No.1980 哲学・思想・科学 | 歴史・文明・文化 『江戸の思想史』 田尻祐一郎著(中公新書)

2020.12.10

 『江戸の思想史』田尻祐一郎著(中公新書)を再読しました。「人物・方法・連環」というサブタイトルがついています。著者は1954年(昭和29年)水戸市生まれ。東北大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。現在、東海大学文学部教授。専攻は日本思想史(近世儒学・国学・神道)。

 本書のカバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「荻生徂徠、安藤昌益、本居宣長、平田篤胤、吉田松陰――江戸時代は多くの著名な思想家を生み出した。だが、彼らの思想の中身を問われて答えられる人は多くないだろう。それでも、難解な用語の壁を越え、江戸の時代背景をつかめば、思想家たちが何と格闘したのかが見えてくる。それは、”人と人との繋がり”という、現代の私たちにも通じる問題意識である。13のテーマを通して、刺激に満ちた江戸思想の世界を案内する」

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
 序章  江戸思想の底流
 第1章 宗教と国家
 第2章 泰平の世の武士
 第3章 禅と儒教
 第4章 仁斎と徂徠①
     ――方法の自覚
 第5章 仁斎と徂徠②
     ――他者の発見、社会の構想
 第6章 啓蒙と実
 第7章 町人の思想・農民の思想
 第8章 宣長
     ――理知を超えるもの
 第9章 蘭学の衝撃
第10章 国益の追求
第11章 篤胤の神学
第12章 公論の形成――内憂と外患
第13章 民衆宗教の世界
「おわりに」

 「はじめに」で、著者は以下のように述べています。
「明治・大正・昭和と続く近代日本は、欧米の先進国を目標として、『文明開化』『脱亜入欧』『富国強兵』、そして『経済成長』と突き進んだ。国家や社会の仕組みから人々の衣食住までが、そのために作り変えられた。個人としては、競争に勝ち抜いて出世することが価値であり、そのエネルギーは、ひいては国家や社会の活力に繋がると信じられた。そういう近代日本の気ぜわしさ、荒々しさに比べれば、江戸はなんと穏やかで、安らぎと、ある種の品位に満ちている(ように見える)ことだろうか」

 続けて、著者は「それならそこは停滞の園かといえば、決してそうではないこと、それどころかむしろそこで培われた知的・文化的な地力が、近代日本の発展の基盤をなしたことも、現代の私たちはよく了解している。その上で私たちは、歌舞伎や浮世絵、俳句などを、江戸の庶民が楽しんだように楽しむ。江戸市中期以降の庶民社会、あるいは民間社会の知的・文化的な厚みこそは、美術や工芸、文学、演劇や芸能、どの分野を見ても、まさしく江戸の文化的な豊饒と洗練を生み育てる根底の力だった。私たちは、その豊かさと細やかさに驚き、その小宇宙に遊びたいと願う」と述べています。

 序章「江戸思想の底流」では、南北朝から応仁の乱にかけて、日本社会はかつて経験したことのない質的な転換を遂げたのであろうとして、著者は「私の考えるところ、応仁の乱から引き続いた戦国内乱の時代は、この巨大な転換を完結させるための、日本史上かつてない甚大な犠牲をともなった長い過渡期であった。近世の起点をどこに置くのか、いわゆる織豊政権からか、秀吉の時代か、それとも江戸幕府が開かれてからなのかという議論はさておき、近世という時代の幕開きは、この転換が最終的に完了したことを意味している。江戸の思想史を考えるということは、この転換の意味を、転換の〈こちら側〉から考えることでもある」と述べています。

