょうがなかっただろうし。安田忠夫は頑張ったというか、アイツは奇跡だと思うよ(笑)」と語るのでした。大相撲の元小結だった安田は、史上初の大晦日興行となった2001年の「INOKI BOM-BA-YE 2001」のメインイベントで、K-1の強豪であるジェロム・レ・バンナから大金星をあげたのでした。 

 格闘技ブームが盛り上がる中で、PRIDEではUインター出身の桜庭和志が勝ち続け、プロレスファンの溜飲を下げていました。自身の直接の弟子ではない桜庭の活躍について、猪木は「細かいテクニックはあったけど、パワーには勝てないですよ。パワーの強い選手が出てきたときにはたぶん通用しなかったんじゃないかな。説明は非常に難しいんですよ。力だけでやってもしょうがないんだけど、それをうまく利用できる、それによって相手に3倍、4倍のプレッシャーを与えられるわけですから。ヒクソンもすごいとは思うけど、体力的にすごいヤツが出てきたら体力負けしちょうでしょうしね」と語っています。桜庭が「パワーの強い選手が出てきたときには通用しなかった」というのはシウバに一度も勝てなかったことで証明されましたし、ヒクソンにしてもヒョードルと闘っていれば勝つのは難しかったと思います。やはり、猪木の見る目は鋭いですね!

 第3章「『ライオンマーク』を背負った男たち」の「証言 藤田和之」では、藤田が「僕がいい意味でライバル意識を持って頑張れたのは、小川直也がいたからですね。向こうは柔道のオリンピックメダリストとして高い位置から入ってきてるんで、自分のことなんか意識してなかったと思うけど、僕は同じ猪木会長の下にいた人間として、彼のことをすごく意識したし、僕はオリンピックに行けなかった人間だから、プロのリングで負けるわけにはいかなかった。だから小川直也という存在があったから頑張ってこれたし、よきライバルとして、彼には感謝していますよ」と語っています。藤田がそれほど小川を意識していたとは、初めて知りました。 

 第4章「『PRIDEインサイド』の男たち」の「証言 島田裕二×ターザン山本」では、「週刊プロレス」の編集長だった山本氏が、「PRIDE・1」で髙田vヒクソン戦のレフェリーを務めた島田氏に対して「戦前、島田氏の周りは髙田vsヒクソン戦はどうなるって予想していたの?」と質問します。島田氏は、「いや、僕の周りって言ってもバトラーツのメンバーじゃないですか(笑)。ただ、前田さんは『髙田が勝つやろな』って言ってたんで、リングス勢はみんな髙田さんが勝つと思ってましたよね。『ヤマヨシ(山本宜久)にあんなに苦戦したんだから、髙田さんならいけるんじゃないの?』っていう。まあ、これはタラレバですけど、高阪(剛)がやっていたら勝ったでしょうね(笑)。でも当時まったく無名の高阪がヒクソンとやれるわけもない」と答えています。非常に興味深い発言です。

 逆に、「山本さんはどういう山本さんはどういう予想をしていたんですか?」と質問する島田氏に対して、山本氏は「結局はプロレスと格闘技の戦争みたいな位置づけだったので、要するにプロレスファンの『髙田に勝ってほしい』というその一点しかない設定だよね。だから俺は『やばいな』と思った。髙田は負けるという認識と、負けてほしくないいう願望がせめぎ合うわけよ。現実的には勝てないけど、『勝ってほしい!』という気持ちがプロレスファンのなかでMAXになっている、そういう状況のなかで案の定、髙田は簡単にあっさりと負けるわけ。だから自分の現実認識が正しかったのはわかるんだけど、願望は崩壊したわけですよ。それはもう一大事件だよね」と答えるのでした。うーん、冴えてる! 本書は、最初も最後もターザン山本を再評価せざるを得ない内容でした。ターザン、いいぞ!

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