 また、「恐怖の闇から世俗生活へ」として、中世までの人々は、恐ろしい「物の怪」やおどろおどろしい霊力、人知を圧倒する怪異・霊威に包まれて生きていたと指摘し、著者は「名付けようのない不可思議な力への恐怖と畏怖の念は、人々の暮らしの隅々にまで浸透し、猛々しく霊妙で抗いようのない力の前に人々は不断に立たされていた。それは、恐怖の闇に囲まれた苛酷な暮らしでもある。中世の文学や美術の描く世界は、怪異・霊威、ありとあらゆる神仏たちの満ち充ちた世界そのものであって、文学や美術の〈作品〉として私たちに残されているものは、何よりもまず、人々の生活を包み込んだ怪異・霊威、そして神仏に対する畏怖・鎮撫・祈願の思いの結晶としてあったはずである。『死』もまた、私たちが想像もできないほどに、近しい(親しい)ものだったろう。長い内乱の時代をくぐって近世に入れば、そういう中世までの精神的な景観が確かに一変してしまう。屋根の下で、家族に看取られて『死』を迎えることが普通になった」と述べます。

 さらに「性・差別」として、差別の諸相においても、世俗的な整序の深まりを窺うことができると指摘し、著者は「江戸の身分差別は、良民の下に、穢多・非人という賤民を配置して、世俗の権力によって彼らの生業と居所を厳しく制限し固定させた。それは、紛れもない最下層の民である。しかし振り返ってみれば、中世において差別され賤視された人々は、ただ社会の底辺に一方的に押しやられていたわけではない。そうした人々は同時に、芸能・異能の民であり、良民の窺えない黒々とした闇から姿を現した、おどろおどろしい霊力を秘める、まさに神仏に連なった畏怖すべき存在であった。畏怖と賤視とは、そこでは混然として表裏一体である。そういうものとしてあった差別は、単線的な身分の上下として固定された」と述べます。

 第1章「宗教と国家」の冒頭を、著者は次のように書きだしています。
「江戸時代は、長い間の泰平(平和)を維持し、全体とすれば生産力を向上させて人々の暮らしを豊かなものとし、それぞれの地域的な個性を育んだ一種の資源循環型の社会としてあった。すぐ前の時代が内乱と殺戮の時代であり、すぐ後の時代が、一世代ごとに対外的な武力侵攻をしかけながら中央集権の帝国日本を築き、70年余りで決定的な破局に至ったことに比べるなら、それは目を見張るべき事実である」

 また、「キリスト教の『神』観念の衝撃」として、著者は「1549(天文18)年、イエズス会の創設メンバーであり宣教師であるフランシスコ・ザビエル(1506~1552年)が鹿児島に上陸して、カソリックの教義が日本に伝えられた。これ以降、地球説などの自然科学の成果や、活版印刷術をはじめとする南蛮文化がもたらされるのであるが、思想史の観点からすれば、それまでの日本人がまったく知らなかったキリスト教(カソリック)の「神」観念が決定的な問題である」と述べています。

 第2章「泰平の世の武士」では、「武士は何のためにあるのかーー山鹿素行の問い」として、道徳や教養に優れた人格が、世を治め民を安んじるのではない(儒教ならそう考える)と指摘し、著者は「『武士の門に出生』した者は、世を治め民を安んじる責任があるから、『身を修』めなければならないのである。武士は、自分のことだけを考えるのではない、武士としての交際があるし、一身の嗜み、礼儀作法から統治の担い手としての教養や技能まで、武士として身に付けておくべき『わざ』も多い」と述べています。

 第3章「禅と儒教」では、日本の儒教もまた、禅の伝統の中から、禅に対抗することによって生まれたという出自をもっているとして、著者は「藤原惺窩(1561〔永禄4〕年~1619〔元和5〕年。『新古今和歌集』の歌人である藤原定家の11世の孫)は相国寺で、林羅山(1583〔天正11〕年~1657〔明暦3〕年)は建仁寺で、山崎闇斎(1618年〔元和4年〕~1682〔天和2〕年)は妙心寺で、それぞれが京都の臨済宗の名刹で禅の修行をすることから学問を始めている。この3人はいずれも、かつて学んだ禅を離れ、人倫の道としての儒教を選んでいくのであり、江戸期の朱子学はこの3人から発展していくことになる」と述べています。

 続けて、著者は以下のように述べます。
「儒教を学ぶために大陸への渡航を試みたこともある惺窩は、慶長の役(丁酉倭乱)で日本側の捕虜となり、1598(慶長3)年から3年の抑留生活を強いられた姜沆(1567~1618年。名門の朱子学者で李退渓の門流)から朱子学を学んで、釈奠(孔子を祭る儀礼)の手ほどきを受けた。姜沆の著『看羊録』によれば、惺窩は武士階級の野蛮を嫌悪し、儒教の儀礼が日本にないことを嘆いている。羅山や闇斎は、陽明学(朱子学に対して、明代に王陽明によって革新された儒教)を斥けて朱子学を正統の儒教としたが、惺窩は、両者の『異中の同』を求めるという姿勢を崩さなかった」

 また、中江藤樹と山崎闇斎に言及した著者は、「藤樹と闇斎が追求したもの」として、
「儒教は、キリスト教の『愛』や仏教の『慈悲』と違って、愛情の発現を差等において捉える。自分にとっての父(両親)はそれだけで特別の存在であるから、愛情(孝)はまずそこに向けられて、またもっとも濃密である。それは父の父へというように遡及して、祖先への報恩感謝に連続し、その気持ちは祖先祭祀という形となって現れる。祖先祭祀の後継者(男系の子孫)を作ることも『孝』の不可欠の側面となる」と述べます。

 続けて、著者は以下のように述べています。
「『孝』だけではなく、儒教の説く人間の繫がりは基本的に差等愛に基づくものであって、愛情に差等があるのが人間の自然(当然)の姿であり、無差別平等な愛情などは人間本来の自然に反したものだと儒教は考える。差等愛が起点となり、それが無限に拡大して、愛の広がりが獲得されるのが儒教の理想である。その極点を、朱子学や陽明学は『万物一体の仁』(あらゆる生命体を自己一身と繫がったものとする同胞的共感)などと呼んだ」

 「経世論の創始者、熊沢蕃山」として、著者は藤樹に学んだ熊沢蕃山(1619[元和5]年~1691[元禄4]年。浪人の子。岡山藩の池田光政に仕えた)が「心法」を根底に据えて大胆な経世論を唱えたことを紹介し、「蕃山の基本的な関心は、現実の日本で礼楽(儀礼と式楽。儒教は秩序の本質を文化的なものとして捉える)がいかにあるべきかという点にあったが、背後にある問題意識はユニークである」と述べています。

 蕃山の経世論について、著者は「社会が『文明』に進むほどに人々の『徳』は衰え、礼楽が整えられるほどに『礼儀の本』は薄くなってしまう、それはなぜなのか。蕃山の答えは、周代以降の礼楽の担い手が、自らの心の中の欲望を放置したままに礼楽をいじるから、制度が繁縟になるほど、人々の欲望を煽ってしまうということであった。『文明』化が止められないとすれば、望むべきは、権威への欲望や自己顕示欲、世俗の利害得失から自由な英雄が、普遍の道徳(道)を時代に適った形に表現した礼楽を定めることである。それを蕃山は、藤樹の発想を継いで、『時処位』や『人情事(時)変』『水土』に適った礼(法)として捉える」と述べます。

 第4章「仁斎と徂徠①――方法の自覚」では、「朱子学の構造」として、方法の自覚は、古典それ自体の発見でもあると指摘し、著者は「江戸期の儒教において、古典は、朱子の注解を手掛かりとして読むべきものであった。なぜなら、古典の正しい意味を、老荘や仏教が思想世界を支配していた長い断絶の時代の後に初めて明らかにしたのが、北宋の先人たち(周濂渓・張横渠・程明道・程伊川ら)の業績を継いでそれらを集大成した朱子(南宋の人。1130~1300年)だとされたからである。『大学章句』『中庸章句』『論語集註』『孟子集註』という朱子の手になる注釈(『四書集註』)は、こうして古典の読み方を指示するものであった。江戸の儒者たちは、堅牢な『四書集註』の漢文をなんとか深く理解しようと努力を重ねたのである」と述べています。

 また、「仁斎と古典」として、著者は述べます。
「伊藤仁斎(1627〔寛永4〕年~1705〔宝永2〕年)は、京都の上層町人の子に生まれた。母は、高名な連歌師である里村紹巴の孫娘であり、母方の親戚は角倉家に連なっている。周囲の人々は、商家の子(跡取り)としての仁斎に、教養の一環としての学問を勧めたが、学問に専心することには強く反対した。仁斎を愛する人ほど、その将来を思って、学問への傾倒をやめさせようとした」

 さらに、『論語』や『孟子』を、朱子の枠組みから離れて、その本文に即して理解する――ここから仁斎の営々とした努力が始まるとして、著者は「そうして明らかにされた『論語』や『孟子』の意味は、仁斎によって『論語古義』『孟子古義』という注釈書としてまとめられた(それを完成させて公刊したのは、嗣子である東涯である)。「古義」という書名には、朱子によって歪曲されてしまった本来の意味を再び明らかにしたという自負が込められている」と述べています。

 続けて、著者は以下のように述べます。
「考えてみれば、朱子もまた同じように、老荘や仏教のような異端思想によって真意が隠されてしまった古典の意味を、長い断絶(「千載不伝」という語が『中庸章句』序に見える)の後に再び明らかにしたと宣言した。仁斎も、朱子を頂点とする長い歪曲の歴史から、初めて古典の真意(古義)を救い出したと確信した。後の徂徠もまた、これまでの読みの誤りを初めて自分が正しえたとする。思想史は、ある時期までは、古典の再解釈の歴史、再解釈の闘争であった(日本の古典に舞台を移して、宣長や篤胤も同じことをする)。それは、思想の対立を支える共通の古典があったということでもある」

 著者は仁斎の読書について、「まず『血脈』を理解せよ」として、「本文の精読によって直感的につかまれる『血脈』に導かれて、さらに本文の一つひとつ、語句のそれぞれの『意味』に帰っていく。一般的な語義ではなくこの文脈で指示されている意味内容としてはどうか、なぜこの語句で表現されなければならないのか、というように本文の精密な検討がなされていく。その検討によって、『血脈』の理解に修正が加えられることも当然ありうるだろう。古典を読むということは、その繰り返しなのだ」と述べています。

 さらには、「朱子学を全否定」として、著者は「こうして仁斎は、『論語』と『孟子』を掲げて、その本文を熟読することで孔子・孟子の「血脈」を捉えようとする。『論語』は『最上至極宇宙第一の書』であり、『孟子』は「論語の津筏(手引き)」である(『童子問』)。なぜ『論語』と『孟子』かといえば、そこで説かれるのが深遠玄妙な議論ではなく、いかにも日常卑近の『平淡』『平易』『親切(身近で切実)』な主張であって、実はそこにこそ人生の真実があると仁斎は信じるからである。仁斎によれば、仏教(禅)に対抗すべき深遠な枠組みを構築して、そこから無理に『論語』や『孟子』を再解釈しようという試みが朱子学であって、それは『論語』や『孟子』の意義を殺してしまうものでしかない」と述べるのでした。

 第5章「仁斎と徂徠②――他者の発見、社会の構想」では、「[四端]の拡充、『卑近』の尊重」として、著者は「仁斎は、こう言いたいのだ――自分と相手とは、隙間なくぴったり重なり合うものではないのに、強いてそれを求めるから、愛情が憎悪に変わったり、酷薄が人々の心を支配してしまう。日常生活においてこそ〈他者〉感覚は大事なので、ある距離を保った穏やかな愛情こそが、孔子や孟子の唱えた『仁』なのである」と述べています。

 また、「『道』は聖人が作った」として、著者は「聖人たちは、それぞれに『天』から聡明叡智の才徳を受け、文字を作り、農耕を教え、住居を建て、医薬を授けて、人々の生活を〈文明〉に導いた。次に、儀礼や式楽を定め、政治的な制度を定めた。こうして、人間らしい美しい秩序ある社会がもたらされた。社会に分節と統合をもたらす装置が『礼楽刑政』(端的に言えば「礼楽」)であり、『礼楽』が〈文明〉の本質をなす」と述べます。

 さらに、荻生徂徠の主著である『政談』を取り上げた著者は、「武士の土着によって、希薄化(匿名化)した人間関係の進行に歯止めをかける。その上で、古代中国の先王が行ったように、王者としての徳川将軍が、人情・風船の変化をあらかじめ読み込んで『礼楽』の制度を立てるべきなのである。眼前の制度や礼楽は、一見すれば整っているようにも映るが、それらはすべて惰性としてそこにあるばかりのものである。本来ならもっと早く、元禄期の激変の前に制度が確立されることが望ましかったが、まだ最後のチャンスとしての可能性はあると徂徠は説く」と述べるのでした。

 第8章「宣長――理知を超えるもの」の冒頭を、著者は次のように書きだしています。「国学は、和歌を中心とした文学の革新運動から起こった。それまで和歌の鑑賞や解釈は、堂上(昇殿を許された貴族。ここでは古今伝授を受けた歌学の流派)の秘伝として伝えられ、その権威は有職故実の学問によって守られていた。こういう伝統的な学問に対して、知識の公開性と相互批判(師弟であれ同輩であれ)を重んじながら、立ち戻るべきものとしての日本の『古』を、文献の正確な解読によって明らかにしようとするのが国学である」

 続けて、国文学や国語学は言うまでもなく、日本史の枠組みをなす制度史、さらに民俗学・神話学なども、この国学の遺産を、近代西洋の学問方法論によって鍛え直したものという性格をもっていると指摘し、著者は「同時にまた、それはナショナリズムの1つの胎動でもあり、主題としての〈日本〉の浮上でもある。国学の描き出した〈日本〉の基底にもまた、互いに分断され対立し合う現実を超えて『古』のあるべき〈日本〉に拠ることで、神と人、人と人との新しい繫がりの形を探ろうとする希求がある」と述べます。

 さらに著者は、「宣長により国学の大成」として「『やまと魂』は、素直で柔らかな心、おおらかな古来の日本人の姿というほどの意味であろうか」と述べ、「『もののあわれ』を知る」として「宣長の思想には、大きく2つの核があるとされる。1つは、『源氏物語』や和歌の研究から導かれた『もののあわれ』論であり、もう1つは、神道に関わって『古道』論と言われる」と述べるのでした。

 第9章「蘭学の衝撃」では、「三浦梅園の方法論」として、著者は「三浦梅園(1723〔享保8〕年~1789〔寛政元〕年)は豊後の医者で、百科全書的な知識人であった。23歳で長崎に遊学、その後はほとんど独学で、湯若望(イエズス会の宣教師、アダム・シャールの漢名)『天地図』、游芸『天経或問』、方以智『物理小識』など清代の西洋自然科学書に学びながら、体系的で独創的な自然哲学を構築した。その哲学の全貌は、『玄語』『贅語』『敢語』の三著に述べられ、経済理論を説いたものに『価原』がある」と述べています。この『価原』こそは、わたしの大学ゼミの卒業論文のテーマでした。

 第10章「国益の追求」では、「富国・強国・脱亜への志向」として、「儒教の論理からは『武国』『強国』への志向は出てこないのではないだろうか」と問いかけた後、著者は「〈武〉に対して〈文〉に価値を置くのが儒教であり、〈文〉の力によって民を教え導くことが政治(君主ないしエリート)の本質的な役割だと考えるからである。益軒や安貞の実学はこういう価値観・政治観を背景としていたが、青陵は、もはや国君の徳望や教化などには何も期待しない。青陵は、中国を『支那』と呼び、『天竺のかたすみ』の『貧』で『淫』の国としてイメージした(『善中談』)。利明や信淵も、中国を『支那』と呼んでいる。蘭学者は、西洋の発音(China)を受けて『支那』の語を好んだが、そこには、中国(漢民族)を文明の中心(淵源)とする感覚が完全に振り落とされているばかりか、文弱の国、異民族に侵されるままに誇りを失った民族という負のイメージが付きまとっている」と述べています。

 第11章「篤胤の神学」では、儒教にとって、民衆の「心」は教化の大正として論じられたのに対して宣長は、儒教の「心」が見ようとしないものを見たことを指摘し、著者は「儒教は、『心』のもっともふるえるべき恋を問題にしない。『心』の弱さ(女々しさ)、不可知な力(神々)による背理・悪・偶然性によって『心』が翻弄される現実、こうしたものを取り上げない。こうして宣長は、儒教による『心』の言説を、真実から遠い干からびた、かつ大仰な偽善として斥ける。しかし宜長の見る『心』もまた、都会の知識人の繊細で審美的なもので、生活の中で鍛えられた人々の喜怒哀楽が染みこんだ『心』からは遠かったように思われる」と述べています。

 第13章「民衆宗教の世界」の冒頭を、著者は次のように書きだしています。
「近世の仏教は、寺檀制に守られて、葬祭(葬儀と祖先祭祀の儀礼)を核とする『イエ』の宗教として社会的に定着した。それは暮らしの中に溶け込み、多くの篤信の信者がそれぞれの信心をもって毎日を生きた。人々はまたいろいろな講を作って、生活の中で神仏の宗教行事を楽しみ、都市においてはさまざまな流行神が人々の関心や話題をさらった。四国八十八所・秩父三十三所をはじめ、伊勢神宮への『おかげまいり』のような集団参詣も盛んだった。1830(文政13)年の『おかげまいり』は、驚くべきことに480万人余が参加したとされる。全人口の6人に1人となるから、狂熱ともいうべきエネルギーである」

 また、「民衆宗教の特色」として、著者は「篤胤の神学、後期水戸学や幕末の思想家たち、民衆宗教、これらは互いに交わることのないバラバラのものに映るかもしれない。しかし振り返ってみれば、彼らはそれぞれの立場から、公共的な秩序とはどういうものであるべきかを問いかけているのではないだろうか。そしてその背景には、それまで教化の対象であった民衆が――まさに民衆宗教がそうであるように――自らの『心』の鍛錬を通じて自律性を強め、自己主張を始めたという戻ることのない動向がある。篤胤の神学は、産霊の神の大きな力に包まれながら、生者は死者の「心」とも交わることで人間らしい共同性をもつことができると説いた。つまり、公共的な秩序は、生者だけのものではない。松陰が『草莽』に最後の拠り所を求めたのも、民衆の間に公共的な何ものかが芽生えていることを直感的に認めたからではないだろうか」と述べます。

 「おわりに」では、江戸の思想史の骨格には、朱子学を中心にした儒教があるが、それは朱子学が幕府から管許の学として公認されたとか、正統イデオロギーとして社会秩序を支えたといった意味ではないことを指摘し、著者は「強いて言えば、朱子学が思想としての稀に見る体系性・包括性によって、知的な世界での用語系の主軸をなしていたということである。そして藤樹や闇斎は、徹底して内省的に朱子学を問い返し、『心』のありようを見つめることで自己中心性から解放された人倫としての繋がりを求めた。仁斎や徂徠は、朱子学から出発しながら、朱子学では捉えきれない(人と人との繫がり〉の原理的な問題、あるいはその総体としての社会の問題を考え抜いた。宣長は、儒教に反発しながら、人間を超えた力(神々)に包まれた人々の生、神々を媒介とする人々の繫がりを考え、女々しさや愚かさ、弱さにおいてこそ人は他者と共感できるとした)」と述べるのでした。

 本書は240ページの新書本ですが、江戸の思想史についてコンパクトにまとめた好著でした。これまで、一条真也の読書館『神・儒・仏の時代』『神道・儒教・仏教』『日本思想全史』で紹介した日本における思想史の本を紹介してきましたが、江戸時代こそは現代のわたしたちの「心」に直結している最重要の時代であることが理解できました。本書を読んで、一連の読書に区切りをつけることができました。

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